#5 ギブ&ゴー
「おい、1年! ちょっと集合だ!」
屋外で練習をしていた男子バスケ部の1年生たちに対して、顧問教諭の高倉は大声で呼びかけた。
2・3年生が練習しているコートの外で見学していた1年生たちは、小走りにわらわらと集まって来る。
彼らは、コートに入って技術的な練習をさせてもらえる事はまだほとんど無かった。高倉の方針で、もっぱら走り込みなどの基礎体力づくりばかりをやっている。
彼らはその扱いに文句を言う事もない。言うだけの体力的な余裕もないのが半分、高倉を恐れているのが半分だった。
高倉は、良くも悪くも典型的な、昔気質の体育教師だ。
ここ数年こそ世間がうるさくなってきたので体罰は控えているが、何かにつけて語調が荒く、生徒から反論などされる事を嫌う。部活の指導中は怒鳴り声を上げるのも珍しくない。
仮入部期間が終わったばかりの1年生たちですら、顧問のそういうキャラを理解し、言われたことを黙ってやるのが自然な流れになっていた。
高倉は一同を見渡す。みな走り込みの疲れはあるものの、見学の時間によって充分回復していると判断して、話を切り出した。
「女子バスケ部と1年同士で5対5をやる事にした。全員、体育館に行ってこい!」
「「「はい!」」」
部員たちは一斉に返事をした。そして、体育館へ歩いて行く。
「歩くな、走れ! あっちは待ってんだぞ!」
怒号一喝。1年生の男子たちは、慌てて走り出した。
まだまだなっていない、と高倉は厳しい目で彼らの事を考える。
ミニバス経験者が2人もいるから、今年の1年生は期待できるはずだ。2年後の夏、彼らが3年生になった時には県大会への初出場が叶うかもしれない。
だからこそ、仮入部期間から徹底的に基礎体力をつけさせる練習をしてきたのだ。
まだしばらくはその方針を続けるべきだろう。それと同時に、部活を通して社会での礼儀作法というものも学ばせる必要がある。
まさか女子相手に負ける事はないだろうが、2・3年生の練習がひと段落したら様子を見に行くか。高倉はそう思案しながら、彼らの背中を見送った。
#5
「えーと、男バス1年のみんな、急に頼んじゃってすまないね。せっかくだから楽しくやろう」
亮介の言葉に、男子バスケ部の1年生たち8人はあからさまに安堵の表情を浮かべた。
男子バスケ部は今日は屋外コートで練習しているため、体育館の中なら顧問の目も届かない。それに女バスの顧問の先生はウチの顧問と比べて優しそうだ――彼らはそのように考えている事が、亮介の目には明らかだった。
(しかし、そんなに気を緩めてられるのも今のうちだぞ、男バスのみんな)
亮介は内心で、彼らに対して届かない警告を放った。中学1年なら男女の体格差はまだそれほど大きくはないし、こちらにはミニバス経験者もいる。基本中の基本も教えた。運動慣れしていない子も混ざっている以上、不利には違いないだろうが、一矢報いられる可能性は充分あると踏んでいた。
「審判は僕がやります。試合時間は8分の1ピリオドのみ。タイムアウトは審判の指示によるもの以外なし。それ以外は基本的に公式戦と同じルールで。
コートに出る人はゼッケンつけてください。男子は青、女子は赤ね」
亮介は両チームにゼッケンを渡す。男子のうち、2人が先んじて青ゼッケンを取った。あとの6人はまごついていたが、先頭の2人からゼッケンを渡されて出場者を決めたようだった。
