第24話 誘惑


「夏枝、ナツ、俺」

「た、たっくん!」

 押し殺したふとい声。

 夏枝は信じられなかった。

 そこにいたのは会いたくてたまらなかった達也だ。上は青色のシャツに下は着古したジーンズというしごくあっさりした服装で、髪は刈りあげているけれど、かえって男らしく大人っぽく見える。相変わらず鼻すじはすっきりとととのっており、レディースの女の子たちの胸をさわがせた美貌はすこしも変わっていない。

「あ、会いたかった! 会いたかった! ど、どうしてたの? なんで連絡くれなかったのよぉ」

 夏枝は興奮のあまり舌がまわらず、言葉よりもさきに心が爆発してしまい、たくましい彼の胸に顔をうずめてしまった。まるで外国映画のワンシーンみたいですこし気恥ずかしくなったが。

「悪い。でも、連絡すると迷惑になると思って。おまえ、せっかく真面目にやってるのに、俺なんかがつきまとったら」

「馬鹿! 馬鹿!」

 達也は自分をきらっていたわけでも、忘れていたわけでもなかったのだ。それどころか自分のことを心配してあえて連絡してこなかったのだと思うと、うれしさで夏枝は舞いあがってしまった。

「ごめん。ナツ、ごめん」

 達也は夏枝のことをナツとよぶ。達也だけがそうよぶ。そうよんでいいのは達也だけだ。なつかしい達也、いとおしい達也。夏枝は興奮のあまりこぼれた涙を手の甲でぬぐった。 

「ここ、すっげー、でかい家だな。個人の家でこんなでかい家ってあるんだな。俺、びっくりした。玄関から入っていっても、とうてい入れてもらえそうになさそうだからさ、裏口からはいってきてみんだけれど、そしたら勝手口っていうの? 台所につうじるドアが、ほかも全部あけっぱなしになってて。それでついそのまま上がりこんできたら……、なぁ、まさか、あれお前じゃねえよな?」

「ち、ちがうよ!」

 夏枝はあわてて首をふった。そうだ。そのことを忘れていた。こうしている場合ではなかったのだ。

「あれは、お嬢さまの、この家のお嬢さんのむかしの家庭教師していた人で……。今野さんていう人なんだけれど」

 ややこしい話だが、夏枝はせいいっぱいがんばって説明した。和之が以前家庭教師をしていたきっかけで秋奈と知りあい、彼女に恋心を抱き、自殺未遂をおこし警察沙汰になったことと、その折、自分ひとりの責任のようにされ、そのことで秋奈をうらんで、事実をたしかめるためにももう一度会いたがっていたことを、なんとかつたえた。  

「ふうん。てことは、その秋奈って子がそいつをやったのかな?」

「ち、ちがう、ちがう!」

 さすがにプロジェリアのことまで話せなかった。なんとなく、それは秋奈とこの家の秘密であり、部外者の達也にもらしてはいけないような気がしたのだ。夏枝は守秘義務という言葉は知らないが、ここではたらいているかぎり、やはり外にもらしてはいけないことがあるような気がする。

「なぁ? すげぇでかい屋敷だけれど、ここ、ほかにだれもいないのか?」

「西明寺さんが、えっと、秋奈お嬢さんの主治医なんだけれど。庭にいるはずだよ」

「そっか。あのな、夏枝、俺やばいんだよ」

「え?」

 再会のよろこびに、黒い影がはしった。同時に、事件を起こすまえのやりとりが思い出されて夏枝はたじろいだ。あのときも、そんな深刻な目と声で達也はうったえてきて、ことわりきれずに悪事に加担するはめになったのだ。  

「俺なぁ、マジでこまってんだ。弱りきってんだよ」

「ど、どうしたのよ? なにがあったの?」

「ちっくしょう!」

 いらだたしげに達也は床を汚れたスニーカーで蹴った。

「ああ! 俺ってやつは、どうしてこうなんだろう? こうやって惚れた女を不幸にしてしまうのに、それがわかっていながら、どうにもできねぇんだから!」

 いきなり両手で頭をかきむしるようにして、うずくまった。惚れた女、という言葉にうずく胸をおさえ、かさねて夏枝は聞いた。

「ねぇ、どうしたのよ? なにがあったか教えてよ」

 それでどうなるものでないが、夏枝は訊かずにはいられなかった。

「俺、追われてるんだよ」

「け、警察に? たっくん、またなんかしたの?」

「いや、警察じゃない。ヤクザの方だよ。娑婆にいたころつきあいのあった人――いろいろ世話してもらったんだ」

 その人のために危ない橋をわたらせられ、結果犯罪に走ることになったのだが、夏枝は言葉をはさまなかった。

「ああいうことになって、俺自身はヤクザとはすっぱり縁切りたかったんだけれど、そのころ盃もらう約束していてさ……。ばったり、会っちまったんだよ、その人に」

 いったんその手合いとかかわると、なかなか逃げきれないものだ。暴走族のヘッドをしていた達也には地元ではそこそこ知名度も人脈もある。利用価値のある手駒とみなされているのだ。

「でも俺もやっぱりネンショーのなかでいろいろ考えてさ、このままヤクザになっちまったら、本当に俺の人生終わりだってわかって。もうかかわりあいたくないんだよ。俺、逃げてんだよ、連中から。もう地元へは帰れないよ」

「そ、その方がいいじゃない。このまま逃げちゃえばいいじゃない」

「だから、おまえに会いに来たんだ」

「え?」

「夏枝、いっしょにこの街出よう」

 夏枝は口をぽかんとあけて達也の顔を見上げた。

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