#3 ダイヤモンド・アンド・ワン

 試合時間は残り1分。

 スコアは74-83。9点ビハインド。絶望的な状況だ。

 ずっと走りっぱなしでスタミナももう切れている。

 息が苦しい。五体が自由に動かない。感覚ももう曖昧だ。


 だが。


 味方からの鋭いパスが飛んできて、ボールが手に収まった。

 体が覚醒する。

 脚は自然と、3Pスリーポイントライン際で踏みとどまった。

 そうとも、これしきの事で諦めていいわけがない。

 ゴールが見えた。

 指先に感覚が戻る。

 半ば条件反射のように、体はジャンプシュートの動作をした。

 機械のように正確なシュートフォーム。

 綺麗に弧を描いたボールは、リングに正確に向かっていき――






「こら、若森さん。何を学校でマンガ読んでるの」

「あっ」


 若森わかもり鈴奈れいながマンガを取り上げられたのは、朝のショートホームルーム前の事だった。

 小学生の頃に読み始めて、当時すっかりハマってしまった名作バスケマンガだ。ゆうべ部屋の片付けをしていた時に1巻から読み始め、そのまま読むのが止まらなくなってしまった。

 ちょうど鈴奈の好きなキャラが活躍するシーンだったのだが。


「ごめーん、いいんちょ。つい」

「ついじゃないでしょ、もう。せめて放課後にしなさいよね」


 委員長こと綾瀬あやせめぐみは、やれやれという表情で鈴奈にマンガを返した。


「って言うか、バスケットが好きなら現実でやったらどう? 部活とかで」

「あ、いいんちょもこのマンガ知ってるんだ」


 鈴奈はにぱっと笑った。同好の士を見つけた事が素直に嬉しそうだ。

 だが、慈は一瞬言葉に詰まったような反応のあと、居心地の悪そうな様子を見せた。


「……まあ、読んだ事はないけど。有名な作品だし?」

「あ、読んではいないんだ。残念」


 ちぇー、と残念そうな表情をして、鈴奈はマンガをカバンにしまった。


「てかさ、明芳中ウチに女子バスケ部なんてあったっけ?」

「こないだ配られたプリントにあったでしょ。数学の斎上先生が今、創部の申請中」

「へー」


 鈴奈はカバンを漁り、部活の一覧が記されたプリントを取り出した。確かに慈の言う通り、創部申請中と書かれている。


「よっし」


 善は急げだ。鈴奈は、セットになっていたもう一枚の用紙を机に広げた。






 #3 眩しい4人と蚊帳の外の私ダイヤモンド・アンド・ワン






 その日の放課後、愛が校庭の隅の屋外バスケットコートに顔を出してみると、見慣れない女子生徒と亮介が一緒にいた。


「あ、中原さん! おーい」


 亮介は上機嫌な様子で愛に手を振ってきた。

 あまりこっちを目立たせるような事をしないでほしい、と愛は思う。


「入部希望者だよ。これで4人目だ」


 目標まであと一人。それは機嫌も良くなるだろう。

 歩いてきた愛に対して無造作に向き直った女子は、制服に取り付けられた校章の色を見ると、やはり1年生のようだ。身長は愛より頭ひとつ以上低い。150cmあるかないかだろう。ツインテールに束ねた髪が少々子供っぽい。

 同じ部の仲間となると知ってか、彼女は屈託のない笑顔を愛に向けてきた。


「1-Dの若森鈴奈だよ、よろしくね!」

「あ、ええ。えーと……1-Bの中原愛です、よろしく」

「一緒に頑張ろうね、あいちゃん!」


 言うや、鈴奈は愛の手を握り、ぶんぶんと上下に振るように握手してきた。


「あ、あいちゃん…?」


 いきなりの"ちゃん"付け呼びに、愛は困惑した。

 こうも初対面の相手にグイグイ来る子は初めてだ。愛想がいいので不快感はないが、それでも友人の少ない愛はいささか戸惑った。


「それにしても、あいちゃん大っきいねー」


 鈴奈は愛を見上げるようにして言ってきた。悪気はないのだろうが、愛は一瞬、複雑な表情をする。


「やっぱりCセンターなの?」

「センター?」


 怪訝な顔で愛は問い返す。

 鈴奈は愛の顔を見上げるように覗き込んだまま、小首をかしげた。


「ああ、若森さん。中原さんは初心者なんだ」

「あ、そうなんだ? ごめんね、あいちゃん」


 てへへ、と愛想笑いする鈴奈。本当にコロコロと表情の変わる子だ。

 しかし――


「あの、先生。私"は"初心者って事は……」

「うん、若森さんは経験者だ」


 亮介は手に持っていたボールを、軽く投げて鈴奈によこした。


「って言っても、あたしもそんな本格的にやってたわけじゃないんだけどね」


 鈴奈はボールを受け取ると、てん、てんと音を立てて右手でボールをつき始めた。

 上手い、と愛は感心した。

 愛も小学校の体育でならバスケをやった事はあるが、ドリブルしようとしてもベチベチと掌でボールをはたくような格好になり、まるで思った通りにボールを操る事ができなかった。

 対して鈴奈はと言うと、ボールを見もせずに、ごく自然にドリブルをついている。愛の素人目には、亮介のそれとも遜色がない上手さに見えた。


「実を言うと、左手ドリブルできないし」


 えへへ、とごまかすように笑いながら鈴奈は言った。

 そして、おもむろにセンターサークルからゴールに向かって、ドリブルをつきながら走り出した。


 ――速い!


