#6 ポイントガード
「はよ、中原」
その日、愛が教室に入ると、茉莉花が挨拶してきた。
茉莉花の方から挨拶してきたのは初めてだ。愛は最初は驚いたものの、すぐに表情を和らげる。
「ん……おはよ、氷堂さん」
愛は挨拶を返し、よろよろと不自然な足取りで席に向かうと、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
「脚、だいぶ来てる?」
「うん、すっごい筋肉痛」
愛は苦笑いを浮かべた。昨日のわずか8分の試合で限界に達してしまった脚は、ひどい筋肉痛に襲われていた。
「はははっ、まあ早いとこ回復しちゃってよ。中原が仕事してくれると全然違うんだからさ、あたしたちのチーム」
「そ、そう?」
「そーだよ。点も取るしリバウンドも取るしさ」
「そっかな、ありがと」
面と向かって褒められるのには慣れていない。照れ臭かった。
だが同時に、人が認めてくれる事が自信を与えてくれる実感はあった。それにバスケを通じて、友達……と呼んでいい仲なのかはまだわからないが、ともあれ話ができる相手ができた事も、愛には嬉しかった。
「て言うか、男子にパワー負けしないのって凄いけど、なんか鍛えてたりすんの?」
「特に……あ、でもウチが酒屋だから、ときどき力仕事の手伝いしてるからかも」
「なるほどなー。あ、パワーって言えばさ、男子のアイツ厄介だったよな。綾瀬のこと吹っ飛ばしてレイアップ決めた――」
「二人とも、おはよ」
二人に横から声がかけられた。
愛がそちらを省みると、くりっとした大きな目にサイドテールの髪の小柄な少女。瞳だった。
「あ、瞳。おは……よ」
茉莉花は一瞬、言葉に詰まった。
瞳の歩き方は、まるで骨折か脱臼でもしているかのかと思うほど不格好だった。よた、よた、と頼りない足取りで自分の席へ向かうと、やっとの思いという感じで椅子に座り、カバンを下ろした。
「えっと瞳、大丈夫……?」
「あ、うん。大丈夫。ちょっと筋肉痛なだけだから」
とても、ちょっとという様子ではなかった。
「私も脚が筋肉痛なんだけど……神崎さん、私よりずっとひどくない?」
「そうかも。足の指からお尻まで、下半身全部筋肉痛」
言って、瞳は机に対して突っ伏すように上半身を預けた。
「ま、まあほら、瞳は運動自体あんまり慣れてないしさ」
茉莉花はそう言って瞳をフォローした。
フォローだった。愛の時のように、何が良かったという事はなく。
「ん。……まあ、そうだよね」
瞳は、どこか自嘲めいた笑いを浮かべていた。
#6
「よし、と」
亮介は『女子バスケットボール部』と書かれたプラスチック製の表札をドアに取りつけ、ご満悦だった。
校庭の隅に設えられたプレハブ造りの部室棟。その端っこの空き部屋を女子バスケ部の部室として使わせてもらえる言質を取りつけたのが、今日の職員会議での事だった。
こうして物理的な"容れ物"を与えてもらえる事は、部の存在を公に認めてもらえた事の証のように思える。それは純粋に嬉しい事だ。
(もっとも、中身はこれからだけど)
現時点では長机と、それを囲むようにパイプ椅子が6つあるだけだ。せめてロッカーぐらいは早めに用意したい。
物理的な中身だけじゃなく、活動内容についてもそうだ。現在の部員たちは全員1年生だからそう焦る事はないのだろうが、いずれは公式戦にだって出場する事になるだろう。それに向けてチームとしてのレベルを上げて行かないといけない。
これから大変になりそうだ。放課後はもちろん、休日も土日どちらかぐらいは練習に費やす事になるだろう。
けど、やりがいはある。
これからの事に思いを馳せて、亮介は天を仰いだ。
今は5月。懐かしい夏の空気が、だんだんと近づいてきている気がした。
練習前、部室に集合した5人は一様に嬉しそうだった。
「へへ、なんかいいな、こういうの。自分たちの場所があるって」
パイプ椅子の座り心地を確かめるように茉莉花が言う。場所が違えば、何の変哲もないパイプ椅子の座り心地も、教室で普段使っている木製の椅子とは格段に違うようだ。
「まあ、まだ何もないけどね」