あの2人がリーダー格か、あるいはミニバス経験者か。それぞれ身長は160と165ぐらい。1年生としては高い方だが、愛よりは低い。
「せんせー、こっちは準備オッケーだよー!」
鈴奈が準備完了を告げる。と言っても女子バスケ部は5人しかいないのでメンバー選択の余地もない。赤いゼッケンをつけて、5人は待機していた。
「よし、それじゃあコート入って。始めるよ!」
試合開始のジャンプボールは、最長身の愛が担当する事になった。
「あいちゃん、がんばー!」
「あ、うん、ありがとっ」
満面の笑みで応援してくれる鈴奈に答えて、愛はセンターサークルに入る。
早速練習の成果を試せる機会への楽しみと、果たして自分が通じるのかという緊張が混ざり合い、ドキドキと、胸が痛いほどに鼓動を打つ。
そんな時。
「でっけ……」
センターサークル内で対峙した男子部員がぽつりと呟いたのを、愛は聞き逃さなかった。
途端、愛の表情がムッとしたものへと変わる。
人が気にしてる事を。
ジャンプの準備姿勢を取れば、自然と力がこもる。
この子に一泡吹かせてやらないと。そう思うと、期せずして緊張も和らいでいくようだった。
「では行くよ。みんな準備はいいね?」
亮介がボールを持って、センターサークルにやって来た。コートを見渡し、全員の準備ができている事を確かめると、最長身の2人の中間でボールを構え、
「試合開始!」
真上に、ボールを放り上げる。
落ちてくるタイミングを見計らって、愛はボール目掛けて跳び上がった。
男子バスケ部1年の中で最長身の
中学入学の時点で身長は166cm。周囲の同級生たちの平均より10cmは高く、ミニバス時代も得点源の一人であるとともにリバウンダーとして活躍していた。
今回の5対5にしても、相手は女子。しかも雰囲気的にミニバス経験のない初心者のようだ。いくら自分より少し身長が高いと言っても、何ひとつ遅れを取ると思っていなかった。
それなのに、ジャンプボールに跳んだこの高さは何なのか!
確かに身長は高い。だが、決定的というほどの差ではないはずだ。ジャンプ力もそこまで高いわけではないように思える。なのに、放り上げられたボールに先に触れたのは愛だった。
なぜ?
十和田が結論を出すより早く、ボールを鈴奈が回収していた。
「なーいす、あいちゃん! よっし、行こー!」
そのまま鈴奈がドリブルしてフロントコートへとボールを運び、女子部のメンバーは適当にばらけた位置を取った。フォーメーションと呼べるようなしっかりとしたものではないが、長身者がゴール下付近にいるあたり、とりあえずの形にはなっている。
それを見て、十和田も余計な考えを振り払い、愛のマークについた。
「はい、ひとみちゃん!」
鈴奈から瞳にパスが通る。瞳は、どうすべきか一瞬迷ったように視線を漂わせ、
「茉莉花、お願い!」
ディフェンスの横を通して、フリースローライン際へバウンドパス。そこに茉莉花が走り込んで来ていた。
パスを受け取る。が、ディフェンスはきっちりとついて来ていた。
ドリブルで低い体勢から右に抜く――かのような動作から。
「中原っ!」
ディフェンスの上を通して、愛にボールを繋いだ。
愛は真剣な表情で、ボールを小さくジャンプして受け取ると、両足同時に着地。右足を軸に、ゴールに正対するように体を反転。
(ただのターンシュートじゃねえか、こんなもん…!)
