#31 フロム・ダウンタウン

 市民体育館という場所は、綾瀬あやせみのるにとって未知の空間だった。

 地区の中学校同士が対抗で行うという、バスケットボールの大会。すなわち教育の一環の場である。そう考えた綾瀬は、仕事用のスーツを着て市民体育館へやってきた。

 結果、周囲の空間からやや浮いてしまった事をすぐに認識した。


「Bコートで1回戦だぞ、すぐアップ始めろ!」

「白岡第一中の顧問の先生いらっしゃいますか! メンバー表の確認事項が――」

「絶対負けんじゃねーぞ、県大会行くんだからな!」


 各校のジャージやユニフォームを着た学生たちが、遠目にもわかるほど激しく闘志をたぎらせている。

 彼らを率いる顧問の教師たちもジャージ姿で、ある者は優しく、ある者は厳しく、自分の教え子たちを叱咤激励している。

 大会の運営側らしき人々は、動きやすいポロシャツ姿で忙しなく試合の準備を進めている。

 そんな中へスーツで来場した自分は、少々場違いに感じた。


(……とはいえ)


 胸のポケットから、大会日程のプリントを取り出し、広げる。

 明芳中女子バスケット部の試合は、Cコートで10:30開始とされていた。

 今は10:00を少し回ったところ。家に戻って私服に着替えてくる時間などはない。


(少々場の空気に合わんが、仕方ないか)


 スーツである以上、少なくとも、みっともない恰好ではない。綾瀬はそう結論づけて、気持ちを落ち着かせた。

 周囲の人の流れを観察すると、父兄であるらしい私服姿の人々は、みな2階へ向かっていた。

 それに倣い、2階へ上がる。

 1階に設営された4つのバスケットコートをぐるりと囲むように、2階には観客席が設えられていた。

 その一角に、"必勝 明芳中女子バスケットボール部"と書かれた、山吹色の垂れ幕が見えた。

 わかりやすくて助かった。どうやら、部員たちの父兄の席はそこのようだ。

 綾瀬はそこへ向かう。

 ひとつ空いている席を見つけると、その隣に座っていた男性に声をかけた。


「失礼。明芳中の女子バスケット部の父兄の席は、こちらでよろしいのでしょうか」

「あ、はい! そこの空いてる席どうぞどうぞ」


 還暦近い年齢の男性だった。人好きのする笑いを浮かべ、気さくに答えてくれた。


「そちら様もお子さんの応援で?」

「は――ああ、いえ」


 ひとつ、咳払い。


「私はこう、教育に携わる者として、スポーツが教育に与える影響というものを直接見て確かめに来ております」

「は?」

「申し遅れました、私は教育委員の綾瀬と申します。明芳中で――」

「おお、綾瀬さん! するってぇと、"めぐちゃん"のお父さんですか!」

「め、めぐちゃん?」


 綾瀬はたじろいだ。

 この男性が娘を突然に愛称で呼んだ事もそうだが、遠慮なくグイグイ間合いを詰めてくるような感のあるこの人物は、職場にはいないタイプだ。


「いやぁ、ウチの娘がよく話すんです。同じクラスにバスケット部の友達がいるって。すごい努力家で、シュートがめちゃくちゃ上手いって聞いてますよ! ウチの娘は元気だけが取り柄で……ああ、すいませんね一方的に喋っちまいまして」

「あ、ええ」

「あたしゃ若森といいます。今日はお互い、子供たちを目一杯応援していきましょうや!」

「いえ、あの、私はそういうのではなくてですな」

「お、明芳の子たちが出てきましたよ! 明ー芳ー! 頑張れーっ!!」


 大声で声援を張り上げ始めた若森の視線の先には、若い男性教師に率いられた、山吹色のユニフォームを着た少女たちがいた。

 その中に綾瀬の娘はいた。背番号8をつけて。


(……慈は、シュートが上手いのか)


 綾瀬は自分の娘について、そんな情報すら知らなかった事を自覚した。

 そして静かに、Cコートに視線を落とした。






 #31 今ここから這い上がる!フロム・ダウンタウン






「スタメンは神崎さん、若森さん、氷堂さん、在原さん、中原さんで行く」


 試合開始10分前。亮介の言葉を、慈はベンチに腰かけたまま静聴した。

 自分はシックスマン。スタメンではないのは最初からわかりきっていた事だ。その指示を静かな気持ちで受け入れる事ができた。

 相手チームである栗橋くりはし中のメンバーに目を向ければ、平均身長が高めのチームのようだ。


「平均身長は相手の方が高い。ゴール下の守備に関しては、中原さん・在原さんがうまく他のみんなをカバーしてあげてほしい」

「はいっ」

「はあい」


 インサイドを担う二人の返事に、迷いはない。

 これまでも明芳のゴール下を守ってきたのは愛だ。美裕も、牧女との練習試合以来すっかりチームに馴染んで、今ではゴール下の攻防での重要な戦力だ。

 役割は理解しているだろうし、それを遂行する自信も見て取れる。それだけの練習をやってきたのだから。

 うん、とひとつ頷き、亮介は話を続ける。


「問題はオフェンスだ。平均身長が高く、ゴール下の守備力が高いチームに対しては――」

「機動力、だろ」


 左右の拳をかち合わせる仕草とともに、茉莉花が答える。


「でかいヤツはだいたい遅い。脚でひっかき回して、ゴール下を攻める!」

「うん、そうだ」


 それは間違いなく、秋の新人戦から学んだ事だ。

 平均身長の高いチームは、ゴール下の攻防に強い。だからと言って安易にアウトサイドのシュートに頼れば、その成功率の低さゆえに、リバウンドを支配されて負ける。

 結局、勝負の要は、いかにゴール下で点を取るかだ。


「中原さんはハイポストに積極的に入ってくれ。そこでディフェンスを引きつける事で、みんなが活きる」

「はいっ、大丈夫です」


 愛も、力強く答える。

 レディバーズとの合同練習で彼女が学んだ事だ。ゴール下をしない事が、味方のゴール下でのイージーシュートチャンスを生むのだと。

 愛はそのために、ハイポストのプレイとミドルシュートを練習してきたのだ。


「ただし、それも読まれて対策されるタイミングがあると思う」


 亮介の視線は、そこで初めて慈に向いた。

 慈は――その視線を、落ち着いて受け止めた。


「読まれて、オフェンスが時。その時はロングシュートで、より強烈にディフェンスを外に引きつける必要がある」

「……はい」

「外まで出てきて守らないと、3点をいただくぞ――と、相手につきつけてやる必要がある」


 亮介の言わんとする事はよくわかる。

 ここぞという時の切り札になれ、という事だ。

 シックスマンという言葉を教えてくれたあの日の、まさにその言葉通りに。

 かすかに手が震えるほどの緊張。

 公式戦という舞台に立つのも、初めてではないはずなのに。

 チーム内での競争の果てにスタメンを降ろされ、しかし、ここぞという時にこそ出番が回ってくるという重責を与えられた。そのプレッシャーは今まで慈が経験した事のないもので――