 一見してわかるほど鈴奈は足が速かった。

 それでありながら、ボールがそのスピードに振り切られる事もなく、自ら意思を持っているかのように、正確に地面と右の掌の間を往復している。

 鈴奈はあっという間にフリースローラインまで辿り着き、急停止からジャンプ。そして、


「それっ、シュート!」


 ごいんっ。

 リングの中央からおよそボール1個分右にずれたシュートは、リングにすげなく弾かれて、地面に跳ねた。


「あっ」

「シュートは要練習だね。あと、左ドリブルも」


 亮介が右手でボールを拾い上げた。左手を横から添え、手首を返してパス。

 ボールは綺麗な直線を描いて、鈴奈の胸元へ飛ぶ。

 鈴奈はわずかにジャンプし、右足を引いてボールをキャッチした。

 ごく自然な、流れるような動作だった。愛にはその動作の意図はわからないが、経験者が条件反射のようにそう動いている以上、きっと何らかの意味のある動きに違いない。


「左ドリブルかー。小学の頃はなくても全然困らなかったけど、やっぱ必要かなあ」


 鈴奈は左手にボールを持ち変えると、ゆっくりとドリブルをつき始めた。

 さきほどまでと違ってたどたどしく、不規則に跳ね上がってくるボールに翻弄されるようだった。


「中学レベルで真面目にやるなら必要だろうね。若森さん、小学校時代にやってたのはどこかのミニバスクラブチームかい?」

「うん、佐倉小にあったクラブ。って言っても大会とか出てたわけじゃなくて、ほとんどただのレクだったけどね」

「……佐倉小?」


 愛が疑問符を浮かべた。

 亮介と鈴奈も愛に注目し、そしてボールは鈴奈の足先に当って、コロコロと転がっていった。


「あ。あちゃー」


 鈴奈は慌てて転がったボールの方へと走り、素早く回収する。

 そして、右ドリブルで元の位置まで戻ってきた。


「若森さん、佐倉小出身なの?」

「そうだよ。あ、もしかしてあいちゃんも?」

「ん、うん」


 愛はおずおずと頷く。すると、鈴奈は満面の笑顔で答えた。


「そっか、同小なんだ! ね、佐倉小の学区ってわりと狭かったよね? ひょっとして家も近所だったりする? ウチ、ひので商店街で定食屋やってるんだけど」

「あ、近所かも。私のウチ、ひので商店街の入口のとこの酒屋やってて」

「うわー、すっごい近所じゃん。ね、今日一緒に帰ろうよ!」

「あ……うん。そうしよっか」


 鈴奈が心底嬉しそうに笑っているのにつられて、愛の表情もほころんだ。

 友達と一緒に学校から帰るのは、いつ以来だろう。久しぶりすぎて少し緊張する。それでも、友達ができるきっかけになったのは、入部して良かったと早くも思えたのだった。






「それでさ、最初はグレててバスケ部とケンカしたりするんだけど、復帰してからは3Pスリーポイントをバシバシ決める選手になってね――」


 帰り道の途中、鈴奈はミニバスを始めるきっかけになったというマンガについて熱心に語ってきた。

 バスケ初心者の主人公を擁する平凡な高校のバスケ部が全国制覇を目指すという話らしい。古い作品だが、今でも熱心なファンが多い名作との事だ。

 愛も少し興味が湧いてきた。初心者の主人公がいるなら、ルールの勉強にもなるかもしれない。


「えっと、それって今も古本屋とか行けば買える?」

「新装版なら普通の本屋で買えるよ。旧版も古本屋行けば結構見つかるけど、1巻がない事多いから、買うなら新装版がおすすめかな」


 鈴奈は楽しそうだ。語れる相手ができるのが嬉しいのだろう。


「あ、でも今と結構ルール違うから気をつけてね。あたしミニバス始めた時、クォーター制になってたの知らなくてさー」


 そんな事を語りながら、下校路の曲がり角をひとつ曲がって。


「あ。いいんちょ、やっほー」


 鈴奈は前方に知り合いの人物を見つけたらしく、手を振って相手を呼び止めた。

 愛たちと同じ制服を来た少女が振り返る。

 長い黒髪が特徴的だった。身長はちょうど愛と鈴奈の中間ぐらいだろう。友好的な様子の鈴奈とは対称的に、これといって表情を表に出していなかった。


「何、若森さん?」

「いいんちょに勧められた通り、女子バスケ部に入る事にしたよ。教えてくれてありがとね!」


 鈴奈は裏表のない表情で笑った。

 バスケ部の話が出た事でなんとなく紹介されたような気がして、どうも、と愛は小さく頭を下げる。


「そう……まあ、頑張ってね」


 返って来たのは素っ気ない反応だった。


「いいんちょは部活どこにしたの?」

「私はまだ決めてないけど」

「そっか。良かったらバスケ部に来てみてよ。あと一人でメンバー足りるんだ! いいんちょ、結構背も高いしさ」


 鈴奈の言葉を受けた彼女は、しかし良い表情をしなかった。困ったような、何か憂いを帯びたような表情で。


「……考えておくわ。勉強に支障がなければ、ね」


 そう言って、二人に背を向けた。

 そして、ひので商店街とは別の方角へ向かって歩き出す。駅前のマンション街へと続く道だ。


「若森さんの友達?」


 彼女の背中が遠くなってから、愛は鈴奈に問いかけた。

 うん、と鈴奈はうなずく。


「うちのクラスのいいんちょで、綾瀬慈って子。真面目な子だよ」


 真面目な子、というのは愛の印象とも共通していた。お硬い感じの子と言い換えてもいいかもしれない。折り目正しい膝丈のスカートで、髪も装飾の一切ないストレートの黒髪だ。勉強に支障がなければ、という言い方も実にお硬い。

 鈴奈は彼女も友達だと思っているようだが、果たして向こうがそう認識しているのだろうか。愛には、疑問だった。






「慈、学校にはもう慣れたか?」


 夜の20:00、綾瀬家のダイニングで夕食が採られている中で、父親が慈に問いかけて来た。

 バター醤油で味付けして、ほうれん草を添えたタラのムニエルがメインディッシュ。何品かのおかずが食卓の中央に並び、ニラの味噌汁に白米という和洋折衷メニューだ。


「ええ。特に問題はないです」


 慈は答えて、ムニエルを一切れ口に運ぶ。

 うむ、と父は満足そうにうなずいた。


「まあ、まだ1ヶ月も経っていないからな。馴染めたなら今は良しとしよう。

 しばらくしたら、小学校にはなかった定期テストが始まる。どの教科も小学校より一回り難しくなるぞ。特に英語だ。小学校でのお遊びのような英語とはレベルが違ってくるから、気を抜かないようにな」


 もちろん、慈も心得ている。それがあったから、小学生の頃から英会話塾にも通っていたのだ。


「ちょっと、あなた……ご飯中にそんなお説教みたいな事言わなくても」

「今言わないでいつ言うんだ。慈はこのあと自室で勉強だろう」


 それが当然と言わんばかりの口調で、慈の父は言い切る。

 慈の手が、一瞬止まった。


「それでなくても、本当ならもっと偏差値の高い私立の中学にやりたかったと言うのに。まったく、受験日に体調さえ崩さなければ……」

「あなた、体調の事は仕方ないじゃないですか」

「そんな事はない。体調管理も実力のうちだ。本番に望む準備と心構えが足りていなかったんだ」


 また始まった。

 こういう話をしている食卓にはいたくない。慈はうんざりとした気持ちで、やっつけ気味に食事を済ませ始めた。


「慈、何度も言うが勉強に手を抜くなよ。中学からの成績は将来に直結してくるからな」

「……はい、わかってます」


 茶碗に残った白米を手早く食べ終えると、慈は箸を置いた。


「ごちそうさま」

「あまり夜更かししないようにな」

「はい」


 父の言葉におざなりに答えると、慈はダイニングを後にした。

 狭い廊下を数歩歩いてドアを開ければ、そこが慈の自室だ。

 殺風景な部屋だ、と慈は思う。ベッドと勉強机の他は、本棚ふたつとゴミ箱があるぐらいだ。

 テレビもゲーム機もありはしない。充電中の携帯電話も、通話とメール以外の機能が一切ないガラケーだ。


 すべては父の教育方針だ。


 父は一流の国立大学を卒業したエリートで、現在は県の教育委員をしている。

 自分の子供もエリート街道を進ませたいのか、『学校で勉強した事そのものが社会に出てから役に立つわけではないが、学校の成績が良かった者しか高い社会的地位には就けない』と昔から口癖のように言ってきたものだ。

 それが子供のためだと思っての事なのか、勉強のできない子供を持った教育委員という悪評を立てられたくないだけなのか、慈は常々疑問だ。

 いずれにせよ、父は厳しい。ただでさえ成績至上主義のような物言いをする上に、何かあれば自己責任論だ。

 それでいて話の筋は通っているものだから、反論しても言い負けてしまう。

 文句を言っても、余計にこちらが傷つけられるだけだ。そう察してからというもの、父とは冷淡なやりとりを交わして従うだけになっている。


 ため息をつきながら、慈は教科書とノートを机の上に広げた。

 今日の授業の内容は理解しているので大丈夫だ。明日の分の予習をさらっとやっておけばいいだろう。あまり良くない成績を取れば、おそらくは強制的に塾通いだ。


 めんどくさい。


 ふと、慈は本棚に目を向けた。

 朝、鈴奈が読んでいたのと同じマンガが、序盤の数冊だけ並んでいた。






 4月も末。体験入部期間ももうすぐ終わろうという頃になった。

 亮介は職員会議での話し合いにより、屋外コートを女子バスケ部の宣伝スペースとして貸してもらった。創部申請中の部では前例のない事だったが、既に入部希望者が複数名いる事を考慮し、校長が許可をくれた。

 宣伝に一番いいのは、やはり競技の面白さを直接見てもらう事だ。


「と言うわけで、2on2のミニゲームでもやろうと思う」


 女子バスケ部として初めて一堂に会した4人を前に、亮介は宣言した。さすがに制服のまま本格的に運動するわけにはいかないので、4人とも体育着である。


「はいはい! あたし、あいちゃんと組みたいです!」

「わ、私?」


 両手を上げて、真っ先に答えたのは鈴奈だった。対して、愛は突然の事に戸惑っている。

 どうしましょうか? と、愛は困った視線を亮介に向けてくる。


「うん、最初の組み合わせはそれでいこうか。で、3ゴールごとにチームを組み替えてやろう」

「はーい。頑張ろうね、あいちゃん!」

「う、うん」


 やや鈴奈の勢いに気圧されながらも、愛は答えた。


「ってーと、あたしと瞳で組みか……」


 茉莉花は瞳の様子をちらちらと伺うように見る。

 瞳も同じように茉莉花の様子を見る仕草をしており、そして、目が合った。


「あ」

「う」


 居たたまれないように茉莉花は目線を逸らす。


「えっ……と、頑張ろ、茉莉花」

「ん、うん」


 どこかギクシャクとしたやりとり。愛と鈴奈は不思議そうにその様子を見ていた。


「それじゃあ、氷堂さん・神崎さんチームの攻撃からスタートにしようか」


 亮介は茉莉花にボールを投げて渡した。

 ワンバウンドして渡されたボールを、茉莉花は両手でしっかりと受け取る。


「使うのはハーフコートのみ。守備側がボールを取って攻守交代したら、いったんセンターラインまでボールを戻すまではシュート禁止。いいね? それじゃ、位置について!」


 亮介の指示を受けて4人が配置に着く。茉莉花がボールを持ってセンターサークルに位置取り、その正面に鈴奈が身構えてマークに着く。

 どうしようか迷っている様子で瞳が3Pライン際に立ち、そのマークには愛が着いた。


(さて、どうなるか)


 亮介はコート上の4人に均等に目を配れるよう、心構える。

 実のところ亮介は、この4人をどう組み合わせたとしても互角の勝負ができるとは思っていない。そもそも、経験者の鈴奈とビッグマンの愛の組が明らかに有利なはずだ。

 このミニゲームの目的は、大なり小なり彼女たちに楽しんでもらう事と、部の宣伝。そして、亮介自身が4人の基礎能力を見極める事だ。


「うーっし、行くぞ!」


 茉莉花は宣言して、ドリブルで駆け出した。

 しかし、鈴奈がすぐに反応する。フットワーク良く茉莉花の進路を阻み、茉莉花の脚が止まる。

 地面から跳ね返ってきたボールを受け止め損ねて手の中で弾き、茉莉花は両手でボールを掴んだ。


「やばっ」


 もう一度ボールをついたらダブルドリブルだ。体育バスケの知識でも、全員そのぐらいは知っている。


「瞳!」


 茉莉花は瞳にパスを出した。瞳は一瞬遅れて反応し、ボールを受け取る。

 ボールを手放してドリブルのルールから開放された茉莉花は、一直線にゴールめがけて駆け出した。


「こっち、返して!」

「う、うん!」


 返球を求めた茉莉花に瞳がパスを返す。パスコース上にいた愛を越すような、高い山なりの軌道を描くゆるいパスだ。

 そのパスコースに鈴奈が飛び込んできた。


「いただきっ!」


 鈴奈の手がボールに届いた。

 ボールを奪うや、俊足でドリブルして一気に走り戻る。センターラインでUターンしてくると、守りにきた茉莉花と相対し、


「あいちゃん!」


 高いパスを出した。


「わ、わっ……と!」


 愛はジャンプして腕を伸ばし、頭上よりも高い位置へのパスをキャッチした。瞳が愛の前に立ち塞がってはいたものの、小柄な瞳ではまったく届かない高い位置だ。


「あいちゃん、撃っちゃえ撃っちゃえ!」


 言われて、愛はゴールを見た。

 瞳が正面にいる。満足にドリブルできない愛では、抜く事はできないだろう。

 だが、抜く必要を感じない。瞳がいようがいまいが、ボールを掲げ上げた手とゴールの間に障害物はないのだ。


(あ、背が高いと有利ってこういう……)