それは何の変哲もない、ミニバスの試合でも何度も見てきた、ごく単純で基本的なシュートだ。男子で、しかもミニバス経験者としての意地がある以上、簡単には決めさせてやれない。
十和田はブロックに跳んだ。
しかし、愛の高さはまたしてもその上を行った。愛の指を離れたボールはバックボードで跳ね返り、練習と同じようにリングを通過する。
亮介が得点板の黄色いシートをめくり、女子チームの2点を記録した。
愛が緊張に強張った表情を崩し、ぱっと笑顔を見せた。
「いぇーい! ナイッシュー、あいちゃん! 先取点!」
鈴奈が愛に駆け寄って手を上げてきた。およそ1秒後、ハイタッチだと気づいた愛は、
「うんっ、ありがと」
ハイタッチに応じながら、バックコートへと小走りに戻っていく。
その様子を、呆然と十和田は見ていた。
「おい十和田、何やられてんだよ」
十和田が振り返ると、その言葉の主は
「河井……いやさあ、あのでっかい女子がなんかやけに高いんだよ。ジャンプがそんな高いわけでもないんだけど」
「理屈はどーでもいいんだよ、女子に負けたとかカッコつかねーだろ」
「……まーな」
男子のスローインで試合が再開された。小柄な男子部員がドリブルでボールを運ぶのに先んじて、2人はフロントコートへ進む。
「けど、意外と女子部ってパスワークも良くねぇ?」
「だな。油断しねーで本気でやろう」
「リバン!」
男子のシュートが外れたのを見て、鈴奈が声を出す。
外れる事は十和田も想定していた。既にゴール下に入っている。ベストなリバウンドポジションに陣取り、ボールの落下を待ち構える。
そこに赤ゼッケンの背中が接し、押してきた。
愛だ。
「んっ……!」
体重のかかったボックスアウト。じわじわと十和田は外へ押し出されていく。
押し返せない。たかが女子相手だと甘く見ていた予想を、大きく上回るパワーと重さだ。
「く、重っ」
「は?」
物凄く冷たい目で睨まれた。
後に十和田が語るには、もう一度そんなつまらない冗談を言ったらその口を縫い合わすぞと言わんばかりの空気が出ていたという。
そうこうしている間にリングから落ちてきたボールに、愛が跳びつく。
再び女子チームの攻撃となった。
「ナイスリバン! あいちゃん、こっちー!」
鈴奈が速攻のスタートを切っていた。反応の早さと俊足で男子たちを追い抜き、既に先頭を走っている。
愛はオーバースローで思い切りボールを投げた。男子部員たちの頭の上を通り越え、相手ゴール付近まで一直線のロングパス!
鈴奈は全力ダッシュして、フリースローライン付近でボールに追いついた。キャッチして、そのまま二歩で踏み切ってレイアップ。
ミニバス経験者だけあって淀みのないフォームだった。当然、外れるはずもない。
あっという間に、スコアは4-0となった。
審判の立場としてあるまじき事だと自覚しながらも、亮介は表情が緩むのを抑えきれなかった。
紛れもなく愛は逸材だった。それも、亮介が思っていたよりもはるかに優秀だ。高さでもパワーでも男子チームの
まだ体育バスケの域を出ないレベルの勝負とは言え、その活躍ぶりは傍目にも明らかだ。
今もそうだ。スコア4-2の状態から茉莉花のシュートが外れたが、愛がオフェンスリバウンドを取った。
ゴール右側に着地。
男子がボールを奪い取ろうと詰め寄って来る。どうしたらいいかと愛は一瞬迷いを見せたが、
「あいちゃん、こっちぃ!」
鈴奈がアウトサイドに走り抜け、ボールを貰う位置にいた。
愛はディフェンスの上を通してパスを出し、ボールを一旦逃がす。
「左空いてるよ!」
鈴奈がボールを受けるのと同時、瞳が声をかけた。言う通り、左サイドにスペースが空いている。
愛にディフェンスが引きつけられた結果だ。
一番近くにいた慈がスペースに走り込んだ。鈴奈がそこにパスを合わせる。
慈は練習の通り反転してゴールに正対し、ボードを狙ってシュートした。男子の一人がブロックに跳ぶが、距離が遠く、届かない。
ボールがリングを通過する。
スコアを加算する亮介自身も快い。
それは、ただ女子部が優勢だからというだけではない。
「ナイッシュ、めぐちゃん!」
「め、めぐちゃん?」
「なんか一人だけいいんちょ呼びしてるのもアレじゃん。だからめぐちゃん。いいでしょ?」
「え、ええ……若森さんも、ナイスパス」
「へへ、ひとみちゃんのおかげだね」