「めぐちゃん、だいじょぶだいじょぶっ!」


 鈴奈が、ぽんと肩を叩いた。

 視線をそちらへ向ければ、鈴奈は満面の笑顔だった。


「3Pなんてプロでも半分以上外れるもんだよ。緊張しないっ、リラックスしていこ」

「……ええ」


 思えば、バスケ部に入部するきっかけをくれたのも彼女だった。

 その彼女が今もこうして励ましてくれるのだと思うと、ふっと口元が緩んだ。


「試合開始します! 両チーム、センターラインに集合してください!」


 オフィシャルから指示が飛ぶ。


「よし。行ってこい、みんな!」

「「「はい!!」」」


 亮介の合図に応えて、慈以外の5人はセンターラインへ整列しに行く。

 仲間たちの姿を一人だけベンチで見守るのは、やはり、どこか置いてけぼりにされているようで寂しいけれど。


「綾瀬さん」


 ベンチに座った亮介が、静かに言葉をかけてきた。


「シックスマンが試合に出る時は、試合の流れに敏感でないといけない」


 流れ。

 いつだったか亮介はそれを、自信や動揺がチームの中に伝播する事だと説明した。


「良い流れであれば、それに乗る。悪い流れであれば、それを断ち切る。試合に出てすぐにそれができるのが、良いシックスマンだ」

「……はい」

「ベンチからでも集中して試合を見ていて、気持ちを試合から離さない事。いいね?」

「はい」


 はっきりと慈は答え、試合に目を凝らした。

 自分が乗るべき、あるいは断ち切るべき流れを意識して。






「……やはり、出られないのか」


 明芳ベンチから出てきた顔ぶれを見て、綾瀬は我知らず、誰にも聞こえないほど小さく呟いていた。

 確かに慈は言っていた。チームの中で一人だけ控え選手という扱いになったと。試合に出られるかどうかもわからないと。

 だが実際にその光景を目の当たりにすると、どうしても落胆を禁じ得なかった。


「おーっ! 先制点! やったぞ!」


 隣に座る若森が歓声を上げる。

 コートでは明芳のメンバーの中で際立って体格の良い4番の子から、5番の子へパス。そのままゴールへ走り込んでシュートを決めたところだった。


「ううむ、愛ちゃん上手くなったなぁ。しっかりハイポストからバックドアにパスを合わせられてる」

「……若森さんは、バスケットは詳しいのですかな」


 専門用語らしいものを繰り出す若森に、綾瀬は尋ねた。

 いやあ、と若森は寂しめの頭を掻いて、照れ笑った。


「もともと詳しかったわけじゃあねえんですがね。娘がミニバスやり始めた頃に勉強したんですわ。ほら、あたしにとっちゃぁ歳いってからできた可愛い一人娘ですからね、なんとか力になってやりたかったと言うか」

「果たして、それは教育として正しい事なのでしょうか」


 若森は目を丸くした。

 場の空気にそぐわない発言だった。自覚した綾瀬は大きく咳払いをして、言葉を続ける。


「いえ、若森さんのご家庭の教育方針をどうこう言うつもりはないのですが。一般的に、スポーツは勝負の世界だなどと言われるではないですか。やるからにはどうしても勝ち負けがついて回るし、怪我をする恐れもある」

「はあ」

「負け続けたり、怪我をしたり。そうした経験によって精神的に打ちのめされてしまう子もいるでしょう。そういったリスクを受容してまでやるべき事なのか、という疑問をどうしても私は払拭できません」

「どうでもいいんじゃねぇですかい、そんな事は?」

「どうでもいいとは――」


 綾瀬が反論するより速く、若森はコートを指さした。

 7番の子がドリブルしてゴールに向かい、相手チームの選手が前に出てきたところで、4番の子にパス。4番の子はそのまま、難なくシュートを成功させた。


「ないしゅー、あいちゃん!」

「うんっ、いい流れ! この調子で行こっ!」


 笑顔だった。

 そこには、真剣ゆえの楽しさと充実が表れていた。


「ああいう、ね」


 いくらか落ち着いた声のトーンで、若森は言う。


「本人らがスポーツを真剣に楽しんでるなら、大人がああだこうだ言うのは野暮ってもんですわ」

「……」

「教育って言い方をするなら、あたしにとっちゃぁ、娘が頑張ってる姿を全力で応援するのがウチ流の教育ですよ」






 栗橋中は慈の目から見ても、試合前の予想通り、機動力は高くないチームだった。

 明芳と比べると、特にオフェンスの違いが顕著だ。ハイポストからのパスやスクリーンプレイでシュートチャンスを作る明芳に比べ、栗橋中は高さを活かした個人技で攻めてくる。

 特に――


「へいっ、こっち!」


 栗橋中の6番、SFスモールフォワード。身長は160cmを軽く越えている。

 ディフェンスに着いていた茉莉花をゴール方向へ押し込むような仕草から、アウトサイドへ飛び出すようにボールを要求した。

 体格差のせいだろう。押し合うと茉莉花はどうしても不利だ。押し込まれていた位置にいた茉莉花はディフェンスに出遅れる。

 ボールは悠々と6番の手へ。


「くっそ……!」


 茉莉花もすぐにアウトサイドへ向かい、6番に着いて行こうとする。

 その脇へ6番の突破ドライブ


「!」


 茉莉花はストップ、そして方向転換。

 抜かせまいと6番に食らいつく!

 スピードでは茉莉花も負けていない。簡単には抜かせない。

 だがその位置は、既にゴールに充分近い。

 6番はドリブルをやめてボールを両手持ち、そしてゴール下へ踏み込み、シュート!