 身長が武器になる。亮介が言っていた言葉の意味を、愛はようやく少し理解した気がした。

 愛は眼下にいる瞳に衝突しないように気をつけながら、昨日の鈴奈の見よう見まねで、両手撃ちのジャンプシュートを放った。狙いのつけ方はヤマカンだ。

 ボールは瞳の頭上を悠々と越え、リングの横に当たって弾かれ、


「こんにゃろっ!」


 茉莉花が飛び込んできて、リバウンドを押さえた。


「瞳、戻っ――」


 茉莉花が振り返ると、瞳は既にセンターラインめがけて走り始めていた。鈍足だ。しかしスタートを切るのが早かったおかげで、愛を引き離している。

 ボールを取ってくれる事を確信していなければできないスタートの切り方だった。


「茉莉花、こっち!」

「っ……!」


 茉莉花は瞳へとパスを出した。二人の中間でワンバウンドしたパスが、センターラインを踏んだ瞳へと綺麗に繋がった。






 監督になる事を意識して、亮介は4人のプレイをじっくりと見ていた。

 現時点では技術的に未熟なのは仕方ない。彼女たちのレベルはまだ体育バスケのそれだ。本格的に教え始めていないのだから当たり前だ。

 むしろ注目すべきは、基礎的な身体能力と、取り組む姿勢の部分。


 技術を抜きにして身体能力だけ見ても、現時点では鈴奈が頭ひとつ突き抜けて優秀だ。足が速いのに加えて、さきほどからほとんどノンストップで走り回っている。相当なスタミナの持ち主だ。とは言え小柄な体格を考慮すれば、実戦でインサイドの仕事をするのは厳しいだろうという制約がつく。

 次点で高い身体能力を見せているのは茉莉花だ。つい最近まで毎日のように2時間も自転車を漕いでいただけあって、脚力・持久力ともに初心者としてはなかなかのものだ。技術はまだ稚拙だが、果敢に攻めようという気概が見えるのも好印象だと言える。

 愛はまだ戸惑っている印象が強い。と言っても、自分の長身をどう武器として使えばいいのか試行錯誤しているゆえに、という様子だ。基礎をしっかり教えれば、きっと素直に吸収してくれるだろう。

 最も心配だったのは、自他共に運動が苦手だと認める瞳だ。実際に彼女は小柄で、お世辞にもバスケに向いている体格とは言いがたく、その上に足まで遅い。だが他の3人との能力の差を不満に思う様子もなく、状況をよく見て、自分なりにできる事を探しているように見える。


 出発地点としては悪くない。亮介はそう直感した。

 純粋にバスケを楽しむ気持ち、自分の役割を見つけたいという思い、負けるものかという闘志。4人とも、そのいずれかは備わっている。一歩めの原動力としては充分だ。


(しかし)


 4人の顔ぶれを見て、亮介は思う。

 愛を除いた3人は、いずれも身長が低めだ。3人の中では一番高い茉莉花でも153cmだと言う。

 中学1年女子の平均身長は、スポーツをやらない子まで含めた全体平均で155cm程度。そこから考えると、驚くほどのスモールラインナップだ。

 バスケのチーム5人の編成は、一般的に、アウトサイド3人とインサイド2人で分担する。そしてゴール付近を担当するインサイドの選手は、長身でパワーがある方が有利だ。


(あと一人、上背のある子が欲しいな)


 愛ほどの長身は望むべくもなくとも、せめて160cm以上ある子が欲しい。今後のチーム構成を想像して、亮介は考えた。






「まりちゃん、ゴー!」


 鈴奈が瞳の横を通して、茉莉花にパスを送った。


「何だよ、まりちゃんって……!」


 捕球。ゴール下に走り込んで、シュートし――

 愛が、それに併せて跳んだ。

 高く上げた右手が、ボールを弾く!


「なっ……!」

「わっ、ブロックしたぁ!?」


 茉莉花は驚きに言葉を失った。鈴奈も目を丸くして驚く。

 やった、と愛は喜びの表情を見せた。

 ボールはラインを越えて、てん、てんと音を立てて転がっていく。


「ちっくしょう、やってくれるなあ、中原……!」


 悔しげだが、全力で勝負した結果にまんざらでもないという顔をして、茉莉花はボールを拾いに行こうとし、


「あ……」


 ボールは、ミニゲームを遠巻きに見ていた女子の足元へ転がっていった。

 慈だった。


「あ、いいんちょ! ボールとってー!」


 ぶんぶんと腕を振って鈴奈が呼びかける。

 慈は、少し戸惑うような仕草を見せた後、どこか恐る恐るといった様子でボールを拾い上げた。

 その様子を目に留めたのは、亮介だった。


「ああ、見学者かな? ごめん、気づかなくて」

「あ、いえ……お気遣いなく」


 慈は曖昧に答えた。見学者だとも、そうでないともつかない反応。

 亮介は、改めて彼女の姿を観察した。

 身長はおよそ160cmか、もう少し高いか。長袖の制服に隠されて体型はよくわからないが、パッと見で極端に太っていたり痩せ過ぎたりはしていない。ボールを保持する指は長めで、器用そうな印象を受ける。

 彼女は胸の前で両手でボールを構えると、手首を返して綺麗なチェストパスを鈴奈に送った。若干の山なりを描いて胸元よりも低めに飛んでいったものの、鈴奈は腰を落としてしっかりとキャッチできた。

 おお、と亮介は感嘆の声を漏らす。


「君、バスケ経験者なのかい?」

「いいえ。体育でやった事があるだけです」

「それにしては堂に入ったフォームじゃないか。体育でやっただけでそれなら、才能あるんじゃないかな」


 亮介は改めて慈に向き直った。何やら怯んだように、慈は一歩後退する。


「君、身長は?」

「162ですけど、何か……」

「高いね。いや、これはこっちの都合なんだけど、ちょうど君ぐらい身長のある子が一人欲しかったんだよ。どうだろう、仮入部だけでも考えてくれると嬉しいんだが」

「あっ、いえその、まだいろいろ検討中なので」


 一歩、二歩、慈は後ずさる。


「いいんちょ、興味あるから見に来たんでしょー? ねえ、一緒にやってみない?」

「……っ」

「楽しいよ?」


 にぱっ、と笑って鈴奈は言った。

 慈はしばらく答えに詰まったように黙っていたが、やがて口を開く。


「ねえ、若森さん。聞いていい? 若森さんは、なんでバスケをやってるの?」

「バスケ、好きだから!」


 まったくのノータイムで、鈴奈は答えた。その直後、気恥ずかしそうに頬をかく。


「……まー、マンガがきっかけで始めたクチなんだけどね、あたし。だからホラ、あんまりガチなバスケやってる人みたいに偉そうには言えないんだけど」


 ごまかすように人差し指の上でボールを回す。

 が、3秒と持たずにボールはこぼれた。

 おっとっと、と呟きながら鈴奈はボールを回収する。


「……マンガなの?」

「うん。でも、きっかけは何だっていいじゃん? 思いっきりやれる、好きな事ができたならさ」

「……」


 慈は、少しの間、黙っていた。

 そして、唐突に踵を返した。


「いいんちょ?」

「ちょっと待ってて」


 振り返り、どこかつっけんどんな態度と表情のまま、慈は言う。


「――着替えてくるから」






 慈が着替えてくるまでの間、いったん休憩になった。


「はあ、はあ……ふはぁ」


 荒い息をつきながら、真っ先に腰を下ろしたのは瞳だった。

 脚がふらついており、座り込む動作も、半ば後ろ向きに倒れ込むような格好だった。体育着が土で汚れるのを構う余裕もない様子だ。


「大丈夫? ポカリ飲む?」


 瞳の様子を真っ先に気にかけて来たのは鈴奈だった。小走りにやってくると、スポーツドリンクが入っているらしい水筒を手渡して来る。


「はあ、ふぅ……ん、ありがと。もらう……ね」

「飲み過ぎないようにね。お腹痛くなるから」


 息が上がり、切れ切れになった言葉で答える瞳に、鈴奈はにっこりと微笑みかけて応じた。そして今度はタオルを手に、愛の方へと走っていく。

 水筒を開け、瞳はスポーツドリンクを口にした。薄い柑橘系の味に塩味を加えたような独特の味わいが、体の疲労と乾きを癒してくれるようだ。

 まだ肺が落ち着きを取り戻せていない。ぷは、と水筒から口を離すと、また荒い呼吸がぶり返してくる。

 そんな様子の瞳に、茉莉花が歩み寄って来た。


「瞳、平気?」


 ボールの上に座り込んで、茉莉花が瞳の顔を覗き込むようにして様子を伺う。瞳は大量の汗をかいて、完全に息が上がっていた。


「はあ、ふう、だい、じょぶ……へいき」


 息を切らし、切れ切れに瞳は答える。袖で額の汗を拭うが、まだ汗が止まる様子はない。

 普段、あまり運動しない子だ。毎日のように長時間自転車を漕いでいた茉莉花とは土台の体力が違う。


(けど、それにしても)


 ふと、茉莉花は遠目に愛の方を見た。

 汗をかき、息も上がっているようだったが、水飲み場まで悠々と歩いて行っていた。戻ってくる途中で鈴奈と何やら話しており、少なくとも瞳よりはよほど余裕が感じられた。

 瞳だけ特別に体力がないのか、と茉莉花は一瞬考える。

 だが、愛もバスケ経験者ではないらしい。ところどころ戸惑うような動きが見えたのも、瞳と同じくスポーツ慣れしていない子に特有のキレのなさだ。


(……走り回ってたかどうかの違い、か?)


 茉莉花はそう推測した。

 さきほど愛にシュートをブロックされた時の事が思い当たる。彼女は走り回って積極的にボールを奪いに来るのではなく、ゴール下で待ち構えるような立ち回りだった気もする。

 確かにあれほどの高さがあれば、その立ち回りでも充分だろう。

 対して、小柄な瞳ではそうはいかない。

 素人の体力で、走り回らなければならない。それゆえの消耗に違いなかった。


「あのさ瞳、ホント……大丈夫?」

「大、丈夫……って、何が?」


 瞳はようやくにして呼吸が整えつつ、答える。

 茉莉花は、どこか申し訳なさげに眉をひそめた。


「……瞳はさ、あたしに付き合って入部しただろ。あんまり運動とか得意じゃないのに。すげーしんどそうだし、脚もフラフラだし……」

「なんだ。そんなの心配いらないよ、茉莉花」


 再び額の汗をぬぐいながら、微笑んで瞳は答えた。


「本格的にスポーツやるのなんて初めてなんだから、しんどいのはわかってたよ。どういう風に動いたらいいのかも、まだわからないけど……

 でも、茉莉花と一緒にやれるなら私はそれでいいよ。茉莉花とちゃんと友達になりに、私はこの部活に来たんだし――」


 そこまで言って、瞳はもう一口、水筒のスポーツドリンクを飲んだ。わずかの間、何かを考え直すかのように視線を巡らせて、


「……ううん、茉莉花だけじゃない。他の子たちとも、一緒に友達になれたらいいなって思い始めたとこ。

 若森さん、真っ先に私の様子見に来てくれて、ポカリくれたし。中原さんは……まだあんまり話せてもいないけど、さっき激突しないように気を遣っててくれたから、たぶんいい子なんだと思う」

「瞳……」

「私は大丈夫。みんなのいい所を見つけて、ちゃんと友達になれれば、きっとやってて楽しくなってくると思うから。

 もちろん茉莉花とも、ね」


 汗にまみれながらも、辛さを感じさせない笑顔で瞳は言った。






 慈は、およそ10分後に体育着に着替えて戻ってきた。


「お待たせしました。やりましょ」


 慈の表情は硬い。スポーツを楽しもうというよりは、どこか挑戦的で真剣な表情になってしまう。

 それもそのはずだ。これは、間違いなく挑戦なのだから。


「えーと、3on2だとちょっとなんだな。僕が入ってもいいけど……」

「あ、先生、私いったん抜けます。ちょっと、だいぶ脚に来てるんで」


 座ったまま、瞳が手を上げてアピールした。

 これで、ちょうど2on2だ。


「了解。じゃあ、中原さんと氷堂さんペア対、若森さんと……」

「綾瀬です。1-Dの綾瀬慈」


 そう言えばまだ名乗ってもいなかった。慈は手短に自己紹介をする。

 亮介がかすかに微笑みを返して来た。


「ん、若森さんと綾瀬さんペアで。それじゃ位置に着いて!」


 ちょうど、クラス別でチームが分かれた形だ。

 慈は自然と、愛の方へと歩み寄っていった。身長の近い相手と相対するのが普通だろう、という考えだ。


「えっと、よろしく」


 愛が言ってきた。

 やや人見知りしているかのような様子だが、その表情にはどこか、バスケを楽しんでいるゆえの余裕のようなものが見えた。


「……ええ。こちらこそよろしく」


 言って、慈は位置取りをした。3Pラインの少し内側だ。


「いいんちょ、行くよー!」


 鈴奈が宣言して、ドリブルをつき始めた。

 幾度か抜きにかかるフェイクを入れたあと、茉莉花の横を通して慈にパスを繋ぐ。

 愛はパスをカットしには来なかった。少しかがんだ体勢で、待ち受けるようにボールにじっと注目している。

 慈はボールを保持したまま跳び上がり、ジャンプシュートを試みた。

 ほぼ同時に愛が跳び上がった。


(高っ……!)


 慈から見ても、それは壁がそびえているかのような圧倒感があった。

 シュートを放つも、愛が伸ばした右を越えるほどの高さはなく、


「はっ!」


 かけ声を伴って、愛の右手がボールを弾いた。

 ボールはそのままコートの外に向かってバウンドしていき、ラインを越える。

 驚異的な高さだ。

 慈は愛を省みる。先日の下校路で偶然目にした時も思ったが、3年生男子の平均よりも下手すれば高い身長だ。


(ほんと高いわ、この子……)