鈴奈が瞳の肩にタッチして言う。瞳は、小走りに息を切らしながら微笑んだ。
「私、あんまり運動できないから。このぐらいは役に立たないと、って」
「だいじょぶ、助かってるよ!」
鈴奈が満面の笑顔で笑いかける。そうして、女子たちはバックコートへ戻っていった。
(チームになってきている)
亮介はそう実感する。
愛が攻守においてプレイの中心となり、細部を各々が補い合って動いている。その結果の良し悪しを問わず、鈴奈がムードメーカーとしてメンバーの気持ちを結びつけている。
短時間とはいえ練習の成果もしっかりと出ていた。まだ上手くドリブルできない子も多いからこそでもあるだろうが、互いに声をかけ合いながらパスを回してボールを進める事ができていた。
彼女たちは、きっといいチームになる。亮介の経験から、それは確信できた。
(だが……)
勝てるかどうかとは、また別の話だ。亮介は、それもまた予感していた。
残り時間2分50秒。男子のシュートが外れ、愛はまたリバウンドの体勢を取った。
ボールの落ちそうな方向をよく見て、素早くその位置を確保する。と同時に、背中で敵をボックスアウト。
だんだんコツがわかってきた。そして亮介の言う通り、このプレイが非常に大切だという事も肌で理解できてきた。
ディフェンスリバウンドは敵の攻撃を終わらせる。オフェンスリバウンドは味方に再度の攻撃チャンスを与える。
それはつまり、敵の攻撃を食い止める行為であり、味方の失敗をフォローする行為。
自分がこのチームを守っているという実感があった。
それを可能としている自分の体が、少しだけ誇らしく感じられるようになった。
今まではコンプレックスの源でしかなかった異様な長身が、このコートの中でだけはチームを守る武器となる!
愛は、今回も十和田に遠慮なくボックスアウトをしかけた。腰を落として足を踏ん張る姿勢を取り、体重をかける。
そして、その体勢がわずかに押し返された。
(え?)
違和感。
さきほどまで十和田の事を完全に抑え込んで、愛がリバウンドを制していたはずだ。それが、今回に限ってわずかに押し返された感覚があった。
その感覚の正体を探る間もなく、ボールは落ちてくる。
跳ぶ。さきほどまでと同じように、愛がボールを掴んだ。
着地。
膝が崩れた。
(あれ?)
よろめく。
たたらを踏みそうになって、愛はトラベリングのルールを思い出した。
けど、踏ん張れない。
咄嗟に、愛はボールを放り投げた。
目標は視界の端にかすかに見えた赤ゼッケン。それが誰なのかを確認している余裕もなかった。
ボールの行き先は――暴投と言っていい。ワンバウンドして、コートの外へと向かっていく。
「ちょっ、あいちゃん!?」
鈴奈が声を上げつつも、ボールを追いかけた。
コートの外でバウンドしそうになったボールに横っ跳び気味に跳びつき、ギリギリで手が届く。
「まりちゃん、取って!」
充分な狙いもつけられない体勢から鈴奈はボールを投げ渡し、そして丸まるような姿勢を取って床に転がった。
「若森っ!?」
「気にしないで撃って!」
ボールを受け取った茉莉花はまず鈴奈を心配する声を上げたが、他ならぬ鈴奈からの言葉で自分の役割を認識した。
図らずもロングパスからの速攻の形になったボールを、練習通りのシュートでゴールリングに通す。
これでスコアは10-6。
「タイム!」
そのシュートが決まったところで、亮介が試合を一時止めた。全員が、鈴奈のところへ歩み寄ってくる。
「若森さん、怪我は?」
「ん、大丈夫。あたし昔からこういうプレイしてるから、怪我しないコツとかわかってるから」
えへへと笑いながら立ち上がって、鈴奈はゼッケンの背中についた汚れを払い落とした。
特に体を不自然に庇うような様子もない。無事だと言うのは本当だろう。
「それより、あいちゃんこそ大丈夫? こけてたけど……」
鈴奈の言葉に、今度は愛に視線が集中した。
「え、うん。平気……だと思う」
愛はやや曖昧に答えた。
実際、怪我をしてどこか痛めているわけではない。特に大きな体の異常も感じない。少なくとも、続行不可能と判断する材料はなかった。
「そうか……ん、怪我がないならOKだ。再開しよう。男子ボールから!」
言って、亮介は十和田にボールを渡した。
