#2 バック・トゥ・バック

「そんじゃー、行ってきまーす」


 真新しいセーラー服の上からグレーのジャンパーを着込み、氷堂ひょうどう茉莉花まりかは家族に告げた。


「行ってらっしゃい、気をつけてね」


 この3年ですっかり老け込んでしまった母は、優しく見送ってくれる。

 弟たちはまだ寝ている時間で、茉莉花の声に答えてはくれない。

 "氷堂製作所"と書かれた、錆びて朽ち果てた看板のかかった小さな工場。茉莉花はその裏手に回り、そこに停められていた自転車に跨った。

 今の時刻は4:45。新聞社の最寄りの営業所に、5:00には着くペースだ。


「っし。行くか」


 がしゃ、と音を立ててペダルを漕ぐ。

 新聞配達用にカゴを大型化した自転車。その鈍重な乗り心地にも、もうすっかり慣れたものだ。

 ここ最近で唯一変わった事と言えば、学校が変わった事だ。この4月から通い始めた明芳中は、3月まで通っていた小学校と比べて、営業所から少々遠い。

 今までより、気持ち早めに配達を終わらせる必要があった。


(しっかし)


 まだ完全には夜が明けきらない薄暗さの中、茉莉花は街路樹に目をやった。

 綺麗な桜だ。そろそろ散り始めの時期になったとはいえ、春の訪れをありありと告げてくれている。


(すっかり暖かくなったもんだなあ)


 茉莉花は、冬の朝の空気が好きだった。

 冬の朝は寒いながらも、空気が澄んでいるような独特の心地よさがある。そこに眩しい朝日が投げかけられると、今日も一日頑張ろうという気分になってくるのだ。

 4月になって、あの独特の心地よさが感じられなくなってしまったのが残念だ。自転車で風を切る際の、身を切るような痛みを伴う寒さがないのは幸いだが。

 まあ、でも、いいのだ。

 春になれば暖房代がかからない。その分、生活が楽になるのは間違いないのだから。






 #2 これからは、目を合わせてバック・トゥ・バック






「おはよー、茉莉花」


 朝のホームルームの時間にどうにか間に合って教室へ到着した茉莉花を、友人の挨拶が出迎えた。

 神崎かんざきひとみ。茉莉花の小学校時代からの友人だ。


「はよ。あーヤバ、遅刻するかと思った」


 どうにか間に合った安堵感から、茉莉花はどっかりと椅子に腰を下ろす。


「また配達?」


 茉莉花の席まで歩いてきて、周囲に聞こえないよう声を潜めて瞳は聞いてきた。

 茉莉花は小さくうなずいて肯定する。瞳は、細い眉をひそめる反応を見せた。


「大変だよね。大丈夫なの?」

「大丈夫だって。このぐらいでしんどいなんて、あたしは感じないから」


 にかっと笑って茉莉花は答えた。が、瞳の表情は訝しむような、心配するような、そんな様子のままだ。


「……数学の宿題やってる?」

「あっ」

「ほらね」


 言わんこっちゃない、大丈夫じゃないじゃないか。そう言わんばかりに、瞳は肩をすくめた。


「ごめん瞳、ノート写させて」

「はいはい」


 既にそう来るのを予想していたかのように、瞳はノータイムで数学のノートを取り出し、宿題のページを広げた。

 まだ真新しいノートを広げ、茉莉花は手早く宿題を写していく。当然、内容を頭に入れている時間などはない。

 その様子を、瞳は悲しい目でじっと見ていた。


「……ねえ、茉莉花。これでいいのかな」

「何が?」


 ノートを写す手を止めて、茉莉花は聞き返す。


「茉莉花の事。隠れてバイトとかしてさ、勉強が後回しになってるし……」

「別にいいよ。あたし、もともと勉強そんな得意じゃないしさ」

「勉強だけじゃなくて。夜、内職の手伝いもときどきしてるんでしょ? 趣味とか、遊んだりとかしてる?」

「……そんな余裕ないよ」


 茉莉花は目を伏して、ノートを写す作業を再開した。


「それに、そういうのは弟たちが優先だろ。あたしよりも」

「んぅ……」


 いまいち納得がいかない様子で、瞳は茉莉花の様子を凝視している。

 ちらり、と茉莉花は瞳を見返した。


 ――可愛くなったなあ、瞳。


 同性の目で見てもそう思う。小学の頃からおしゃれな子だったけど、中学に上がって一層可愛くなった気がする。

 周りの女子と同じ制服を着ているはずなのに、ひときわ目を引いて目立つ魅力がある。

 いやらしくない程度に短いスカートに、脚がスリムに見えるという黒のソックスを絶妙に合わせている。ある程度自由なものが認められているスカーフ止めのピンも、ワンポイントの飾りがついたものを使っていて良いアクセント感を演出している。

 要するに着こなしが上手いのだ。

 髪型も、小学の時はツインテールだったのを、今は左側だけのサイドテールにまとめ、可愛らしさを残しながらも過剰に子供っぽくない、すっきりとした感じを出していた。

 身長は148cmと低い方だが、それすらも"小さく華奢で可愛らしい"というイメージに昇華しているようだ。

 しかも、ただおしゃれなだけのチャラチャラした子じゃない。小学校時代からずっとテストの点はクラスで上位で、先生からの評価も高かった。

 今ちょうど写させてもらっているノートの細やかさを見るに、きっと中学でもいい成績を取るのだろう。


 ――それにひきかえ。


 茉莉花は自分の姿を省みた。ろくに整えてもいないショートの髪に、特に何も工夫せずに着ている制服。ソックスひとつ取っても小学の時と同じ無地の白だ。勉強の出来は下から数えた方が早いし、バイト疲れでときどき授業中に寝ている事もあるので先生の印象も良くない。瞳以外の友達もほとんどいない。

