第9話 御寮人

 皴だらけの顔に、白髪。男ものの黒いスーツをはおっているのが不釣合いだ。相手はひどく年老いた女性だったからだ。 

(な、なんなの、この人?)

「あ……」

 なにか言おうとしてひらきかけた相手の口の奥に見える歯も細く弱々しげで、夏枝は見てはいけないものを見たような罪悪感をおぼえた。 

 相手の老いに、十代の夏枝は奇妙な後ろめたさをおぼえたのだ。千円しかもっていない人間のまえに万札の束が入った財布をとりだすような心境だ。もちろん夏枝はそんな経験をしたことはないし、むしろ千円しかもっていない人間の方の立場だが、目のまえの老女を前にしては、十六の夏枝は若さという素晴らしい財産を持っていることになる。

(このお屋敷の人……だよね)

 老女はおびえのこもった目を弱々しく光らせ、はおっているスーツを自分の身をまもるように身体にまきつけるようにした。下は白いスカートなのが、ひどくちぐはぐな印象をあたえるうえに、ふりみだしている白髪は先が見るにしのびないほどやつれていて、全身から異常な雰囲気をかもしだしている。病気なのかもしれない。おそらく精神的な。

「あ、あの、わたし今日からきた家政婦で」

 老人であれ病人であれ、まだ会ったことのない伊塚家の人間であることはまちがいないだろう。とたんに乱暴な言い方をした自分が恥ずかしくなり夏枝は頭を下げた。

「あの……すいません」

「あ……あう」

 呂律のまわらない声が痛々しげで夏枝は目をふせてしまった。

「ううっ!」

 老女は顔をそむけると、小走りに去っていくが、その足どりもひどくたよりなげで、ちゃんと自分の部屋へもどれるだろうかと夏枝が心配するほどおぼつかなげだ。

「だいじょうぶかい?」

 いつからそこにいたのか西明寺が角のところに立って、心配そうにカーペットのうえに散乱したカップを見下ろしている。

「火傷しなかったかい?」

「だ、だいじょうぶです。あの、あの人は」

 西明寺はその問いに答えようとせず、言葉をつづけた。

「須賀さんには僕の方からあやまっておくよ。疲れたろう? もう九時だ。今夜は休むといい。秋ちゃんもすこしだるくなってきたみたいで、もう部屋にひきあげたよ。君も部屋にもどってゆっくりするといい」

「え? あ……はい」

 なんとなくすっきりしないが、たしかに疲れたので西明寺の申し出はありがたい。カップをひろおうとすると、彼も腰をかがめてシャツの袖をまくりあげ、ひろうのを手伝ってくれた。

「あの人は……伊塚豪蔵氏の遠縁に当たる人でね。館の西ぎわの部屋に住んでいるんだ。いろいろ身体の具合も悪くて。あの人をるのも僕の仕事のうちなんだよ」

「そうなんですか。なんていう方なんですか?」

 西明寺はカーペットの染みを見つめたままこたえた。

「西の御寮人ごりょうにん。僕らはそう呼んでるよ」

「ご、御寮人――ですか?」

 夏枝は目を見ひらいた。時代劇のドラマ以外でそんな言葉を聞くとは思わなかった。金持ちの世界というのは本当に変わっている。 

「さ、後は僕がやっておくから、君はもう部屋にもどるといい」

「はい」

 素直に返事をして部屋にもどろうとした瞬間、はじめて夏枝は、あの老婆がまとっていた男もののスーツが西明寺のものだったことに気づいた。

 自分でもうまく説明のできない奇妙なもどかしさにつき動かされながら、夏枝はふたたび緑と赤の迷路をたどってあたえられた部屋にもどった。

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