女子がバックコートへ戻っていく。さきほどまでよりいくらか落ち着いた空気の中、男子のスローインから試合が再開された。
「コラァ! お前ら、女子相手に何てザマだ!」
試合時間残り1分30秒。様子を見に来た高倉が怒鳴り声をあげた。あまりの大声に試合中の部員たちが驚き、一様にそちらに視線を向ける。
女子チームがスローインしようとしていたタイミングだったのでまだ良かった。シュートタイミングだったら、それこそ
「ミニバス経験者が2人もいて、女子相手に2点差しかつけられないとか、情けないと思わんのか!」
スコアは10-12。高倉がやって来る直前に河井が決めたシュートによって、男子チームが2点のリードを取ったばかりだった。
女子チームは1分半以上、無得点の時間が続いている。
「高倉先生、すみませんが大声は控えていただけると。女子が怯えてしまいますから」
「むう」
亮介の言葉に、高倉は納得のいかなそうな顔をするも、一応は言葉をしまい込んだ。
女子チームのスローインから試合が再開される。
試合序盤で頻繁にかけ合われていた声は、ほとんど聞かれなくなっていた。
「ねえ、みんな大丈夫?」
鈴奈は周囲のメンバーに目をやりながら尋ねた。
「大丈夫って感じじゃないよな……」
目元の汗を拭いながら、茉莉花も呟いた。そして、ボールを運ぶ鈴奈の後ろをついて来る3人を見やる。
愛、瞳、慈の3人は、ほとんど歩くような速度で後ろをついて来ていた。
尋常な動きではない。ボールを運んでいる最中なのだから、パスを貰うべきプレイヤーはボールマンより前にいるのが普通だ。
特に愛は、攻撃の手番ともなれば敵ゴール下が定位置のはずなのに。
なのに、そこへ走っていく事ができない。
小学校でも経験した、マラソンの終盤のような呼吸の苦しさがある。肺が悲鳴を上げるように痛み、喋るのも億劫なほど酸素が足りない。頭からはとめどなく、流れるように汗が垂れてくる。
でも、それだけなら経験した事のある辛さだ。
脚の感覚が、未知。
脚が言う事を聞かない。
力が入らない。踏ん張れない。力強く床を蹴って駆け出す事など、もってのほかだ。
脚が棒になる、という慣用表現が愛の頭をよぎった。国語の時間に初めてそのフレーズを聞いたとき、よくわからない表現だとしか思えなかった。
あの表現はこういう事だったのか。
麻痺してしまったかのように感覚も曖昧で、力を込めようとしても脚が反応してくれない。
これは確かに、ただの棒もいいところだ。
愛が左右を見てみると、瞳も慈も同じような状態のようだった。特に瞳がひどい。ぜえはあと激しく息を切らして、前を向く余裕すらないといった様子だった。
「審判、8秒!」
河井が指摘するように言う。ぴくっと反応して、鈴奈は急いでセンターラインを越えた。亮介はホイッスルを吹かず、手をひらひらと横に振る。
(8秒ってなんだっけ……)
思い出そうとするが、酸素が致命的に不足した愛の脳は、その答えを記憶から検索する事ができない。ただ、何かのルールにひっかかりそうになったのを鈴奈が救ってくれたんだな、とだけは理解できた。
しかし、彼女の頑張りに応える事ができない。
そもそもゴール下へ走っていく余力が脚にない。仮にそこへ辿り着く事ができたとしても、さっきからジャンプ後にまともに着地できないのだ。
この状態では、リバウンドもシュートも、ブロックも。チームの役に立つ事が、何ひとつできない。
「しょーがないね……まりちゃん!」
「お、おう!」
まともに走れない3人を後方に放置して、まだ動ける2人だけでパスを交換して攻め始める。
だが、フロントコートの人数比は2対5だ。切り崩せるはずもなかった。
茉莉花が鈴奈に返したパスを、飛び出した河井がカットする。
「あっ!」
茉莉花が声を上げたが、時すでに遅し。
河井はあっと言う間にセンターラインを越えて、女子チーム側のゴールへと一直線に駆けていく。
既に脚がまともに動かない愛も瞳も、それを止めるための反応すら満足にできずに抜かれていく。
「はぁっ、はぁっ、こ、の……!」
のろのろとした動きながら、慈が歯を食いしばってかろうじて戻った。そのままレイアップにいく河井に追いつこうとして、ブロックに跳ぶ。
だが、遅い。
まっすぐレイアップに行った河井に対して、横からぶつかる形になり、
「あうっ!」
高い悲鳴。
当たって弾き飛ばされたのは、慈の方だった。
ピッ!