「確かに。これパッと見ただけじゃ、何部の部室なのかわからないですよね」
言って、慈が部室内を見渡す。長机とパイプ椅子だけの部室は、客観的に見て、どんな活動をしているかも読み取れない。
「せんせー、ボールでも置いとく? インテリアに」
「それより先にロッカーでしょ。今のままじゃ着替えも不便だし」
慈の指摘に、亮介もうなずく。確かに今のままでは不便だ。
明芳中では通常、体育は2クラス合同で行われる。その際には片方の教室で2クラス分の男子が、もう片方の教室で女子が体育着に着替えるのが慣例となっていた。
よって、女子が体育以外の機会で着替える際には、"立ち入り禁止係"を入口に立てて体育倉庫を使うか、最悪はトイレの個室を使うしかない。
あまりに不便だし、快適だとも言えない。
部室にロッカーがあればその問題は解決する。事実、他の女子運動部はそうしているのだ。
「ですから先生、ロッカーの手配をお願いします。至急。速やかに」
「了解。なるべく急ぐ事にするよ」
余剰備品の中にあればそれを使わせてもらおう。なければ購入申請書だ。
亮介は段取りを思い描くと、スマホのメモ機能に備忘録として書き留めた。
「――さて、じゃあそろそろ本題に入ろうか。
今日、練習前にこっちに集まってもらったのは、部室のお披露目もあるけど、ちょっとミーティングをしておきたかったからだ。
議題は、打倒・男バス1年チームについて」
亮介がそう切り出すと、全員の表情が引き締まった。
特に茉莉花の表情が険しい。昨日もっとも負けを悔しがっていた気持ちが、まだ晴れていないようだ。
「まず、昨日の試合の反省会をやろう。スタミナ負けだったのはみんな理解してると思うが、他にも反省点をみんなで挙げてみようか」
「反省点……」
言われて、慈が考える。結論はすぐに出たようで、顔を上げた。
「やっぱり私の反省点は、ファウルした時……でしょうか。結果的にフリースロー献上しただけでしたし。
そうなるぐらいなら行かない方がマシでしたし、行くならシュートを決められないように強くぶつかった方が――」
「あんまり思いっきりぶつかりに行くと
亮介に突っ込まれて、ぐ、と慈は言葉を飲み込んだ。
「まあでも、ある程度の接触プレイで競り負けないためにはパワーとウェイトも必要だ。あの時の弾き飛ばされ方は明らかにパワー負けしていたからね。そこは要改善かな」
「パワー負け、ですか……」
うーん、と唸りながら慈は自分の上腕に手をやり、筋力を確かめた。
初めて2on2をやったあの日、亮介の目には、制服の上からはおおよそ標準的な体型に思えた。しかし改めてまじまじと見てみると、その袖の下に見える腕は華奢な印象だ。
「めぐちゃん、ひょっとして結構細い?」
「んー……うん、多分、細い方だとは思う。入学した時の身体測定でも、体重47kgだったし」
「はぁ!? 綾瀬、あたしとほとんど体重いっしょかよ! その身長で!」
「そんな事言われても、私、昔から食べても全然肉がつかなくて」
「よんじう……」
「あっみんなこの話題ストップ! あいちゃんがキレそう!」
そのようになった。
「ええと、反省点だけじゃなく良かった点も挙げていこうか。そこから発見できる事もあるはずだ」
「良かった点、かあ」
亮介の問いに対して茉莉花は、んー、と考える仕草を見せる。
「やっぱ、パッと思いつくのは中原だよな。点も取るしリバウンドも取るし」
「あんまり言われると照れるんだけど」
そう言いながらも、愛は満更でもない様子だった。
「実際、私が取ったのって10点中の4点でしょ? あとの6点はみんなが取ったんだし……」
「あ、そこちょっと気になったんだけど」
瞳だった。小さく手を上げて言うと、全員の注目がそちらに集まる。
「神崎さん、何か気づいた事があるかい?」
「はい。最後3分、全然点が入らなくなっちゃったのは何でだろうって思ってたんですけど……
茉莉花と若森さんが得点したのって、どっちも中原さんがリバウンド取ってからの速攻でしたよね?」
はっ、と茉莉花が驚きを露わにした。亮介も一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに満足げな表情に変わる。