 茉莉花も負けじとブロックに跳ぶが、高さが足りない。

 ブロックの上を越えて、シュートは明芳ゴールへ突き刺さる。

 スコアは――10-12。


「悪い、みんな」

「ドンマイ、切り替えて行こ」


 茉莉花のスローインを瞳が受け取り、今度は明芳のオフェンスだ。

 それを迎え撃とうとする栗橋中のディフェンスは、やはり平均身長が高く、いかにも堅牢そうだ。

 Fフォワードの5番、6番は165cmほどはあるだろう。Cセンターの4番に至っては愛と比べても見劣りしない長身で、恐らく170cm近い。

 これを、機動力で切り崩す――


「へいへいへいっ!」


 鈴奈がゴールへ走り込む。

 そこでパスを貰う――と見せかけて、ゴール下にいた愛の周囲を半周してUターン。ディフェンスを振り切った。

 そこに、瞳からのパス。

 ボールを受け取った鈴奈は、即、左に突破ドライブ

 栗橋中の5番がカバーに入り、前を塞ぐが――

 パス!


「ナイパっ!」


 受け手は美裕。

 さらにカバーに入ろうとする4番の横へと踏み込み、体をひねって上半身をゴールに向け、上手投げオーバーハンドレイアップ!

 ボールは小さく弧を描いてゴールの真ん中に飛んでいき、ネットをくぐる音を立てた。

 電子得点板に表示された数字は、12-12。


 ビ―――ッ。


 ちょうど得点の表示が更新されたタイミングで、第1ピリオド終了を告げるブザーが鳴った。

 慈の出番はまだ来ない。

 けれど。


「綾瀬さん、試合を見ていて気づいた事はあるかい?」


 亮介が話しかけてきた。

 気づいた事――慈は試合の様子を反芻し、頭の中で言葉にまとめる。


「……ええと、やっぱり相手は背が高くて、それを活かしてる気がします。インサイドの強さっていうのを」

「うん」


 亮介は頷き、慈に視線を送り続けていた。

 続く言葉を促された気がして、自分の感じたイメージを表現する具体的な言葉を探す。


「……だから、やっぱり相手はインサイドで負けたくないんだと思います。最後の一本も、結果的には在原さんのシュートが入りましたけど、次々カバーに入って来てましたし」

「OK。ちゃんと試合の流れについて来ているね」


 我が意を得たりと、会心の笑み。

 やがてチームメイトたちがベンチへと歩いて戻って来ると、亮介は全員をベンチに座らせ、口を開いた。


「相手の注意はインサイドに向いている。ディフェンスでは特にね。みんな実感しているだろう」

「そう……ですね」


 タオルで汗を拭いながら、愛が答える。

 今日、愛はまだ1本もシュートを決めていない。ハイポストからの攻撃の起点役になっているからという事情もあるが、平均身長の高い選手が揃っているゴール下を攻めづらそうなのも確かだ。


「やりにくいよ、ホント」


 茉莉花も同意した。

 今日の彼女は先制点の1ゴールを決めた事で相手に警戒されたのか、突破ドライブでゴール下を攻めきれていない。ミドルシュートに頼り、結果としてシュートを何本か外している。

 ディフェンスの注意をゴール下から逸らしたい。

 そのために、外のシュートが欲しい。

 茉莉花から慈にちらりと送られた視線には――そんなメッセージがあったような気がした。


「綾瀬さん」


 明確な言葉は、亮介から。


「若森さんと交代だ。氷堂さんをSGシューティングガードにスライド、綾瀬さんはSFスモールフォワードに入ってくれ」


 試合の流れについて来れている、と亮介は慈を評した。

 それがシックスマンの素養だと言うのなら。


「はい」


 間もなくインターバルの時間が終わり、第2ピリオドが始まる。慈はベンチから立ち上がった。

 今までとは違う緊張感。

 試合のコートは、やけに久しぶりに感じた。






 山吹色のユニフォームを着たメンバーの中に娘の姿を見つけて、綾瀬は呼吸が早まるのを感じた。

 髪をポニーテールに結い上げ、背番号の書かれたユニフォームを着た娘の姿。それは間違いなく、自分が今まで知ろうとしていなかった娘の姿だった。

 緊張が全身に走る。

 まるで自分が試合に出場するかのように錯覚する。

 それほどにハラハラとした感情があった。


「おっ、めぐちゃんが出てきましたね! こいつぁ楽しみだ」

「え、ええ」


 若森に対して答える声が、思わず上ずった。

 生唾を飲み込み、試合の成り行きに注目する。

 2分が過ぎた頃には、バスケットに詳しくないなりに、娘の立ち位置がわかってきた。ゴールに積極的に突き進むのではなく、ゴールから離れた場所でパスを待っているように見える。

 その少し後には、娘がコートの端からシュートを撃った。ボールはゴールに向かって飛んで――リングの端に当たって、弾かれた。


「ああ……!」


 惜しい。

 身を乗り出し、思わず声が出そうになった。

 娘はシュートが得意だと聞いた。そのはずが、その得意技が不発。

 ボールを相手に取られて、そのままシュートを決められる。

 芳しくない事だというのは、綾瀬の目にも明白だった。


「惜しいぞ、頑張れー!」


 隣で若森が声援を送る。綾瀬は心穏やかでないまま、試合の成り行きを見守った。

 今度の明芳のオフェンスでは、娘にパスが行かなかった。背番号9番の子が二人がかりのディフェンスに対して、かわし、体をぶつけ合い、かなり無理矢理気味なもののゴールを決めた。

 栗橋中の反撃は、娘のところから攻められた。相手は娘と比べて身長は大差ないものの、体格がある。ゴール付近で体を競り合わせるような恰好からのシュートで、点を取られた。

 再び明芳の攻撃。今度はパス回しから、5番の子がジャンプシュートを成功させる。

 栗橋中の反撃のシュートは外れ、ボールは明芳に。再び綾瀬の娘にボールが渡り、シュートするが、リングの手前で弾かれた。

 観客席から遠目に見た娘の顔は、真剣で、悔しそうで、少し困惑しているようで。


(頑張れ……!)


 綾瀬は拳を握り、試合に見入っていた。






 慈は焦っていた。

 シュートが入らない。

 シックスマンとしての唯一にして最大の武器。毎日のように居残り練習して磨き上げた、絶対的な得意技。

 そのはずの武器が、今は冴えない。


(構える、狙う、膝を溜める、ジャンプ、ボールが頭より高く上がったところでシュート……)


 ディフェンスしながら、練習で何度も繰り返したプロセスを頭の中で反芻する。

 その通りに撃てば決まるはず。

 そのはずなのだ。


「リバンっ! 短いよ!」


 ベンチからの鈴奈の声。

 愛がディフェンスリバウンドを取って、再び明芳のオフェンスだ。

 ボールは愛から瞳へ。瞳がボールを運ぶ中、明芳メンバーはオフェンスの定位置へ向かう。


、やるよ!」


 瞳が高い声でコール。ドリブルと逆側の手オフハンドを高く掲げて拳を握り、手首を曲げて"振り下ろす"ような仕草。

 例のフォーメーションのサインだ。

 動きは頭に入っている。慈は45度の位置で待機し、GガードPF・Cインサイドポジションのピック&ロールに合わせてコーナーへ移動するのだ。

 そしてパスを待ち、ボールが来たらシュートを放つ。

 そうやってアウトサイドシュートを活かすフォーメーションのはずだ。

 作戦通り、瞳は愛とピック&ロールを仕掛けた。ディフェンスを崩し、愛がゴール付近でパスを受け取る。


(今……!)