鋭く亮介のホイッスルが鳴る。
河井はわずかに体勢が傾いたものの、バックボードに向かってしっかりとボールを投げていた。跳ね返ったボールは、リングをなぞるようにくるりと一回転したあと、ネットをくぐって落ちていく。
「ディフェンスファウル! バスケットカウント・ワンスロー!」
亮介のコール。
事態を見守る事しかできなかった愛は、ようやく補充されてきた酸素で、その言葉の意味を反芻する。
守備側の反則。吹っ飛ばされたにも関わらず、慈の方が反則だという裁定。今のシュートの分が加点されて、さらに男子チームにフリースロー1本――
慈は呆然としたまま床に倒れていたが、やがて亮介に厳しい目を向けると、よろよろと立ち上がる。
「先生っ、なんで私の方が反則なんですか……」
「横からぶつかったからね」
冷静に言いながら亮介はボールを拾い上げ、河井に向かってワンバウンドさせて投げ渡す。
河井は、やれやれといった表情でボールを拾うと、フリースローラインに向かっていった。
「ぷはーっ……!」
大きく息を吐き出して、茉莉花は壁に背をもたれかからせた。
「負けちゃったね」
鈴奈がその横に座りながら、得点板を改めて見た。
10-19。
最後の1分でフリースロー1本を含む7点を追加で奪われ、このスコアとなった。
最終的にはほとんど二倍近い点差。だが、残り1分30秒時点で女子相手にほとんど互角の点差だった事が高倉教諭は気に入らなかったらしい。彼の指示により1年生男子たちは体育館を出て、罰として校庭5週のランニングをさせられている所だ。
「あーっ、くそ! 途中まで勝ってたのに!」
「はあ、ふぅ……なんか、ごめん」
息を整えながら茉莉花に言ったのは、愛だった。
脚を投げ出すようにして腰を下ろし、壁にもたれかかった姿勢でいる愛は、今はもう立ち上がる余力もなかった。
「何だよ、別に中原が謝る必要ないだろ?」
「でも私、途中から役立たずになっちゃったし」
今であればはっきりと自覚できる。脚が限界に来ていたのだ。
バスケットは、愛が今まで経験してきたどんな運動とも、脚への負担のかかり方が違った。全力ダッシュからのストップ、相手チームの選手とゴール下で押し合う際の脚の踏ん張り、そして何度ものジャンプ……それらの繰り返し。全方向からの多種多様な、絶え間ない負担がかかるのだ。
加えて、8分間のうちどれほどの割合を走っていただろう。それもマラソンのような、長時間同じペースで走るような形の走りではない。急激なダッシュとストップの繰り返しに、肺にも相当なダメージを受けている。
たったの8分と甘く見ていた。
ほんの8分で、ここまで満身創痍になるとは思わなかった。
慈もその気持ちと疲労は同じのようで、愛と同じように壁にもたれかかって座り込み、悔しさを表情に出しながら呼吸を整えている。
瞳に至っては話す余裕もないようで、激しく息をつくだけで精一杯といった様子だった。
「スタミナ負けだね」
5人と向かい合うように立って、亮介は評した。
「氷堂さんも言った通り、最初は優勢だった。みんな今日練習した基礎をしっかりなぞってプレイできていたし、きれいなパス回しもできていたしね。
問題は、それを維持するスタミナと脚力だ」
「スタミナ……はい」