「綾瀬さんの1ゴールも、中原さんにディフェンスが集中した隙を突いて、って感じでしたし」
「うん、よく見ているね。その通りだ」
「あいちゃん頼みになってるって事?」
鈴奈の問いに、瞳はうなずいて答えた。
「中原さんがディフェンスの上を通してシュートするか、リバウンド取ったあと相手のディフェンスが整ってない状態で攻めるかでしか点が取れてないと思うの。
だから、中原さんがバテちゃった後は点が取れなくなったのかなって」
「ひとみちゃん凄ーい! あったまいい!」
「いや、なんでダメな事がわかって喜んでのさ」
満面の笑みで喜ぶ鈴奈に対して、茉莉花が困惑したように言った。その光景を見ていた亮介が、くすりと笑う。
「いやいや、喜んでいい事だよ、氷堂さん。課題がわかったなら、あとはそれを解決していけばいいわけだからね」
「そういうモンかぁ…? どっちにしても中原頼みだってのは変わらない気がするけど」
茉莉花が愛の方をちらりと見た。それに釣られるように、愛に注目が集まる。
愛は困った表情を浮かべた。
「えっと、それは……私がスタミナつけるの頑張れって感じ?」
「それも必要な事だろうね。中原さんだけじゃなく、全員頑張らないといけない事だけど」
「"も"、ですか」
も、を強調した愛の答えに、亮介は肯定の表情を見せた。
「何度も言っているように、バスケでは背の高さは計り知れない強みだ。背の高い中原さんがプレイの中心になるのは、ある程度は自然な事だと言ってもいい。
現状の問題点は、それ以外の選択肢がなさすぎる事だ。今のままでは中原さんの負担が大きすぎるし、もし中原さんを完全に抑え込めるような選手が相手にいたら、それこそ手も足も出なくなる。つまり……」
「あたしたちのレベルアップにかかってる、って事だな」
ぐっと拳を握って茉莉花は言う。亮介は、深く頷いた。
しかしその一方で、問題点を言い当てた瞳自身は、浮かない表情だった。
「レベルアップ、か……」
瞳はぽつりと呟く。
レベルアップ。その言葉を実感できていない様子が傍目にも明らかだった。現時点で、もっとも体がついて来ていないのはどう見ても彼女だ。
「……瞳、あんま気にしなくていいよ。瞳はもともと運動あんまり得意な方じゃないんだし……それにほら、こういう所で役に立ってくれてるじゃん」
「そうかもしれないけど。私もマネージャーとかじゃなくて、みんなと一緒にプレイしてるんだから」
茉莉花のフォローの言葉を遮ったのは、他ならぬ瞳だった。
体力的に一番ついて来られていなかったのは瞳だ。男子チームとの試合で唯一無得点だったのも瞳だ。
その無力さを最も深く噛み締めているのも瞳自身だろう。
「――まあ、大なり小なり、選手の能力や特性には差があるものさ。それを補い合うのがチームっていうものだ、と僕は思う」
亮介は、瞳だけでなく、全員に答えを提示するように言った。
そして、長机の脚に立てかけていたカバンの中から、黒い革のカバーが施されたA4ノートほどの大きさの何物かを取り出した。
「正直、ちょっとまだ時期的に早いかと思ってたんだけど……
みんなのポジションを決めようじゃないか。みんながそれぞれの長所を活かして、短所を庇い合えるように」
「わーっ、本格的!」
亮介が二つ折り式のボードを開くと、鈴奈が目を輝かせて喜んだ。
白いプラスチックでできたボード表面には、バスケットコートの絵柄が描かれていた。いわゆる、作戦盤という物だ。
「な、なんか小難しそうだな……」
「パッと見、そう見えるかもしれないけどね」
不安そうな顔の茉莉花に、亮介はその不安を拭うように語りかける。
「作戦とかポジションとか言うと難しく感じるかもしれないが……中学レベルで実現するのが難しいような、複雑な事をやろうとは僕は思ってない。
むしろその逆だ。みんなの役割分担を明確にして、一人一人のやるべき事をシンプルにする。得意な役割に専念できるようにする。そのためのポジションだ」
「得意な役割に専念か……なるほど」
