#22 アップ・アンド・アンダー

「あ、そーだ。ポカリ買ってくるの忘れてた。カナエー、今のうちに買って来といて!」


 牧女の8番の発言は、愛を苛立たせた。

 整列後に一礼し、いざ試合を始めようという空気になったところでの発言だ。試合に対する真剣さが感じられない。

 それにベンチに控えていた子が、まるで"パシリ"だ。

 今から試合が始まるのに、ドリンクを買いに行かされたら、試合を見る事もできないではないか。

 言われてベンチから立ち上がろうとした子は、背番号12のユニフォーム。控えとはいえ、選手の一人に違いないというのに……。


「こら、ダメよ浅木あさぎさん。忘れたなら水で我慢しなさい」

「ちぇー。はーい、わかりましたー」


 キャプテンの近衛にたしなめられ、8番は不承不承ながらFフォワードの配置に着く。

 牧女ベンチでも、立ち上がろうとしていた12番の子を、"必要ない"といった様子で、岐土が手で制止していた。


(……なんだか、ヤな雰囲気)


 まるでイジメだ。

 カナエと呼ばれた12番の子は、牧女メンバーの中では一番小柄だ。オドオドした様子で8番と岐土を交互に見て、二人の機嫌を伺うようにしているのも、彼女のチーム内での立場の弱さを示しているようだ。

 小学校の頃、愛が"デカ女"とか"メスゴリラ"などと呼ばれていたのとはわけが違う。愛の場合はあまりに体格が良すぎて、半ば恐れるように敬遠されていただけだ。うんざりさせられていたのは事実だが、直接的に何かされていたわけではない。

 一方、カナエと呼ばれた子は、いかにも小柄で弱々しい。遠目に見る限り体つきも華奢で、飾り気のないショートの髪は牧女メンバーの中で逆に目立ってしまうほど地味だ。

 チームの中で、ひとたび命令されたら逆らえないような、そんな雰囲気を感じる。


 ――亮介の恩師がコーチしているチームだというのに。


「浅木さん、真剣にね。あと、結城ゆうきさんを雑用係みたいに使うのやめなさい」

「はーい。すいませーん」


 8番は、あまり反省した口調ではない。

 とはいえキャプテンの近衛の言葉といい、岐土の行動といい、この8番の行動をチームとして容認しているわけではなさそうだ。

 その点だけは、安心できた。

 決して、気分のいい光景ではなかったけれど。


(大丈夫かなぁ、あの子)


 試合開始のジャンプボールに備え、センターサークルに入った愛は、牧女ベンチの隅の席に目をやった。

 12番の子は、身を縮こまらせてコートを見ていた。






 #22 脅威はひとつだけでなくアップ・アンド・アンダー






 すぱっ――と、ゴールネットを跳ね上げるスウィッシュ音。

 試合開始からわずか10秒後の事だった。

 牧女の4番――近衛と名乗ったPGポイントガードは、試合開始のジャンプボールで愛が弾いたボールを素早くかすめ取り、あっさりと瞳をドリブルで抜き去ってミドルシュートを決めた。


「ナイッシュ、近衛センパイ!」

「ありがと。さあ、ディフェンスよ」


 チームメイトの声援に穏やかな笑顔で答え、バックコートへ戻っていく近衛。

 上品な笑顔だ。しかし、ただの"お嬢様"と甘く見られる相手ではない。

 試合開始直後10秒でゴールを奪っていくスピードとドリブル技術、そしてシュート精度。いずれも平凡な選手のものではない。


「速いなあ……」

「ドンマイ、ひとみちゃん。こっちも一本決めよ!」


 鈴奈のスローインで、ボールは瞳へ。

 瞳は右手でドリブルをついて、フロントコートへボールを運び――

 センターラインを越えた瞬間、近衛が間合いを詰めてきた!


「!」


 瞳は左腕でボールを庇う。

 右に、左に、フェイントを交えながら進もうとする。

 だが、近衛が行く手をことごとく遮る。

 攻撃を始められない。


(パス先は……!)


 瞳はパス先を探し、視線を巡らせた。

 その直後、床で跳ねたボールが手に戻ってくる感触がなくなった。


「!?」


 スティール!

 近衛の手に弾かれて、ボールは床を転がっていた。


「やばっ……!」


 鈴奈が飛びつく。

 サイドライン際ギリギリで手が届いたボールを、慈へパス。無理な体勢からの暴投気味のパスを、どうにか慈はキャッチする。


「綾瀬さん、こっち!」


 ハイポストの位置に、愛。牧女のCセンターを背で押しのけて、パスコースを確保。

 そこに、慈からのパス。

 愛は即座に、ゴール下へとパスをさばいた。

 そこには走り込んで来た茉莉花!


「っし……!」


 キャッチ&シュート!

 ボードに跳ね返ったボールは、牧女ゴールへと沈んでいく。

 これで2-2の同点だ。


「氷堂さん、ナイッシュ!」

「おうっ! さあ、ディフェンス――」


 スローインのボールが、横切って行った。


「みんな戻って! 早く!」


 瞳が呼びかけ、鈴奈とともに逸早くバックコートへ走り戻る。

 牧女は5人全員が、一斉に明芳ゴールへ走る!

 ドリブルしてボールを運んでいるのは近衛。

 真っ先にディフェンスに戻った鈴奈が、その前に立ち塞がる!


稲川いながわさん!」


 10番へパス。

 わずかに遅れながらも戻ってきた瞳が、その前に立ち塞がる。


「こちらです!」


 SFスモールフォワードの7番が、走りながら呼びかける。

 10番から、7番へパス!

 7番は3Pラインを越え、3秒制限区域に侵入――!


「にゃろ……!」


 鈴奈が走り戻り、7番を止めに入る。

 その進路を塞ぎ、イージーシュートを防ぎ――


「キャプテン!」


 ゴール下からアウトサイドへ一直線のパス!

 受け取ったのは、3Pラインで待機していた近衛だ。


「くっ……!」


 瞳がカバーに入った。

 シュートモーションに入った近衛に対して、懸命にブロックに跳ぶ!

 近衛は――

 くすりと笑って、ドリブルをついてステップバック。

 直後、3Pシュート!


(速い!?)


 反応の速さ。

 そして、シュートモーションの速さ。

 まるで床スレスレの高さを浮いているのかと思う、体重を感じさせない軽やかなワンドリブルの動作だった。そして気づいた時には、既にシュートが放たれていた。


 ――すぱっ!


 ネットを跳ね上げる軽快な音が、体育館に反響した。






「ラン&ガン型のチームか……」


 ベンチで戦況を見守る亮介は、牧女というチームをそう分析した。

 ラン&ガン。速攻を主体とする、機動力を活かした攻撃的なバスケット戦術だ。

 最優先の選択肢として、まずは速攻を狙う。それがダメでも、脚の遅い相手選手がディフェンスに戻りきれていない場合などは、数的有利を活かして攻め込んでゴールを狙う。

 それでも攻めきれず5対5の状況になった場合は、機動力でかき回す。

 そして隙あらば、5人の誰もがすぐさまシュートを狙うというものだ。

 明芳の主な攻撃手段である型通りの攻撃セットオフェンスとは、対照的な戦術だと言える。

 ちょうど今のように――


国府津こうづさん、行って!」


 近衛から、ゴール下へ踏み込んだ背番号5のCセンターへパスが入る。

 その正面には愛。5番の正面を塞ぎながらも、腰を落とし、いつでもブロックに跳べる構えだ。

 5番は――

 パスを出し、そのままゴールの下を通り過ぎて、逆サイドの3P走り抜ける。


「え?」


 愛は戸惑う様子を見せた。

 Cセンターが3Pラインの外まで出るのは想定していなかったに違いない。

 愛が5番に着いていく間に、ボールは背番号10のGガードに。そこから、5番と入れ替わるようにゴール下へ走り込んで来た7番へ。

 高めのパスは、茉莉花の上を通り越し――


「それっ!」


 7番の手からレイアップ!

 ボールはやや危なげにリングの上を転がったが、内側へ落ちていく。


「ナイッシュー、アンナ!」

「うふふ。ありがとうございますわ、ミカちゃん」


 7番・8番が喜び合いながらバックコートへ戻っていく。

 明芳メンバーは、見慣れない攻撃に戸惑った様子だ。

 無理もない。牧女のオフェンスシステムは、外と中で役割を分担するフォーメーションですらない。


(ファイブアウト・モーションオフェンス……)


 亮介は彼女たちの戦術を見抜き、頭の中で反芻する。

 それは言葉にすれば極めて単純だ。5人全員が3Pライン沿いを定位置とし、一人ずつ次々にゴールへ向かって走り込む。

 走り込む所でパスを貰い、シュートまで持っていければそれで良し。それができなければ、後に続く者の邪魔にならないよう、3Pラインまで走り抜ける。

 必然的に勝負は、ボールを受け取った者と、それに対する守備側との1on1で行われる。

 機動力を活かし、複数人がかりでのディフェンスをさせない。そして、常に有利な状態の1on1からシュートを仕掛ける。

 ただこれだけの単純な、しかし飛び抜けた長身選手ビッグマンがいないチームでも成立するオフェンスだ。

 特に、ゴール下の守りをCセンター一人に依存するチームを相手取った時に、効果が大きい。


(岐土先生、さすがと言うべきか)


 牧女ベンチを見てみれば、岐土は油断なくコートに目を配りながらも、口元は満足そうだった。

 牧女というチームに教えたオフェンスシステムが、有効に機能している。そう認識しているのだろう。

 走り回って誰もがシュートを狙う、アップテンポで攻撃的なバスケット戦術。おおよそ"お嬢様"のイメージではないが――考えてみれば、"お嬢様"だからこそ適切なのかもしれない。

 ゴール下に張り付く選手にありがちな、ハードな身体的接触は伴わない。

 行けそうならば誰もがどんどんシュートを撃っていいという戦術は、育ちのいい我儘な子でも納得しやすい。


(先生は昔からそうだ。人の資質や適性を見抜いて、引き出すのが上手い)


 それは確信を持って言える。亮介自身も、岐土にそうやって育てられたのだから。

 亮介はミニバス時代はキャプテンをやっていたが、その肩書きは正直言って重荷だった。できるならチームの代表者になどならず、プレイに集中したかった。

 生まれつき背が高めだったために、中学まではPFパワーフォワードだった。しかし岐土は亮介の幅広いスキルに目をつけ、それをもっとも活かせるSFスモールフォワードへの転向をうながしてくれた。

 矢嶋と小鳥遊の二人にチームの"顔"と"頭"の役割を任せ、亮介は自由にプレイできた。結果、高校時代は、誰もが認める万能なエースとして活躍できたのだ。

 仲間たちを見ても、キャプテンに任命された矢嶋は、体育会系気質で責任感の強い男だった。そのサポート役に、冷静で頭の切れる小鳥遊。

 この体制により、チームは堅固な形となった。彼らの下でプレイする事には、何の不安もなかった。

 あの頃から岐土は、人の才能を見出し、育てるのが上手かったのだ。


(部活は教育の一環、か……)


 自問する。自分は、岐土と肩を並べられる教育者だろうか?

 まだ25歳になったばかり。社会の中では若造に過ぎない自分は、岐土と比べれば未熟な――


「どんまいどんまい、みんな! 弱気にならないで行こー!」


 手を叩いて注目を集めながら、鈴奈が呼びかけた。


「ん、オッケー、わかってる! よーし、取り返すぞ!」

「だねっ。オフェンス一本!」


 茉莉花が、愛が、鈴奈に呼応して声を出し、チームを盛り立てる。

 鈴奈は――

 ベンチの亮介を振り返り、にっと笑った。


「……まったく、あの子は」


 苦笑い。

 自分の指導を肯定してくれる彼女の存在は、嬉しかった。






 亮介の教え子である自分たちが、岐土の教え子に一方的にやられているわけにはいかない。フロントコートへ進む茉莉花は、強くそう感じていた。

 相手のコーチは亮介の恩師なのだ。自分たちが情けない試合をする事は、亮介の名誉に関わる。

 甘やかされて育ってきたであろうお嬢様軍団には、対抗意識もある。

 何より、コーチと選手との絆の強さという点において、牧女に負けてなるものか。


「瞳っ」


 茉莉花は呼びかけ、小さく身振りで合図した。

 瞳はうなずき、右サイドへの突破ドライブを仕掛ける。

 タイミングを合わせ、茉莉花がスクリーン。

 ピック&ロール!

 近衛がスクリーンに接触し、反応が一瞬遅れる。茉莉花に着いていた7番が、どうすべきか戸惑う。

 その隙に瞳から茉莉花へのパス!


「ちょっ、何ですの……!」


(――そっちこそ何だ、そのわざとらしい喋り!)


 ピック&ロールの対処に戸惑った7番を横目に、茉莉花はゴールへ猛進!

 7番は一歩出遅れながらも、ブロックに跳ぶ!

 横合いからのブロックだ。そのまま茉莉花がゴール下へ突き進めば衝突しかねない――


「ほっ!」


 茉莉花は、、接触を避けるように跳んだ。

 指をしならせ、ボールに回転をかけて放り投げる!

 ボールは7番のブロックの上を越え、ボードに当たって、ゴールの中央へと落ちていく。


「えっ!?」

「おー!」


 牧女メンバーの驚愕の声と、賞賛混じりに驚く仲間たちの声。

 練習の成果だ。亮介から教えてもらった技の!


「――っとっと!」


 着地で体勢を崩し、転びかけた。不自然な体勢のジャンプだったから仕方がない。

 それでも、成功させた。


「やったぁ! 凄いじゃん、まりちゃん!」

「へへっ、まーね」

「茉莉花、今のって御堂坂の4番の?」

「ん。フィンガーロールってやつ」


 答える口調は軽快だ。

 努力の成果は確かに出ている。新人戦での敗北から学んだ事、強敵から吸収した技術。それらすべては、亮介が方向性を示してくれたものだ。

 牧女ベンチに目を向ける。

 スーツ姿の男は、驚きの視線を茉莉花に向けていた。茉莉花のワンプレイが想像を上回るものだったと、顔に書いてあるかのように。 


(どうだ!)


 もっと自分たちの活躍を、目に焼きつけさせてやる。

 ここまで共に走ってきた、明芳中女子バスケ部というチームを。


「落ち着いて行きましょ。冷静にね」


 バックコートへ戻る茉莉花の背後で、牧女メンバーの声が聞こえる。

 近衛というらしい、背番号4――つまりキャプテンの選手の声だ。

 試合開始の直後から、牧女で一番目立っている選手だ。得点も今のところ、牧女で一番多い。

 彼女が牧女のエースなのだろう。

 彼女をマークするのは、同じPGポイントガードである瞳だ。

 運動能力で劣る瞳で食い止めるのは、難しいだろう。


(だったら、あたしがカバーするか……)


 牧女のオフェンスは、茉莉花にとっては初めて見るものだった。入れ替わり立ち替わり、一人ずつゴール下へ切り込んでくる戦法のようだ。

 普段ならゴール下を守ってくれる愛も、今日ばかりはカバーを期待できない。ゴール下から引き離されてしまっていては、ゴール下を守るもなにもない。

 代わって、誰かがカバーしなくては。


(いつ来る?)


 フロントコートに進入してきた7番のマークに着きながら、茉莉花は状況を見守る。

 8番がゴールに向かって走り込んで来るが、パスが通らず、そのまま逆サイドの3Pラインまで走り抜ける。

 10番がゴールに向かって走り込んで来てパスを受けるが、鈴奈に正面を塞がれてシュートは無理と判断、パスを返す。

 リターンパスを受けながら、近衛が踏み込む!


「あっ……!」


 瞳では反応しきれない。

 近衛が大きく踏み出した一歩で、瞳の横へ踏み出す。

 ドリブルをつきながら踏み出した二歩目で、瞳を置き去りに。


(来たっ!)


 茉莉花は飛び出した。

 7番を放置してしまうが、仕方ない。ノーマークでゴール下へ向かう近衛を、まず最優先で止めなくては!

 身構えていた茉莉花の反応は、速かった。ゴールへ突き進む近衛の前に立ちはだかり、進路を塞ぐ。


「!」


 近衛が一瞬、カバーに入った茉莉花の存在に驚いたように、息を飲む。

 外へパスをさばくか、そのまま勝負をしかけて来るか――


(右か!)


 茉莉花から見て右へ、近衛は突破ドライブを踏み出す!

 茉莉花は機敏に反応した。抜かせまいと、右を塞ぎ――


 近衛の姿が、消えた。


「えっ!?」


 視界を巡らす。

 近衛は、茉莉花のにいた。

 さきほど踏み出したのとは逆方向に――!?


「はっ……!」


 近衛のレイアップ。

 まるで空中に浮遊するかのような、ふわりとした軽やかなジャンプ。そこからの伸びやかな美しいフォーム。

 ボールは当然のようにリングの内側へ。

 そして、着地。

 茉莉花のようによろめく事などまったくなく、まるで床に足が吸いくかのようだった。


「ナイッシューです、近衛センパイ!」

「さすがですわ!」


 牧女メンバーも彼女の事を賞賛しながら、バックコートへ戻っていく。

 彼女がチームの中心選手である事は、疑いようもなかった。






 第1ピリオド終了のホイッスルが鳴った時、スコアは12-13で牧女の1点リード。


(ユーロステップまで使うとは、手加減なしだな)


 ベンチへ戻ってくる牧女メンバーの先頭にいる近衛を見て、岐土は思う。

 ユーロステップ――踏み出した一歩目で力強く横へと床を蹴り、急激に逆方向へ切り返す技だ。守る側からすれば、目の前の相手が、進もうとしていた方向から突然消えたようにも見える。

 普通、中学レベルの選手が使いこなせる技ではない。

 軽量な体と、強靭な足腰。そして急激な方向転換に耐えられる、体のバランス感覚。それらを併せ持った選手でなければ使いこなせない。

 それら全てを持っていたのが、近衛このえ真紀子まきこという少女だったのだ。


(今更だが、近衛がいてくれなかったら、牧女でバスケ部をやっていく事などできなかっただろうな)


 岐土は昨年の春を思い出す。

 スポーツ教育に力を入れる方針を打ち出した牧原女子中に、岐土は講師としてヘッドハンティングされた。しかし創設されたバスケット部は、お世辞にも良い状態ではなかった。

 言うことを聞かず、好き勝手なプレイをする。

 ディフェンスを真面目にやろうとしない。

 ゴール下のハードな接触プレイは、野蛮だなんだと言ってまともに取り組まない。

 コーチの岐土に対してすら、庶民だと見下している雰囲気がある。

 そして、ちょっと厳しく注意するとすぐに泣く。場合によっては親を経由して学校にクレームまで入れてくる。

 こんな部をチームとしてまとめていく事など不可能ではないか。昨年の秋ごろには、岐土は早くもそのように思っていたものだった。

 そんな時の事だった。


『あの、先輩。もう少し真面目にやりましょう?』


 その言葉を切り出したのが、当時1年生だった近衛だ。

 近衛は当時の2年生と口論の末、どちらの言い分が正しいかバスケットの実力で――1on1勝負で決着をつける事になった。

 そして、全ての2年生に勝利した。

 彼女はずば抜けていた。

 後から知った事だが、小学3年生からフィギュアスケートをしていたのだと言う。下半身の強さと全身のバランス感覚は、それで養われたものなのだろう。

 だが、それだけではなかった。敏捷性、ボールハンドリング技術、シュート精度、バスケットIQ――およそGガードに求められる全てにおいて、教えれば教えるほどに、彼女は傑出した才能を示した。

 そして、才能だけで成り上がったわけでもない。

 態度の悪い上級生がいた頃から、彼女は部でもっとも熱心に練習に取り組んでいた。岐土の示す指導方針や作戦を理解し、実践しようと努力していた。

 あの頃の腐ったメンバーの中で唯一、スポーツマンのメンタリティを持っていた。


(楽しんでいるか、近衛?)


 ベンチに座り、つかの間の休憩を取る近衛の顔を見る。

 汗を流しながらも、その顔には微笑みが浮かんでいた。バスケットを純粋に楽しんでいる喜びの表情が。

 こうしてコートの上でプレイできる事は、彼女にとって喜ばしい事に違いない。

 何せ、彼女が上級生たちをことごとく負かしてしまって間もなく、上級生たちはこぞって部を辞めてしまったのだ。

 残されたメンバーはたった3人。試合に出られるようになるには、下級生たちが入部してくるのを待たなければならなかった。

 今ようやくそれが叶い、牧女バスケ部というチームとしてエンジンがかかって来たところなのだ。


「やーしかし、さっすが近衛センパイ! あのユーロステップシュート、あっちの5番めっちゃ驚いてましたよ!」

「ふふ、そうね。我ながら上手くいったわ」

「ミカちゃん、自分の事みたいに嬉しそうですわ」

「そりゃーね! 近衛センパイはあたしを唯一完敗させた人だし」


 背番号8を着けた1年生、浅木あさぎ美佳みかの発言に岐土も苦笑する。

 浅木は小学生の頃、ミニバス経験があった。と言っても飽きっぽい性格のためか長続きせず、ほんの3ヶ月で辞めてしまったらしい。

 そんな彼女が、元プロ選手のコーチがいると聞いてバスケ部に入ってきた時、まず実行した事は"キャプテン"とされている、平凡な身長の少女を負かそうとする事だった。入学時点で163cmの身長があった彼女が、ミニバス経験という武器をもってすれば、お嬢様校のバスケ部を仕切る事など容易いと考えたのだろう。

 浅木は近衛に対して、1on1の10本勝負を挑んだ。

 結果、21-0で近衛が勝利した。


「あたしは忘れないよー、あの1on1の10本勝負。"あっヤバい、この人には絶対勝てない"って思ったもん」

「うふふ」

「そう、それ! その人が良さそうな笑いして、さくっとトドメの3P決めたアレ、ほんっとヤバい!」

「ミカちゃん、いつもそのお話してますわね」

「そりゃそーよ、うん!」


 苦笑するしかないやりとりだが――しかし、近衛がこのチームを統率している事は確かだ。

 チームとしての形になった。それは、指導する岐土にとっても喜ばしい事だった。


「よし、お喋りやめ。作戦会議をするぞ」


 チームらしく。正々堂々と全力で戦うべく、岐土は部員たちに呼びかけた。

 近衛が岐土に視線を向け、他のメンバーもそれに倣う。


「近衛。相手は、どの選手が厄介だと思う?」

「4番、5番……それと7番です」


 近衛はタオルで汗を拭いながら答える。

 詳しく、と促すような岐土の視線に気づいて、少し考えて言葉を続けた。


「4番は私たちのチームにはいないタイプです。リバウンドとか、ポストプレイとか、私たちの苦手な仕事をきっちりやって来ます。

 7番は、一見目立たないですけど、要所要所でのミスのフォローが上手くて……ディフェンスも上手ですね。稲川さんが無得点なのも、7番にマークされてたからだと思います」

「うむ」


 岐土はうなずく。

 満足な答えだった。おおよそ岐土の見立てと一致している。近衛が、コート上の指揮を任せるに足るだけの観察力を持っている事の現れだ。


「5番はどう思う?」

「純粋に点取り屋として上手いです。背は高くないですけど、技の引き出しが多い感じで」


 その通りだと、岐土は内心で近衛の考えを肯定した。

 明芳の5番は上手い。ゲームメイクをする側ではなく、あくまでチームの得点手段オプションとしての"使われる側"だが――1年生としては、ずば抜けて技術のレベルが高い。

 身長は平凡。走力や瞬発力においてはやや優れているが、7番に比べれば劣ると言えるレベルだろう。それでも今のところ彼女が明芳で最多得点を記録しているのは、多彩な得点技術を持っているからだ。

 ゴールとの距離や状況に合わせて、多彩なシュートを使い分けて来る。

 こと得点力に限れば、優れたSFスモールフォワードだ。


「では、まずそれを食い止めるとしよう」


 岐土は作戦盤を開いた。

 両チームの選手に見立てた、白と緑のマグネットを配置していく。明芳のオフェンスを想定した配置で。


明芳あっちのオフェンスは、型にはめたセットオフェンスが中心だ。どのようにディフェンスを振り切り、最後は誰がシュートを撃つかまでが決まっているような、な。

 今のところ主に点を取っているのは、Fフォワードの5番、8番。それからCセンターの4番だ。だが、見た限り8番は中・長距離からのシュート、4番はポストムーブからのゴール下シュートに、試行回数アテンプトが偏っている」


 白いマグネットの配置は外4人・中1人フォーアウト・ワンイン。4番だけがインサイドに位置し、あとの4人は3Pライン沿い。

 4番のシュートはゴール下ばかりで、アウトサイドからのシュートはない。

 8番のシュートはアウトサイドばかりで、ゴール下を攻めては来ない。

 一方で――


「5番だけが、外からも中からも点を取ってくる……と」


 作戦盤を覗き込んでいた一人が理解を口にする。数少ない2年生である、Cセンター国府津こうづ梨香りかだ。

 国府津の発言に、そうだ、と岐土はうなずいて答える。


「つまり5番の存在が、明芳あっちのセットオフェンスのバリエーションを増やしていると言える。逆に言うと5番さえ止めてしまえば、最終的には4番のゴール下か、8番のアウトサイドしかなくなる。

 オフェンスが単調になれば、こっちとしては守りやすくなる。明芳あっちも連携のリズムが崩れ、多少なりともプレイの効率は下がるだろう。まずは、そこから揺さぶりをかけていく」


 言って、岐土は、作戦盤を覗き込む部員たちの端へと目をやった。

 遠慮がちな様子で、遠巻きに作戦盤を見ている少女が一人。

 背番号12。

 このチームで、最も大きな数字の背番号だ。

 通常、学生バスケのチームは、キャプテンが4番を着ける。それ以降の数字は本来特に意味はないのだが、習慣的に、若い番号の選手ほどレギュラーに近い事が多い。

 その理屈で言えば、もっともレギュラーから遠いはずの子。

 事実、体格もなく、特別に運動神経も良いわけではなく、引っ込み思案で、いかにもタイプだった子。


「結城」


 岐土は、その子に声をかけた。

 はっとして、彼女は顔を上げる。


「稲川と交代だ。5番に着いてくれ」






「……ん、あっちは交代?」


 2分間のインターバルが明けて、第2ピリオド開始。ベンチから出て来た牧女メンバーが、第1ピリオド終了時と変わっている事に茉莉花は気づいた。

 第2ピリオドは明芳の攻撃からスタート。

 だが、第1ピリオドまで茉莉花をマークしていたSFスモールフォワードの7番は、鈴奈に着いている。

 茉莉花のマークは――


「えっと……よろしくお願いします」


 ぺこりとお辞儀をしてきた、12番。


「え、あ、うん……」


 なんだか毒気を抜かれた気がした。これから勝負しようという相手に、わざわざ丁寧に挨拶して来るとは。

 試合開始と終了の一礼なら、まだわかる。それは日常と切り離された勝負の時間の、開始と終了の合図だからだ。

 だが試合中にわざわざ、そんな丁寧な。

 あるいはそれが"お嬢様らしさ"なのかもしれないが――


(……よくわかんない奴)


 そもそも茉莉花のマークが12番の彼女だというのも、いまいち腑に落ちない。

 茉莉花は第1ピリオドだけで6得点を上げ、今のところ明芳の最多得点者だ。7番よりも優れた選手――例えば4番の近衛のような実力者を当ててくるのなら理解できる。

 だが12番の子は、牧女メンバーの中でもっとも小柄だ。153cmの茉莉花より――4月に測定した数字なので、今はもう少し伸びているかもしれないが――ともあれ茉莉花より明らかに背が低い。150cmあるかないかだろう。

 体型を見ても、いかにも華奢だ。鈴奈のように、細身だがしっかりと脚の筋肉がついているという風でもなく、爆発的な瞬発力があるタイプでもなさそうだ。

 そのようにしていると、12番の彼女は恥じらうように伏し目になった。

 じっと見ないで、と語りかけるように。


(……やりづら)


 気まずさを覚えて、茉莉花は視線を逸らした。何だか、自分がセクハラ親父にでもなってしまった気分だ。

 こんな選手を投入してきて、牧女は何をするつもりなのか?

 体格や、推し量れる能力はもちろんだが、何より、闘争心が強いタイプにはまったく見えない。

 一言で言って、大した事のない選手に見えてしまう。


「……あの」


 おずおずと、彼女は茉莉花に話しかけてきた。

 茉莉花は右サイドに位置取りながら、何か用かと目線で尋ねる。


「あなたがエースなんだよね?」


 問いかけてきたその言葉は、ハッキリとした語調だった。






 第2ピリオド開始のホイッスルが鳴り、茉莉花は瞳からのパスを受け取った。

 すると、違和感はすぐにやって来た。

 


(……何だ?)


 ボールを下段に構えると、違和感の正体に気づく。

 12番だ。

 茉莉花の正面に立つ彼女は、腰を低く落とし、腕を軽く左右に広げた姿勢を取っている。それはディフェンスのごく基本的な構え方だ。

 だが、視線が違う。

 目線に。腕に。脚に。ボールに。絶えず彼女の視線が動いている。

 観察?

 むしろ、と呼んだ方が適切だ。


(――よくわかんないけどっ!)


 迷っていても仕方ない。

 抜く!

 右へ一歩、大きく踏み出す。

 


「っ!」


 急停止!

 突破するため前傾になっていた姿勢を正し、丁寧にドリブルをつき直す。


(……何だ、今の?)


 茉莉花にとって、初めて相対するディフェンスだ。

 抜こうとして、ディフェンスが素早く反応してきて抜ききれなかったという事なら、今まで何度もあった。

 だが、今のは違う。

 抜こうとした方向に一歩目を踏み出した時には、

 まるで、茉莉花が動き出す前に、先を読んでいたかのように。


(……こいつ!)


 右、と見せかけて今度は左!

 右足を大きく左へと踏み出し――目の前に12番がいる。

 抜けない。

 一歩後退。

 突破を諦めた――かに見せかけて、もう一度左!

 しかし、目の前に12番がいる!

 抜けない!


(何だ、こいつ!?)


 12番は、静かに淡々と、一定の間合いを保っている。

 オーソドックスなディフェンスの姿勢のままで。

 しかし、茉莉花の行き先に常に先回りするように、行く手を阻んで。

 直接対決マッチアップしている茉莉花の全身いたる箇所に、絶えず視線を巡らせて。


「氷堂さん、こっち! パス!」


 愛だ。

 12番の頭の上越しにゴール下の状況を見れば、愛がローポストの位置で面を取り、牧女のCセンターのディフェンスを押しのけてボールを要求している。

 茉莉花が12番から点を奪うのは難しそうだ。ならば――


「頼む!」


 12番の頭の上を通して、パス。

 ボールは12番の頭上を通過――しない。

 12番は高く手を上げて、跳び上がっていた。

 指先がボールに触れ、ボールはコートの外へと逸れていく。


 ――ピッ!


場外アウト・オブ・バウンズ明芳しろボール!」


 最後にボールに触れたのは12番。よって、明芳のオフェンスからの再開だ。

 攻撃の機会が失われたわけではない。

 だが――


(……こいつ)


 茉莉花は改めて、12番の少女に鋭い視線を飛ばした。

 彼女は気後れしたように身をすくめながらも、ディフェンスの位置に着く。

 強敵だ。

 茉莉花は、彼女に対する印象を改めた。






 コート上の異変を感じ取っていたのは、愛も同じだった。

 茉莉花のオフェンスが機能していない。

 第2ピリオドに入って、12番の子が茉莉花をマークするようになってからだ。

 茉莉花にボールが渡っても、シュートまで持っていく事ができずにいる。

 なら、自分がやるしかない。


(でも、ワンマンプレイはしないように……!)


 ハイポストに入り、瞳からボールを受け取る。

 状況を確認。

 牧女のCセンターは、愛に対してほどよい間合いを保っている。ドリブルで切り込むのは簡単ではなさそうだ。

 ゴール下は――普段なら茉莉花が切り込んでくれるところだが、今は12番に阻まれて、思うように走り込めずにいるようだ。


「こっちよ!」


 慈。

 エンドライン際から駆け上がり、左サイド45度の3Pライン際へ向かっている。

 そこに、パス。

 慈はボールをキャッチし、即座にシュートフォームを取った。

 慈を追いかけてきた牧女の8番はブロックに跳ぶが、ワンテンポ遅い。ボールは8番の上をくぐって弧を描き、ゴールに向かう。


 ――がんっ。


 鈍い音を立てて、ボールはリングに弾かれた。

 愛から遠い位置に落ちたリバウンドボールは、牧女の8番が回収。そして――


「アンナ、速攻ー!」


 上手投げでロングパス一本。真っ先に速攻に走った7番がボールを受け取る。


(やっぱり、速い……!)


 4番の近衛と、7番――第1ピリオドは10番もだったが、とにかく牧女は速攻への切り替えが速い。

 ゴール付近にいる事の多いCセンターでは、攻守の切り替えの際に発生する速攻について行くのは難しい。まして愛は、特別に足が速いわけでもないのだ。

 Gガード陣が速攻を食い止めてくれる事を願うしかない。

 その期待通り、速攻阻止セーフティに走った鈴奈が7番の前に立ちはだかったが――


「はいっ!」


 横へのバウンドパス。

 走り込んでそれを受け取ったのは、近衛。

 俊足で瞳を追い抜き、置き去りにして!


「くっそぅ……!」


 2対1の状況に、鈴奈は歯噛みする。

 ドリブルしてゴールに迫り、シュートフォームを取った近衛に対して、鈴奈は向かい合った。

 鈴奈はブロックに飛び上がり――

 近衛は、踏み替えピボットで横にかわした。

 レイアップ!

 ぱさっ――と、静かにゴールが決まった。


「速……」


 ボールがネットをくぐった時、愛が走っていた位置はようやくセンターラインを越えた所。

 一連の速攻が決まるのを、愛はただ見ている事しかできなかった。

 脚の速い遅いだけではなく、ポジションの特性もあるから仕方ない事だが……


「落ち着いて行こ、まだ2ピリ始まったばっかりだよ!」


 瞳がメンバーに声をかけ、反撃の合図をかける。

 愛は再び牧女ゴール下まで小走りに進み、攻撃のチャンスに備えた。

 スコアは12-15。第2ピリオドはまだ開始から1分も経過していない。悲観するにはあまりに早い。

 けれども――


「さあみんな、一本止めるわよ」


 近衛が後ろに控える仲間たちの士気を高める言葉を投げ、自ら前に出て瞳をマークする。

 技術も運動能力も、瞳より近衛の方がはるかに上だ。

 必然的に、瞳は長くボールをキープできない。


「若森さんっ」

「りょーかいっ!」


 瞳からのパスが、鈴奈へ。

 だがそれはいつも瞳が出しているような、味方の得点能力を引き出すアシストパスではない。

 逃げのパスだ。

 ボールキープさえままならない状況では、瞳からの的確なパスは期待できない。

 必然的に、個人技でのオフェンスで攻めるしかないのだが――


「くっそ、こいつ……!」


 茉莉花は、12番を振り切れずにいる。

 12番の動きは、奇妙だ。さきほどの速攻でも先頭集団について行けてはいなかった事からして、脚が速い方ではないらしい。

 なのに、比較的脚が速いはずの茉莉花が、12番のマークを振り切れずにいる。


(どういう事?)


 わからない。

 ただひとつ言えるのは、あの12番は、か弱そうな見た目どおりのプレイヤーではなかったという事だ。


「あいちゃん、お願い!」


 ハイポストで面を取った愛に、鈴奈からパスが入る。

 ゴール下には――誰も来ない。

 茉莉花は12番に阻まれている。

 鈴奈は瞳に代わり、アウトサイドでパス回しの中心役を担っている。

 慈は、苦手意識のあるインサイドにはなかなか向かおうとしない。

 いつもと、リズムが違う。


(……行くしか!)


