第3話 令嬢

「いいか、なにごとも勉強だと思ってこらえるんだぞ」

「うん……、じゃなくて、はい」

 須賀の目を思い出すと、初日からいきなり気がめいってきそうだが、とにかくここでがんばるしかない。夏枝はやや気のぬけた返事をした。

「なんだよ……。おまえ、怒ってるのか?」

「え? なんで?」

 びっくりして鹿島を見ると、太い眉のはしが情けなさそうに下がっている。

「あんなこと言われつづけても、俺がなにもフォローしなかったから」

「えー?」

 入ってきたときとおなじく庭につうじる裏口まできたが、鹿島は心のこりなのか、立ち去ろうとしない。

「なんで、そんなことであたしが怒るのよ? あの場合当然じゃない。つまんないこと言いかえして、あのバーサンのご機嫌そこねたら、けっきょく職なくして、あたし本当にホームレスになるしかなくなるじゃん。そしたら、それこそ、あたしエンコーにはしるしかないじゃん」

 この場合、援交はしゃれにならないことに気づいて夏枝はかるく舌をかんだ。院で知りあった子たちのなかには売春でつかまった子も大勢いたのだ。

「ばかやろう!」

 鹿島は真っ赤になってまた怒り、夏枝がびっくりするようなことを言ってきた。

「いいか、まちがってもそんなことしたら承知しないからな! どうしても食えないならおまえひとりぐらい俺が養ってやる」

「それはそれでまずいんじゃない? 三十過ぎのオッサンが未成年を自宅にひきいれたりしたらさぁ。鹿島さん、ひとり暮らしじゃん。そんなことしたら、今度は鹿島さんが淫行でつかまっちゃうかもよ」

「ちっ! 口ばっか達者なやつだ」

 日に焼けたというより、もともと黒い肌が火のついた木炭みたいに赤黒くなっているのは怒りだけではないようだ。

 夏枝はそのまま来たとおりの道順で鹿島を見送るために庭のアーチの下をあるきつづけた。日はすこしかげってきたが、あたたかな風が夏枝のやや栗色のショートカットの髪をちらしていく。頭上では咲きどきを待つピンクの薔薇の蕾が風にゆれている。

「とにかく、まぁ、しっかりやるんだぞ」

「うん。がんばる」

 鹿島が不思議なものでも見るように目をぱちくりさせた。

「おまえ、笑うとけっこう可愛いな」

「なに言ってんの?」

 けらけらと笑ってみせたが、胸がみょうにざわつき、ちょっとあせった。鉄柵のところまで見送り、鹿島の黒いマーチが去っていくのをながめながら、夏枝は思わずつぶやいてしまった。

「冗談じゃないよ、あんなオッサン」

 

「あら、あなたなの、新しい家政婦さんて」

 その日の夕方、大理石の正面玄関のつきだし屋根の下で、夏枝はシャツとジーンズのうえに押し着せの白いエプロンをつけて須賀とならんで秋奈を出むかえ、教えられたとおりに挨拶の言葉を、やや緊張しながら口にした。

 とにかく鹿島が帰ってから、あれこれと屋敷のことを説明されたり、私室になる部屋に案内されたりで、あっという間に時間がたってしまった。そして主人となる秋奈お嬢さまのお出迎えとなったのだ。

「あの、久原夏枝です。今日からこちらではたらかせていただくことになりました。どうぞ、よろしくお願いします」

 おない歳の秋奈にていねいな口調でへりくだって挨拶することをとくに不快とは思わなかった。

 世のなかには階級というものがあることを夏枝はよく知っていたからだ。院でも、学校でも、教官や教師たちの目のとどかないところではどこでも上下関係というのはあったのだ。大人たちは意外に思うかもしれないけれど、不良同士のグループ内の方が、むしろいっそう上下関係や決まりごとにきびしく、おなじ世代でも立場の強い相手には敬語で話さなくてはいけないこともあった。ここでは秋奈が強者、主人なのだ。

「夏枝さんておっしゃるの? わたし伊塚秋奈。わたしたちって、縁があるわね」

 秋奈は卵型のととのった顔をほころばせ、夏枝をとまどわせた。

「え?」

 意味がわからずぽかんとしていると、秋奈はやさしい声で説明してくれた。その声は蜂蜜をふくんでいるかのように甘い。

「わたしが秋奈で、あなたが夏枝。ほら、秋と夏の字が名前につかわれているじゃない?」

 白い制服のブラウスの襟もとに、大きめのリボンが愛らしい。県でも有名な私立の女子高の制服だ。名門女子高の制服は、その手のマニアに高く売れるらしく、以前この制服を裏で売って小金をかせいでいた仲間がいた。

「よろしくね」

 小首をかしげるように挨拶されて、夏枝はすこし照れた。くったくない笑顔。白い肌に濡れたように黒い瞳。背は夏枝よりやや低いぐらいだろうか。小柄で華奢でお世辞ぬきで可愛い子だと思う。それまでたしょうあったお金持ちのお嬢さまに対する妬みや反感もやわらいでいき、夏枝は素直に頭をさげることができた。

「こ、こちらこそ、よろしくお願いします」

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