 左コーナーへ走る!

 ゴール下では愛が、カバーに入ってきたFフォワードの二人に阻まれて食い止められた。

 ディフェンスはゴール下に密集しており、アウトサイドは無防備。

 愛の視線が、慈に向く。

 パス!


(来た!)


 がしっ、とボールを力強く掴む。

 構える。

 狙う。

 膝を溜める。

 ジャンプ。

 そして、ボールが頭より高く上がったところで、シュート!


(入れ!)


 ボールは高い弧を描いた。

 そして、リングの右側に当たって弾かれた。


(……!)


 間違えた。

 ボールを"がしっ"と掴むのは、不自然に力んだフォーム。居残り練習で亮介に教わったはずだ。

 それなのに。


(どうして試合に限って、できないの……)


 焦る。

 気負いが重圧となってのしかかってくる。

 あれだけ努力を重ねてもダメなのか。

 結局、自分にはできないのか。"実戦に弱いタイプ"という一言で片づけられてしまう人間なのか。


「綾瀬、戻れ! ディフェンス!」


 茉莉花の声で我に返る。

 戻りが遅れた。一時的な数的優位を使って、栗橋中は簡単にゴールを決めていた。

 スコアは21-26。

 第2ピリオドに入ってから明芳の得点が伸び悩んでいる。

 ゴール下の守りをがっちりと固められているから。

 そして、それを崩すためのアウトサイドシュートが決まらないから。

 このままでは、負ける。


「綾瀬さん……?」


 緩慢にフロントコートへ進もうとする慈に、愛が声をかけた。

 心配そうだった。

 だが慈には、答える余裕もなかった。

 スタメンを諦め、シックスマンという居場所を甘んじて受け入れて、そうして与えられた出番も活かす事ができなくて。

 自分はここにいない方がいいのではないか、という気持ちが消せない。

 足手まといになるぐらいなら。


「……」


 何も答えない慈から、やがて愛は離れていった。

 慈は漫然とフロントコートへ進む。得意のはずの左コーナーへ向かう気力ももうなかった。

 実戦になると教わった事もできないなら、やろうとする意味もない。

 慈は3Pラインより少し後方で、オフェンス参加せずに棒立ち。それを差し置いて明芳のオフェンスが進行していく。

 おのおのが定位置に着き、愛がハイポストに入って面を取る。瞳からポストの愛にパス。

 そして、慈への強いパス!


「きゃ!?」


 顔の傍への強いパスだった。慈はそれを反射的に受け止めた。

 慈は顔を上げて、


「綾瀬さん、シュート!」


 愛の言葉が突き刺さった。

 厳しい語調だった。だが顔は真剣だった。

 それを撃て、と。

 見渡せば、茉莉花も、瞳も、美裕も――慈に視線を向けていた。

 心配や同情よりも、期待と、それゆえの厳しい表情を。


「めぐちゃん、外してヘコんじゃダメだよ! 入るまで撃つ!」


 鈴奈の声援が、背中を押す。

 攻撃時間制限ショットクロックは、あと7秒。6秒。5秒。


「……」


 美裕がゴール下から歩き寄って来て、スクリーンの構えを取った。


「……っ!!」


 慈はドリブルして、目の前のディフェンスをかわしにかかった。

 美裕のスクリーンにディフェンスを引っかけて、一瞬だけ正面をオープンにする。

 即、シュート!

 もう躊躇いはなかった。

 シックスマンとしてチームの一員となれるよう、努力してきた。退部騒動を起こすほど気持ちをこじらせて、それでも続けると自分で決意して、諦めずに続けてきた。

 まだ発展途上かもしれない。シュートだってみっともなく何本も外すかもしれない。

 もう、それでもいい。

 どれだけみっともなくても、笑わずに、支えてくれる仲間がいるのだ。

 だったら、外しても撃ち続ける。

 上手くいくまで、みっともない努力を続けるだけ!


「リバン! 右っ!」


 瞳が言った通り、シュートは横にずれた。

 そのリバウンドに愛が力強く飛び込み、取る!


「綾瀬さんっ!」


 肩の高さにボールをキープしながら、愛が声をあげる。


「どんどん撃って! リバウンドは取るから!」


 外してもいい。

 慈は気持ちを切り替えて、左コーナーへ走った。

 当然、ディフェンスがついて来る。

 だが美裕がスクリーンをかけてくれて、ディフェンスが一歩、出遅れる。

 その隙に、左コーナーへ走る!


(そうよ、私にできる事はそれだけなんだから!)


 支えてくれる仲間がいる。余計な事は考える必要がない。

 点差も残り時間もどうでもいい。

 勝つための最高の作戦は、亮介が考えてくれる。

 瞳は司令塔として、その作戦を確実に遂行するために試合をコントロールしてくれる。

 鈴奈はずっと自分を応援してくれていた。

 茉莉花は第1ピリオドで点を取り、相手の注意をインサイドに向けてくれた。

 あれだけいがみ合っていた美裕でさえ、スクリーンをかけてくれた。

 たとえシュートを外したとしても、愛がリバウンドを取ってくれる。

 だから、自分はシュートを撃つ!

 その他には何もないのだから!


「お願いっ!」


 慈が左コーナーに走り着くと同時に、愛からパスが飛んでくる。

 手を伸ばし、手元に柔らかく引き込むようにキャッチ!

 ゴールを見る。

 その瞬間、世界のすべては消失した。






 真っ白な空間の中に、慈はいた。

 どこまでも真っ白な地面が、地平線まで続く世界。

 その中に、自分と、ボールと、6.6m先のゴールだけがあった。

 不思議と驚きはなかった。ここがどんな場所で、何が起こっているのかも気にならなかった。

 ここがどこで、何が起こっていたとしても、自分の役目はシュートを決める事だけなのだから。


 構える。

 狙う。

 膝を溜める。

 ジャンプ。

 そして、ボールが頭より高く上がったところで、シュート。


 気負いはなかった。

 外したらどうしようという不安も感じなかった。

 感じるわけがない。

 ボールは、シュートをのだから。






 ――世界に色彩が戻ってくる。

 綺麗な高い弧を描いたシュートが、すぱっ、と奏でたスウィッシュ音。

 その音を呼び水にして、聴力が戻ってきた。

 味方の歓声。

 観客席のどよめき。

 そして、ブザーが告げた第2ピリオド終了の合図。

 電子得点板に目を向ける。

 24-26。

 自分がシュートを撃つ前のスコアは――何対何だっただろう?