愛は言葉の意味を確かめ直すように呟いて、こくりと頷く。視界の端では、開け放たれていた体育館のドアの向こうに、校庭を走っている男子バスケ部の1年生たちが見えた。
「実際の試合ではこの4倍の時間を戦うわけだからね」
「4倍……」
8分の試合を経験した今、改めて口に出してみると、とんでもなく長い時間だと実感する。その間、万全のプレイをし続けられるだけの体力が必要なのだ。
そうでなければ、チームを守り続ける事ができない。
「先生、スタミナってどうやってつけるんですか?」
「地道な走り込みしかないね」
亮介の答えを聞いた愛の表情は苦々しい。
だが、
「やってやろうよ」
自分を含めた全員に聞かせるように、茉莉花が言った。
「負けっぱなしは嫌だよ、あたし。あいつらと次にやる時は絶対勝ちたい!
みんなもそうだろ? 練習もまあ面白いけどさ、楽しけりゃ負けてもいいやって思ってるわけじゃないだろ、みんな?」
「……そうね。やるからには勝ちたいわ」
それまで黙って話を聞いていた慈が、同意の言葉を発した。
「私、も。勝ちたいし、もう少し、役に、立ちたい」
まだ息が落ち着かない状態のまま、切れ切れに瞳も答える。
愛も、その気持ちは同じだった。
「うん。やってやろ、みんな」
ぐっと拳を握りながら、愛は言った。その様子を、亮介は微笑ましそうに見ていた。
「よし、じゃあ来週か再来週あたりにもう一回8分試合を申し込んでみよう。みんな、それまでにレベルアップだ!」
「おー!」
鈴奈が答えて腕を上げた。
全員で声を合わせるほどの連帯感はまだなかった。だが、これからの努力を拒むメンバーもまた、いなかった。
「せんせーってさ、わりと策士だよね」
亮介と二人で得点板を体育倉庫へと片付けながら、鈴奈はそう言った。
「そうかい?」
「うん。だってせんせー、あたしたちが勝てると思ってなかったでしょ?」
「……ひょっとしたらワンチャン勝てるかも、ぐらいは考えてたけどね」
言い換えれば、それは肯定だ。
やっぱりそうかー、と鈴奈は悪戯っぽく笑う。
「まあ、基礎体力づくりが違うもんね。だからって、男バスみたいに最初っから走り込みとかじゃ面白くないけど」
「まあね。ウチは初心者が多いから、なおさら最初から面白くない事をやらせるのもなんだし」
言いながら、亮介は得点板のキャスターに足でロックをかけた。
「走り込みとかのしんどいやつも、本格的にバスケやるなら最終的に避けては通れないんだけど……
だけどそれは、勝つために必要だと感じて、本人たちが自発的にやり出すのが好ましいと僕は思うんだ。初心者に言いつけてやらせるのは、僕はあんまり好きじゃないって言うかね」
「せんせー優しー。あ、それとも生徒の
「そんな大層なものじゃないよ」
ストップウォッチを箱にしまう。次にこれらの用具を使うのは、来週だろうか、再来週だろうか。
「まず、バスケを楽しんでもらうのが先だと思ってるだけさ」
楽しいから好きになる。好きだから頑張れる。頑張る者同士だからこそ、チームとしての絆が強くなる。
思い起こせばあの夏に挑んだチームのみんなも、そうやって団結し、そして全国を目指したのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます