ファイトオーバー!

西山いつき

#1 オーバータイム

「10! 9! 8――」


 勝利を確信したカウントダウンの声援。

 スコアは68-70で敵チームのリード。ボールは敵チーム。

 そりゃ誰だってもう勝負ついたと思うだろう。

 冗談じゃない。


「当たれ!」


 ベンチから監督が叫ぶ。

 言われるまでもない。

 僕たちは一斉に相手チームの選手に向かっていき、ボールを奪い取りに行く。


 こちらのGガードからのスティールの手をかわそうとして、ボールマンの脚が止まる。

 ボールを奪おうとする手から逃れて、不自然な体勢からのゆるいパス。

 それを待っていた。

 飛び出す。

 僕の手が届いた。


 歓声と悲鳴が聞こえた気がした。


 タイムは? ――残り4秒。

 間に合え!

 ハーフラインを越えて、3Pスリーポイントラインを越えて、ゴールまであと二歩の距離。

 敵が一人追いついて来た。


「――!」


 後ろから何か声が聞こえたが、こっちは目の前の敵で手一杯だ。

 撃つか?

 抜くか?

 タイムはあと1秒。

 抜く!


 ――そう見せかけたフェイク。


 かかった。敵が一歩下がった。

 残り0.5秒。僕の放ったジャンプシュートは、


斎上さいがみ、左――――ッ!!」


 左から伸びてきたブロックの手。

 もう一人追いついて来ていた――!


 敵の指がボールに触れた。

 わずかにコースが逸れたシュートは山なりの軌道を描き、リングに当って乾いた音を立てた。


 ビィ――――ッ。


 試合終了のブザー。

 スコアは、変わらず68-70のまま。

 僕たちの最後の夏が、終わった。

 それから先は一瞬の事だったように思う。試合会場を後にし、夏休みが終わり、僕たちは高校を卒業し、大学を出て、就職した。


 最後の夏から、7年が経っていた。






 #1 もう一度、始める事ができたならオーバータイム






 春は憂鬱な季節だ。小学生時代の6年間を振り返って、中原なかはらあいはそう思う。

 4月になれば学年が変わり、クラスが再編される。今まで顔見知りでなかった人たちと同じ教室で時間を過ごす事になる。


 そのたびに、変なものを見る視線に晒されるのだ。


 ましてや、この4月から中学生。3月まで別の小学校に通っていた人たちとも同じ学校に通う事になる。

 自分の姿を初めて見る人が少なからずいる以上、きっと今まで以上に変な目で見られることだろう。

 現に、正門から校舎までの短い距離を歩く中で、いったい何人がこちらを物珍しげに振り返ったか。

 メガネをかけた優等生っぽいあの男子も。仲良さげな二人組のあの女子たちも。

 自分より位置から好奇の視線を飛ばしてくる同級生たちに、愛は早くもげんなりとしていた。


(まあ、私が普通じゃないってのは認めるけどさ)


 心の中で毒づきながら、愛はうつむき、猫背気味の姿勢で教室へと向かった。

 その姿勢でも、愛の身長は周囲の新入生たちより飛び抜けて高い。

 身体測定が今から嫌だ。小学6年の時にとうとう170cmを越えてしまった身長は、今はどれぐらいになっているのだろう。想像したくもない。


(目立たずに卒業していきたいなあ……)


 はあ。

 ひとつ大きくため息をついて、愛は教室のドアを開けた。






 席の並びは名前の五十音順であり、『な』で始まる苗字の愛は、ちょうど教室のど真ん中の席だった。


(ヤだな、ここ)


 当然と言うか、男子を含めたクラス全員の中で一番背が高いのは愛だった。

 それが教室の中央の席ともなれば、目立たないはずがない。

 できれば窓際の一番後ろが良かった。ほとんどのクラスメイトの視界に入らず、中原さんがでかすぎて黒板が見えないだとか言われる事もない。憂鬱な気分の時、ちょっと外を見て気分を紛らわせられるのもポイント高い。

 それに比べて、この席と来たら。

 席に着くと、既に後ろから嫌な声が聞こえてくる。でけー、だとか、あいつどこ小? だとか、おおよそは予想通りの反応。


(別に、好きで大きくなったんじゃないですよーだ)