 思い出せない。

 今の一本のシュートを撃つ瞬間、両チームの得点状況すら頭から消し飛んでいた。

 自分と、ボールと、ゴール。それだけが世界のすべてだった。


「綾瀬さん」


 自分を呼ぶ声と、肩に添えられる手。

 美裕だった。


「ナイッシュ」


 かすかに笑ってそう言い、栗橋中ベンチを指さす。

 栗橋中のメンバーのうち何人かは、かすかに驚きや困惑が見て取れる視線を慈に向けていた。

 それらで、ようやく実感が湧いてきた。

 自分の放った3Pシュートは、決まったのだと。


「……」

「さ、綾瀬さん、ベンチ戻ろ」


 横からかけられた声とともに、大きい手がそっと背中を押してくる。

 愛だった。

 穏やかな笑顔だった。慈の努力がようやく実った事を、素直に祝福するかのような。


「……え、ええ」


 慈は答え、ベンチへと歩き出した。

 さきほど見えた光景が、まだ頭から離れないままに。






「前半は悪くない終わり方だった。特に、綾瀬さんのコーナー3Pがね」


 さきほどのシュートの瞬間に見えたもの。それに対する戸惑いを慈が抱く中、亮介の言葉が明芳メンバーに投げかけられていく。


「アウトサイドシュートでディフェンスを外に引きつける作戦が機能し始めたと言っていいだろう。けど、1本じゃ効果は薄い。相手のディフェンスをより混乱させるためにも、シューター2人――氷堂さんと綾瀬さんはコートに残す。積極的にアウトサイドシュートを撃って行ってほしい」

「OK。やってやるさ」


 タオルで汗を拭いながらも、茉莉花の答えはきっぱりとしている。

 慈は――どう答えればいいかわからなかった。まだ現実感がいまいちだ。

 それというのも、シュートの瞬間に見えたあの光景が原因だ。


PGポイントガードは若森さんに交代しよう。若森さんはチャンスがあったらどんどんドリブル突破ドライブで攻めること。一瞬でも隙を見せれば外からシュートされるかもしれないし、ドリブルで抜かれるかもしれない――と、相手に思わせて混乱させるんだ」

「りょーかいっ!」

「頼むね、相棒」


 瞳から差し出された手に、鈴奈が交代のタッチ。

 後半戦の方針が決まっていく。

 その中で、慈は――


「ねえ、綾瀬さん」


 美裕に話しかけられた。


「どうしたの、ボーっとして」

「え? あ……」

「もっと喜んでいいんじゃない? ずっと練習してきたロングシュート、決まったんでしょお?」

「そう……だけど……」


 迷う。

 自分の体験が何だったのか、皆目見当もつかない。

 シュートを撃とうとした瞬間、自分とボールとゴールしかない別世界に行ってしまった――そんな事を言ったら、頭がおかしくなったのかと思われるかもしれない。

 ただの錯覚かもしれないし、何かの超常現象だったのかもしれない。その正体を掴みかねていて、けれど自分のシュートが成功した引き金だったような気はする。

 あまりにおぼろげで、そして言語化できない何か。

 それは、ポジティブなもののはずだが、得体が知れなくて――


「何か、のかい?」


 はっ、と。亮介の言葉に、慈は顔を上げた。


「言ってごらん」


 亮介の表情と語調は――優しくも、慈の体験を見透かしたような何かがあった。

 彼も事があるのかもしれない。

 これは自分の頭がおかしくなったとかではなく、優れたスポーツ選手も経験している事なのかもしれない。

 ならばこれは、自分の成長の兆し。

 そうなのかもしれないと思えた。


「……ボールが」


 だから、慈は口を開いた。

 自分の身に起こった事を包み隠さず話そうと、具体的で、感じたままの言葉を選んだ。


「ボールが、指から離れる前に、もうゴールに入っていました」


 ありえない。

 けれど、慈にとってはそれが、間違いない事実だった。

 論理的にも物理的にもありえるはずがない、そもそも因果関係のおかしい話。

 だが亮介は、


「ああ、なるほどね」


 笑って、うなずいた。


「綾瀬さんにはそういう風にんだね」

「先生も!?」

「僕の場合はかな。ここでシュートだ、っていう時に」

「……あ……あは……!」


 笑いがこぼれた。

 あの時自分に見えた光景は、決して異常なものではなかったのだ。

 亮介のような一流のプレイヤーにも――いや、一流だからこそかもしれない。そういう人間にものなのだ。

 自分がレベルアップした事の証拠に違いないのだ!


「綾瀬さん、後半も頼むよ」

「はい!」


 もう、迷いはなかった。

 シュートを決める事。ただそれだけに注力して、結果を出すだけだ。

 それができるだけの力が、今の自分には備わったのだから。


 ビ――――ッ。


 ハーフタイム終了を告げるブザーが鳴る。

 慈は、誰よりも早くベンチを立ち、コートへ向かっていった。


「ねえ、せんせー。めぐちゃん、どうしちゃったの?」


 慈の背後で声がする。

 鈴奈の声は、心配するではなく、純粋に不思議そうで。


「うん」


 それに答える亮介の声は、自分にも覚えがあるという語調だった。


「ゾーンに入ったのさ」






 かつて、バスケットボールの神と呼ばれた選手は、自己最高記録を達成した試合の後でこう言った。

 "I can't explain itうまく言えないが...I'm in the zone"ゾーン"の中にいた."

 "ゾーン"。

 現代では、一流のスポーツ選手の間では広く使われる言葉だ。

 ある野球選手は、ストライクゾーンに飛んで来るボールの、スピードも、コースも、回転するボールの縫い目まで明確に見えたと語る。

 あるテニス選手は、ボールがどこに飛んできたとしても、打ち返している自分の姿が見えたと語る。

 そしてそれらの錯覚を見た選手は、ことごとく、その通りに成功している。

 それは極限の集中状態が生み出す、現実離れしたポジティブな錯覚。

 言い換えれば、成功の予習とでも言うべき現象。

 その"ゾーン"に、慈は入った。

 チームメイトを信頼し、シュート以外の全てを託し、自分の意識をシュートひとつに向ける事で――

 慈は一瞬だけ、神の領域に踏み込んだのだ。






 第3ピリオド開始時、慈の気持ちは弾んでいた。

 24-26で、依然として2点差で負けている。

 けど、反撃の突破口はできた。自分のシュートがそれを作り出した。

 今までバスケットを続けてきた中でもっとも、試合に対してポジティブな影響を与える事ができている。

 それが嬉しかった。

 早くシュートを撃ちたい。鮮やかに逆転を決めてやりたい。

 その欲求が強まっていくのがはっきりとわかった。そしてこの状態でなら、遠慮する必要も感じなかった。

 審判のホイッスルが鳴り、明芳のスローインから試合が再開される。

 ハイポストの愛にボールが入り、逆サイドのローポストに位置取りした美裕へパス。そこからシュートを狙うが、ただちに密集してきた栗橋中のディフェンスに阻まれてシュートはリングの外へ落ちていく。

 リバウンドを取った栗橋中の反撃は、Cセンターにボールを入れて、愛とゴール下での1対1勝負。ゴール下からのシュートに対して、ブロックに跳んだ愛の指先がかすり、シュートは外れ。

 やはり栗橋中は、攻守においてインサイドへの意識が強い。

 アウトサイドから攻める余地は大きいという事だ。


「行くよっ!」


 ボールを運ぶ鈴奈が全員に声をかけ、そして慈の方をちらっと見た。

 あれはきっと、キャッチ&シュートに備えてほしいという意味。

 慈はそう確信した。そして、もっとも得意とする左コーナーに位置取りした。

 直後、鈴奈が突破ドライブ

 目の前のディフェンスを一気に抜き去りゴールに迫る。FフォワードCセンターが、カバーに入ろうと鈴奈に詰め寄る。

 だが密集される前に、パス!

 左コーナーで待機していた慈の手元に、まっすぐボールは飛んできた。


(これで……!)


 手を伸ばし、キャッチの体勢を取る。

 これを受け取るのだ。そしてゴールに意識を集中すれば、さっきの光景がはず。

 そうなれば外さない。

 あの時ほど克明に、自分のシュートの成功を確信した瞬間はなかった。

 あれがシュートを100%決める秘訣なのだ。

 だから、今度も!


 ボールを柔らかく手元に引き込むように、キャッチ。

 リングを見る。

 そこには、ゴールとバックボード、その下で動き回る両チームのメンバー、観客席、体育館の壁と天井が見えた。


「……え?」


 違う。

 さっきはこうではなかったはずだ。ボールをキャッチした瞬間、世界から一切の雑音も色彩もなくなった。

 今は違う。いろいろなものが

 ボールは自分の手の中にあり、撃つ前から既にゴールに入ってもいない。

 ダメだ。


(違う。これでシュート撃ったら……)


 また外れるかもしれない。

 あの光景が見えた時のような、絶対に外さないという確信が持てない。

 慈はシュートを躊躇った。

 そのわずか1秒ほどの躊躇の間に、栗橋中のSFスモールフォワードは距離を詰めてきた。


「!」


 咄嗟にボールを肩の後ろへ回して庇う。

 相手は積極的にボールへ手を伸ばしてきた。気圧されるように体勢が後ろにのめる。ボールを奪おうとしてくる手を踏み替えピボットでかわし、難を逃れ――

 ピッ! と、鋭く審判のホイッスルが鳴った。


場外アウト・オブ・バウンズ明芳きいろ8番!」

「あっ……」


 ディフェンスから逃れようとして、慈の足はサイドラインの外に踏み出していた。






 栗橋中のスローインから試合が再開される。

 SFスモールフォワードの6番にボールが入り、慈と1対1勝負を仕掛けてきた。突破ドライブに対して、慈は抜き切らせはしなかったものの、そのままゴール付近で妨害チェックの上からシュートを決められる。

 これは身体能力や体格の差だ。ある程度仕方ないと覚悟しているもの。

 その代わり自分には3Pシュートがある。2点取られても、3点取り返せばいい。

 そのはずなのに。


「はいっ、綾瀬さん!」


 ハイポストに入った愛からのパス。

 柔らかく手元に引き込むようにキャッチして――しかし、あの光景はやはり見えない。


(どうして!?)


 迷っている間にも、ディフェンスは距離を詰めてくる。

 今の状態では、撃てない。撃ったとしても、確実に決める自信はない。

 だから――


「へいっ! 綾瀬!」


 中距離ペリメーターに走り込んできたのは茉莉花。

 慈はそこに、とりあえずのパスを入れた。

 茉莉花はボールを受け取ると、ワンドリブルしてディフェンスを牽制し、急停止プルアップジャンプシュート!

 バックボードで跳ね返り、リングに弾かれ、外れる。

 リバウンドは栗橋中のCセンターが取った。

 そこから、ロングパス!

 パスの狙いは、先んじて速攻に走っていた6番。本来、慈が止めなくてはならない相手。


「あっ……!」


 失敗。

 自分が思うようにシュートを撃てなくて、そればかりに意識が行っていた。直接対決マッチアップしている相手が速攻に走っている事も見落とすほどに。

 ロングパスは、6番の手に届く――

 その直前で、鈴奈が追いついてボールを弾く!


場外アウト・オブ・バウンズ栗橋しろボール!」


 審判がコールし、試合の流れが止まる。コート上の10人が、小走りに明芳ゴール側へと進んでいく。

 慈も明芳ゴールへと向かった。

 このままではいけない。試合の流れに乗れていないのは明白だ。どうすればいいかと――


「めぐちゃん」


 話しかけてくる声に、振り返る。

 鈴奈だ。


「あのさ、シュート撃ってよ」


 責める口調ではなかった。ただ淡々と、それが慈の役割だと諭すように。

 慈には、反論したい気持ちも、弱気になっている自覚も、どちらもあったが――まず鈴奈の見せた複雑そうな表情の前に、言葉は引っ込んでしまった。


「……せんせーが言ってた。ゾーンって言うんだってね、めぐちゃんが2ピリの最後でシュート決めたときの……こう、撃つ前にシュートがもう決まってた、みたいな感覚って」

「……でも、今はその感覚がなくて」

「うん、だと思った。シュートに自信なくて、どうしようって思ってた頃のあたしみたいだったから」

「……」

「……あたしはさ、めぐちゃんも知ってる通りジャンプシュート撃てないから。いいシュートが撃てた時の感覚みたいなのって全然わかんない。だから、偉そうに言ったらいけないのかもしれないけど……」


 一度言葉を切って、鈴奈は慈にまっすぐ視線を向けてきた。躊躇いを振り切るように。


「撃って。あたしたちがめぐちゃんに望んでるのは、ゾーンに入る事じゃない。シュートを撃つ事だよ!」






 一度深呼吸して、慈はディフェンスの位置に着いた。

 背番号7を着けた小さな背中に、心の中で感謝を呟く。

 言葉にするのは後でいい。

 まずはプレイで示さなくてはならない。

 バスケ部に誘ってくれて、退部騒動の前後でも自分に一番同情的で、今また道を示してくれた彼女に!