 なんだか凄い落差だ、と自分でも思う。

 むしろ、なんで瞳が自分の友達やってくれているのだろうか。一度、真面目に聞いてみた事があった。


『そういうの考えないのが友達ってもんでしょ?』


 満面の笑顔でそう答えてくれてから、瞳は茉莉花にとって"親友"にカテゴライズされる存在になった。


「あ、茉莉花、先生来たよ」


 今もこのように、ノートを写している姿を見られたらまずい相手の到来を教えてくれた。まったくもって感謝しかない。

 茉莉花はノートを写す手を止めた。同時に、瞳は自分の席へと戻っていく。

 たまたま宿題を忘れてしまった教科の担当が、クラスの担任でもあるというのが実に都合が悪い。


「はいみなさん、おはようございまーす」


 瞳の言うとおり担任の教師が教室に入ってきた。

 まだ24歳だという若い男性教諭、斎上先生。ちょっと優男風で、いささか頼りない印象だと茉莉花は思う。

 男というものは頼りがいがあるべきだ。時には厳しい事も言えるぐらいの強さが必要だし、体格だってガッチリとした方がいかにも力強そうでいいに決まっている。

 その基準で考えると、彼はあまりにも頼りなげだ。

 斎上はいつも通りに出席番号順に出欠を確認する。毎日の恒例行事だ。続いて、今日の連絡事項と来るのだろう。


「えーと、今日はみなさんに連絡があります。まず最初にプリント配りますので、それを見てください」


 斎上が先頭列の生徒たちにプリントの束を配った。それが、前の席から流れてくる。どうやら二枚組のようだ。

 なぜか、茉莉花のふたつ前の席の非常に背の高い女子は、自分の分は取らずに後ろに回して来たが。


「知ってる人もいると思いますが、明芳中ウチは、全員部活制です。みなさんもどこかの部活に所属してもらう事になりますが、それにあたって各部活のオリエンテーションが今週から始まります」


 配られたプリントに目を落とすと、一枚は部活とオリエンテーション会場の一覧。もう一枚は入部届の用紙だった。


「5月の第1週までに所属する部活を決めて、入部届を顧問に提出してください。提出するまでは体験入部期間となるので、掛け持ちや転部も自由です。もしわからない事があれば……」


 茉莉花は既に話を聞き流していた。

 どうせ、自分には縁のない話だった。






「ねえ茉莉花、部活どうするの?」

「んー? うん」


 瞳に対して適当に相槌を打ちながら、茉莉花は外履き用の古びたスニーカーに履き替えた。

 放課後のグラウンドには野球部やサッカー部の姿が見える。

 どこかお祭りのような賑やかさを漂わせているのは、新入生を勧誘しようという試みによるものだろう。恐らくは校舎内でも、文化部が似たような事をしているはずだ。

 一年生たちがめいめい気になるであろう部に見学や仮入部へと足を向ける中、茉莉花はまっすぐに正門へと向かった。瞳も、その横に並んでついて来る。


「ねえってば、茉莉花」

「んー。まあ、どっか適当なとこに入るよ」


 小耳に挟んだ噂では、卓球部が事実上ほとんど活動しておらず、実質的に帰宅部となっている生徒たちの受け皿と化しているらしい。

 どこかの部活に強制的に所属させられるというのなら、まあ、そこでいいだろう。

 どうせ、部活などやっている時間はないのだ。

 しかし瞳は、茉莉花の答えに、やるせない表情を見せた。


「茉莉花さ、お父さんの事がなければ……」

「言わないでいいよ、オヤジの事は」


 茉莉花は瞳の言葉を遮って言った。心なしか足早になりながら。


(確かに、オヤジが生きてりゃもっとマシな生活してただろうけどさ)


 茉莉花の父は小さな鉄工所の社長だった。従業員4人しかいない町工場で、自動車の部品になるネジや金具を作って生計を立てていた。

 小さい工場ながらも一国一城の主としてのプライドがあり、昔ながらの職人気質な男だった。

 家族に対する愛情と責任感がとても強く、妻に対しても『金は俺が稼ぐ。お前は家を守れ』と、常々そんな調子だった。

 風邪ひとつ引いた事すらないほどに頑健で、家族は彼が体を壊す事すら想像だにしていなかった。


 それが、仕事中の事故で命を落としたのが3年前だ。


 当時の茉莉花は詳しい話までは理解できなかったが、どうやら工場のプレス機械に体を挟まれたらしい。

 残された母は、大学卒業と同時に嫁入りしてきた身だったため社会に出た経験もなく、母が会社勤めして家計を支えるのも難しかった。

 仕方なく、本来まだ働けない年齢のはずの茉莉花もバイトで家計に協力している。


(そりゃあ、あたしだって)