茉莉花は感心し、納得を得た様子だ。あまり複雑な事をしようという意図でない事がわかり、安心した部分もあるだろう。
不安が取り除かれた事を認識すると、亮介は説明を続けた。
「さて、バスケットには5つのポジションがある。
1から5の数字が書かれたマグネットを順番にボードに置きながら、亮介は言う。ボードの内側に金属板が仕込まれているらしく、マグネットはカチャッと音を立てて盤にくっついた。
5つのマグネットは、ちょうど正五角形を描くように左右対称に配置された。上側の3つは3Pライン沿いに、下側の2つはゴールの左右に。
「念のため言っておくと、サッカーとかの
サッカーだと
亮介が解説を始めると、5人は作戦盤に視線を注ぎながら、真剣な面持ちで聞き入った。唯一鈴奈だけは、知識のおさらいを兼ねているだけあってやや気楽そうだったが。
「5つのポジションのうち、中学レベルであれば
そこまで説明した亮介は一旦言葉を区切り、5人を見渡した。特に質問や消化不良があるわけではなさそうで、みな亮介の言葉の続きを待っている。
亮介は、"1"の数字が書かれたマグネットを指した。そのマグネットの位置は、ゴールから見て正面の、3Pライン上。
左右に一対となる形で配置された他の4つのマグネットと違い、それだけは対になるマグネットが盤上に存在していない。それだけでも、そのマグネットは特別な意味を持つポジションなのだと察せられた。
「
見ての通り、主に5人の中で一番ゴールから遠い場所に位置取る。これは敵味方全体を視界に入れて、状況をよく見るためだ。その上でどう守備を突破し、誰にどうやって点を取らせるかを考え、パス回しの中心となる。非常に重要なポジションだ」
なるほど、見た目の通り重要なポジションなのだ……と、5人ともが理解した。
同時に全員の関心は、誰がこのポジションを務めるのかという事に向く。
瞳は、やはり経験者が務めるのだろうかと、鈴奈の方へと視線を向け、
「神崎さん、君にこのポジションをやってもらおうと思う」
「えっ?」
亮介からの突然の指名。
さきほどから言葉少くなっていた瞳は、突然の指名に驚きの表情で顔を上げた。
重要で、専門的な役割だと言っていたポジションを?
見るからに特別な役割のポジションを?
聞き間違いではないか、と顔に書いてあるようだった。
「あの、先生? 今、重要なポジションだって聞こえたんですけど……」
「うん、そう言ったね」
「な、なんで私なんですか? 言いたくないですけど、私、一番役に立ってないと思うんですけど……」
「うーん、まあ、"現時点では"そうだね」
亮介は否定もしなかった。だが、現時点ではという点を強調して言った。
言い換えれば、これからに期待しているという意味だ。
一体何に期待して? 亮介の意図を汲み取ろうと、瞳は真摯な目で亮介と向き合った。
亮介は穏やかな笑顔で視線を受け止めながら、言葉を続ける。
「
――だが、今挙げた能力のほとんどは、努力で後天的に身につける事ができるものだ。僕が神崎さんを見込んだのは、もっと先天的な部分だよ」
「先天的な……?」
瞳は細い眉をひそめて、困惑の表情を見せた。一体何を期待されているというのだろう? 体力も技術も体格も、全てにおいてチームで最も劣っていると自覚しているのに。
「……気づく力、ですか?」
出し抜けにそう言ったのは、慈だった。瞳が勢いよく慈の方へと振り返る。
「男子との試合の時、ディフェンスが空いてる事に気づいて教えてくれたの神崎さんでしたし……あと、2on2の時に私が髪を鬱陶しそうにしてたのにも気づいてくれたでしょう?」
「あ、うん。気づいたのは……その通りだけど」
二人の会話を聞いていた亮介は、満足げににっこりと笑った。
「視野の広さや、観察力と言ってもいいかもね。僕が期待してるのはそれだ。
技術や身体能力は後天的な努力でも身につくものだが、視野の広さや観察力、瞬間的な状況把握能力はセンスに依るところが大きい。そういう意味で、この5人の中で一番
「それに、瞳は頭いいもんね。チームの頭脳なんてピッタリじゃんか!」
亮介の説明に便乗するように茉莉花が言い、瞳を励ますように肩に手をやった。
しかし、瞳の顔から不安と戸惑いは消えない。
「そんな事言われても、先生……あんまり自信ないですよ、私」
「まあ、今の時点ではそうだろうね」
それは先刻承知していたとばかりに、亮介は答える。
どういう事? と問いたげな視線を向けてくる瞳に対して、亮介は言葉を続けた。
「自信なんてものは、やってみないと生まれないものさ。努力して手に入れた成功の経験や、なぜ上手くできるのか説明できるほどの深い理解が、自信というものに繋がるんだ。
君はまだスタートラインに立ったにすぎない。バスケットを楽しむ気持ちや、上手くなりたいという想いがあれば、今はその気持ちのまままっすぐに進めばいい。いずれ経験が、君に自信を与えてくれる」
「楽しむ、気持ち……」
瞳は、噛み締めるようにその言葉を呟いた。
瞳が心の整理に入った様子を見て、亮介は改めて5人全員に向かい合うよう視線を投げる。
「さてみんな、話を続けよう。暫定ポジションだが……
「おう!」
「はーい!」
茉莉花は拳を握って、鈴奈は手を上げて答えた。二人とも、与えられた役割に対するやる気は充分のようだ。
「
「はいっ」
「……わかりました」
愛は快く答えた。これまでの経験の中で、亮介の挙げた役割に早くも意義を感じ始めている事の現れだろう。一方で、慈はまだ緊張や不安感が勝る様子だ。
慈の反応も無理はないだろう。類似ポジションとされた愛が目に見えて活躍しているのに対し、自分は河井を相手にパワー負けして弾き飛ばされた事が記憶に新しいのだから。
各自にポジションを告げ終えた亮介は、改めて一同を見渡した。
「繰り返すが、君たちはまだ初心者だ。これから経験を積んでいく中で新たな特技や個性が身についてくる可能性はあるし、それ次第でチーム戦術を変えていく必要も出て来るだろう。
あくまでも今指示したポジションと役割は、典型的なチーム像に当てはめた暫定的なものだ。これからの練習の中で役割を意識していく必要はあるが、枠組みに囚われて無理に個性を抑える必要はない。こうすべきだ、と思った事があればどんどん言って、やってみてくれ。
何か質問はあるかい? ……なければ、着替えて屋外コートに移動だ。練習を始めよう!」
その日の練習が終わった後、瞳は本屋に寄り道して、一冊の本を買ってから帰った。
バスケットの基礎知識から戦術概論までが書かれた本だ。本屋のスポーツジャンルの棚には似たような本が幾つかあった中、著者が元日本代表の監督だという事が帯に書かれていたものを選んだ。
瞳は夕食後に自室で本を開き、特に
的確なパスで味方の能力を活かし、得点をアシストするのが主な仕事である。
ボールの運搬とキープも担当するため、優れたドリブル技術も必要となる。
ゴール下の仕事をする事は少ないため身長は要求されないが、代わりに優れたテクニックと敏捷性が求められる。特に敵チームの速攻を防ぐために、逸早く守備に戻れる反応の速さと俊足があると好ましい。
しかし、それらの技術と能力だけではまだ不充分である。
また、コート上のリーダーとして、コーチの考えをよく理解し、チームメンバーに実践させるのも
究極的には、勝利という目的のために、自身を含むチームメンバー全員の能力や個性を資源として活用するのが役割だと言える。
おおよそ、そのような事が書いてあった。
(ここで書かれてるような能力、まだ私には何もないけど)
けど。
瞳の目に留まったのは、パスが主な役割であるという点。
亮介は初練習の日、パスというものを通じてお互いの心と心を繋ぐのだと言っていた。それは本当の事だと、初めての2on2のミニゲームを思い出して瞳は思う。
あの時の瞳は、茉莉花と一度ケンカ別れになった日を経験した後で、どこかギクシャクしていた。それがミニゲームの中で、ゴールという目的に向かって二人でパスを繋ぎ合ったとき、確かに気持ちが繋がり合った気がした。そして気づけば、茉莉花と普通に話せるようになっていたのだ。
リングにボールを通すという、バスケットというスポーツの中でなければ何の意味もないはずの行為。興味のない人が傍から見れば、しょうもないとしか思えないような目的だ。
それでも、ひとつの目的に向かって、お互いの事を考えながら協力し合う。ボールの保有者という、わかりやすい"主役の座"をシェアし合う。その過程が、お互いの心を繋いでくれるのだ。
だから、瞳はパスというプレイが好きだ。
楽しむ気持ちがあれば、と亮介は言った。
瞳にバスケットを楽しむ気持ちがあるとすれば、それは間違いなくパスの魅力によるものだ。
自分があのチームの――5人の中心となって、みんなを繋ぐ役割を担うのだとしたら。
(たぶん、きっと、すごく素敵な事)
瞳は想像した。自分がパスの名手となって、ゴールに直結するパスを次々と繰り出す光景を。
想像の中の仲間たちとは、まるでテレパシーで通じているかのように、互いが次に何をしようとしているのか理解し合えていた。先を読んで出したパスは、まるで魔法のように仲間たちの走る先に飛んでいき、次々と絶好の得点チャンスを生む。そして、ゴールが量産されていった。
次々にゴールを決めていく仲間たちは、試合を支配している事に嬉しそうだった。
もちろん、瞳自身も喜んでいた。
そのチームでは、メンバー同士の間に絶対的な信頼があった。
(――そう、なれたらいいな)
今のイメージは理想。非現実的かもしれないが、きっと、向かうべき姿。
瞳は想像を広げたまま、本のページをめくっていった。
数日が経過した。
女子バスケ部は基本的に、平日は毎日練習、土日はどちらかの午前中だけ練習というルールで活動し始めた。
ドリブル、パス、シュート、リバウンドの基礎練習は以前通り。加えて、練習の最初のメニューとしてランニングも行うようになっていた。もちろん、スタミナ強化が目的だ。
今日のランニングは体育館のバスケットコート外周を10週。直線距離に直すとおよそ1km弱になる。スポーツ経験者にとってはどうという事もない距離だが、未経験者にとってはなかなかに厳しい。
4週目で、瞳が遅れ始めた。
「ひとみちゃん、大丈夫?」
先頭を走っている鈴奈がペースを落として話しかけた。鈴奈はまだ話す事もできほどに余裕があったが、対して瞳は早くも息が切れ始めている。まだ大丈夫、と小さく頷くだけだ。
「若森さん、ペースを落とさないように!」
亮介が飛ばした指示に、鈴奈は心配そうな顔をしたまま元のペースで走り出した。
ゆっくりと、瞳は差をつけられていく。
「今日すぐにできなくてもいい、みんな若森さんについて行ける走りを目指すんだ! そうでないと1試合走りきる事はできないぞ!」
5週目から、愛と慈もだんだんと遅れ出した。6週目には、瞳は1週遅れになっていた。
それでも全員が、不平を言う事も途中でやめる事もなく、数分後には全員が10週を走り終えた。最終的に瞳は鈴奈から見て2週近い差をつけられ、ペースも大幅に落ちていたが、自力で走り終えた。
「容赦ねえなあ、センセー……」
10週を走り終え、早くも汗だくになって激しく息を切らしながら座り込む瞳を顧みて、茉莉花が言う。
「まあ、ね」
亮介は否定しなかった。
容赦していないのは確かだ。運動慣れしていない子にはやや厳しいランニングなのも間違いないだろう。だがそれでも、男子1年生チームに勝つという目標を全員で立てた以上、その目標から手を放してしまうような甘やかし方はできない。
それにスタミナという能力は、努力によって、ある程度までのレベルまでは必ず備わる要素だ。いずれは瞳も鈴奈と同じように走れるようになるだろう。
それまで自力で走り切らせる。自分の意思と自力の努力で壁を乗り越えられなければ、自信はつかない。
易しさと優しさはイコールではない。教えるのはいいが、手を貸してはいけない。亮介は教育者の端くれとして、そう考えていた。
「よーし、基礎練習終わり! じゃあ最後に2on2をやろう!」
体育館のコートに亮介の声が響き渡る。5人の中からローテーションで一人抜いての2on2も、練習のシメとして恒例になりつつあった。
「あの、先生」
最初にボールを持たされた瞳は、軽く息を切らしながら、プレイを開始する前に亮介に語りかけてきた。
「何だい、神崎さん?」
「ピック&ロールっていうのをやってみたいんですけど、いいですか?」
「!」
亮介は驚きを露わにした。その様子に、全員の注目が集まる。
「ぴっ……何て?」
「ピック&ロール。スクリーンプレイの一種だ」
疑問の声を上げた茉莉花に、亮介は答えた。
「スクリーンプレイっていうのはオフェンス戦術のひとつで、ディフェンス側の動きを妨害して攻撃の起点を作るものだ。ピック&ロールはその中でも一番基本的なもので……」
そこで、亮介は言葉を止めた。
ふと見れば、少し息を切らしてはいるものの、落ち着いた様子で話を聞いている瞳がいる。
「……神崎さん、みんなに説明してみるかい?」
「えっ?」
突然話を振られて、瞳は驚いた。が、それも一瞬の事で、すぐに落ち着いた表情を取り戻す。
人に説明できるレベルで理解している証拠だった。
「……わかりました、やってみます。茉莉花、若森さんの斜め後ろぐらいの位置に来て」
瞳は手招きした。現在の2on2は、瞳と茉莉花がオフェンス側、鈴奈と慈がディフェンス側だ。
茉莉花は言われた通り、瞳をマークしている鈴奈のすぐ斜め後ろの位置まで来る。
「リバウンド取る時、ボックスアウトが反則にならないのはみんなわかってるよね。自分が陣取ってる位置を維持する目的なら、ぶつかってもOKっていうルールだから。
ここでやる事も、考え方はそれと同じ。ただ、これはボックスアウトと違って、妨害しようとする相手の方を向くから、腕をバツ印に組んで身構えるの。私は何も手を出してませんのポーズ」
「えっと、瞳、こう……?」
言って、茉莉花は鈴奈の傍で、腕を交差させた構えを取る。
その様子を見て、瞳はうなずいた。
「そう。で、ボールマンがこうするの」
言って瞳は、たどたどしい手つきでゆっくりとドリブルし、茉莉花がいる側を通って鈴奈を抜き去ろうとする。
鈴奈は条件反射的に瞳を追ってディフェンスしようとして、
「あっ」
茉莉花にぶつかり、進路を塞がれた。
目の前のディフェンスがいなくなり、瞳はノーマークになる。
「こうすると、ボール持った私がノーマークになるでしょ? ディフェンスが来なかったらそのままシュートに行くし――」
シュートのモーションを取る瞳。
しかし、茉莉花に進路を塞がれた鈴奈と入れ替わる形で、さきほどまで茉莉花のマークについていた慈が瞳の目の前に立ちはだかる。
「でも、実践だとこうなるんじゃない?」
片手を上げ、シュートコースを塞ぎながら慈は言う。
だが、それこそ的を射た意見だった。瞳はうなずき、言葉を続けた。
「うん、普通はそうなる……らしいね。ごめん、私も実戦経験ないから本で読んだだけなんだけど。
茉莉花、その位置からゴールの方に向かってみて」
「――あ!」
すぐに茉莉花は気づいた。
さきほど壁役になった茉莉花は、鈴奈の斜め後ろにいる。つまり、その時点で鈴奈よりもゴールに近い位置にいるのだ。
茉莉花がその位置からゴールに向かって踏み出せば、わずか一歩分のアドバンテージではあるが、鈴奈を置き去りにして、擬似的に2対1の状況を作れる。
茉莉花は理解した通りに、ゴールに向かって踏み出した。
そこへ瞳がパスを出す。
茉莉花はノーマークの状態で、悠々とシュートを決めた。
「……っていう事か、瞳!」
「そう、そういう事」
瞳は満足げに微笑む。
「これなら中原さんの高さや速攻のチャンスに頼らなくても、ディフェンスを崩して点が取れるんじゃないかと思うの」
「すげーよ瞳、よくこんなの考えついたじゃん!」
「考えついたって言うか、勉強したんだけどね」
あはは、と瞳は照れ笑いする。だが、亮介もまた純粋に感心した表情でいた。
「いや、それでも充分凄いぞ、神崎さん。スクリーンプレイもそのうち教えようとは思っていたけど、僕が教える前に独学で覚えてくるとはね」
「それは……まあ、はい」
褒められて悪い気がするはずもない。瞳は頬を緩ませる。
同時に、照れた様子も見て取れた。言おうか言わざるべきかと、わずかに逡巡してから、瞳はその言葉を口にした。
「私、
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