 ドリブルをつき、背中で牧女のCセンターをわずかに押し込む。

 反転!

 ゴールへ向かって一歩ドリブル。

 牧女のCセンターは、愛にしっかりと着いて来た。愛の敏捷性では、振り切れない。

 だが――


(ここで逃げても始まらない!)


 真っ向勝負!

 愛はボールを両手で掴み、高く掲げてシュートの姿勢を取った。

 正面には牧女のCセンターが立ちはだかっている。ゴールへ向かって体全体で跳ぶようにシュートすれば、衝突してしまうだろう。

 真上に跳び上がり、シュート!


 ――がっ。


 ゴールに弾かれたボールは、一瞬、リングの上に乗り上げた。


(外した……!)


 不自然な体勢の、それも撃ち慣れない距離からのシュートだ。外れても不思議ではないが――

 すぐに愛は思考を切り替えた。リングに乗り上げたボールが落ちてくるのに備えて、牧女のCセンターの前に回り込もうとボックスアウト。

 牧女のCセンターは、愛と自分の体格差、そして位置取りの優劣を確かめるように、一度だけ愛へと視線を向けた。

 そして落ちてくるボールめがけて、両Cセンターが跳ぶ!

 わずかに牧女のCセンターの方がボールに近い。だが愛は、自分の高さがあれば充分にボールを獲れると確信した。

 ボールへ腕を伸ばし、その掌で受け止めに――


「ふっ!」


 牧女のCセンターが、指先でボールを弾いた。

 掌で受け止めるより、指先で弾いた方が10cm分以上は早くボールに届く。確実に奪われるよりはマシという、咄嗟の判断だったのかもしれない。


(巧い……!)


 してやられた。

 だが愛はすぐにボールを目で追う。あらぬ方向に逸れたボールは、小さく弧を描いてルーズボールになった。

 床に着地した愛は、すぐさまボールを追いかけた。

 ボールの方向へ踏み出し、落ちてくるボールに手を伸ばし――


 そこに、横から小さな手がふたつ、伸びてきた。


「!?」


 緑のユニフォームの12番。

 全身で飛び込むように、両手でボールに食らいついて来た!

 愛の手に収まるはずだったボールが、横合いからさらわれていく。

 12番を着けた小柄な体は、両手でボールを掴んだまま、受け身を取りもせず板張りの床に――


「危ないっ!」

「ひゃっ!?」


 愛は、彼女を抱きかかえるように掴んでいた。

 咄嗟の事だった。その行動がどういう意味になるのか、考える暇もないほどの。


 ――ピッ!


 鋭く鳴らされたホイッスル。

 審判役の絵理香は、まっすぐ伸ばした左腕の手首を、右手で掴むジェスチャーを見せていた。


「ファウル! 明芳しろ4番、相手選手の拘束ホールディング!」


 相手チームの選手に掴みかかったら、当然ながら反則だ。

 それが相手を怪我から庇う意図だったとしても、例外ではない。

 愛がそれを思い出したのは、ファウルを宣告された後だった。


「……」

「……あ、あの」


 愛に抱きかかえられる格好になった12番の子――結城カナエと呼ばれていただろうか。彼女は戸惑い気味に、上目遣いで愛の顔を覗き込んでいた。


「ごめんなさい。その、大丈夫……でしたから」


 伏し目になり、愛の腕の中でもじもじと体を悶えさせる。

 その段になってようやく愛は、彼女を咄嗟に抱きかかえたままだった事に気がついた。


「あ。ご、ごめんね?」


 慌てて手を放す。

 半ば事故のような状況で、咄嗟の事だったとはいえ、自分のした事に頬が紅潮していくのがありありとわかった。

 12番の彼女もまた顔を真っ赤にして、愛から一歩、後ずさった。


「えっと……ごめんね、怪我しちゃいけないって思って、つい」

「い、いえっ! ごめんなさい、私の方こそボールしか見てなくて……」

「怪我してない?」

「は、はい。大丈夫です、おかげさまで」

「そっか、良かった。ホントごめんね、あはは……」

「あ、あはは……はい」


 どこかわざとらしい、しかし嫌な感じのない笑い合い。

 やがて彼女は、ふぅっ、と息を吐いて呼吸を正す。


「あの、ありがとうございました」


 ぺこりと、大きくお辞儀。

 そして愛に背を向けて、フロントコートへと小走りに走っていく。


牧女みどりボールから再開です」


 審判役の絵理香が、サイドライン際で告げる。

 今のワンプレイの結果は、愛に1ファウルがカウントされ、ボールが牧女に渡ったというものだ。

 結果として、明芳の有利になる事は何ひとつできていない。

 だが――


「あいちゃんあいちゃん」


 ディフェンスに戻る途中、鈴奈が話しかけてきた。


「カッコ良かったよ、今の」

「……ん」


 満面の笑顔を向けてくる鈴奈に、力強い笑みでうなずきを返す。

 あの行動に後悔はない。後味の悪くなる試合はもうしないと、秋の新人戦で反省したから。

 そして何より、あの12番のディフェンスと、ボールへの執着心――

 一見弱々しく見えた彼女は、敬意を払うに値する、良きライバルになりそうだからだ。

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