「6番、来るよ!」


 鈴奈が声をかけてくれた通り、栗橋中の6番にボールが入る。

 さきほど得点した時と同じように、1対1勝負で慈から点を奪おうと突破ドライブしてくる!

 それを止めきるだけの能力は慈にはない。スピードは平凡、フィジカルは弱い。優れた選手にはどちらを取ってもかなわない。

 けれど、


方向誘導ディレクション、レーン側!」


 ベンチから瞳の指示が飛ぶ。

 エンドライン側だけは抜かせないよう、慈はあえて偏ったディフェンス姿勢を取った。

 当然、相手は、逆側を抜いて来ようとする。3秒制限区域の真ん中へ突き進むようにして、シュート体勢!

 そこには――


「たあっ!」


 愛の右腕が、ブロック!

 痛烈な水際防御リムプロテクトに阻まれて転がるボールを、茉莉花が回収。即、鈴奈にパス。

 10人が一斉に栗橋中側ゴールへと走って向かう。

 真っ先に走り出した慈は、ディフェンスに着いて来る6番ともども、逸早く左コーナーに到着した。次いでボールを運ぶ鈴奈、少し遅れて美裕が、それぞれの直接対決マッチアップ相手と共にやってくる。

 そして美裕が3Pラインを越えたところで、即、鈴奈とピック&ロール!

 美裕のスクリーンを利用してディフェンスを一人足止めし、2対1の形を作って鈴奈から美裕へパス。

 慈に着いていた6番が、カバーに飛び出した。

 そのタイミングで美裕から慈へのパス!

 慈は思い出した。この3人でこの形は、3対3で練習した形そのものだ。

 何度となく練習し、そしてコーナー3Pシュートを決めてきた形。

 撃てないわけがない。

 決められないわけがない!


(そうよ、もう迷わない!)


 ボールを柔らかく手元に引き込むようにキャッチ。

 リングを見る。

 世界は真っ白には染まらない。

 でも、そんな事はもう関係ない。

 鈴奈は"ゾーン"と言っていた。あれはきっと二度と起こらない。

 バスケットの神様というものがもしいるのなら――どうしようもなくスポーツの才能がなくて、みっともないほどの努力を続けて、それでもまだ芽を出しきれない子のことを見ていられなくなって、気まぐれで一度だけ手を貸してくれたに違いない。

 あれは一度だけの奇跡。

 言い換えれば、偶然。

 偶然には頼らない。

 ここからは――


(自分の力で這い上がる!)


 構える。

 狙う。

 膝を溜める。

 ジャンプ。

 そして、ボールが頭より高く上がったところで、シュート!

 ゴール下でリバウンドポジションを争う両チームの上で、ボールは高く弧を描いた。

 そしてリングの中央へ落ちていき、水しぶきのようにネットを跳ねあげた。


「よしっ!」


 思わず、拳を握った。

 これは偶然でも何でもなく、仲間の協力を得て、自分の力で決めたシュート。

 スコアは27-28。互角の状況まで引き戻した。

 勝負はこれから!


「ナイシューだよ、めぐちゃん!」

「よっしゃ、一本止めるぞ! 次で逆転だ!」


 バックコートで守備に備えていた鈴奈と茉莉花が、喝采で出迎えてくれる。

 愛と美裕はインサイドの守備に就きながら、慈のところが抜かれた場合に備えたポジショニングを取る。

 ようやくチームの一員になれた気がした。

 今、間違いなく、慈の存在ありきで試合が動いていた。


「リバン、正面!」


 栗橋中の5番が放ったシュートは外れ、愛がリバウンドを取って攻守交代。

 慈は再びフロントコートの左コーナーへ。

 鈴奈は、今度は愛と二人でのピックプレイを選択した。愛のスクリーンを使ってディフェンスを振り切り、そのままゴール下へ突破ドライブ

 再びゴール下にディフェンスが密集したタイミングで、今度は右コーナーの茉莉花へパス!

 そして、茉莉花のワンハンド3Pシュート!

 だが弾道がやや低く、リングの上を滑るように外れた。

 ゴール下で栗橋中の4、5、6番がボックスアウトして、リバウンドポジションを確保。

 そこに――


「んしょっ……!」


 美裕!

 走り込んで来て、4番と5番の間にするりと肩を入れて体を割り込ませ、走ってきた勢いのままに跳ぶ。

 ボールをキャッチ。

 そのまま空中で、頭上からボールを振り下ろすようにパス!

 左コーナーへ!


「頼んだわよ!」


 頼まれるまでもない。自分はそのためにここにいる。

 だけど、チームメイトに頼られたからには、応えないわけにはいかない。

 ボールを柔らかく手元に引き込むようにキャッチ。

 構える。

 狙う。

 膝を溜める。

 ジャンプ。

 そして、ボールが頭より高く上がったところで、シュート!


 ――すぱっ、とボールがリングのど真ん中を射抜く音。


「ナイシュッ!」

「凄いよ、綾瀬さん! 3連続!」


 チームメイトたちの喝采が心地よい。


「8番よ! 8番を止めなさい!」

「マーク絶対外さないで! リバウンドいいから!」


 うろたえる相手チームの声が、優勢を示している。

 バスケットを始める前の自分だったら――いや、ほんの少し前までの自分がこんな成功を収めていたら、自分ひとりの力によるものだと勘違いして、高飛車になっていたかもしれない。かつては、それほどに自分の事しか頭になかった。

 今は違う。

 チームの一員と認められるために、役割を求め、努力して。仲間たちに支えられてシュートを決めるうちに、エゴはいつの間にか消えていた。

 チームの勝利よりも、チーム内の力関係ばかり気にしていた頃の自分はもういない。

 仲間からの喝采も、相手に対する優越感も、それ自体が目的じゃない。

 目的は、チームが勝利する事!


「いただきっ!」


 栗橋中の緩いパスを鈴奈がスティール!

 速攻の体勢で全員が走る。慈も左コーナーへ急ぐ。

 栗橋中のディフェンスへの切り替えは速かった。鈴奈が速攻で決めきる事はできず、一度脚が止まる。

 慈へ、パス。

 慈はボールへ手を伸ばし、柔らかくキャッチして――


「撃たすかぁ!」


 栗橋中の6番が目の前に迫ってきた。

 ブロックの体勢で両手を上げていた。

 横が、ガラ空き。


「――!」


 咄嗟に慈は、ドリブルをついてゴールへ突き進んだ。

 あまりにもあっさりと、6番の横を抜き去る事ができた。


(抜けた……!)


 初めての感覚。

 慈はスピードも平凡、ボールハンドリングも上手い方ではない。練習でも、茉莉花や美裕を綺麗に抜ききれたためしがない。

 それが今、鮮やかにディフェンスを抜き去った。

 それほどまでに慈のジャンプシュートは、ディフェンスの注意を強烈に引きつけていた。


(どうすれば?)


 ここまで完璧にディフェンスを抜けたのは初めてだ。一瞬、かえって判断に迷う。

 ゴールを見る。

 ゴールへの道筋は、空いている。栗橋中のメンバーは、まだディフェンスに戻りきれていない。

 なら、やる事はひとつだ。


『今のがレイアップ。バスケでもっとも基本的だと言われているシュートだ』


 初めての練習で聞いた言葉を、


『ゴールまでの直線が空いたら、チャンス』


 誰よりも愚直に練習に取り組んできた慈は、忘れてはいない。


(右……!)


 3秒制限区域までドリブルで突き進み、ボールを両手で掴んで、右足を大きく踏み出して一歩目。


(左……!)


 やや短めに二歩目を踏み出し、膝を伸ばして踏み切ってジャンプ。


(右!)


 右手でボールを高く掲げ上げ、指で優しく押し上げるようにシュート――!

 リリースは正確だった。確かな狙いで、ボールを指から放せた。

 その瞬間、横合いから伸びてきた手が慈の腕を押しのけた。

 そして慈は、床に倒れた。






「慈っ!?」


 観客席から身を乗り出して、綾瀬は思わず娘の名前を呼んだ。

 娘は、試合の後半に入って活躍し始めた。次々と長距離のシュートを決めて、もはや試合で一番目立っているほどだった。

 今度は鮮やかにドリブルでディフェンスをかわし、シュートに行った――が、栗橋中の選手にぶつかられ、よろめいて床に倒れた。

 怪我でもしていないだろうか。やはりバスケットをやらせたのは、間違いだったのでは――


「うおおおおお! バスケットカウント取った! 凄いぞめぐちゃん!!」


 隣で若森が歓声を上げている。ただごとではない狂喜ぶりだ。

 他の父兄たちも、同じように歓声や拍手を送っている。


「わ、若森さん。娘は……慈は大丈夫なのですか?」

「ああ、大丈夫です。あのぐらいバスケじゃよくある事ですよ。ほら」


 若森が指し示した先では、綾瀬の娘は平然と立ち上がっていた。歩き方も怪我を匂わせるようなぎこちなさはなく、チームメイトたちに"大丈夫"と手で示している様子も見える。

 ひとまず、綾瀬は安堵した。


「ふぅ……なら、良かった」

「いやぁ、それにしても凄い! あんなに連続でスリーを決めたかと思ったら、今度はバスケットカウントですよ!」

「ああ、すみません。その……バスケットカウントとは? どうなったのですか?」

「あー、えーとですな、シュートの最中にディフェンスから反則を受けて、それでもシュートが決まったのをそう言うんですわ」

「……なるほど」


 ルールは、よくわからない。

 だが、若森の言う事が間違っていなければ、娘は――不当な反則行為にも負けず、正攻法で自分の役割をやりきったのだ、と理解できた。

 自分の知る娘は、それほど強い子だっただろうか。

 自分は今まで、娘の姿をちゃんと見る事ができていたのだろうか。


「正しくはバスケットカウント・ワンスローって言いまして、普通にシュートが決まったのの2点が入って、さらに1点分のフリースローを撃つ権利がもらえるってもんなんですよ」


 若森が言う通り、娘はゴール正面から少し離れたライン上で、審判からボールを受け取った。

 深呼吸して、ゆっくりとシュートの構えを取る。

 娘の姿は、落ち着き払って見えた。

 チームを代表してシュートを撃つにあたって、堂々としていて冷静で、浮き足立ったところや頼りなげな雰囲気は少しもない。


(慈……)


 シュート。

 ボールは高い弧を描き、ゴールの中心へまっすぐに吸い込まれていく。


(私の知らない間に、こんなに頼もしく成長していたんだな)


 スコアは33-28。明芳中が優勢なのは、綾瀬の目にも明らかだった。

 慈は今、間違いなくその中心にいた。






 第3ピリオドの中盤でPGポイントガードを再び瞳に交代し、慈は一度ベンチに下がった。

 アウトサイドから大量得点した慈がいなくなった事で、栗橋中のディフェンスは再びインサイドに収縮。その傾向を見抜いた瞳が自らロング気味のミドルシュートを決めて、ディフェンスをさらに混乱させた。

 外と見せかけて、中から美裕。

 中と見せかけて、外から茉莉花。

 外と見せかけて、中から愛、と見せかけてその裏に回った鈴奈。

 ことごとく明芳のシュートが決まり、第3ピリオド終了時には、得点差は45-34まで開いていた。

 それでも、明芳は最後まで油断しない。

 第4ピリオド残り5分の時点で、慈は再びコートに戻った。そして3分間のうちに2本の3Pシュートを決めて、得点差を56-41の15点差にまで広げた。

 これが実質的にとどめとなった。残り2分で15点差をひっくり返せる事など、プロの試合でもそうそうない。

 やがて順当に、試合終了のブザーが鳴る。


「58-43で明芳きいろの勝利。互いに、礼!」

「「「ありがとうございました!!」」」


 整列して、一礼。その試合終了時メンバーの中に、慈はいた。

 ふと視界に入った観客席では、周囲から浮いているビジネススーツ姿の男性がいた。


 ――来れるかどうかわからない、とか言っていたくせに。


 素直じゃない父親だ。きっとそんな所は、自分にも遺伝したのだろう。

 思わず、口元が綻び――

 慈は、小さく手を振った。






 この大会、明芳中女子バスケ部は、地区大会準決勝で敗退した。

 校内の掲示板には、運動部の冬の大会の結果として、"地区大会にて惜敗"とのみ書かれたプリントが張り出される事となる。

 だが、明芳中女子バスケ部は1年生だけのチームだ。

 上級生を中心としたチーム相手に戦って、地区ベスト4まで進出――

 これは、快挙だった。

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