#4 ビッグ・ファンダメンタル
「斎上くん、ご機嫌ですな」
5月上旬の職員室。孫を見守る"おじいちゃん"の表情で、校長は語りかけた。
「ええ、それはもう」
振り返った亮介は、校長の言葉通り、機嫌良さそうな笑顔だった。
亮介の手には5枚揃った入部届と、部の設立を正式に認める旨の書類がある。
正式に部の存在が認められたという事だ。
屋外コートを借りて細々とミニゲームをやっていた今までと違い、週に3度だが体育館で練習ができるようになる。これは大きな進展だった。
彼女たちにバスケを教えるのが楽しみで仕方ない。あのバスケットコートで、コーチとしてとはいえもう一度何かができる事が。
教師になってよかった、と亮介は就職3年目にして思うのだった。
「しかし、斎上くん。こう言っては失礼ですが、昨年度までは君がこんなに情熱のある人だとは思っていませんでしたよ。女子バスケット部の設立と言い、氷堂さんの件といい……
君が成長したのか、それとも何か火がついたのかはわかりませんがね」
「後者ですよ。学生時代の友人に叱咤されまして」
「ほほう」
校長は笑った。楽しそうな様子だった。
「能ある鷹は爪を隠す、というやつですかね」
「そんないいものじゃありません。少し前まで、抜け殻みたいになっていただけですよ」
足元に置いておいたシューズバッグをちらりと見る。
高校時代に使っていたものを、先日、数年ぶりに引っ張り出したものだ。古びているが、まだ充分に使える。
まだ使い切っていないものを、燻らせていたのだ。
「楽しみです。放課後の部活の時間が」
#4
「よーし、それじゃあ始めよう!」
女子バスケ部として初めて体育館を使わせてもらえるその日、亮介は5人を前に宣言した。亮介自身もジャージにバスケットシューズという運動向きの出で立ちだ。
「こないだのミニゲームでみんな顔は合わせてると思うけど、改めて一言ずつ自己紹介をしようか。名前と入部の動機を、えーと、入部届の提出順で」
亮介は愛の方を向いて言った。
愛は一瞬たじろぐ様子を見せたが、周りの様子をきょろきょろと見て、やがて口を開いた。
「えー……と、1-Bの
言い終えると、愛は小さく頭を下げた。
「あたしか。えーと、1-Bの
途中を少し照れ臭そうに言った茉莉花は、気恥ずかしさを振り払うように後半を断言した。
「1-Bの
人好きのする笑顔を全員に向けて、瞳は言った。
「1-D、
鈴奈は普段にも増して明るく、満面の笑顔で言った。本格的にバスケができるのが楽しみで仕方ないという感じが読み取れる。
「1-Dの
慈は、やや言葉を濁すように言う。どこか、まだ態度か硬いままだ。
亮介は彼女たちを一度見渡して、改めてその不揃いな様子を認識した。
ある程度は仕方ないのかもしれない。自分の高校時代、前提として5人とも全国を目指していたあのチームとはわけが違う。
彼女たちはもともとの目的意識からしてバラバラだ。バスケに対して特別な思いがない子もいる。
上達のためにも、彼女たちの関係構築のためにも、まずは練習を通して全員の目的意識を一致させる必要がある。
それは自分の学生時代のように、必ずしも大会で好成績を収めるという事でなくてもいい。
内容はどうであれ、まずは早い段階で、彼女たちに共通の目標を与えたい。
(みんなで越えるべき障害ってのがあると、わかりやすいんだが)
どう彼女たちを動機づけしよう。考えながらも、亮介は指導に当たる事にした。
「まず、君たちには基本的なボールの扱いから教えよう。ドリブル、パス、シュート、リバウンド。しばらくはこの4つに焦点を絞って教えていこうと思う」
とにもかくにも、全員が基本的なボールの扱いをある程度できるようにならなければ話が始まらない。現時点ではまともにドリブルできるのさえ鈴奈だけという状態なのだから。
「全員、第一目標としては、レイアップシュートを身につけてもらいたい。まずは僕が見本を見せよう」
亮介はボールを手に、ゴールに対して右45度の3Pライン沿いに位置取った。全く緊張を感じさせない、リラックスした歩みだ。
そこからドリブルをついて、小気味よくゴールへ駆け出す。
制限区域付近でボールを両手に持ち替え、一歩、二歩。
跳び上がる。
軽やかな跳躍に、わ、と愛が背後で小さく声を上げた。
亮介は空中で、右手でボールを高く持ち上げる。そのままリングに届いてしまいそうなほど高く跳ぶと、下手投げでふわりとボールを手放した。
ボールはバックボードで跳ね返って、リングの内側へ滑り込むように入っていった。
「ないっしゅー」
鈴奈がぱちぱちと拍手した。亮介は照れ臭そうに笑いながら、ボールを回収して5人の前まで戻ってくる。
「今のがレイアップ。バスケでもっとも基本的だと言われているシュートだ。
まず君たちにはこのシュートを、ディフェンスがいない状況でなら9割成功できる事を目標にしてもらう」
「9割ぃ!?」
素っ頓狂な声を上げたのは茉莉花だ。慈が、それに続く。
「先生、いきなりハードル高すぎじゃありませんか? この間のミニゲームの時も、私たちのシュートって3回に1回も入ってませんでしたけど……」
「うん。だからこそだ。このシュートを撃てる状況になれば、ほぼ確実にゴールできる……っていうシュートがある事を理解してほしい。レイアップは、練習すれば誰でもそこまではやれるようになるシュートだ」
亮介の答えに、へえ……と茉莉花は感心したように声を上げる。
「でも、先生。9割成功できるシュートがいつでも誰でも撃てたら試合が成立しないですよね?」
頬に人差し指を当てて考える仕草をしながら、瞳が指摘した。
うん、と亮介は肯定してうなずく。
「神崎さんの言う通り、レイアップはいつでも撃てるものじゃない。ゴールに向かって走り込んでいくからね。自分のいる位置からゴールまでの直線上にディフェンスがいない時に使うシュートだ。
ただ、そういう絶好のチャンスが訪れた時に9割得点できる手段を持っていれば、判断に迷わなくなるし、チャンスの取りこぼしもなくなる。
全員がその手段を持っていれば、"ゴールまでの直線が空いている人がいたらチャンス"っていう判断基準が明確になって、自分以外の味方の得点チャンスにも敏感になれるんだ」
「なるほど……つまりそれが、得点に繋がるパスなんかにも話が繋がってくるって事ですね?」
「うん、そういう事」
瞳はふむふむとうなずく。さきほどの質問といい、なかなか鋭い子だと思いながら亮介は言葉を続けた。
「さらに言うとレイアップは、ドリブル、ジャンプ、シュートと、バスケの基本動作がたくさん詰まったシュートだ。
少し慣れたらパスキャッチからドリブルなしでレイアップを撃つのもやってもらおうと思ってるけど、それはパスを出す側にとっての、相手が走り込める距離を予測してパスする練習も兼ねてる。
まずは一連のレイアップの動きを全員確実にこなせるようになる事を目指して、基礎をやっていこう。若森さんは、ある程度みんなのサポートも頼むよ」
「はーい!」
鈴奈は元気よく答えた。
とは言えレイアップ云々以前に、まずはまともにドリブルできるようになるのが先決だった。
べち、べち、べち。ぽろり。
「あっ」
愛の手元からボールがこぼれた。
てん、てん、と音を立てて転がっていくボールを、居たたまれない様子で愛は回収する。
体育の授業でやった時と同じだ。まるっきり、思ったようにボールを操る事ができない。
周りを見てみると、経験者の鈴奈を除いてみんな苦戦しているようだ。もっとも、その中でも自分が一番不器用なように愛には見えて、
「あっ! わっ、わっ、わ!」
瞳も相当だった。ついたボールが跳ねる方向に追いかけるような格好になって、つんのめるような体勢になり、案の定ボールを取り落とした。ボールに踊らされているといった体だ。
「うーん、苦戦してるねえ……」
困ったように左手で頬をかきながら、鈴奈は難なく右手でドリブルをついている。
そのまま歩き回って、初心者4人の様子を見ている余裕さえある。
亮介のドリブルを見た時にも思ったが、まるでボールが自分の意思を持って手に戻って来ているかのようだ。
「ねえ若森さん、どうやったら上手くボールつけるの?」
「んー? うーん、上手く言えないんだけど……こう、ボールを指に吸いつける感じ」
フィーリングだった。
愛は表情を歪める。吸いつけるとか、タコの吸盤じゃあるまいし。
しかし、それも頭ごなしに否定はできなかった。鈴奈のドリブルを見ていると、まるで手がクッションになっているかのように、跳ね上がってきたボールがふんわりと止まるのだ。
単純に回数をこなせば上手くなるのだろうか、と愛は考え、
「まず、ボールをつくという考えを改めようか」
亮介が愛の傍までやってきて、言った。
「みんなも、いったん注目! ドリブルのやり方をちょっと詳しく教えるよ」
言うや、5人が円を作るように亮介の周りに集まった。
5人が注目している事を確認して、亮介は普段よりもゆっくりと、右手でボールを床につき始める。
「みんな、よーく僕の手を見てごらん。どこが自分のドリブルと違うか考えてみよう」
言いながら、5人全員に見えるように、その場でゆっくりと反時計回りに回って歩いてみせた。
何が違うのだろうと、愛はじっくりとその手を観察する。少なくとも、自分のようにべちべち言っていないのは間違いないのだが……
「……なんか、床に向かってボールを投げてる感じですか?」
「お、いい着眼点だね、綾瀬さん。そう、掌の向きに注目するとわかりやすいかな」
慈の言葉が何やら当を得ていたらしい。掌の向きと聞いて、愛はじっとそれに注目してみた。
(あ!)
今度は、愛にもはっきりとわかった。
愛は今まで、まるで鞠つきのように、ボールを真上から掌でついていた。しかし、亮介のドリブルはそれとははっきりと異なる。
床から跳ね上がってきたボールに対して、真横か、わずかに斜め下ぐらいの角度から手を添えるようにして捕球している。
そして手首を返し、床に向かってボールを投げるようにしているのだ。
それに気づくと、亮介や鈴奈がボールを取り落とさないのもすぐに納得がいった。跳ね上がってくるボールの真上に手があれば、ボールを弾いてしまう。掌が天井になっているのだから当然だ。それが横からなら、跳ね上がってくるボールと手とが衝突しないで済むのだ。
つまりドリブルとは、一瞬だけボールを持って、すぐさま床へ投げ返す事の繰り返し。
だからだ。亮介も鈴奈も、走ったり停まったりしてもボールが手から離れて行かないのは。走り込む先や停止する位置にボールが跳ね戻って来るように目測をつけて、床にボールを投げている。
そうやって、自分の移動先について来るよう、ボールを制御しているのだ。
「中原さん、気づいたかい?」
声をかけられて、はっと愛は亮介の顔に視線を戻した。
「ひらめいた、って顔してたからね」
「そ、そうですか?」
我知らず表情に出ていたらしい。ちょっとだけ、恥ずかしい。
「えっと、横からボールをキャッチしてますよね。で、床に投げ返してる」
「うん、それで正解!」
グッと親指を立てて、亮介は肯定と賞賛を示した。
何もそんなオーバーなアクションをしなくてもと思う反面、愛は自分の解釈が合っていた事が素直に嬉しくもあった。
「まず感覚を身につけるには、こうするといい」
亮介はいったんドリブルを止めた。そして体の右横で、右手でボールを真下に向かって投げ、跳ね返ってきたボールが頂点に達したところで右手をボールの下に入れて捕球。
そして手首を返し、また真下に投げる。
「これを何度かやる。で、手が慣れてきたら、真下じゃなく斜め下や真横からキャッチするように変えていくんだ」
「なんか、すっげえガキみたいな事してる気がする……」
文句を言いながらも、茉莉花は素直にその通りにやり始めた。慈と瞳も、それに続く。
愛も、同じようにやり始めた。
床に投げる。
上がってきたボールを下からキャッチして、手首を返す。
床に投げる。
上がってきたボールを下からキャッチして、手首を返す。
その繰り返し。
今までと違う感覚。少しずつ自分にやれる事が増えてきている証拠だろうか?
(だとしたら、嬉しい……かも)
愛は、少しずつ捕球に角度をつけ始めた。
「なーセンセー、これすっげー恥ずいんだけど。意味あるのか?」
パス練習に移ったところで、ボールを持った茉莉花は顔を赤らめて文句を垂れた。
「もちろん意味はあるよ。バスケは声のかけ合いがとても大切だ。試合で恥ずかしがったりしないように、今から慣れておこう。
それに、クラスの違う子もいるんだし、名前覚えるのにもちょうどいいだろう?」
微笑みながら言う亮介に対し、茉莉花はまだどこか納得いかない様子だった。が、
「へいへーい! まりちゃん、パスパース!」
鈴奈がぶんぶんと手を振ってパスを要求してきた。
「あーもう、仕方ねえな……ホラ行くぞ、若森!」
茉莉花は胸元にボールを構えて、右足を踏み出しながらチェストパスを出した。
真っすぐ飛んで行ったボールは、しっかりと鈴奈の手に納まる。
「ナイスパース! はい行くよ、ひとみちゃん!」
鈴奈の出したパスは瞳へ向かい、
「きゃ、っと」
瞳は若干ぎこちない手つきで、ボールを抱え込むようにキャッチした。
ボールを持ち直し、パスを出す姿勢に構え直す。
「ナイスパス、若森さん。はい、綾瀬さん!」
今度は瞳が、慈に向かってパスを出す。
しっかりと手首を使って出されたパスは、わずかな山なりを描いて慈の腹の高さへと飛んでいった。
お互いの名前を呼び合いながらパス練習。それが亮介の指示した練習だった。
もちろん前提として、ごく基本的なチェストパスとバウンドパスを教えている。だが、
「やっぱり恥ずかしいですよ、先生……」
慈からボールを受け取った愛が、ぽつりと不平を言う。
「普通にパスが投げられるようになるだけじゃダメなんですか?」
「うん、ダメ」
にこやかな表情を保ったまま、亮介は即答した。
「実戦においては、誰しもコートの隅々まで視野が行き渡らない事も多い。そんな状況で、お互いチャンスを報せ合うためのツールは声なんだ。
狙った位置に正確にボールをパスできる事ももちろん必要なんだけど、その技術をフルに活用するためには、声のかけ合いによる補助が欠かせない。声をかけ合う事に慣れるんだ」
「って言われても、うーん……」
愛は渋る。
単純に、愛はこういう事に慣れていないのだ。今まで意図的に他人を避けてきたためにそもそも友人と呼べる存在がほぼいなかった。
突然、わざとらしく名前で呼び合うのが、あまりに気恥ずかしい。
「いいかい、中原さん」
亮介は改めて愛に語りかけた。
愛は、逡巡しながらも亮介の方を向く。
「パス技術を活かすために声かけも必要だというのは、今言ったとおりだ。
だけどそれ以上に、声をかけ合ってパスを繋げれば、いかにも力を合わせてるっていう連帯感も生まれる。
パスを通じてお互いの心と心を繋ぐのも、バスケの醍醐味のひとつだよ」
「先生、そんな臭いセリフ言ってて恥ずかしくないんですか?」
「急に冷静になるのやめてくれない!? 僕はこれでもバスケの魅力を伝えようと必死にだねえ!」
あはははは、と背後で鈴奈が遠慮なく可笑しそうに笑う。
「あー、でもせんせーの言う事もわかるな、あたし。
やっぱりこう、自然と声がかけ合えるような雰囲気でないと、試合中もだんまりだもん。試合が終わってから、あれが良かったねーとか、あそこは直さないとーみたいのも出ないし。
あたしは、どうせなら楽しくやりたいなぁ」
楽しく。
ふと、愛は4人のチームメイトたちを眺めた。
人懐っこい鈴奈は、気がつけばもうすっかり自然体で話せる。あとの3人も、まだ親しいとはとても言えないけれど、先日のミニゲームでなんとなく通じ合った気も、少しだけする。
この子たちと?