 ちらりと、茉莉花はグラウンドに目をやった。

 ソフトボール部が歓声を上げている。どうやら体験入部に来た1年生を打席に立たせ、部員のピッチャーと対決させて、もし打てたら凄いぞというような催しをしているようだ。

 たった今、制服姿の1年生が凡打ながらバットに当てる事に成功し、喝采を浴びている。


(あたしだって、ホントはああいうのに混ざりたいけどさ)


 元来、茉莉花は体を動かすのは好きな方だった。小学4年の冬までは、しょっちゅう男子に混ざって野球やサッカーをやっていた。

 父が死んでから、そんな時間もなくなった。

 同世代の子と遊ぶ時間がなくなった結果、友達も減った。


 そんな生活になってもう3年が経つ。


 今更あの頃のような楽しい日々に戻れるとも思えない。恐らくこのまま中学3年間を終え、卒業と同時に就職する事になるだろう。それはもう仕方ない事として受け入れている。

 願わくば、弟二人はまともな学校生活を送ってほしい。そのためには、せめて二人が公立の高校に通えるぐらいには茉莉花が稼がなければならないのだ。

 部活なんて贅沢をしている余裕は、どこにもない。

 自分の中で結論づいている内容を噛み締め直しながら、茉莉花は校門手前の体育館を通り過ぎようとして、


 ――おおお!


 体育館から聞こえた歓声に、ふとそちらを省みた。

 バスケットゴールの下に、ちょっとした人だかりができていた。その中央にいたのは、ワイシャツにスラックス姿の男性だ。


「あれって斎上先生じゃない?」


 茉莉花と同じ方向を見た瞳がそう言った。言われてみれば、確かにそのように茉莉花にも見える。

 思い出したように瞳は、朝のホームルームで配られたプリントを取り出した。


「斎上先生って女子バスケ部の顧問なんだって。まだ部を作るのの手続き中らしいけど」

「ふーん」


 茉莉花はそっけなく相槌を打った。あの担任の先生はスポーツなどやっていそうな印象はなかったので、少々意外だ。

 遠目に見ていると、斎上は手近にいた長身の女子にボールを渡した。

 あの女子は確か、茉莉花のふたつ前の席に座っている――中原と言っただろうか。


 二人は何やら話していた。中原はやや困ったような顔だったが、やがて意を決したかのようにボールを放り上げた。

 斎上は少し助走をつけて跳び上がると、バックボードに当って跳ね返ってきたボールに手を伸ばし、ゴールリングに向かって片手で弾いた。

 すぱっ、と音を立ててボールがリングに吸い込まれる。

 おおおー……! と再び歓声が上がった。


「へえ……斎上先生って結構上手い人みたいだね」


 スポーツに関しては全くの素人の瞳から見ても、なかなか凄いと思えるものだったようだ。

 確かに、茉莉花も今のワンプレイは足を止めて見てしまった。

 残念なのは、歓声を上げているのは既に男子バスケ部に所属している男子ばかりだった事だ。部員を集めるためのパフォーマンスなのかもしれないが、肝心の女子が観衆にいないのでは、斎上の目的は果たせないだろう。


 それに、中原の存在もきっとマイナスだ。


 朝のプリントを受け取らなかったのは、彼女が既に女子バスケ部への入部届を提出しているからだったのだろう。

 もしそうであれば、今、斎上の助手っぽい事をしたのとも辻褄が合う。

 だが中原と斎上が組んでいる所を見れば、やはりバスケは身長の高い人のスポーツなのだという印象を抱くに違いない。

 実際、茉莉花の目には、あの二人は自分と違う人種に見えた。


(もしやったとしても、あたしじゃ話にならないんだろうな)


 茉莉花の身長は153cm。やや低めだが、1年生の女子としてはおおよそ平均レベルの身長だ。中原とは、頭ひとつぶん近い差がある。

 まあ、いずれにせよ部活などやっている時間はないのだが。


「瞳、帰ろ」

「あっ、うん」


 茉莉花は体育館を後にし、校門を抜けた。

 瞳と他愛もない話をしながら、学校の裏手のひなびた住宅街へと向かった。目的地は、その一角にある細い路地裏だ。茉莉花の自転車は、そこに停めてある。

 なぜ学校の駐輪場を使わないのかと言えば、当然、新聞配達のバイト用の自転車だからだ。

 バイト先の名前入りの自転車を堂々と学校に停めておけるわけがない。


「それじゃ瞳、あたしはここで……」


 自転車を停めてある路地で瞳にそう告げて、自転車のチェーンロックの鍵を手に取って――

 茉莉花は、目を疑った。


「? 茉莉花、どしたの?」


 声を失ったように硬直した茉莉花に瞳は問いかける。


「……ない」


 茉莉花が目を向けた路地には、何もなかった。


「あたしのチャリ、パクられた!」


 バイト先からの借り物をなくした事に、茉莉花は蒼白になった。






 盗難に逢った自転車は、2日後に発見された。

 だが、茉莉花が新聞社の営業所に連絡した後、警察と学校に情報が伝わり、話が大きくなってしまった。


「氷堂さん、中学生は法律上バイト禁止なのは知ってるね?」


 ただならぬ問題に、亮介も生徒指導室を使わざるを得なかった。向かいの席には、茉莉花と瞳が座っている。


「知らねーよ」

「茉莉花、そういうのやめなよ。……ごめんなさい先生、茉莉花も悪気があるわけじゃないんです」


 素直に話に応じようとしない茉莉花に、フォローしようとする瞳。さっきから、ずっとこの調子だった。


「氷堂さん、さすがにシラを切って済ませられる話じゃないぞ」

「だったら退学にでも何でもすりゃいいだろ」


 できるもんならな――という言外の言葉が、不貞腐れた横顔には見て取れた。

 子供はそこまで物知らずじゃない。公立の中学で生徒を退学にするなど普通はない事も、少年法のおかげで自分が重い罰を受ける可能性がない事も知っている。

 そうでなければ、こんな不遜な態度が取れるはずもない。

 もっとも、そんな態度を強硬に取っている理由は亮介にはわからないが……


「なあ氷堂さん、せめて理由を教えてくれないか。どうしてもお金が必要だって言うのなら、その理由を」


 亮介は先日の校長の言葉を思い出し、茉莉花に問いかけた。愛の時と同じく、茉莉花の態度もまた助けを求めてのものではないかと思って。

 しかし、茉莉花は亮介と目を合わせようとはしなかった。


「教えたって、センセーがどうこうできるわけじゃねーだろ。カネの事なんて」

「そうとも限らないだろう」

「理由が良ければセンセーがカネくれるのかよ? はっ、すげーな。給料いくら貰ってんだよ」


 まともに対話に応じようとしない。難敵だ。

 それに中学生の女の子の言う事とはいえ、こうも露骨に煽られれば亮介とてまったく苛立たないわけでもない。

 だが、しばしの沈黙のあと、瞳が口を開いた。


「ごめんなさい、先生。茉莉花はお小遣い稼ぎとかでやってるんじゃないんです」

「おい、瞳――」


 横槍を入れようとする茉莉花を制して、瞳は話を続ける。


「小4の時に茉莉花のお父さんが事故で亡くなって、それからずっと茉莉花はバイトとか内職とか手伝ってるんです。弟が二人もいるのに、お母さんも仕事に就けてなくて生活が苦しいからって……」


 洗いざらい、瞳は喋ってしまった。切迫した表情で、目の前の教師に理解を求めるように。

 はあ、と茉莉花はため息をついた。


「……で? センセー、どうすんだよ。あたしんちが貧乏だから、カネくれるか?」


 できないだろ? と言わんばかりの口調。


「氷堂さん」


 亮介は静かに立ち上がった。目は笑っていなかった。


「大人を、なめるな」

「っ」


 茉莉花は一瞬、怯んだ。亮介の口調は、それほどに決然としたものだった。

 殴られでもするのかと思って茉莉花は身を縮こまらせた。

 だが亮介の取った行動はと言うと、携帯電話を取り出した。少し古い型のスマートフォンだ。それを手早く操作すると、耳に当てた。


「……ああ、小鳥遊。斎上だけど。今、小鳥遊って福祉課にいたよな? ちょっと明芳中ウチの生徒の事で相談したいんだ。

 生徒の中にバイトしてる子がいるんだ。……うん、中学なのに。で、話を聞いたら、どうも父親を亡くしてから家計が苦しいらしい。

 これって市の就学扶助金の対象になるよな?

 ……うん。ああ。OK。……生活保護の受給? それはわからない、あとで聞いてみる。あと、他にも併用できる制度がないか調べて――」






 結論から言えば、本当に家計の事はどうにかなってしまった。

 茉莉花は法律や条令の詳しい事はわからない。

 だが、あの先生がかけた一本の電話のあと、家に役所の人間や校長先生がやってくるという事が何度かあって、数日後にはもうバイトはしなくても大丈夫だと母から告げられた。

 まったくの無条件でというわけでもないらしく、来月一杯までにこの家を引き払い、公営のアパートに引っ越さないといけないらしい。引っ越し後も決して裕福な生活ではないらしいが――


(でも、あんな嬉しそうな母ちゃん、見たことない)


 遅くとも来月の末には別れを告げる事になる四畳半の自室で、茉莉花はごろりと横になりながら思い返した。

 家を訪れた人々に対して、母は何度も涙ぐみながら礼を言っていた。

 とてもよくしてくれたのだろう。役所の人々も、校長先生も、そのきっかけを作ってくれた担任の先生も。


(あたし、大人をなめてたのかな)


 母は世間知らずだ。社会に出て働いた事がないのだから仕方がない。

 そんな母に育てられて来た、まだ子供である自分ももちろん世間知らずだ。

 世間と家の橋渡しは、いつも全て父がやってくれていた。

 父が生前の間は、ずっとそうだった。何でも、父に頼ればよかった。

 頼もしい大人の代名詞が、父だった。

 その父が蘇ったかのように、家にのしかかっていた金銭的な問題が、あっという間に解決してしまったのだ。


(……斎上センセー、か)


 背が高いだけの、ヒョロい優男という印象だった。クラス全員に対して話しかける時はなんか丁寧語になるし、今ひとつ気も弱そうだと思っていた。

 それが、父の背中を思い出すほどに頼もしかった。

 大人をなめるなと言い切ったあの時、驚くほどの力強さがそこにはあった。

 そして電話一本で人を動かし、氷堂家の問題を解決してしまった。

 格好良かった。


(……………………いや。いやいやいやいや)


 茉莉花は勢いよく上体を起こし、激しくかぶりを振った。

 自分は何を考えているのか。父親に対してならともかく、先生とはいえ男の人に対してそういう風に思うと意味が違って来やしないか。

 頬が熱い。汗が垂れてくる。

 自分らしくない。茉莉花はガリガリと頭を掻いた。

 言葉にできない、わけのわからない気持ちが自分の内側から湧き出てくるのは、それでも止まらなかった。

 どうしたものかと思いながら、ふと半開きのカバンに目を向ける。

 結論を棚上げされたままの入部届の用紙が、未記入のまま姿を覗かせていた。


(……そういやセンセーって、女子バスケ部を作ろうとしてるんだっけ)


 ふと、彼が体育館でパフォーマンスらしき事をやっていたのを思い出した。

 生憎、観衆は男子ばかりだった。きっとあのままでは部員は集まるまい。

 そして茉莉花は、部活ができない理由がなくなったばかりだった。


(よし)


 茉莉花は用紙を手に取り、古びた木製の勉強机に置いた。そして、おもむろにペンを取る。

 先生は部員が欲しい。自分は部活がまだ決まってないし、バイトの必要がなくなって空いた時間を使うあてもない。昔のように思いっきり体を動かしたい欲求もある。

 いわゆるWin-Winというやつだ。

 バスケを本格的にやった事はないし、身長も高くはない。でも、朝の新聞配達で身についた体力できっとどうにかできるだろう。運動神経にもそこそこ自信はある。

 瞳にも声をかけてみよう。彼女は運動があまり得意ではないし、もし既に入部先を決めていたなら無理強いはできないが、誘うのは何も悪い事じゃないはずだ。

 瞳と一緒だったらきっとお互い楽しくやれる。先生だって頭数が多い方が喜ぶに違いない。なんなら瞳はマネージャーって手もあるはずだ。

 もうバイトもないのだ。ゆっくり眠って明日を迎えよう。教室に着いたら、おはようって瞳に挨拶して、部活の事を話してみよう。

 学校に行くのが楽しみだ。興奮のあまり寝つけなくて、早く目が覚めてしまいそうだ。

 こんな感覚は、小学校に入学した時以来かもしれなかった。






 亮介はその日の朝、軽い運動をしていた。

 校庭の隅の、石灰でラインを引いた屋外バスケットコート。ゴールは長年使われて来たようで、支柱はところどころ錆びていて、木製のバックボードの塗装も剥げている。

 それでも、感覚を思い出すのには充分だった。

 7年前を思い出す。

 自分の行く手を阻もうとする、相手チームのディフェンスのイメージをコート上に投影する。

 ドリブルをついて、駆け出す。

 ゴールの左側からアプローチ。

 相手とおよそ1メートルの距離まで詰めて、フェイクを交えて、右、左と交差ドリブルクロスオーバー

 右に持ち変える瞬間、敵に背を向けて反転し、ゴールの右側へと流れるようにスピンムーブ!

 ディフェンスを置き去りにした。

 そして、手首を利かせてジャンプシュート。


(入った)


 結果を見るまでもなく確信した。

 シュートフォーム、ボールリリースのタイミング、そして力の入れ方。全てが完璧にできた時に感じる、強烈な既視感。

 何度も見返した映画を再生するかのように、ボールはノータッチでリングの中央へと吸い込まれていった。


 調子がいい。


 数年ぶりにバスケに関われる事の嬉しさを噛み締める。やはり自分はバスケが好きだったのだと再認識する。今度はプレイヤーではなくコーチの立場としてだが、部が始動するのが今から楽しみだ。

 まだ部員が集まらないのが問題だが――


「おはようございます、先生」


 ゴールリングを通過して地面で跳ねたボールを、女子生徒が拾い上げた。

 左側頭部で結い上げたサイドテールの髪に、1年生にしても低い身長、くりっとした目。人好きのする微笑みを浮かべた顔。

 神崎瞳。亮介が担任するクラスの一人であり、先日、生徒指導室に呼び出された氷堂茉莉花に付き添ってきた友人だと言っていた。


「やあ神崎さん、おはよう」


 亮介はにこやかに答え、返球を求めるように片手を上げた。

 瞳は両手で持ったボールを頭の上に持ち上げると、腕を振り下ろすようにしてボールを投げる。ボールは大きな山なりの軌跡を描いて、亮介が上げた手よりもだいぶ低い位置にゆるやかに飛んできた。

 球技未経験者によくある、手首スナップの利いていない投げ方だ。なんとも微笑ましいが、笑うのも失礼なので、亮介はどうにかこらえた。

 腰を落としてボールをキャッチし、その場でドリブルをつき始める。


「早いね、神崎さん」


 時刻はまだ8:20。朝のショートホームルームが8:45からだから、だいぶ早い。

 生徒にとっては、まだようやく運動部の朝練が終わろうかという時刻だ。

 ちなみに亮介が屋外コートを使っているのも、体育館は朝練で塞がっていたからである。


「ちょっと、先生にお礼が言いたくて。……茉莉花の事は本当にありがとうございました」


 愛らしい顔に照れ臭そうな表情を浮かべてから、瞳はまるで自分の事のように深々と頭を下げた。

 亮介はボールをつく手を止め、彼女に向き合う。


「気にしなくていいさ。生徒が困ってるなら、それを助けるのも教師の役目だからね」

「でも、今まで茉莉花の事ををそこまで気にかけてくれる先生はいなかったんです。法律とかお金の事とかに詳しい人も」

「たまたま、僕が役所にコネを持ってただけさ」


 これは本当だ。高校時代のチームメイトの一人が地元の役所に就職していたおかげで、すんなり話を進める事ができた。

 それにしても――


「神崎さん、本当に氷堂さんと仲がいいんだね。さっきから自分の事みたいに言ってるし、バイトが発覚した時も氷堂さんを庇って……」

「……」


 瞳の表情から、微笑みが消えた。


「神崎さん?」


 あまりにも唐突な変化は、亮介の目にも明らかだった。

 やがて瞳は、しばらく黙ったのちに言った。


「先生。茉莉花のお父さんを死なせたのは、私のパパなんです」






「私のパパ、モトキ自動車に勤めてるんです」


 亮介は車にあまり興味はないが、それでもその会社の名前はよく知っていた。誰もが知っている超一流企業だ。


「生産管理、って先生わかります?」


「ああ、概要ぐらいはね。工場でのものづくりに必要な材料とかを手配して、予定通りに生産活動ができるようにコントロールする仕事だっけ」


 大学時代、就職活動をした頃の記憶で亮介は答えた。

 正解だったらしく、瞳はうなずく。


「パパの仕事がそれだったんです。家でもちょくちょく、不良品が出て部品が足りなくなったとかの電話がかかってきてたらしくて…

 氷堂製作所に至急やってもらう、みたいな事をパパはよく言ってました」

「……氷堂さんの家は」

「工場です。自動車部品の」


 話が繋がりかけている。

 だが今の話を聞く限りでは、氷堂製作所は、大企業にトラブル対処も依頼されるほどの優秀な取引先だったというだけの話に聞こえる。

 ややあって、瞳は言葉を続けた。


「……パパは氷堂製作所をすごく高く評価してたんです。安いし、早いし、無茶な要求にも応えてくれるって。それこそ、困ったらあの工場に振ればいい、ぐらいの感じでした。

 それが行き過ぎて、パパは無茶を言い過ぎたんです。

 3年前の12月に……内容はよく知らないですけど部品が足りなくなって、このままじゃ工場が完全に停まる、みたいな事が起きたらしいです。

 先生、知ってました? 大きい会社って、工場が1秒停まったあたりいくらの損害、って計算するらしいんですよ」

「……シビアだね」


 1時限は50分という、大きなくくりの中で仕事をしている亮介にしてみれば、想像もつかない世界だ。

 だが亮介にも想像がついた事がある。本当に工場が停まってしまったなら、そうやって損害を計算する以上、瞳の父は具体的な損害額に基づいた責任を取らなければならなかったであろう事だ。

 そんな事態になれば、瞳の父は給与、昇進に関わる評価、あらゆる面において不利になっただろう。


「パパだって、そんな責任は取らされたくなかったと思います。だから……無茶振りしちゃったんです。氷堂製作所に。

 徹夜しないと終わらないぐらいの量の仕事を、明日までにやってくれって。

 茉莉花のお父さんはその日、近所の商工会の忘年会でお酒飲んじゃってたそうです。その状態から仕事に呼び戻されて……」

「そうして事故が起きた……」


 亮介が口にした言葉に、瞳は静かにうなずいた。

 工場の機械というものは、下手に扱えば大怪我のもとになる事ぐらいは、亮介にもわかる。まして、アルコールが入った状態でなど危険極まりないはずだ。


「……結局工場は1日停まっちゃって、パパは左遷されました。

 でも、おかしいですよね。外注先の工場で人が死んでるのに、パパはクビにもならずに大企業で仕事を続けてるんです。

 茉莉花のお父さんは死んじゃって、酔ってたからって保険金も出なかったらしいのに……」


 瞳はそこで押し黙った。亮介も、返す言葉がなかった。


 ――キーンコーンカーンコーン……


 いつの間にか、8:30になっていた。予鈴が、どこか寒々しく響き渡る。

 予鈴の余韻が消えた頃、瞳は再び言葉を紡ぎ出した。


「……氷堂、っていう名前はパパからよく聞いてました。

 小4の時、クラスメイトに氷堂って苗字の子がいて……あの事故のあとから急に元気がなくなって、クラスから孤立していってました」

「……」

「放っとけなかったんです。放っといたら、悪い気がして……」

「――瞳」


 瞳の背後から、声がした。






 茉莉花は普段よりだいぶ早く学校に着いた。

 バイトもなくなったため、ゆっくり家を出たはずなのに普段よりも早く学校に着くのが新鮮で、どこか心が踊るようだった。

 そして校庭の隅のバスケットゴールの近くに、今日もっとも話をしたい二人の姿を見つけた。

 幸先良いと思った。何やら話している二人のところに、自分も混ざろうと思って小走りに近づいていった。

 そうしたら聞こえてきた話は、何なのか。


「――瞳」


 絞り出した声は、自分でも驚くほど平坦な声音で、かすれていた。


「……茉莉花」


 瞳は振り返った。まさか、茉莉花に聞かれるとは想定していなかったという表情で。

 茉莉花は瞳に詰め寄って肩を掴んだ。

 指に力が篭もり、瞳の細い肩に指が食い込んだ。


「……い、痛いよ、茉莉花」

「うっさい! 瞳、今の話はどういう事だよ……」


 我知らず、茉莉花は歯を強く食いしばる。睨みつけるように瞳を凝視する。

 溢れ出す感情をどこかにぶつけずにはいられない。

 目を逸らしていた瞳は、やがて観念したかのように恐る恐る茉莉花と目を合わせた。


「……ごめん、茉莉花。今まで黙ってて……」

「なんで黙ってたんだよ……!」

「……」


 瞳は答えない。

 茉莉花は瞳を掴んで放さなかった。答えが得られるまで、決して放すまいと。


「……私のパパのせいで、茉莉花のお父さんが」

「そうじゃねえよ!!」


 茉莉花は、さらに指に力を込めた。


「オヤジの事はそりゃ悲しかったよ。辛かった。でも、酒呑んで機械を動かそうとしてたオヤジだって悪い。酒入ってるから無理だって言えばよかったんだ。瞳のオヤジさんだって、言いたくて言ったわけじゃなくて仕事だったんだろ?

 あたしが言ってんのは、瞳が同情してあたしに近づいて来ただけだったのかって事だ!

 あたしはそんなの望んじゃいねえ! あの事故以来、バイトとか内職とかのせいで遊ぶ時間がなくなった。友達なんかずいぶん減っちまったのも確かだ。

 でも、だから、瞳は本当の友達だって思ってたのに……!」

「……」

「何とか言えよ、瞳! 親のしでかした負い目で、あたしの友達のフリしてただけなのか!?」


 詰め寄る。さらに言葉を浴びせ続けた。


「あたしは……あたしは瞳の事を親友だと思ってた!

 いつもおしゃれで、可愛くて、勉強もできて、いろんな事に気がついてくれる、あたしの自慢の親友だと思ってた! それなのに…!」

「……私だって」


 瞳は茉莉花の腕を掴んだ。顔を上げ、茉莉花の視線を受け止めてきた。


「最初は同情とか負い目だった。それは否定しないよ。でも、一緒にいるうちに茉莉花のいい所をいっぱい見てきた。ぶっきらぼうだけど、優しくて責任感があって、時々すごいかっこよくて……

 私だって茉莉花の事を大事な友達だと思ってた! でなきゃ、いつも一緒にいないよ!」


 瞳の腕に力が篭った。あまりに非力で、茉莉花を押し返すには至らない。


「瞳ぃ……!」


 どうすればいいのかわからない感情が溢れた。目頭の熱さも限界に達していた。

 そんな二人の間に、亮介が割って入った。


「二人とも、そのぐらいにしておくんだ」


 二人を引き離し、制止する。

 亮介を挟んだ左右に、茉莉花と瞳は分かたれた。

 茉莉花の手の中では、入部届の用紙が握り締められてグシャグシャになっていた。


 ふと、茉莉花は入部届の用紙を省みた。

 何をやっているんだろう。

 親友がいて、信頼できる先生がいて、バイトの必要もなくなって、これから学校が楽しくなるはずだったのに。

 なんでこんな所で、親友とケンカしているんだろう。

 どうして、親のしがらみを引きずっているんだろう。

 親同士の事がなければ、普通の友達として出逢って、こんなわだかまりを気にする事もない関係でいられたはずなのに。

 ただ無邪気に、同じ時間を過ごせる友達でいられたはずなのに……


 なんで、瞳は加害者の娘なのか。

 どうして親の負い目なんかを気にして近づいて来たのか。

 なぜ、自分はそれに気づけなかったのか。

 いっそ何も知らなければ、今まで通りの友達でいられたはずなのに。瞳の事情を知ってしまった今、もう元には戻れない。


 ――ぽた。


 グシャグシャになった入部届に、涙がこぼれた。






 その日、二人はそれ以上口を聞く事がなかった。






 瞳はその日、どれほどぶりかもわからない、一人での帰路を辿った。

 話す相手のいない帰り道は、楽しくなかった。

 気分を紛らわすため、久しぶりに駅ビルのデパートに寄って小物を眺めてきたが、何を見ても綺麗だとも可愛いとも思えなかった。

 そうして無為に時間を潰して、家に着いた時には19:00を過ぎていた。


「ただいま……」

「あっ、おかえりなさい瞳ちゃん! パパももうすぐ帰って来るからね、そしたら久しぶりに一緒にご飯にしましょ!」


 なぜだか、母は上機嫌だった。ただでさえ細い目をいっそう細めて喜びを露わにしている。

 だが、何があったのかを問う気力も、今の瞳にはなかった。


「……ん」


 適当に相槌を打って、瞳は自室へ向かって階段を上がっていく。


「瞳ちゃん? 元気ないけど、どうしたの? 何かあった?」

「別に、何でもない」

「そう? じゃあほら、元気出して。あのね、パパはお仕事で昇進が決まったんですって! 今日はそのお祝いでご馳走よ」


 よりによって、こんなタイミングで。

 今日、一番聞きたくなかった話だ。瞳は、返答もせずに自室に入った。


「瞳ちゃん? ねえ、どうしたの瞳ちゃん!」

「ご飯になったら呼んで。ちょっと寝てるから」


 部屋に鍵をかけ、カバンを投げ出すようにしてベッドに倒れ込んだ。

 やっぱり納得がいかない。おかしい。

 茉莉花は父親を失ってしまったのに、なぜその原因になった側がぬくぬくと暮らしていられるのか。


 でも、どうすればよかった?

 氷堂家と同じように、神崎家も不幸になればよかった?


 きっとそれは違う。

 神崎家が不幸になったぶんだけ、氷堂家が幸福になるような事はない。

 たぶん、そんな考え方は、どっちもドン底に落ちていくだけだ。

 幸せっていうのは、差し引きゼロになる数字遊びじゃない。


(でも、だとしたら……)


 瞳は枕を抱え込み、顔を埋めた。


(私は、茉莉花に何をしてあげたらいいんだろう)


 茉莉花の事、事故の事、父の立場の事、いろいろな事が頭を巡っていく。

 そうしているうちに、いつしか瞳は浅い眠りに落ちていった。






 夢を見ていた。

 小学4年の時の記憶だった。

 クラスメイトのうち、あまり親しくもないはずの氷堂さんがやけに視界によく入ってきた。

 快活な少女だった。行事の時なんかにはいつも行動が積極的で、クラスの中心にいたと言っていい。勉強はあまり得意ではないようだけど。

 あんまり女の子らしい感じの子じゃなかった。男子に混ざって遊んでいる事も多く、瞳とは接点がなかった。


 もったいない。


 あの子はとてもいい子だ。

 喋り方が蓮っ葉なだけで、情が深くて優しい子なのだ。家族を辛い事から庇うために、自分が盾になろうとするほどに。

 瞳はそれを知っている。

 あと数ヶ月もすれば、彼女が父親を亡くし、その表情が曇ってしまう事も知っている。

 そうなってから、彼女の周囲から友人がいなくなっていってしまった事も。

 そんな状態の彼女に擦り寄って行き、傷を舐め合うように友人を装っていたのが自分だったという事も。


 チャイムが鳴った。

 茉莉花はドッジボールを小脇に抱えて、友人たちと校庭へ駆けていく。

 彼らの表情や所作には一切の打算がなく、ただ一緒に遊べるのが楽しそうだった。

 何をしてあげるでもなく、何をしてもらうでもなく、ただ対等な関係に見えた。

 ただ、好きな相手と一緒にいるだけだった。


 そうだ。


 最初から、何かをしてあげるつもりとか、そういう打算はいらなかったんだ。

 あの頃の瞳は、彼らの様子を何気なく見送っていた。

 だから瞳は、席から立ち上がった。

 あの頃の自分に背を向けて、校庭へと駆けていった彼らの後を追いかけた。






 翌日、茉莉花が登校すると、席の傍に瞳が待っていた。


「おはよ、茉莉花」

「……ん」


 どう答えたらいいものかわからず、茉莉花は濁すように、挨拶とも呼べない声を返した。

 瞳も憂い顔だった。だが、昨日と違う。どこか冷静さを取り戻している様子があった。


「……あのさ、茉莉花」


 やや躊躇いがちに、しかししっかりとした意思を込めて、瞳が切り出した。


「私たちって、本当の友達だったのかな」

「……わかんねえよ、もう、そんなの」


 茉莉花の声は消え入るように小さかった。

 自分たちの関係は不自然に作られたもので、こんなにも脆かったのだという悲しみが見て取れた。


「うん……わかんないよね」


 瞳もまた、小さな声だった。だが、口調ははっきりとしていた。

 友達というものの定義は曖昧だ。今までの自分たちの関係がそれに該当するのかも、今となってはもうわからない。

 茉莉花は半ば機械的にカバンを開け、教科書やノートの類を取り出した。

 その一番上には、グシャグシャになった入部届の用紙があった。

 昨日の一件で提出しそびれてしまった、女子バスケ部への入部希望が記された用紙。


「茉莉花、斎上先生のバスケ部にするんだね」

「……うん」

「私、なんとなくそうなるんじゃないかって思ってた。茉莉花はたぶん、あの一件で先生のこと、すごい信頼してると思うから……」

「……」


 茉莉花は答えなかった。肯定の沈黙だった。

 瞳はそこに、そっと一枚の用紙を重ねた。


「えっ……」


 瞳の入部届用紙だ。

 そこには、茉莉花と同じく女子バスケ部への入部希望が書かれている。


 想像だにしていなかった事に、茉莉花は驚き、目を見開いた。

 悲しみと苦しみでもやがかかっていた頭が、一気に覚醒した。

 茉莉花も昨日の朝までは、瞳を部に誘おうと思っていた。でもそれは瞳が親友で、一緒にやる事なら何であろうと楽しいはずだという前提があったからだ。

 この状況で、運動の苦手な瞳が自分から言い出すとは露ほども思っていなかった。


「茉莉花も知ってると思うけど、私、はっきり言ってスポーツとか苦手。言っちゃうと、バスケットにだって特別興味はないの。

 ただ……やり直したい、って思った。茉莉花と同じ場所で、同じ時間を過ごして、本当の友達になりたいって思ったから」

「瞳……」


 茉莉花が顔を上げる。瞳はまっすぐに茉莉花の目を見ていた。その表情には、迷いはなかった。


「……茉莉花、今まで黙ってたのはごめん。

 昨日も言ったけど、私、最初はパパのした事の負い目があって茉莉花に近づいた。騙してたようなものだよね。それなのに途中からは茉莉花に嫌われるのが怖くて、言い出せなかった……」


 瞳は、茉莉花の手を取った。

 茉莉花も、拒まなかった。


「だからさ、茉莉花。もう一度、友達になろう?」

「……!」


 ぼろぼろと涙がこぼれた。

 ああ、この子とならきっといい友達になれる。

 同じ時間を過ごして、もう一度やり直そう。

 あの日、瞳と出会ってからの時間を。

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