 対峙して、その高さはイメージ以上だと実感した。どういうわけか、ブロックに来た時は身長以上にさらに高く感じる。

 かすかに浮かんでいる愛の表情は、嬉しそうだ。自分の活躍の場所を見つけた、という様子。

 どうすればいいか。

 、どう攻略しただろうか。


「ひゃー、あいちゃんホント手強いなあ」


 鈴奈はボールを拾い上げ、コート外からスローインの姿勢を取る。

 慈は考えを巡らす。愛からどうやってゴールを奪おうか。

 そう考えるうちに、長い髪が胸の前へ垂れてくる。

 邪魔だ。

 左右の手で髪をかき上げ、肩の後ろにやり、


「綾瀬さん、ヘアゴム使う?」


 コート外で見学していた瞳が声をかけた。

 サイドテールに結い上げていた髪を下ろし、立ち上がって、ヘアゴムを渡そうとよろよろと歩いてくる。


「……いいの?」

「遠慮しなくていいよ。同じ部活の仲間……になるかもだから、って事で」

「……ありがと」


 慈は手を伸ばし、ヘアゴムを受け取った。

 ビーズで赤い宝石のイミテーションが飾りつけられている、綺麗で可愛らしいヘアアクセサリーを兼ねたヘアゴム。

 自分が普段からこういうものを着けようとしたら、きっと父はいい顔をしないだろう。


 それがいい。


 何がいいのかハッキリとは言えないけど、あの堅苦しくて煙たい父の意思に背くのが、なぜか面白く感じられた。

 慈は髪を束ねると、ヘアゴムでポニーテールにまとめた。


「OK、再開しましょ」

「おっけー。いくよ、いいんちょ!」


 愛と茉莉花がそれぞれマークについた事を確認してから、鈴奈は慈へとスローインした。

 再び、ボールが慈の手に戻ってくる。


 どうする。


 慈には、愛を上回る高さはない。振り切れるほどのスピードの差もおそらくないだろう。

 愛は真剣な目だが、どこか楽しそうだ。

 自分の活躍の機会への期待があるのだろう、さきほどと同じようにボールに視線を注いでいる。

 慈は記憶をたぐる。

 高さで叶わず、スピードでも恐らく大きな差はなく、そしてロングシュートもできない自分が愛を攻略する手段は、何があるか。


 ――あった。


 マンガで呼んだ時は古典的でしょうもない手だと感じた。

 だが、ここまでボールばかりをガン見している相手になら有効かもしれない。


 やってみよう。


 慈は再びシュートの体勢を取った。膝を伸ばし、ボールを構えて掲げ上げる!

 反応して、愛は跳んだ。

 慈の足は、地面についたままだ。


「えっ?」


 愛は空中で、呆けたような驚きの顔をした。

 慈はその横を、ワンドリブルしてかわす。

 今度は本当にシュート。

 バックボードに当てて跳ね返ったボールは、二度リングの上で跳ねて、ゴールのネットをくぐった。


 ――やった!


 愛を振り返ってみると、驚き半分、悔しさ半分という表情。

 してやったりだ。


「お見事。いいフェイクだ」


 亮介が軽く拍手して、慈を賞賛する。

 悪くない気分だ。じんわりと体全体が温まってくるかのような嬉しさが、そこにあった。


「へー…やるじゃん、あんた」

「そうかしら?」


 茉莉花の声に、慈は答えた。平静を装っていたつもりだったが、自分でも頬が緩むのが自覚できる。

 そんな慈に、悪戯っぽい笑顔で鈴奈が言った。


「いいんちょ、すっごい嬉しそうだよ」

「……っ」


 思わず、慈は顔を逸らした。かっと頬が熱くなるのが嫌になるほど実感できてしまった。

 楽しかった。

 確かにそうだ。愛を抜き、見事シュートを決めた瞬間、例えようのない優越感と達成感があった。

 小学校時代、どれほど勉強してテストでいい点を取ろうとも得られた事のない達成感だった。

 マンガで描かれていた試合の、決勝ゴールを争うワンプレイよりもリアルな興奮があった。

 もし入部すれば、中学3年間、この楽しみを味わえる。

 もし入部しなければ――


「いいんちょ、ボールちょうだい」


 はっ、と。気がつけば、鈴奈がセンターサークルでボールを要求していた。


「もうワンゲーム、やろう?」


 屈託なくそう言ってくる鈴奈。

 慈は――釣られたように、ふふ、と笑った。


「いいわよ。もう一本やりましょうか」


 綺麗なチェストパスで、慈はボールを渡した。






「運動部だと?」


 難色を示す父に、慈は記入済みの入部届を見せた。


「お父さん、ウチの学校は全員部活制なんです」

「知っている。しかし、なぜ運動部だ? お前はスポーツ推薦で進学できるほど運動ができるわけでもないだろう」

「……別に、部活は進学のためにやるわけじゃないので」


 厳格で堅苦しい父が相手だ。その言葉を絞り出すのに、相当な気力を必要とした。

 しばしの間、父は慈を厳しい目で見ていた。まるで犯罪者を取り調べてでもいるかのようだ、と慈は感じる。

 ちらり、と父が入部届に目を落とす。入部希望先は、女子バスケットボール部となっていた。


「もう少し、勉強の役に立つ部活にすべきだと思うんだがな」


 嘆息して、父は椅子の背もたれに身をよりかからせた。


「勉強は大事ですけど、そればっかりが学校生活じゃないでしょう? お父さんだって、たまにゴルフぐらいするじゃないですか」

「あれは仕事上の付き合いや接待を兼ねている」

「コミュニケーション手段だって言うなら、私にとってもそうです。友達や、顧問の先生との」


 慈はきっぱりと反論した。

 娘がこれほど反抗してくるのは初めてだからか、父も驚きを隠せない様子だ。


「……では聞くが、なぜバスケットなどというマイナーなスポーツを選んだ?」

「好きになったからです。バスケットが」


 慈は、惹かれた。4人がコートの中で活き活きとプレイしていたあの姿に。そして、自分が駆け引きに勝利した時、自分のシュートがリングに吸い込まれていった時のあの高揚感に。

 きっかけはマンガだっていい。

 本気でやってみたいと、心から思ったのだ。


「……運動部をやると、勉強の成績が落ちてしまう子は多いぞ」

「両立させてみせます」


 慈は即答した。

 父は一瞬だけその即答ぶりに驚いたものの、すぐに言葉を返す。


「もし、定期テストでひとつでも平均点未満を取ったら、運動部は辞めて勉強に専念させるからな」

「わかりました。それでいいです」


 平均点以上なんて取れて元々だ。きっと両立させてみせる。

 その条件さえクリアできているならば――

 あの輝かしいコートの上に、自分も立っていられるのだから。

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