今までのように、人の目になるべくつかないように、目立たないように振る舞って。
この子たちの中で、空気のような自分になって、ただ人間関係という災害が過ぎ去ってくれるのを待つだけ?
それは、何となく嫌だ。
そもそも、そんな自分を変えるためにバスケットを始めたはずなのだから。
「中原さん」
いつの間にかうつむいていた顔を上げると、瞳が掌を向けてきていた。
「私も、やるからには仲良くやりたいよ。だから、お互いちゃんと名前呼び合えるようになろ?」
柔和な笑みを向けてくる瞳に、
「……うん。じゃ行くよ、神崎さん!」
呼びかけて、パスを出した。
「さてみんな、ひとつ問題だ。優れたオフェンスとはどういうものだと思う?」
これからシュート練習に移る事を宣言した亮介は、5人にそう尋ねた。
数秒待ってから一同を見渡し、最も真剣に考えている様子の子を探す。
「綾瀬さん、どう思う?」
「え、私ですか」
慈は唐突な名指しに驚き、自分の考えに自信もない様子だったが、注目が集まると、仕方なしといった風に口を開く。
「……正解できる自信ありませんよ?」
「うん、それで構わない」
「幼稚な内容しか思いつきませんけど」
「いいよ。君たちはまだ初心者だからね。なんとなくのイメージで、凄いオフェンスっていうのはこういう感じだーって思う内容を言ってくれればいい」
「はあ……ええと」
慈はしばし言うのを躊躇っていたが、やがて数秒。沈黙が気まずくなって来ると、意を決したように言葉を発した。
「……シュートがどんどん入るのがいいんじゃないんでしょうか」
言って、慈はわずかに顔を赤らめた。
具体的な戦術などに言及していない、それこそ子供でも言えそうなほどの内容の拙さに、口にするのが躊躇われていたようだ。
だが、亮介を含めた全員が、その答えを馬鹿にはしなかった。
「うん、考え方としては間違ってない」
亮介は慈の答えに満足気な表情をすると、話を続ける。
「バスケは一試合に何十回ものシュートを撃って、何十点もの得点を取り合うスポーツだ。だから、例えばシュートの成功率が10%違うだけでも、得点としては最終的にシュート数本分の違いになる。シュートの成功率が高い事は重要だ。
けど、ディフェンス越しのシュートやロングシュートなんかの難しいシュートは、正直そこまでの精度は出ない。3Pシュートなんかは、NBA選手でも4割入る選手はそうそういないぐらいだ。
まして中学女子のレベルだ。そこまで難しいシュートをバシバシ決める事ができるようになる事まで、僕は期待してない。だから……」
言うと、亮介はゴールに向かって歩いていき、制限区域のわずかに外側に位置取った。
「若森さん、パス」
ゴールに背を向け、3Pライン際に立っていた鈴奈の方を向いてパスを要求する。
鈴奈はうなずいて、やや高めにボールを投げた。
亮介は小さくジャンプして両手でキャッチすると、両足同時に着地した。
右足を軸にして時計回りに反転しゴールへ向き直ると、跳び上がり、ボールを高く掲げ上げてシュート!
バックボードで跳ね返ったボールは、ゴールに綺麗に吸い込まれていった。
「せんせー、ないっしゅー」
「はい、ありがと若森さん。
さて、僕がみんなに期待するのは、こういうゴール付近の簡単なシュートを確実に決められるようになる事だ。
難しいシュートはプロの選手でもそうそう成功しない。シュートをどんどん決めるには、イージーシュートのチャンスを作り、それをモノにする事が大切だ。それが優れたオフェンスだと考えていい。
チャンスを作る戦術やフォーメーションはもうちょっとみんながレベルアップしてから教えるつもりだ。まずは、初心者でもすぐ身につく簡単なシュートを確実に決められるようになっていこう」
なんだかんだ言って、初心者の彼女たちにとって一番楽しい練習は、シュート練習に違いなかった。
「よーっし、もう楽勝!」
茉莉花は数回のシュートで既に感覚を掴んだようだ。
パスを受け、ターンからジャンプしてシュート。ボードで跳ね返ったボールがリングの内側に当って、ネットを通って落ちていく。
高さこそないが、亮介のシュートフォームと見比べても遜色を感じない動きだ。
もともと小学校時代から運動慣れしていただけあってか、彼女は動作の思い切りが良い。コツを掴むのも早いようだ。
一方で、一番苦戦していたのはやはり瞳だった。動きが鈍いのもさる事ながら、茉莉花と見比べても一目瞭然というレベルでどこか不格好なフォーム。
バックボードに当たったボールは、そのままリングにかする事もなく床に落ちていく。
「むうぅ……」
ままならなさに苛立った様子を垣間見せながら、瞳はボールを回収しにいく。
茉莉花はその様子を心配そうに見ていたが、
「神崎さん、ちょっとこっち来て。フォームを矯正しよう。
右下から腕を振り上げるようなフォームになってるのは気づいてるかい? それで力が変な方向に行ってるんだ。こう体の正面にボールを構えてだね……」
「はい、えっと……こうですか?」
亮介がフォローに入ってくれた事で、茉莉花は安堵の表情を浮かべた。
亮介に任せておけば間違いはないだろう。何せ、バスケの事になら部員の誰よりも詳しいのだから。
そうこうしている間に、次は愛の順番となった。
「はい、中原さん!」
慈からのパスを、小さくジャンプしてキャッチする。
(まず両足同時に着地して、と)
愛は何度かのシュート練習の中で亮介から習った事を思い出しつつ、ひとつひとつの動作を確かめるようにモーションを再現していく。
まず両足同時に着地すれば、左右どちらの向きにターンしてもいいとの事だ。
愛は右足を軸にターンし、ゴールに正対した。
バスケではボールを持ったまま3歩以上歩くのは反則だが、軸足を変えなければセーフ。これがピボットだ。
そして、腕を上に伸ばしてボールを掲げ上げるような体勢から、ゴールの方に向かって跳び上がる!
(で、リングの中に跳ね返るように狙って……!)
跳び上がった愛のボール保持位置は高い。ゴールはすぐそこだ。
奥のボードを狙って投げたボールは、ボードで跳ね返り、リングの内側で跳ねて、ネットの中へ沈んで行った。
「よーし、いい感じだ。ナイッシュー、中原さん!」
亮介の言葉に、我知らず表情が緩む。
思っていたよりも簡単だ。多分、他の子よりゴールに近い位置からボールを投げられるからという事もあるのだろう。ここでも亮介の言った通り、長身は有利なようだ。
褒められるのは嬉しいし、上手くいくのが楽しい。
今なら、この間のミニゲームよりももっと活躍できる気がする。
早く、教わったことを試合で試してみたい。いつしか、愛にそんな気持ちが芽生えていた。
しばらくシュート練習を続けた結果、瞳も3回に1回はゴール下シュートを入れられるようになった。
「よし、あとはこれからの反復練習で精度を上げていこう。基礎練習の最後は、リバウンドだ」
言うと、亮介はリングに向けてボールを軽く投げ上げた。
いかにも適当な様子で放り投げられたボールは、リングに弾かれる。
そのボールめがけて亮介は跳び、両手でがっちりと捕球、着地した。
そして、5人を振り返る。
「――見ての通り、シュートが外れたあとのボールを回収する、ただそれだけだ。しかし、バスケをある程度知っている人なら、誰もが認めるほど非常に重要な技術だ」
「リバウンドを制する者は
何かの受け売りらしいフレーズを、満面の笑顔で鈴奈が諳んじた。
亮介は若干の困り顔ながらも、うなずく。
「うん、まあマンガのセリフなのはともかく、その通りだ」
「あ、せんせーも読んでるんだ」
「まあ教師だって趣味でマンガ読むなりゲームやるなりは、ね。
さて、ともかく、なぜリバウンドが重要なのかわかる人はいるかい? こうなんじゃないかって想像でもいいぞ」
優れたオフェンスについて訊いた時と同じく、亮介は問題を提示して5人の反応を伺う。
ややあって、瞳が小さく手を上げた。
「攻撃の回数が増えるから、だと思います」
「うん、簡単に言えばそういう事だ」
瞳の答えは的確だ。亮介は満足気にうなずく。
「それだけの事かと思うかもしれないが、これはとんでもなく重要な事だ。こっちの攻撃回数を増やすっていう事は、敵の攻撃回数を減らすって事でもある。
例えばディフェンスリバウンドを取るって事は、相手の攻撃を終わらせる効果があるから、敵のパスをカットしたのと同じぐらい大きなプレイだとも言える。
オフェンスリバウンドを取り続ける事ができれば、シュートが成功するまで何度でも攻め続ける事ができる。
こう聞くと、とても大切だという気がするだろう?」
なるほどという表情で茉莉花がうなずく。
愛も、その話には真剣に聞き入っていた。
「だから、とても重要な技術だ。主に背の高い子に担当してもらう仕事だが、一応全員に基本的なやり方は習得してもらおうと思う。
やり方を教えるから……中原さん、相手役を頼めるかな」
「あ、はいっ」
言われて、愛は亮介の傍まで進み出た。立ち位置は、制限区域のちょうど中央付近だ。
「シュートが外れたボールを回収するわけだから、当然、リバウンドはゴールに近い方が有利だ。大きくボールが跳ねた場合とか例外もあるけど、基本的にはね。
身長とジャンプ力も重要だが、それ以前のポジション取りでリバウンドの勝敗は決まると思っていい。
若森さん、僕が合図したら適当に、シュートを外れるように撃ってみてほしい。中原さんは僕の前に回り込んで、いいポジションを取ろうとしてみて」
「おっけー」
「はいっ」
鈴奈が3Pラインの少し内側でボールを構えた。
愛は亮介の横を通って、亮介の前に出ようとして――
亮介の背中が、道を塞いだ。
「!」
唐突にぶつかられて、愛は後ろに一歩、たたらを踏んだ。突然の事で驚いたが、よろけただけで倒れずには済んだ。
きっとこういう技なのだ。
即座に亮介の意図を察した愛は、亮介をかわして前に出ようとする。
しかし、ことごとく背中と肩で阻まれた。まるで後ろに目がついているかのように、正確に愛の進路を妨害してくる。
「んッ……!」
ならばと愛は、肩で亮介を押しのけにかかった。
しかし、腰を落として踏ん張った体勢の亮介は、愛がどれほど力を込めてもびくともしない。
「若森さん」
背中で愛の進路を塞いだまま、亮介はゴールを指し示して鈴奈にミスシュートを合図した。
鈴奈が投げたボールは、リングに当たって落下してくる。
亮介はそのボールに跳びついて、キャッチ。
愛は、亮介の背中に妨害されて跳ぶ事すらできなかった。
「――と。これがリバウンドだ」
亮介は振り向き、鈴奈にバウンドパスでボールを返す。
「スクリーンアウトっていうやつですよね。今、中原さんを止めたのは」
慈が言う。亮介はうなずいた。
「うん、よく知ってるね。ボックスアウトって言い方の方が本来的には正しいが、まあスクリーンアウトでも通じるからOKだ」
「ルール的にアリなんですね? ああいう風に通せんぼするの」
「うん、アリ」
確認するように訊いてきた愛に、亮介は答え、言葉を続ける。
「とは言っても、もちろん制限はある。手で相手を掴んだり足を引っ掛けたりするのはもちろんダメだし、勢いよく相手にどーんとぶつかっていくのもダメだ。あくまで、自分が先に占めた位置を維持するための動きだけが許される。
リバウンドは背の高い選手が主に担当するっていうのはさっき言ったけど、それは単に背が高い分ゴールに近いからっていうだけじゃない。背が高い選手は身幅もある分、ポジション取りにも有利なんだ。それに、多くは身長に相応の体重がある分、押されるのにも強い」
「たいじゅう……」
「うん、体重もあった方が有利だ。確か中原さん、ろくz」
「59kgです」
間髪入れずに言葉をかぶせて来た。
何やら沈黙が訪れた。
気まずい。
「59kgです」
念を押された。
よくわからないが60kg未満というのが乙女ボーダーラインであるらしい。
「先生、デリカシーなさすぎです」
慈からの冷たい言葉が突き刺さった。
「あー、うん、今のはあたしもちょっとフォローできねーな……」
「中原さん、気にしないで。先生もたぶん悪気はないから」
「あはははははは!」
部員たちの反応がいろいろと刺さる。
どうにも、バスケットの事になると周りが見えなくなってしまうのが悪い癖だ。
それだけ、久しぶりに取り組む部活バスケに盲目的になっていたという事かもしれないが。
「いや、ごめんごめん。えーと」
「よーくわかりました。先生に彼女がいない理由」
愛の視線と声音は、冷たかった。
「右、左……右っ!」
慈のレイアップがボードに当たって跳ね返り、リングをくぐった。
「よーし、いいぞ綾瀬さん! みんなも今みたいに右足、左足、右手の順で。右、左、右!」
褒められて満更でもない様子で、慈はボールを回収してきた。気持ちの余裕だろうか、ゆっくりとだがドリブルしながら戻ってくる。
嬉しそうだ。
愛には、その気持ちがなんとなくわかった。褒められる事も、上達できる実感も、嬉しいし、楽しい。
そして、手に入れた技術は使ってみたくなる。
「次、中原さん!」
亮介の合図を受けて、愛はゴールに向かってドリブルし始めた。
亮介や鈴奈のように全力疾走しながらはまだ無理で、手つきもぎこちないが、どうにかドリブルしながら進む事はできるようになった。
ある程度ゴールに近づいたところでボールを両手で掴み、右足、左足と踏み出し、そして跳ぶ。
シュート練習の時と同じ位置を狙って、下手投げでボールを放る。
ボードに当たって、シュート練習と同じようにリングの中をくぐっていった。
上達している。
今日一日で習った事の成果が、早くも出ていると実感する。
「ナイシュー。いいぞ、中原さん」
亮介の賞賛の言葉も、むずがゆいけれど、嬉しい。
習った技術を早く実戦で使ってみたいという欲求が、どんどん膨らんできていた。これほど、何かをやりたいと願ったのは初めてかもしれないほどに。
そんな様子の愛を、亮介がじっと見ていた。
「……中原さん、いい顔してるね」
「! そ、そうですか?」
急にそんな事を言われて、愛は面食らった。
しかし、改めて自覚してみると、口元が緩んでいたのは否定できなかった。
試合をやってみたい、活躍してみたいという気持ちも、一度自覚してしまえば否定のしようもなかった。
初めての感覚だった。
どう処理していいかわからない感情に戸惑い、困惑の表情を浮かべてしまう。だが、熱のようなものがある事だけは自分自身でもよくわかった。
「中原さんだけじゃないだろうね。みんな、今日一日だけでもいろんな事が身についただろう。もちろん、上手くなるためにはもっと繰り返し練習する必要はあるだろうが……
とはいえ、スポーツは楽しんでやらなきゃだ。今日のシメに、5対5の試合形式でやってみようと思うんだが、みんなどうだい?」
「やる! あたしはやりたい」
真っ先に反応したのは茉莉花だった。
シュート練習の時に最も早くコツを掴んでいた様子だった彼女は乗り気だ。きっと愛と同じように、自分の中から溢れ出さんばかりの熱が押さえきれないに違いない。
「私もやってみたいです、先生。でも、相手はどうするんですか?」
慈も賛成の意思を示したが、問題はそこだ。女子バスケ部は5人しかいない。
しかし亮介は、その問いを予想していた。
「男子バスケ部の1年に相手してもらおうと思ってる。ちょっと、これから話をしてくるよ」
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