#10 ロールプレイヤー

 瀬能中女子バスケ部の顧問である古谷は、学生時代、自らもバスケ部に所属していた過去があった。

 当時の身長は178cm。男子バスケ部員としては大柄な部類ではなかったが、1on1での勝負強さと優れたシュート精度を武器に、チームのエースの座に君臨していた。

 決して凡庸な選手ではなかったと自負していた。事実、公式戦でも1試合平均20点近いスコアを記録していたのだ。

 だがチームの戦績は、地区大会でのベスト4止まりだった。


 当時は、チームメイトたちのレベルが低いせいで勝てないのだと思っていた。

 足を引っ張られている――とまでは言わないが、最も華々しく活躍するのはいつも自分であり、チームメイトたちが自分について来られていないように感じていた。

 それ自体は間違った感想ではなかったと、今でも思っている。


 だが、教職に就き、部活の顧問をやるようになって、視点が変わった。


 自分は間違いなくチームのエースだったし、傑出したオフェンス力を持つ選手だった。だがそもそも、なのだ。

 平凡な子たちをどうやれば勝たせられるのか?


 考えた末に古谷が辿り着いた結論は、ディフェンスだった。


 オフェンスには、ある種のセンスが必要になる。ディフェンスの隙を見つけられる感性と、どんな状況でも正確にシュートを撃てるハートの強さ。学生時代、古谷をエースたらしめていたのはそれらの要素だ。

 だが、そういった能力は誰しもが持っているものではない。

 転じてディフェンスは、必ずしもセンスや才能を必要としない。

 極論、ボールを通さないように立ち塞がりさえすればいいのだから、やる事は単純だ。フットワークと体力を鍛え上げれば、誰でも一定のレベルにまでは到達できるのがディフェンスなのだ。

 オフェンスに関しては細かい事を教えない。そもそも大半の子たちはディフェンスよりもオフェンスの方が好きだから、才能のある子は自発的に練習して上手くなる。

 その結論に到達した今年度から、古谷は、徹底的にディフェンス重視で部員たちを指導していた。

 それが勝利への最短経路だと確信して。






 #10 誰もが存在意義を求めてるロールプレイヤー






「くっそ、こいつら……!」


 ボールを持った茉莉花は、攻めあぐねていた。

 愛がジャンプボールを制した事で、明芳が最初の攻撃権を得た所までは良かった。しかしフロントコートに進入したとたん、瀬能メンバーは激しく食らいつくようにディフェンスをしかけてきたのだ。

 ボールを奪われそうになった瞳をフォローするように茉莉花がパスを貰いに行き、ボールを受け取ったのがさきほどの事。

 しかし、茉莉花の正面にもまた、瀬能の選手が素早く立ち塞がる。

 ドリブルで抜き去ろうとするが、できない。瀬能のSFスモールフォワードの反応は速く、右に、左に、茉莉花が抜きにかかろうとした方向を素早く塞いでくるのだ。


(パスを――)


 茉莉花は周囲を見渡した。

 瞳は――ディフェンスを振り切れずにいる。

 愛は――瀬能の4番にぴったりと着かれているが、愛の方が背が高い分、高いパスならまだしも通る可能性がありそうだ。


「中原、頼む!」


 茉莉花は愛に呼びかけて、ディフェンスの上を通すようにパスを出した。

 が、目の前の選手が真上へ手を伸ばした。

 指がボールをかすめ、勢いが減殺される。

 ボールは緩やかに空中で弧を描く。

 瀬能の4番はすかさず飛び出し、緩んだパスをカットした。


「あっ……!」


 一瞬の反応に出遅れた愛は、ボールに跳びつく事もできなかった。

 瀬能の4番は上手投げでロングパスを出した。既に瀬能のGガードの2人が速攻に走っている。

 鈴奈が速攻阻止セーフティに戻ったが、2対1で止められるわけもない。

 どうにか2人を止めようとする鈴奈を翻弄するかのように、パスの往復からの綺麗なツーメン速攻が決まった。

 0-2。

 先取点は瀬能中が獲得した。


「わ、悪ぃ、みんな……」

「大丈夫。茉莉花、落ち着いて行こ」


 瞳が励ましの言葉をかけるも、茉莉花から漂う気まずそうな雰囲気は晴れない。

 励ましの言葉をかけた瞳自身、何となく茉莉花が受けているプレッシャーを感じ取っていた。

 守りが堅い。

 男バス1年チームとの試合にはなかった感覚だ。彼らのディフェンスはなんとなく前に立ち塞がる程度のものだったが、瀬能のディフェンスは的確にこちらの出鼻をくじいてくる感覚がある。

 恐らく、これが本当のバスケのディフェンス。

 瞳はフロントコートに進むと、早めにボールを手放す事にした。もっとも距離の近かった鈴奈にパス。鈴奈から――


「こっち!」


 慈が手を上げて、ボールを貰いに来た。

 鈴奈からのパス。慈はゴールに背を向け、鈴奈の方を向いてパスを受け取った。

 慈のすぐ後ろには瀬能のPFパワーフォワードが着いている。

 慈はワンドリブルして、瀬能のPFパワーフォワードを振り切ろうとして――

 しかし、抜けない。慈が体の向きを反転させて突破を図るよりも、ディフェンスが立ち塞がる方が速かった。


(それなら!)


 慈は両手でボールを保持すると、シュートモーションを取った。

 シュートを撃つふりポンプフェイク

 初めての2on2の際、愛のブロックを空振らせた手だ。それを、慈はこの場で再び仕掛けた。

 が、瀬能のPFパワーフォワードはブロックに跳ばない。

 身をすり合わせるほどに慈に接近し、上と横に手を伸ばし、圧迫するようにシュートとパスのコースを塞いできた。


「――!」


 予想外。

 フェイクにひっかからないどころか、むしろ慈にもうドリブルの選択肢がない事を突いたディフェンスだ。

 慈は身を捻ってボールを庇うようにしながら、パスを出す先がないか、視線を巡らせて――


 ピッ!


「バイオレーション、3秒! 明芳きいろ8番! 瀬能しろボールで再開します!」

「っ……!」


 慈の片足は、3秒制限区域に踏み込んでいた。






 今年度からの指導方針に間違いはなかったと、古谷は確信していた。

 相手が格下の1年生チームとはいえ、試合の入り方としては文句なしだ。2度に渡って明芳の攻撃を完封した。

 その後の瀬能の攻撃は、軽快なリズムとは言いがたかったが、しっかりとゴールを決めて0-4。

 2度の攻撃を完封されて、明芳メンバーはすっかり動きが固くなっているのが見て取れる。

 その状態につけ込むように、6番からボールをスティールし、さらに追加点。

 0-6。

 一方的な優勢だ。

 1年生チームだという明芳には悪いが、このチーム、この指導方針での初勝利を上げさせてもらおう。それを弾みにして、今年は大会でも好成績を残せれば――


 ビ――――ッ。


 オフィシャルを務めている3年生がブザーを鳴らした。


「タイムアウト、明芳きいろ!」


 審判役の3年生が明芳ベンチを指してコールする。

 開始2分も経たずにタイムアウト。明芳はかなり焦っているようだ。

 気落ちした様子でベンチへ戻っていく明芳メンバーとは真逆に、瀬能の1年生たちの表情は明るい。勝てるという実感を得ているのだろう。

 古谷は、ベンチに戻って来た選手たちを、わざとらしいほどポジティブな態度で迎えた。


「よーし、いいぞいいぞ! 出だしは最高の入り方だ。練習の成果がしっかり出てる! 勝てる流れだぞ!」


 古谷の言葉に、瀬能1年生たちは安堵と喜びをあらわにする。普段、厳しいディフェンス練習に耐えてきただけに、その喜びも大きいのだろう。

 唯一、背番号4――キャプテンの松田だけは素直に喜べていない様子だったが。


「どうした松田、テンション低いぞ! 嬉しくないのか?」

「そりゃ、リードしてるのは嬉しいですけど」


 松田は、ちらりと明芳ベンチを見た。

 話している内容までは聞こえないが、顧問が落ち着いた様子でメンバーにアドバイスをしているのが見えた。


「みんなもまだ油断しないで。あっちには私より大きい子もいるんだし」

「でもさ、いくら大きいって言っても全員1年生なんでしょ」


 メンバーの気を引き締めようとする松田に反論したのは、ベンチに座っている2年生2人だ。


「そりゃ勝ちたいか負けたいかって言ったら勝ちたいけどさあ、1年生チーム相手じゃあね……」

「なんか悪い気がしちゃうよね、一方的に勝ってると」


 本来ならレギュラーのはずの2人は、ぼやく。

 試合開始前も彼女たちはこのように言っていた。その結果、今日のスターターから外れたのだ。

 1年生たちにとっては試合に出る機会を得られる望外の幸運だっただろう。が、曲がりなりにもこの2人と1年間一緒にやってきた松田は、眉をひそめていた。


「後藤さん、小泉さん、そういうのナシにしない? 私たちだって強いチームじゃないんだし、どんな相手にも全力でぶつかるべきだと思うんだけど」


 松田の言葉に、しかし2人は煮えきらなかった。


「まっちゃん、真面目かー」

「まあ負けそうになったら出るって。それまでは1年生の経験値稼ぎって事でいいんじゃない?」


 松田は嘆息した。彼女らに聞こえないほど、かすかに。






「よーし、みんなちょっと落ち着こう」


 ベンチに戻って来た5人を前に、亮介は言った。

 怯え、苛立ち、不安――5人から読み取れる感情はそれぞれ違っている。

 だが、その根底にあるものは同じ。このままではダメだという焦りだ。

 今まで通りのやり方が通じない。

 その感覚から派生する感情は、今まで彼女たち自身がしてきた努力への否定。

 自然体を見失い、5人ともガチガチだ。

 男バス1年チームとの模擬試合では経験したことのない展開なのだから無理もない。まったく点が取れず、パスもボール運びも思うようにさせてもらえないのは、精神的に参ってくる展開だ。


「ほれ、リラックスリラックス。深呼吸ー」


 桐崎もベンチを立ち、おどけた調子で5人に言う。

 すー、はー。

 愛は、言われた通り素直に深呼吸した。

 息は落ち着いたものの、まだ精神的ダメージから回復した様子はない。

 それも当然だろう。タイムアウトが終われば、またさきほどまでと同じような展開が続くのか――そんな恐怖を拭い去る事はできないのだから。


 いる。


 亮介も経験した事がある。試合の最序盤で予想外の苦戦をした時に特有の現象だ。

 このまま手も足も出ないのではないか、相手は自分たちよりも遥かに強い相手だったのではないか――まだ相手の事をよく理解できていない、出会い頭の勝負でやられた時だからこそ陥る心理だ。

 だから、亮介は5人を見渡し、言い切った。


「君たちが今感じているものは、錯覚だ」


 うなだれていた茉莉花と慈が、顔を上げる。

 亮介の言葉の意味を知りたい。顔にそう書いてあるようだった。


「試合の入りでつまずいた時にはよくある事だ。相手が実力以上に強大な敵に思えて、萎縮してしまう。"悪い流れ"そのものだ」


 悪い流れ。

 そのフレーズを聞いて、瞳が顔をしかめた。夏の大会の男バスの試合を思い出したのだろう。

 悪い流れに飲まれたチームがどれほど弱体化してしまうのかを、あの日、彼女たちは目の当たりにしている。

 そして今度は、自分たちがそうなろうとしている――


 瞳の目に冷静さが戻った。

 自分たちが陥っている状況を把握する事で、いくらか客観的な視点を取り戻したに違いない。


「神崎さん、君がこの流れを断ち切るんだ」


 亮介は、瞳の肩に手をやった。

 瞳は顔を上げ、そしてうなずく。


「――PGポイントガードの役目、ですね?」

「ああ、そうだ」


 君ならできる。そう言外に伝えるように、亮介は不敵に笑った。


「もちろん、神崎さん一人の力でとは言わない。みんなの力をうまく活用するんだ。このチームが一番確実にゴールを決められると思う方法で、まず最初の1ゴールを決めて来ること。そこから立て直して行こう!」

「はい!」


 ビ――――ッ。


 瞳が返事をしたのと同時に、タイムアウト終了を告げるブザーが鳴り響いた。






 明芳のスローインから試合再開。

 瞳はゆっくりとドリブルをつきながら、フロントコートにボールを運ぶ。


「ひとみちゃん、大丈夫?」


 鈴奈が並走するようにして聞いてくる。

 さきほどボールを奪われてしまった彼女を気遣っての事だろう。必要なら、ボール運びを代わろうかと言いたいらしい。

 大丈夫、と瞳は小さく頷いた。

 一番確実にゴールできそうな方法を採れ、と亮介は言っていた。確かに、今この状況を好転させるためには、そうするべきだと瞳も思う。

 このチームで一番確実な得点方法は何か?

 男バス1年生チームとの模擬試合で活躍していた愛だろうか。――いや、愛には瀬能の4番がぴったりとマークに着いている。さきほどパスが通らなかった事も記憶に新しい。

 ならば。


「茉莉花」


 瞳は呼びかけた。振り向いた彼女に、左手で小さく手招きする。

 その仕草で、茉莉花は意図を察してくれたようだ。口を真一文字に結び、表情を引き締める。

 フロントコートへ進入。

 途端に、瀬能の選手たちがディフェンスに向かってくる。

 瞳一人の力では、このディフェンスを突破する事はできない。それはこれまで3度に渡って攻撃が失敗した事からも明らかだ。

 だから――

 瞳は右にドリブルして、ディフェンスを抜きにかかった。

 瀬能のPGポイントガードが鈍足の瞳に着いて来られないはずがなく、瞳の動きについて行こうとして――

 その体が障害物にぶつかった。


「!?」


 瀬能のPGポイントガードが振り向くと、その障害物が着ていたのは背番号5の山吹色のユニフォーム。

 茉莉花のスクリーンだ!

 茉莉花とすれ違うようにして、瞳はディフェンスを突破した。ノーマークになると、即座にシュートの体勢を取る。

 もちろん、瀬能もただ黙ってやられてはいない。茉莉花のマークに着いていたSFスモールフォワードが、瞳を止めに向かってくる。


(――狙い通り!)


 瞳は、向かってきたSFスモールフォワードの奥めがけてパスを出した。

 床でワンバウンドしたパスは、茉莉花へ綺麗に通る。

 ピック&ロール!

 カバーに向かおうとした瀬能4番の反応より速く、茉莉花は脇を締め、その場でボールを構えた。

 片手撃ちジャンプシュートワンハンドジャンパー

 ゴールに向かってまっすぐ飛んだボールは、バックボードに当たって、リングの中へ沈んで行った。


「――おっし!」


 茉莉花は拳を握って、小さくガッツポーズ。

 オフィシャルテーブルのスコア表示に目をやれば、2-6。

 点が入った!


「やったぁ! まりちゃん、ナイッシュ!」

「おう!」


 鈴奈がハイタッチに上げた手に、パァン! と音を立てて茉莉花が掌をぶつける。

 自分たちは、やれる! その意識がチーム全体に広がっていくように、一連のプレイに直接関与していなかった愛と慈も、表情から萎縮の色が薄らいでいる。


「瞳も! ナイスパス!」

「でしょ。ふふっ」


 瞳は頬をほころばせた。

 だが、油断してはいなかった。


 瞳が何度も熟読したバスケの戦術書。そこに記述されていた、PGポイントガードの心得。

 PGポイントガードはチームの頭脳であり、コート上におけるコーチの分身でなくてはならない。ゆえに、どれほどチームが一体となって情熱的にプレイしている時であっても、試合を冷静に客観視する"もう一人の自分"を持つ必要がある。

 今、試合はどんな状況か?

 試合には"流れ"というものがある。悪い"流れ"を断ち切れ、と亮介は瞳に指示した。

 そして、"流れ"とは選手たちの間での自信や動揺の伝播なのだと、夏の大会の観客席で亮介は言っていた。

 今の1ゴールで、明芳の5人には希望が見えた。自分たちにもやれるんだと、自信を取り戻した。

 なら、次にやるべき事は、敵を動揺させる事。

 相手は何をされたら動揺する?

 さきほどまで完封していた相手から一矢報いられて、2-6のスコアで、これから攻撃しようという時に――


 目まぐるしく計算を働かせながら、瞳はディフェンスの位置に着いた。

 正面からは、ボールを運んできた瀬能のPGポイントガードが迫ってくる。

 ちらりと、瞳は背後を窺った。

 ゴール下の配置は――瞳から見て右側に愛、左側に慈。


 瞳の中で作戦は決まった。


 瞳は右手でボールをスティールしに行く!

 お世辞にも機敏とは言いがたい動作。瀬能のPGポイントガードが右手でドリブルしているボールを狙った手は空を切る。

 瀬能のPGポイントガードは左手ドリブルに切り替え、瞳から見て右側を抜き去って行った。

 瞳は振り向き、ボールがのに備えた。

 瀬能のPGポイントガードは瞳を抜き去った後、シュートを放っていた。

 そして、愛がゴール下から飛び出し、シュートされたボールめがけて跳び上がっていた。

 ブロック!

 弾かれ、こぼれ落ちて来たボールをキャッチしたのは、そうなる事を先読みしていた瞳。


(――やっぱり、中原さんが来てくれた!)


 男バス1年生チームとの試合でもそうだった。愛は、チームを守る役割に積極的だ。あの試合でも瞳が抜かれた時、カバーに入ってブロックしてくれたのは愛だった。


「速攻!」


 瞳は声を上げ、前線へパスを出す。

 ロングパスに追いついたのは、俊足の持ち主である鈴奈だった。そのまま誰よりも速く瀬能側のゴールまで辿り着くと、悠々とレイアップを決める。

 これでスコアは4-6。


「あいちゃんナイスブローック! あと1ゴールで同点だよ!」


 レイアップを決めた後、そのままの勢いで自陣へ走り戻って来た鈴奈が喜色をあらわに言う。愛は、少しはにかみ気味の笑顔で鈴奈を迎えた。

 あと1ゴールで同点。

 その言葉が瀬能メンバーにのが、瞳には、確かに見えた。

 ――さっきまで完封してたはずの相手に、立て続けに2ゴールやられた。

 ――こっちの攻撃を止められてしまった。あれをあと1回やられたら同点にされてしまう。

 そんな気持ちが、表情と仕草ににじみ出ている。


(いける!)


 試合の"流れ"を掴んだ。瞳は、確実にそれを実感していた。






 第1ピリオドが終わった時、スコアは10-11を示していた。

 得点の上で明芳がリードする事はまだ一度もできていないが、0-6から巻き返した事を考えれば、むしろ優勢に転じていると言ってもいい。

 ベンチへ戻って来た5人を、亮介は満足げに出迎えた。


「いいぞ、みんな。よく持ち直した!」


 亮介は労いの言葉とともに、5人の様子を見渡す。

 タイムアウトの時のような、失意の色は既になかった。亮介以上に彼女たち自身が、優勢を勝ち取った事を実感している。

 特に、瞳はどこか誇らしげな様子すらあった。

 第1ピリオドでの瞳は得点をしていない。それどころか、1本もシュートを撃ってすらいない。

 しかし、試合をコントロールしていたのは間違いなく瞳だった。

 紛れもなく、この子も逸材だ――亮介は確かに実感していた。

 身長はない。運動能力も、お世辞にも優れているとは言えない。だが、戦術知識を自発的に学ぼうとする姿勢があるだけでなく、試合の流れを読み、コントロールする術を早くも身につけつつある。

 ずば抜けたバスケットIQだ。

 教え子が頭角を現し始めた事に、つい、亮介はにやけてしまいそうになる。


(――だが)


 まだ、油断できない。

 今は勝負の真っ最中なのだ。彼女たちの成長ぶりを親のように嬉しく思う気持ちがあっても、試合終了のブザーが鳴るまでは、監督として冷静に勝利を目指さなくてはならない。

 亮介は緩む頬を引き締めた。そして、語調をつとめて静かなものに改める。


「今、流れは明芳ウチにある。だがインターバルを挟んで、相手も気持ちをリセットしてくるだろう。ひとたび相手のペースにはまれば、また最初のような状態に戻ってしまう。くれぐれも油断はしないように」


 最初のような状態――と聞いて、5人は表情を引き締めた。

 まだ試合は1/4が終わっただけであり、相手の方がディフェンス力では明らかに優っている。優勢だからと言って浮かれていられる状態ではないのだ。

 瀬能ベンチを見れば、5・6番がベンチから立ち上がっていた。


「サービスタイム終了、ってか」


 相手も本気を出して来るようだと悟り、茉莉花が言う。

 その口調に怯えはない。ようやく本気を出して来る相手に対して、全力で立ち向かおうという闘志だけだ。

 上級生を含むチームと戦う上で、好ましい状態だ。


「引き続き、神崎さんはゲームメイクを頼む。相手の2年生がどんな特性の選手なのかを早めに見極めて、対応できるようにチームを動かしてくれ」

「はいっ!」


 瞳の受け答えは小気味良い。それは、自分がチームを動かしているという実感の現れだった。






 第2ピリオド、ベストメンバーが出揃った瀬能との勝負は、アウトサイドシュートの撃ち合いになった。

 瀬能4番のディフェンスにより愛へのパスが通りづらく、愛のブロックを警戒してか瀬能はインサイドへの攻撃を躊躇している。中・長距離のシュートが飛び交う展開になるのは必然だった。

 両チームを比べると、シュートの成功確率そのものに大きな差はない。が――


「行って!」


 瞳から鈴奈へパス。タイミングを合わせて、鈴奈をマークしている6番へ慈がスクリーンをしかけた。

 鈴奈がスクリーンの横をドリブルして通り抜け、ディフェンスを振り切る。

 瀬能のPFパワーフォワードはスクリーンの対処に不慣れなのか、守備対象交換スイッチに一瞬もたついた。

 鈴奈の目の前が、空く。


「っ」


 鈴奈は一瞬、固まったように静止。

 瀬能のPFパワーフォワードが鈴奈に追いついて来る。


「若森さん!」


 慈の声に、はっと鈴奈は視線を向けた。

 エンドライン際へ走っている慈の姿。

 反射的に、鈴奈はそちらへパスを出した。

 慈はパスを受け取る。そして、毎日のシュート練習を綺麗に再現したようなミドルシュート。

 ボールがリングをくぐり、スコアは16-19。


「よっし……」


 慈は小さく呟く。

 が、その言葉とは裏腹に表情は晴れやかではない。

 じわじわと点差が開いている。

 その原因は明確だ。


「小泉さん!」


 今度は瀬能の攻撃。4番がボールの中継地点となって、左コーナーへとパス。ボールを受け取ったのは、第2ピリオドから参戦してきた6番だ。

 3Pシュート。


「っ!」


 鈴奈は6番の眼前に駆け寄ってブロックを試みるが、低身長の鈴奈では、壁としての高さは不充分。

 素早いモーションから放たれたボールは、低い山なりの弾道で飛び、リングの内側に当たってネットへと滑り落ちていく。

 16-22。


「小泉先輩、ナイッシュー!」


 盛り上がる瀬能ベンチ。

 コートに出ている5人も、軽い足取りでバックコートへと戻っていく。第1ピリオド後半で見せた動揺の色は、すっかり消えていた。


「くっそ……」


 悠々とバックコートへ戻っていく瀬能メンバーの背中を目にし、茉莉花が毒づくように呟く。

 6点差。

 第1ピリオド、最初のタイムアウトを取る前と同じ点差まで戻されてしまった。

 自分たちが1点も取れていなかったあの時と違って、絶望感はない。だが、じわじわと点差を開かされていく展開は、あの時とはまた違った意味で精神的なダメージとしてのしかかってくる。


「モタモタしてられないわ。取り返しましょ」


 慈がボールを拾い上げる。スローインしようとして顔を上げれば、余裕綽々といった雰囲気の瀬能5番・6番が目に入った。


 ――厄介な相手だ。


 慈は苛立たしさを隠しきれず、表情を歪めてしまう。

 交代で入ってきた2人は、どちらもGガードだった。二人ともおおよそ身長160cm。中学女子のGガードにしては高身長な方だ。

 そして、6番は3Pシューターだった。

 第2ピリオドだけで、既に2本の3Pシュートを成功させている。160cmの身長から素早く繰り出される3Pシュートは、低身長な明芳のGガード2人では止めきれない。

 一度撃たれたが最後、外れてくれるのを祈るのみだ。

 決して高確率なシュートではないが、それを言ったら明芳のシュート精度も決して高くはない。


「落ち着いて攻めよ。3ゴールで追いつけるから」


 瞳はボールを運びながら、仲間たちに声をかけた。

 その言葉が詭弁である事は、瞳自身がよくわかっていた。相手には、1.5倍の点が得られるシュートがあるのだから。


 第2ピリオドの半分が過ぎて、得点は16-22。

 思うように得点が伸びない事に苛立ちを感じていたのは、この試合でほとんどシュートを撃っていない愛も同じだった。


(男バスと試合してた時は、もっとリバウンド取れてたのに……!)


 相も変わらずぴったりとマークしてくる瀬能4番に、疎ましく視線を飛ばしてしまう。

 男バス1年生チームの十和田と競り合っていた時には、リバウンドの多くを愛が取得していた。まだチームの誰もがミドルシュートも満足に使いこなせなかった頃、男子を相手にどうにか互角に渡り合えていたのは、愛がミスシュートの多くをフォローしていた事が大きい。

 だが、この試合は勝手が違う。

 今もそうだ。慈の撃ったシュートが外れ、ボールが落ちて来て――

 愛はリバウンドポジションを取ろうとして、"4"が書かれた背中に正面を阻まれる。


(また……!)


 瀬能4番がリバウンドポジションに入る方が早かった。

 この試合で、愛は既に何度もこのシチュエーションに遭遇していた。

 いかに愛が体格で優っているとは言え、今の位置は瀬能4番の真後ろだ。彼女を押しのけるか、前に回り込むかしようにも、ボールが落ちてくるまでのごく短い時間では足りるはずもない。

 愛は跳んで競り合ったが、その手は虚しく空を切る。そして、瀬能4番にリバウンドを取られた。


「っ……!」


 

 冷静に考えてみれば自然な事ではある。通常、ディフェンスの選手の方が、オフェンスの選手よりもゴールに近い位置にいるものだ。なら、素早くリバウンドポジションに入れるのはディフェンスの選手に決まっている。

 事実、ディフェンスリバウンドだけはいつも通りに取れているのだ。


(でも、これじゃ……)


 バックコートへ走り戻る中、愛は焦りを感じていた。

 オフェンスリバウンドが取れないため、明芳の攻撃はことごとく単発で終わってしまっている。

 男バス1年生チームとの試合では、愛がオフェンスリバウンドを取る事で、仲間のシュートミスをフォローできる事が多々あった。そして愛は、それこそがオフェンスにおけるCセンターの大きな役割だと理解していた。

 その役割を、今は果たせていない。

 焦る。

 ただでさえディフェンスに阻まれて、今日は点も取れていないと言うのに――


「もう一本!」


 あれこれ考えながら愛が自陣ゴール下まで戻ると、瀬能の5番が6番へと高いパスを出した。

 瞳と鈴奈の頭上を越え、6番へ綺麗にパスが通る。

 再び、素早いシュートモーション。


「にゃろ……!」


 鈴奈は急いで6番の前で両手上げハンズアップした。ブロックはできないにせよ、ノーマークで撃たせるより少しでも成功率を下げるべく。

 その念が通じたかのように、ゴールへ飛んだシュートはリングに弾かれた。

 大きく跳ねたボールが落ちて行ったのは、愛がいたのとは逆サイド。

 慈の付近だった。


「!」


 慈はボールを注視し、落下予想地点へと足を踏み出す。

 だが同時に、瀬能のPFパワーフォワードがその場所を争いに来た。

 ぶつかり、肩で押し合う。


「ぐっ……!?」


 たちまち、慈はよろめいた。

 瀬能のPFパワーフォワードは、1年生ではあるものの、どっしりとした体形だ。細身体形の慈と比べれば、パワーの差は一目瞭然だ。

 絶好のリバウンドポジションを、瀬能のPFパワーフォワードが独占する。


(いけない……!)


 その状況を見咎めたのは愛。

 せめて、ディフェンスリバウンドだけは取らなければいけない。あれを取らなければ、一方的に攻め続けられてしまう!

 自分と逆サイドに落ちたリバウンドボールに対して、愛は飛び出した。

 真上に飛び上がる瀬能のPFパワーフォワードに対して、愛は横合いから跳びつく。

 懸命に伸ばした愛の腕は――瀬能のPFパワーフォワードの左腕にぶつかった。


 ピィッ!


 鋭く鳴るホイッスル。

 着地した愛が審判を振り返る。審判は、両手を突き出すような仕草のあと、指を4本立てた。


「ファウル! プッシング、明芳きいろ4番!」

「……!」


 愛は歯噛みする。

 シュート時のファウルではないから、フリースローはないのが不幸中の幸いだが……


 ビ――――ッ。


「タイムアウト、明芳きいろ!」


 明芳ベンチでは、険しい表情の亮介がコートを見守っていた。






「ま、やっぱり所詮は1年生チームって事だねぇ」


 瀬能の背番号6、SGシューティングガードの小泉はどっかりとベンチに腰を下ろした。

 ベンチで控えていた1年生から汗拭きタオルを受け取る彼女の顔は、どこか勝ち誇ったものだ。

 それもそのはず、2本の3Pシュートで早くも6得点を上げた彼女は、間違いなく瀬能の得点源だ。明芳と瀬能を比較した場合、最大の違いが3Pシューターである彼女の存在だと言える。


「スクリーンよく使ってくるから、最初はちょっとびっくりしたけど」

「そうだな、あれは予想外だった」


 背番号5、PGポイントガード後藤の発言を古谷も肯定する。

 スクリーンプレイは、メンバー同士の呼吸が合っていないと100%の効果を発揮する事はできない。

 連携の練習をしっかりとやってきたのだろう。恐らくは、1年生の個人技で得点するのは難しいという考えの下に。

 だが、


「結局、あんまりパターン多くないけど。だいたい最後に撃つのは5番か8番だし」

「そーね、そこ押さえとけばたぶん大丈夫」


 後藤の分析に、タオルで汗をぬぐいながら小泉が答える。

 そうだ、と古谷も相槌を打った。


「4番はこれまで通り、松田が抑えろ。最後までしっかり遮断ディナイして、パスを通さないようにな」

「はい」

「6番はほとんどスクリーンプレイのコールしてるだけだ。恐らく得点力はない。後藤は6番よりも5番・8番に気を配れ。いつでもカバーに入れるようにな」

「ん、わかりました」


 松田は真面目に、後藤は軽い調子で答えた。

 古谷は、小泉の方へと向き直る。小泉は汗を拭き終えて、ベンチウォーマーの1年生にタオルを返していた。


「7番も同じだ。外から撃ってくる様子はない。小泉も5番・8番を重点的に警戒するんだ」

「んー。まあ、わかりましたけど」


 小泉の答えは、どこか歯切れが悪い。

 松田たちとの反応の違いに、古谷は眉根を寄せた。


「……小泉、何か気になる事でもあるのか?」

「ん。気のせいかもしれないですけどね……」


 小泉は横目で、明芳ベンチの7番を見る。

 会話の中身は聞こえないが、どこか気まずそうな様子で会話に参加している様子が見えた。


「7番の子、なんか違和感あるんですよね。ミドルも全然撃ってこないのが」

「そうか?」

「ですよ。ドリブル結構速いし、速攻とか速攻阻止セーフティとかでちゃんと仕事してるし。それなのにシュートだけ全然撃ってこないって、変じゃないですか?」






「中原さん、さっきのはあまり気にしなくていいぞ。結果的にファウルになってしまったけどね」


 亮介からの言葉に叱責の色がなかった事に、愛はむしろ驚いた。


「ただでさえ、点差の上ではこちらが追いかけている状況だ。余計な失点はできない。

 だから、最悪なのは相手にリバウンドを取られて即イージーシュートを決められる事。それに比べれば、ファウルしてスローインから再開の方がいくらかマシだ」

「いいんですか、ファウルしちゃっても?」

「5ファウルで退場しなければね」


 今は第2ピリオド半ばを過ぎたところ。接触プレイの多いCセンターがこの時間帯で1ファウルなら、むしろファウルは少ない方だ。


「お互いゴール下を攻めきれずに、精度の高くないシュートを撃ち合っている状況だ。リバウンドさえ渡さなければ勝機はある。特にディフェンスリバウンドだけは確実に押さえるように。立て続けに攻撃されないためにね」

「はいっ」


 愛は気を引き締め直す。やはり自分の任された役割は大きいのだ、と。

 一方、その隣で、慈は悔しさを顔ににじませている。さきほどの愛のファウルは、慈がリバウンド争いで押し負けていた事が原因だと理解しているからだろう。


「先生、6番に対しては何かした方がいいですか?」


 そう訊いたのは瞳だ。

 瀬能の6番は3Pシューター。確率こそそう高くないものの、一度のシュートで3点を取ってくる存在だ。

 1.5倍の得点力がある、最も警戒すべき相手。一見した限り、そのように見える。


「例えば、中原さんをマークにつけてブロックしてもらうとか……」

「いや、その必要はない」


 瞳の提案に、亮介は首を横に振る。


「3Pシュートの成功率は、せいぜい良くても3回に1回ぐらいだ。もちろんノーマークで撃たせてはいけないが……少なくとも中原さんには、外れたあとリバウンドを回収してもらわないといけない。

 それに、中原さんがゴール下の仕事を捨てて6番に着いたら、こっちのゴール下を簡単に攻められてしまう。それこそ相手の思うつぼだ」

「……そうですね、わかりました」


 亮介の説明に納得したように、瞳は答える。

 しかし、


「でも、やっぱり3Pは効きますね、精神的に」


 瞳のその言葉に、横にいた茉莉花と慈も深刻な顔をした。


「ホントな……せっかくこっちが2点取っても、一発で3点取り返されると、追いつける気がしなくなってくるよ」

「言いたくはないけど、そうね。こっちはやっとの思いで2点ずつ取ってるっていうのに……」


 これもまた、"流れ"に働きかける効果だ。

 3Pには、普通のシュートより1点多く入るという以上の意味がある。特に、僅差の状況ほどその効果は大きい。

 慈は、ちらりと鈴奈に視線を飛ばした。

 ビクッ、と鈴奈が反応する。


「若森さん……は、ジャンプシュートあんまり得意じゃないのよね?」

「え。あー……うん。あんまり……」


 鈴奈は言葉を淀ませて答える。そして、額から流れてくる汗を拭った。


「え、えっと、なんであたし?」

「特に若森さんじゃないといけないって事はないけど、ほら……3Pシューターって言うと普通はSGシューティングガードの役割じゃない?」

「……」


 鈴奈は押し黙った。

 慈の言う事は、印象論ではあるが、おおよそ間違っていない。それは鈴奈も理解していた。

 Gガード、すなわち後衛の選手は、PGポイントガードSGシューティングガードに大別される。

 PGポイントガードはゲームを組み立てる存在だ。瞳がそうしているように、チームをコントロールする役割を担う。

 対して、SGシューティングガードは後衛の点取り屋だ。ゆえにロングシュートの得意な選手が多い。

 瀬能の6番もそういうタイプだ。

 鈴奈が憧れた存在も――


「――とにかくだ、みんな」


 重い空気を払うように、亮介は語調を改めた。


明芳ウチに3Pシューターはいない。これは瀬能と比べて不利な部分だが、無いものねだりをしても仕方がないんだ。手持ちの戦力で勝つ方法を取っていこう。

 とにかく6番をフリーにさせない事。それから、極力ディフェンスリバウンドを押さえる事。相手の攻撃を何回無得点で終わらせられるかが大事だぞ。堅実に行こう!」


 亮介の言葉に、明芳メンバーは気持ちを新たにした。

 だが、ただ一人、鈴奈の表情だけは晴れやかではなかった。






「「「リバウンド――――っ!」」」


 瀬能6番のシュートが外れたのを見て、瀬能ベンチの1年生たちが応援の声を上げる。


(渡さない……!)


 愛は即座に反応し、4番にボックスアウトをかけた。

 腰を落とし、足を踏ん張る。パワー勝ちし、相手を後ろに押しやれる感覚がある。

 そして跳び上がり、リバウンドを取った。


「よしっ……!」


 ディフェンスリバウンドは取れる。巻き返しはここからだ。

 瀬能メンバーの守備への切り替えは早く、速攻はできそうもない。愛は瞳にボールを預け、相手ゴール下まで小走りに進んでいく。


「一本確実に行くよ!」


 瞳が声をかける。そして、鈴奈へパス。

 さきほどと同じように慈がスクリーンをかけ、鈴奈がその横をドリブルして走り抜けていく。

 そのタイミングで、慈がゴールへ方向転換。何度も練習した、ピック&ロールの基本形だ。

 が――


「っ……!?」


 基本形通り慈にパスを出そうと視線を向けて、鈴奈は驚きの声を漏らした。

 2

 鈴奈は、完全にノーマークだった。

 想定外。

 鈴奈は硬直した。目の前の出来事が現実なのか、なぜなのか、いくつもの疑問が頭を駆け巡る。

 時間にしてわずか1秒にも満たない間だったが――


「撃って!」


 瞳の声。

 鈴奈はハッと我に返った。

 目の前は完全に空いている。現在位置は3Pラインより少しだけ内側、つまりミドルシュートの距離。

 鈴奈は――


「……くっ!」


 ドリブルして、ゴール下まで突っ込んだ。

 レイアップ――!

 だが、ゴール下にいた4番がブロックに跳んだ。


 バシィッ!


 激しい音が体育館に響き渡った。

 鈴奈の手を離れたボールは、瀬能4番に強烈に弾かれた。そのボールの落下先は、瀬能のPFパワーフォワード


「ヘイこっち!」


 逸早く走り出した5番が手を上げる。

 カウンターで速攻が来る!

 しかし、瀬能側のゴール下まで突っ込んだばかりの鈴奈は、速攻阻止セーフティに走ろうにも間に合わない。

 瞳も急いで戻ろうとするが、彼女の足の遅さでは届かない。

 ロングパス一本から悠々と決まる速攻。

 16-24。

 ついにイージーシュートを許してしまった。そして、今までで最大となる8点のビハインド。


「……」


 鈴奈は言葉を失ったように、スコア表示を見つめていた。

 ここから確実に追い上げて行こうというタイミングでの失点。しかも――


「若森」


 肩に置かれた手に、鈴奈はビクッと震えた。

 恐る恐る振り返ると、その声の主は、茉莉花だった。


「どうしたんだよ、わざわざ4番のいるゴール下に突っ込むなんて」

「……ご、ごめん」


 鈴奈は目を合わせずに答えた。

 今のは、限りなく自爆に近いミスだ。

 SGシューティングガードは後衛から点を取るのが役割だ。中・長距離のシュートは得意分野なのが普通だ。

 普通のSGシューティングガードなら、目の前が空いた状況で、ジャンプシュートを撃たない理由はない。

 わざわざゴール下へ突っ込んで、自分より一回り以上は大柄なCセンターに真っ向勝負を挑むなど、無謀の一語に尽きる。

 そのはずなのだ。


「なあ若森。ひょっとしてジャンプシュート苦手なの気にしてんのか?」

「ん……」


 肯定とも否定ともつかない、曖昧な返答。

 ただ間違いなく言えるのは、鈴奈はジャンプシュートが上手くはないという事。それは、日々の練習からも明らかだ。


「弱気になっちゃダメだろ」


 茉莉花は拳を握り、鈴奈の肩をそっと叩いた。


「あたしだって今日、何本もシュート外してんだ。でも、あたしはチャンスがあれば何回でも撃つ」

「……」

「それしかないだろ? あたしらの身長じゃ、ゴール下に突っ込んでっても太刀打ちできないんだから」

「……うん」


 長い沈黙のあと、鈴奈はようやく答えた。

 気持ちがこもっているとは、とても言えない口調で。






 その後も第2ピリオドは、終始明芳が劣勢だった。

 それでも、愛がディフェンスリバウンドを取る事で瀬能のセカンドチャンスを潰し、なんとか致命的な決壊を免れていた。

 オフェンスにおいては、瞳がコート上の状況を見て逐一指示を出し、スペースを活用してプレイを組み立てている。

 そして、決して高い精度ではないが、茉莉花と慈が中距離ペリメーターからのシュートで得点を積み上げていく。

 各々がポジションに沿った役割を見出し、忠実に実践していた。

 ただ一人、戸惑いを見せる鈴奈を除いては。






 もう何度目かもわからないディフェンスリバウンド。

 亮介から指示された、最低限果たすべきCセンターの役割。愛は空中でボールを掴み取ると、着地とともに瞳にボールを渡す。


「よしっ、前半ラスト1本決めて終わろ!」


 瞳が声をかける。

 第2ピリオドの残り時間は20秒。スコアは22-32。

 せめて、前半終了までに一桁の点差に戻しておきたい。それだけで、後半突入時のメンタル面はだいぶ違うはずだ。


「時間かけていいよ、最後ギリギリでシュートする感じで!」


 下手に時間を残せば、相手にもう1回オフェンスを展開する時間を与えてしまう。ここは、ブザーが鳴るのと同時に得点するのが理想だ。

 瞳から、鈴奈、慈、茉莉花とパスが繋がり、慈のスクリーンを利用して茉莉花が仕掛ける!


(これならどう来るよ……!)


 茉莉花にディフェンスが着いて来た。ゴールへ転進した慈には、鈴奈に着いていた6番がカバーに入る。

 鈴奈がフリー!


「若森!」


 腕を横に振り抜いて力強いパス。

 コートを横一文字に切り裂くような鋭いパスは、ばしっ! と激しい音を立てて鈴奈の手に収まった。

 場所はフリースローラインのすぐ傍。目の前にディフェンスはいない。

 残り3秒。

 絶好のシュートチャンス!


「撃てっ!」

「――!」


 茉莉花の声でようやく現状を認識したように、鈴奈はシュートフォームを取った。






 鈴奈から見て、ゴールは遠い距離ではなかった。

 おおよそフリースローの距離。普段のシュート練習と変わらない距離だ。


(行ける……?)


 狙いをつける。

 ボールを胸元に構え、膝を曲げる。そうする事で、ジャンプシュートに必要な"溜め"を作る。


『今のフォーム、何だか凄く無理がある感じがするけど』


 ふと、練習中の慈の言葉が頭をよぎった。

 鈴奈のシュートフォームは、大きく"く"の字に体を曲げるようなフォームだ。それはミニバス時代、小柄で非力である事を補い、遠くまでボールを飛ばすためについたクセだ。

 そう、遠くまで。

 ロングシューターに憧れていたから。


『フォームもあまり良いとは言えないけど、直接的な原因は弾道だね』


 今度は、亮介の声が頭の中で再生された。


『もう少し弾道を高くして、ゴールの真上に近い角度からボールが落ちていくようにしないと入らない』


 入らない。

 思い出した。かつて高校で名選手だったはずの顧問に、そう直々にダメ出しされたばかりだ。

 その後、何も改善ができていない。

 改善できていないという事は、きっと今までと同じ結果になる。

 今までと同じ。

 ミニバス時代と――


『入らないから』


 ――あれ?


『どうせ入らないから、若森さんにはボール回さないでいいよ』


 おかしい。

 は、ここにいないはずなのに――






 ビ――――ッ。






 第2ピリオド終了のブザーが鳴った時、鈴奈はボールを構えたまま硬直していた。

 スコアは当然変わるはずもなく、22-32を示したまま。

 撃たれて当然のはずのシュートが撃たれず、何も起こらずにラスト3秒が経過した。

 ブザーが鳴り終わった時にコートを包んでいたのは、拍子抜けしたような、白けたような空気。

 鈴奈が、。それがこの瞬間の、客観的事実だった。


「ちょ、ちょっと若森さん! 何やって……」


 慈が問い質そうと駆け寄って。

 鈴奈は、膝をついた。

 体育館の床に崩れ落ちるように。

 倒れた。


「!?」

「お、おい、若森!?」

「先生! 若森さんが――!」






 体育館は騒然となった。

 亮介と桐崎が二人がかりで鈴奈をベンチに運び、横たえる。


「は、はひゅっ、はっ、は、かひゅ――」


 尋常ではないほど荒い呼吸に、激しく胸が上下している。

 どう見ても正常ではない。


「な、なあセンセー、若森はどうなって……!」


 食らいつくように聞いてくる茉莉花を、亮介は手で制止した。


「若森さん。吸って、吐いて、吐いてで息をするんだ。ゆっくりと」

「はひゅ、は、ん、……ぅ、は、ふひゅ」


 異常に荒い呼吸の中、懸命に亮介の指示通り息を整える鈴奈。

 しばらくは荒いままだった呼吸は、だんだんと治まっていく。たっぷりと、数分の時間をかけて。


「はーっ、はーっ……ごめ、ん、せんせ、みんな」


 鈴奈はどうにか身を起こし、ベンチに座り直した。全身から滝のように汗をかいており、顔色も青白い。


「……先生、鈴奈ちゃんは一体?」


 心配そうに愛が尋ねる。

 いつも屈託ないムードメーカーだった彼女の豹変は、まるで――


「……まるで、何か病気みたい」

「ある意味、間違ってないかもしれないね……」


 亮介は、桐崎に視線で尋ねた。

 症状に心当たりがあるのだろう。ああ、と桐崎はうなずいた。


「イップスだ」






 イップス。

 緊張性運動障害。

 多くは失敗のイメージやプレッシャーを原因とする症状であり、極度の緊張がもたらす筋肉の硬直により、体の機能が損なわれる症状。

 ゴルフのパターや野球の送球のような、繊細な狙いを必要とするプレイに多く症例が見られる。

 そして、決定的な治療方法は確立されていない。

 それゆえ、少なからぬスポーツ選手が、この症状によって選手生命を断たれてきたのだ。






「――俺も一時期、かかった事があるからな。よく知ってるぜ。さすがに俺の時は、ここまで酷かぁなかったが」


 ぼりぼりと頭をかきながら、桐崎は遠い目をして言った。

 彼も元SGシューティングガード。繊細なロングシュートを役割とした選手だった。


「なんでもイップスってのは、繊細で社交的で、責任感の強い奴がかかりやすいんだと。まったく、俺そのものだ。いやあ困っちまうね」


 肩をすくめ、おどけた仕草で言う桐崎。

 だが、それで場の雰囲気が和む事はなかった。鈴奈は、呼吸こそ落ち着いてきたものの、沈んだ表情のままだ。


「……あたし」


 ぽつりと。


「あたし、ホントはすごい自分勝手で、卑怯なヤツなんだ……」


 鈴奈は、誰にともなく話し始めた。


「あたし、マンガがきっかけでバスケ始めたんだってのは、もうみんな知ってるよね」


 鈴奈の話に、愛は相槌を打つように小さくうなずく。

 鈴奈はベンチに座ったまま、ちらりと見上げるように愛の仕草を目にして、話を続ける。


「あたしの好きなキャラはSGシューティングガードで、凄い3Pシューターだったの。不利な時とか、追い詰められた時ほどよく決める……それがあたしには、凄い格好よく見えて」

「……うん」


 愛は再び相槌を打つ。

 素晴らしい選手に憧れ、自分も真似をしたくなるという気持ちはよくわかる。愛も、亮介が見せてくれた"格好いい高さ"に憧れてバスケを始めたのだから。


「それがきっかけで、あたしは小学のミニバスクラブに入ったの。でも……

 みんな知ってる? ミニバスって3Pのルールないの。それなのにさ……あたしは空気読めなくて、好きなようにロングシュートばっかり撃ってたんだ。へたくそなのにね」


 鈴奈は笑った。自嘲だった。


「その頃から脚は速かったから、試合とかも出してもらえてたんだけどさ。素直にでっかい子にボール集めとけばいいのに、下手なロングシュートばっかり撃って、外しまくって……

 リーダー格の子に言われたの。お前のせいで負けたんだ、って。みんなの見てる前で」

「ひどい……」

「ひどくないよ」


 鈴奈は小さく、首を横に振る。


「みんな勝つために頑張ってたのに、あの頃のあたしは勝ち負けより自分のやりたい事を優先してた。言われてもしょうがないって思う……

 さすがにね? あたしも、これまずいなって思って、しばらくロングシュート撃つのやめようって思ったの」

「それじゃあ、みんな許して――」

「遅かった。誰もあたしにパスくれなくなった……」


 愛が言いかけた言葉を遮って、鈴奈は答えた。

 現実が愛の言いかけた通りであれば、どれほど良かっただろうか。だが、現実はそうではなかったのだと。


「……試合には、ときどき出してもらえたんだけどね。その時からずっと、ディフェンスだけやってろ、みたいな感じになっちゃって……

 たまにパスカットしてボール持った時とかも、どフリーでジャンプシュート撃とうとしたら怒鳴られるみたいな事が何回もあって。

 それで、辞めちゃったんだ。6年生の秋に」


 膝の上で握った拳が、かすかに震えていた。


「……せんせー。入部届出しに行った時、あたしチャンスだって思ったんだ。だってこの部、佐倉小のクラブにいた子が誰もいなかったんだもの。ここならあたしの過去を知ってる子はいない。だから、もしかしたらやり直せるかもって思ってた。

 あいちゃん、初めての2on2の時、あたしがあいちゃんと組みたいって言ってたの覚えてる? あれ、あいちゃんを利用しようとしてただけなの。でっかい子がリバウンダーにいれば、あたしもリラックスしてシュート撃てるようになるかもって。

 練習だと、へたくそだけど一応シュート撃つ事はできた。でも、ユニフォーム着て、試合でだと……やっぱりダメだった」


 重い沈黙が下りる。

 愛も、返す言葉がなかった。

 鈴奈のイップスは、シュートフォームの悪さという根底原因こそあるものの、直接的な原因はミニバス時代のトラウマだ。

 シュートフォームを改善する事はできても、心の傷を消す事はできない。


「……あたし、みんなの事を凄いって思ってる」


 顔を下げたまま、鈴奈は訥々と言葉を続けた。


「みんな、ポジションごとの役割をちゃんとやれてる。あいちゃんは一人でリバウンド取りまくってるし、ひとみちゃんはちゃんとチームをコントロールしてるし、めぐちゃんとまりちゃんはしっかり点が取れてる。

 あたしだけ、SGシューティングガードなのにロングシュートが撃てないの。あたしだけ……」


 鈴奈は、その言葉を最後に、黙り込んだ。

 再びの重い沈黙。

 誰も、鈴奈の言葉を否定する事ができずにいた。SGシューティングガードの代名詞とも言うべき3Pシュートを彼女が撃てないのは、見ての通りだから。

 誰も、鈴奈に慰めの言葉をかける事もできずにいた。過去の体験に根差した心の傷を癒やす方法を、誰も持っていないから。


「若森さん」


 沈黙を破って鈴奈の前に立ったのは、亮介だった。

 鈴奈は、ようやく顔を上げた。だが、その表情は暗い。


「……せんせー、あたしやっぱりもうダメなのかな」


 鈴奈は身長が低く非力だ。CセンターFフォワードを務めるのは無理がある。

 鈴奈には戦術眼がない。司令塔役であるPGポイントガードは難しい。

 消去法で、SGシューティングガード以外のポジションができない。

 なのに。


「シュート撃つのが怖くなった時に、もう、あたしは壊れちゃってたのかな」


 ロングシュートの撃てないSGシューティングガードなんて、前代未聞だ。


 ――そう考えていた鈴奈の肩に、亮介がそっと手を置いた。

 鈴奈が見た亮介は、優しく微笑んでいた。


「若森さん、まだバスケは好きかい?」

「……うん。でなきゃ、こんなになってまで中学でまたやりたいって思ってないよ」

「なら、やろう。自分が壊れただなんて思う必要はないよ」


 そして亮介は、満面の笑みで言ったのだ。


「君は、もうSGシューティングガードをやらなくていいから」

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