 内心でクラスメイトたちに文句を垂れて、愛は頬杖をついた。

 本当なら150cmぐらいの子が羨ましい。

 この体格だと、サイズの合う服や靴は大人用のものですら限られる。可愛い服なんて全滅だ。今着ているセーラー服だって特注サイズなのだ。


(なんで私だけ、こんななんだろう)


 何度繰り返したかもわからない自問。両親の背格好は普通だし、カルシウム採りすぎとかもないはずなのに…

 どうにもならない事を考えていると、教室前方のドアが開いた。

 担任の教師だろうか。スーツ姿の男性だった。若い。まだ20代だろう。

 一瞬だけ愛が目を引かれたのは、彼の身長だった。パッと見で愛よりも高く、およそ180cm。愛が今まで見てきた成人男性の中で、彼はひときわ長身だった。


 が、それだけだ。


 確かに高いが、見上げるほどの大男というわけでもない。

 世の中には2mに達するほどの人もいると聞いた事があるし、そう考えれば異様に大柄というわけでもないのだろう。

 第一、成人男性の彼を愛と比べる事自体がおかしい。同年代の子たちの中で、愛が特異的な長身である事に変わりはないのだ。

 頬杖をやめて居住まいを正す頃には、愛の驚きはすっかり冷めていた。


「えー、みなさん、はじめまして! このクラスの担任の斎上さいがみ亮介りょうすけです」


 人の良さそうな笑顔で、彼はクラス一同を見渡した。

 優しそうな先生に安堵した雰囲気の子、まだ緊張している様子の子、そして死んだ魚のような目をしたでかい女子――

 そこで視線を止めた。

 少し目を見開き、驚いた表情をしていた。


「でっか……」


 斎上がかすかに呟いたのを、愛は聞き逃さなかった。


(また、こういう反応)


 愛にとってはいつもの事だった。

 先生だって聖人君子や神様じゃない、普通の人間だ。異様にでかい女子を見れば驚きもするし、注目もする。

 こっちが変な目で見られたくないとか、そういう気持ちはお構いなしで。


「えー、っと。まず、この後すぐ入学式があります。それが終わったら、ホームルームでみんなの自己紹介をやりましょう」


 気を取り直したかのように斎上は言う。愛は目を逸らした。

 嫌な一年になりそうだった。






「斎上くん。どうです、初めての担任は?」


 新学期が始まって一週間後の職員室。御歳60を過ぎた校長は、孫にでも話しかけるように亮介に尋ねてきた。

 埼玉県立明芳めいほう中学校の校長は、手ずから人の面倒を見る主義の人物だ。今も校長室ではなく職員室の一番奥に自席を設け、普段から職員たちに直接目を行き届かせている。

 まだ教職3年目の亮介にとって、教職一筋40年の老練な教え手が目を配ってくれるのは、緊張感もあるが、頼もしい事だ。


「やっぱり、まだちょっと緊張しますね。担任っていうのは」

「ええ。そうでしょう」


 校長は深く頷く。


「今までの斎上くんは生徒たちの数学の成績にのみ責任を持てば良かった。ですが、担任となると話は違います。生徒たちの学校生活そのものに責任を持たなければなりません」

「ええ、承知しています。ただ……」


 亮介は言い淀んだ。亮介の所作から何か感じ取るものがあったのか、校長は重ねて訊いてくる。


「……何か、不安がありますか?」


 不安――と言うと少し違うのだが。


「気になる事はあるんですよね」

「ほう?」

「ウチのクラスの女子で、中原愛さんって子がいるんですが……どうも、元気がないんですよ」

「ふむ。具体的には?」


 メガネの奥で、校長の目が鋭く細まった。


「クラスに馴染んでないと言いますか……誰とも仲良さそうに話してる所を見かけないんですよね。休み時間も一人でいますし」

「軽視していい事ではありませんね」


 声音こそ穏やかなものの、校長の様子は真剣なものに変わっていた。


「その中原さんという子はどんな子なのです?」

「凄く背の高い子です。性格は……どちらかと言うとおとなしい感じの子ですね。あまり話してくれないからそう感じるだけかもしれませんが」

「話してくれない、ですか」

「授業中の受け答えは普通にしてくれますけどね。必要以上の会話はしてくれないと言いますか」

「それは斎上くんだけにではなく、周りの生徒たちに対してもという事ですね?」

「はい」


 亮介は頷いた。校長はしばし黙考し、数秒の沈黙が流れる。


「……僕が気にかけてあげるべきだとは思うんですが、どう踏み込んだらいいんでしょう」


 沈黙を破ったのは亮介だった。かすかに表情を緩めて、校長は答える。


「斎上くん、非常に良い心がけです。生徒の出すサインに気づく事、その解決に自ら乗り出そうという気持ちは、教育者としてとても大切な事ですよ」

「ありがとうございます。でも、僕はどうすればいいんでしょう?」

「まずは、中原さんの事を理解してあげるのが第一です」


 淀みなく、校長はそう諭した。教職40年の経験は、このような問題も何度も乗り越えて来たに違いない。


「後ろ向きな行動を取る子には、必ず原因があります。そういった子の多くは、その原因は解決できないものだと思い込んでしまっている。

 ですが、我々教師の目につく場所で後ろ向きな行動を取る事それ自体が、大人に助けてほしいというメッセージなのです」

「助けてほしい、ですか」

「そうです。聞いた限り、中原さんは自分から人を遠ざけているような態度を取っている。ですが人というものは、本来誰しも他人から好意的に接してほしいものでしょう?

 何らかの原因があって、それが叶わないと思い込んでいるのでは……と、私は思いますよ」


 原因――

 真っ先に思い浮かぶのは彼女が他の生徒たちと違っている部分。その特異的な長身だ。

 良くも悪くも彼女の長身は注目を集める。

 思い出してみれば、終始うなだれ気味な姿勢だったのも、長身をごまかそうとする努力だったと考えれば辻褄が合う。


「ありがとうございます、校長。中原さんと話をしてみます」

「ええ。健闘を祈りますよ、斎上くん」


 亮介との話を締めくくった校長の表情は、やはり孫の成長を喜ぶ"おじいちゃん"のものだった。






「ええ。私、この身長がイヤでしょーがないですけど?」


 実際に面と向かって一対一で話してみると、彼女はそうおとなしい性格でもなかった。

 放課後の応接室に夕日が差し込む中、愛の表情はこの話題自体に飽き飽きとした様子がはっきりと見て取れた。いいから早く帰らせて、とでも言いたげだ。


「昔からずっとです。こんな体してるせいで、なんだあのデカ女はー、みたいな目でいっつも見られるんですもん」


 ソファにもたれかかるようにして、愛は答えた。


「悩みがあるなら相談してくれていいんだよ?」

「先生に相談しても、身長はどうにもならなくないですか」

「まあ、物理的にはそうだけど」


 そこを突かれると、亮介としても決定的な解決手段があるわけではなかった。

 亮介は、手元にあった彼女の身体測定の資料をちらりと見直す。


「172cmか。高いよね、女子にしちゃ」

「先生、デリカシーないとか言われません? 私、結構気にしてるんですけど」

「生憎、言ってくれるような彼女とかもいなくてね」

「そんな調子だからモテないんですね」

「ぐはっ」


 この子、意外に口が悪い。

 普段から背筋こそ曲がっているものの、すらっとした長身で癖のないセミロングの髪。黙っていれば、中学生離れして大人びた子に見えなくもないのだが。


 はあ、と愛はひとつ大きくため息をついた。


「先生、わかります? 何やろうとしても、この身長のせいで台無しになるって。

 テストでたまたまいい点取ったら、座高が高いからカンニングしやすそうだとか言われた事もあるし。体育やったら、でかいのに体力は普通なんだー、みたいに言われるし。

 サイズの合う可愛い服とか、似合うアクセとかも全然ないし。ろくな事がないですよ」

「……」


 亮介は黙って愛の話を聞いていた。

 真剣に聞いている事は伝わったのか、愛は、続きの言葉を少しだけ考えて、口を開いた。


「……ともかく、私、穏便に卒業していきたいんです。変に注目されるのが、一番イヤですから」


 うん、と亮介は答えた。


「もちろん、変に注目されたくないっていうのはわかる。だから僕も、今日はわざわざ生徒指導室なんてイメージの悪い場所じゃなくて、この部屋を貸してもらったんだしね。教頭に無理言って」

「それは、まあ……ありがとうございます」


 ちゃんとお礼は言える子だ。

 口は少々悪いかもしれないが、本質的にひねくれた子じゃない。そう確信し、亮介は話題を切り替えた。


「しかし、もったいないと僕は思うね」

「もったいないって、何がですか」

「君の体格だよ。それは、君の立派な個性だ」


 愛は小さく嘆息し、半眼で亮介を見返してくる。


「先生、話聞いてました? こういうのは個性じゃなくて欠点でしょ。嫌なことばっかりなんですから」

「そんな事はないよ。君は、個性を活かせる環境に出逢ってないだけだ」


 そうとも。

 身長がかけがえのない才能のひとつに数えられる、そんな舞台だってこの世にはある。

 例えばあの夏、身長があと5cmでもあったなら、最後のシュートをブロックされる事もなかったはずじゃないか。

 そうだったなら、最高のチームだったはずの僕たちは全国大会インターハイに出場して。

 もしかしたら優勝して。

 ひょっとしたらその後、プロ選手にだってなれた奴がいたかもしれないのに。

 あの時、もうほんの少しだけ力が及んでいれば――


「……先生。ちょっと、顔、怖いんですけど」


 はっ、と亮介は我に返った。


「ごめん、何でもない。気にしないで」


 慌てて過去の思い出を振り払い、微笑んだ表情を作り直す。

 参った。

 教師になってからの2年間より、大学の4年間より、高校の部活の思い出の方がつい最近の出来事のように思えてしまう。

 どうしても負けたくなかった一戦の結果が、ときおり心を抉ってくる。

 白昼夢にも似た敗戦の記憶を頭の片隅に追いやると、ひとつ咳払いをして、亮介は言葉を続けた。


「まだ若い僕がこんな事を言うのも偉そうかもしれないけどね、中原さん。

 僕は、学校というのは授業をするためだけの場所とは思ってない。生徒の人格形成や、社会に出るための準備の場であるべきだ。

 確かに中原さんの身長を縮める事はできないよ。けど、もし今のままの調子で中学を平穏に卒業できたとして、高校は?

 大学は? 社会に出てからは?

 ずっとその調子で、いじけたような生き方で、幸せになれるかい?」


 愛は真顔で、しかしどこか疑うような目線を向けて亮介の言葉を聞いていた。

 疑われるのも無理はない。

 我ながら詭弁だ、と亮介は思う。こんな事を言っている自分自身に突き刺さる、強烈な言葉のブーメランだ。

 自分は小学の頃からバスケ一筋だったのに、高校最後の夏をきっかけにバスケを辞めた。それ以来、今に至るまでずっとあの日の負けを引きずっているというのに。


「……だったら、どうしろって言うんですか」

「……」


 問い返してきた愛に対して、亮介は答えに詰まる。

 身長が武器になる世界を、亮介は知っている。

 けど、それは自分の意思で身を引いたはずの世界だ。


 ――キーンコーンカーンコーン……


 亮介が愛に答えるより早く、最終下校時刻を告げるチャイムが鳴った。

 亮介が答えあぐねているのは愛にも伝わったのだろう。愛はカバンを持って、ソファを立った。


「……それじゃ先生。私、帰ります」


 小さく会釈してから、愛は応接室を出ていった。


 まがりなりにも頭を下げて出て行ったのは、話を聞いてくれた事への感謝だろうか。

 であれば、校長の言っていた言葉は正しいのだろう。後ろ向きな行動は、助けてほしいというメッセージなのだという……


(けど、僕はあの子にどう答えればいい?)


 どうすればあの子の悩みを解決できるのか。今の自分に――

 そう考えていると、不意に亮介の携帯電話がメールの着信音を鳴らした。


(誰だ?)


 こんな時に、という気持ちが半分。相談できる相手なら助かるんだけどという気持ちが半分。亮介は、メールを開いた。


『From:矢嶋やじま圭吾けいご

 To:小鳥遊たかなし裕太ゆうた, 桐崎きりざきしょう, 斎上亮介

 CC:沢木さわき三四郎さんしろう

 --------------------

 オッス俺です。

 三四郎が今東京に来てるんで、今週末にバスケ部の同窓会やりましょう。

 場所は去年と同じ池袋の鶏貴族で。出欠と、土日どっちが都合いいか連絡ください』






 引退から7年が経った今でも機会があれば会って話せるあたり、上赤坂かみあかさか高校バスケ部出身の5人は良い友人関係だった。

 当時キャプテンでもあったPFパワーフォワードの矢嶋はスポーツクラブのインストラクターになった。PGポイントガードの小鳥遊は法学部を出て地方公務員に。SGシューティングガードの桐崎はスポーツアパレル販売会社に。Cセンターの沢木は当時のマネージャーと結婚し、彼女の実家の山形で建材問屋の婿養子になった。


「で、斎上は最近どうなんだ? 確か学校の先生やってるんだよな?」


 ぼんじりをハイボールで流し込むように食べながら、矢嶋は訊いてきた。


「ああ、うん。この4月から担任を持つ事になったよ」


 ちびり、とサングリアに口をつける。

 亮介は、日本酒やウィスキーといった、いかにも酒という感じの酒はどうも好きになれない舌の持ち主だった。カクテルやサングリアの方がジュース感覚で飲めて良い。

 こんな所まで子供のままなんだな、と自嘲めいた事を思う。先日、あの試合の事を思い出したばかりなのだから尚更だ。


「まあ、難しいな……って早速思ってるとこだけどね」

「なんかあったのか?」

「ちょっと、担任してるクラスの子がね」


 亮介は愛の事を話した。個人名は伏せてだが、並外れた長身が逆にコンプレックスの女子がいる、と。その相談に乗ろうとしているが、どう答えたものだろうと。


「ほおー」


 話をひとしきり聞いた矢嶋は、話の内容を反芻するように相槌を打ち、奥の席に視線を飛ばす。


「なんか、三四郎の時のこと思い出すな」

「ああ、うん。そうだね、俺の時みたいだ」


 奥の席にいたのは沢木三四郎――当時の姓で呼ぶなら黒梁くろはり三四郎。

 元バスケ部ゆえに大柄なメンバーが揃っている5人の中でも、彼はひときわ体格が良い。高校3年の時点で199cmあったはずだ。

 その人並み外れた巨体に反して、穏やかな性格の男だ。顔が大きく細目で団子鼻な外見は、お世辞にも端正な顔立ちとは言えないが、愛嬌がある。


「俺も昔は、でっかいくせに運動とか全然できなくて、でくのぼうとか言われてたっけなあ。って言うか、今でも鈍臭いけど」

「いいんだよ三四郎、お前の武器はパワーとフィジカルなんだから!」


 矢嶋はバシバシと音を立てて三四郎の肩を叩いた。

 三四郎をバスケ部に誘ったのは矢嶋だった。三四郎は小中学校でバスケの経験がなく、高校から始めたたちだった。それだと言うのにレギュラーの座を取ったのは、ひとえにその体格の賜物に他ならない。


「はは、矢嶋にはホントに感謝してるよ。おかげで、俺のこの体型にも自信が持てたしね」

「で、ちゃっかりマネージャーとくっついて、か」


 かかか、と笑いながら桐崎が話を茶化した。


「控えめに言って犯罪な絵面でしたからね。君とマネージャーがいちゃついてる光景は」


 小鳥遊まで話に乗ってきた。口調は丁寧だが、ノリの良い奴だ。

 2m近い巨漢の三四郎に対して、沢木マネージャーは140cmほどの小柄な少女だった。身長差およそ60cm。冬の部活後に一緒に帰ったら、誘拐だと勘違いされて警官に職務質問されたのは彼らの間では有名な話だ。


「そう言うなよ~、あの時はホントに困ったんだよ、俺」

「まあ、そんな事もあったけどさ。マネージャーに告って付き合い出したのも、バスケやって自信がついたから……だろ?」

「ああ。バスケやる前の俺だったら、でかくて鈍臭いだけの自分に自信なんかなかったからね」


 躊躇いなくうなずく三四郎。その笑顔は、晴れやかだった。

 だが対称的に、亮介の表情はまだ憂いを帯びていた。


「バスケ、か……」

「いいじゃねえか。三四郎と同じように、その子にもバスケを通じて自信をつけさせてやりゃあ」


 亮介はサングリアの残りを飲み干した。


「僕は、もうバスケやってないからね」

「それな! それがまだ信じられねえんだよ、俺」


 矢嶋はそう言うと、つくねを頬張り、ビールで流し込んだ。


「お前、俺らの中で一番気合入れてバスケやってただろ?」

「そうかな」

「そーだよ! 俺らの中でミニバスからやってたの、お前だけじゃんよ」

「まあ、それはそうだけどさ」

「俺らのチームの得点王だってお前だっただろう? そんなお前がバスケ辞めたってのは信じられねえし、ホントならもったいねえと思うんだよ」

「もったいないって言われてもね」


 酔いが回ったのかもしれない。うまい言葉が浮かんで来ない。亮介は、水を一口飲んだ。


「みんなは大学でもバスケやってたんだろ? 僕はやらなかった。それが全てじゃないか」

「違うぜ斎上。それはぜってー違う!」


 断言して、ゴクゴクと喉を鳴らしながらビールを呷ると、矢嶋は続けた。


「もしお前がホントにバスケと縁を切ったなら、この同窓会にだって来るかよ」

「来るさ。ここのみんなはバスケとか関係なしに友達だろ?」

「わかった、言い方を変える。バスケに飽きちまってたなら、さっき言ってた生徒の子に言わねえだろ。身長が個性で、活かせる環境がどうとかこうとか!」

「それは……」


 亮介は返答に詰まった。

 確かに、長身という個性を活かせる環境として、一番真っ先にイメージしたのはバスケットコートだった。

 彼女の長身を目にして思ったのは、人並み外れた長身がもし自分にあったのなら、あの試合で……


「確かに、僕も腑に落ちないんですよね」


 小鳥遊が話に乗ってきた。丁寧な口調だが、深く切り込もうとする意思が見える。


「斎上くん、練習試合で負けた次の日なんかは、一番早く朝練に来てたじゃないですか。試合前のミーティングでも、積極的に意見を出してましたし。そんな君が、なぜバスケを捨ててしまったんです?」

「……」


 亮介はしばし沈黙した。

 なぜ、バスケを捨ててしまったのか。目を閉じ、わずかの間だけその理由を考えて。


「……僕たちがいいチームだったからこそ、かな」


 亮介が辿り着いた結論は、そのようなものだった。

 水をさらに呷る。水のグラスも、もう空になってしまった。


「僕は、この5人は本当にいいチームだったと思ってる。それこそ、このチームで全国大会に行けなかったらおかしいって思ってたぐらい。

 でも、結局僕たちは全国大会に行けなかった。僕の生涯で、これ以上のチームなんてありえないって思っていたのに。

 それなのに、全国には届かなかったんだ」


 しばし沈黙。空いたグラスを手の中で弄ぶ。


「……それが、僕の限界だったのかなって」

「だからもうバスケを諦めた、ってのか?」


 矢嶋の問いに、亮介は少しだけ考えてから、頷いた。


「もう続けてもしょうがねえ、って事か?」

「そうなのかもしれない」

「違げーよ!」


 ドン! と音を立てて矢嶋はビールのジョッキをテーブルに置いた。

 店員が不安げに注目してきたが、大丈夫です、と小鳥遊が答えた。


「さっきも言ったけどな、もしそうならお前はこの同窓会にも来ねえし、さっき言ってた子にもバスケ勧めようなんて考えが浮かぶわけねえんだ。

 お前はたぶん、納得いってねえだけなんだよ。あの試合で負けちまった事に!」

「納得……」

「そうだ」


 残ったビールを一気に飲み干して、矢嶋は話を続ける。


「ああ、確かに俺らはいいチームだったさ。でも結局全国には行けなかった。それはお前の言うとおりだ。

 でも、俺らは負けちまった事を受け入れて、やる事は全部やりきったんだって納得した上で高校出て、大学行って、社会人になった」

「……」

「けどな斎上、お前は違う。負けた事が納得いってねえままなんだ。

 悔いが残ってて、やり直したいと思ってるんだ。

 あの試合の、最後のシュートが決まってたらありえたはずの延長戦オーバータイムをな」


 亮介は黙った。

 矢嶋の言葉を頭の中で反芻する。

 そうなのかもしれない。

 納得できていない。未練。高校3年のあの夏を、ほんの数秒でもいいからもう一度やり直せたら。

 熟慮するまでもない。それは、どれだけ楽しい空想だろう。


「でも、矢嶋」


 それは、空想に過ぎない。時間を巻き戻す方法が、現実にあるわけがない。


「あの時には、もう戻れないじゃないか」

「ああ、戻れねえさ。でもよ――

 やればいいじゃねえか、今からでも。アマチュアクラブでもいいし、部活の顧問でもいい。納得いくまで、やればいい。

 バスケへの心残りは、バスケで晴らすしかねえんだからさ」


 バスケで、晴らす。


 あの頃の感覚がリアルに蘇ってくる。

 ドリブルしたボールが床から跳ね返って来て、手に納まる感触。

 ダッシュからストップした時にバッシュが奏でるスキール音。

 ボールをリリースする際、一瞬だけ時間が止まったように錯覚するシュートの感覚。


 亮介は全て覚えていた。

 忘れようとして、結局忘れられなかったのだ。


「もう一度言うぞ、斎上」


 矢嶋の声に、亮介は顔を上げた。


「俺らの中で一番バスケにハマってたのはお前だ。バスケが好きなんだろ、今でも?」


 亮介は、数秒かけて自分の気持ちを整理して、


「ああ」


 答えた。






「女子バスケット部ですか? ウチにはありませんが……」


 月曜の放課後、亮介からの唐突な話に、驚きを隠せない様子で校長は答えた。


「もし部を作るとしたら、どうすればいいです?」

「規則では、最低5人以上の部員が必要になります。5人分以上の入部届を持ってきてもらう形になりますね」

「なるほど、わかりました。ありがとうございます」


 亮介は校長に深々と頭を下げると、シューズバッグを手に、職員室を後にした。






「先生、今日は何の用なんですか?」


 亮介に対して、ジト目で愛は問いかけた。


「こないだの話の続きだよ。身長が長所になる舞台を、君に見せてあげようと思ってね」

「……」


 愛は答えなかった。

 嬉しそうな様子はないが、頭ごなしに否定する事もなく素直について来る。

 半信半疑。しかし、もしその言葉が本当なら……という希望があるに違いない。彼女は、助けてほしいというサインを出しているのだから。

 とはいえ、亮介が急に持ち出したシューズバッグは何なのか。愛の疑惑の視線は、主にそこに注がれていた。

 やがて校舎の1Fから渡り廊下を渡って、到着した先は体育館。


「体育館で何かするんですか?」

「うん」

「部活やってるんじゃないんですか、今?」

「そうだね。それを狙って来た」


 体育館の入口で、亮介はシューズバッグの中身を取り出した。

 愛にとっては初めて見るシューズだった。白を基調としてアクセントに赤を施したカラーリングで、布地が分厚く、底のゴムも厚い。

 格好いい。愛はそう感じた。使い込まれて古びているものの、子供向けのスニーカーとは一線を画したシャープなデザインだ。独特の厚みも、何らかの機能性のためにそうしているものに違いないと、直感的に理解できる。


「ごめん、ちょっと持ってて」


 亮介は愛にスーツの上着を預けた。そして、今取り出したシューズに履き替える。

 ワイシャツにスラックス、そしてスポーツ用らしいシューズというアンバランスないでたちになって、亮介は体育館へと歩みを進めた。愛も、上着を預かったまま着いていく。

 体育館は、ふたつの部活が使用していた。手前側半分を男子バスケット部が、奥側半分をバドミントン部が。

 手前の男子バスケット部は、まだ練習開始前だった。顧問が来る前の自由時間を、めいめいシュート練習や準備運動に費やしている。


「男バスのみんなー!」


 亮介は声をかけた。顧問でない先生の呼びかけに、男子バスケット部員たちは緩慢に振り返る。

 中には驚きの表情を浮かべた者も少なくない。女子にしては並外れた長身の愛に対してか、自分たちと同じようなシューズを履いてきた教師に対してかはわからないが。

 彼らの驚く顔を意に介さないかのように、亮介はボールをひとつ手に取った。


「すまない、久しぶりに少し運動をしたくなったんだ。誰か、僕を相手にディフェンスやってくれる子はいるかい?」


 てん、てん、と軽くボールを床につく。

 男子バスケット部員たちは、反応に困ったように互いに顔を見合わせていた。突然やってきた若い教師の行動に戸惑っている様子がありありと見える。

 しかし、


「ちなみに僕は高校の頃、全国大会インターハイまであと一歩ってとこまで行った選手だぞ。誰か挑戦してみたいって人はいないかい?」


 一瞬だけ、部員たちがざわついた。


「このチームのエースの子、どうだ、勝負してみないかい?」

「「はい!」」


 二人、同時に出てきた。いずれも身長は亮介よりわずかに低い。中学生にしては高い方だ。


「ちょ、双三ふたみ先輩、何出て来てんスか! エースは俺でしょ!」

「うっせーよ神戸かんべ、いつもスターターで出てんのは俺だろ。出番譲れよ!」


 くす、と亮介は笑った。

 微笑ましい光景だ。ああやって力を競い合えるチームメイトがいるのは本当に尊い。


「いいよ」


 言い合う二人に対して、亮介はボールを突き、センターサークルへ歩きながら言った。


「二人まとめてかかっておいで」


 男子バスケット部員たちのざわつきが消えた。

 舐められたと思ったのだろう。エースを自称する二人の目が真剣なものになった。


「あの、先生…?」

「まあ、見てて」


 若干引き気味の愛に対して、亮介はその一言だけ返した。

 自称エースの二人がポジショニングを取る。


「行くよ?」


 宣言して、

 駆け出した!


 2年の神戸が食らいついてきた。

 反応は速い。しっかりと腰を落とした構えだ。攻める側としては抜きづらく撃ちづらい、いい間合いのディフェンスだ。

 右にドリブル。

 神戸は反応してついて来る。

 抜けない。右脚を引っ込めて体勢を戻す。

 亮介は一歩下がった。

 右から、左、右。ボールを扱う手を交互に入れ替えてドリブル。

 神戸は惑わされる様子はない。

 亮介は左に体を向けた。

 それはフェイク。もう一度右から抜きにかかる。


 ――そう来ると思ってた!


 そう言わんばかりに神戸からスティールの手が伸び――

 神戸の視界からボールが消えた。

 床でボールが跳ねる音。そして、ボールは亮介のに、左手に現れる。


 背面持ち替えバックチェンジ――!


 気づいた時には、神戸が伸ばした手の横を亮介がすり抜けていた。






(凄い…!)


 愛は見入った。

 言葉を失うという感覚をリアルに体験した。

 神戸がボールを奪おうとして手を伸ばしたのは素人の愛にもわかった。

 しかし、それを軽々とかわした亮介の動きは、愛の常識の遥か外。

 まるで手品だ。ボールが彼の体をすり抜けたかのように錯覚した。

 彼がバスケの熟練者だという事もあるだろう。自分と比べれば男女の差だってあるだろう。だけど自分よりも大柄な人が、あんなにも素早く、そして華麗に――!


 双三が亮介に立ちはだかる。

 亮介はボールを両手で持ち、一歩、二歩、そして――


「――!」


 翼。

 それを幻視するほどに美しい跳躍に、愛は息を呑んだ。

 重力から解き放たれたかのようにふわっと跳び上がる様は、愛がこれまで目にしてきたどんなジャンプよりも軽やかな飛翔感があった。飛び立って、そのまま天へと飛び去ってしまうのではと思うほどだった。

 高い身長の持ち主が、高く跳ぶ。

 ただそれだけの事が、こんなにも格好良く、神秘的だなんて!


「くそおっ!」


 双三がそれを防ごうと跳ぶ。

 高さは明らかに亮介が上だった。しかし、双三の位置は亮介の真正面。


(ぶつかる!)


 愛は思わず身を乗り出した。そのまま二人は空中で衝突――

 しなかった。

 亮介は、。愛にはそうとしか見えなかった。

 まるで、そこに見えない階段があるかのように。亮介は空中で身を捻り、双三をかわし、ボールを逆の手に持ち替えた。

 二人が空中で交差する瞬間が、過ぎ去る。

 ブロックに伸ばした手を空振らせて、双三は体育館の床へと降りていく。

 亮介は、双三を空中で抜き去ってなお、まだ滞空していた。


 それはまるで、空を飛ぶ魔法。


 ゴールめがけてボールを掲げ上げた亮介は、もはや誰にも手が届かないとさえ思える高みにあった。

 高いという事を活かせる世界。

 彼がそう言っていた世界が、ここだと言うのなら。


(私にも――)


 亮介はゴールリングめがけて、ボールを軽く投げる。


 すぱっ……


 綺麗な弧を描いたボールは、リングの中央に吸い込まれて小気味良い音を立てた。






 ……おおおおお!!

 男子たちから歓声が上がった。


「すげえ、ダブルクラッチだ!!」

「やべー! あの先生プロだ、プロ!」


 喝采の声。嫌いじゃないが、今は少々むずがゆいものだと亮介は思う。

 本来、中学生を相手に勝ったところで自慢になるものじゃない。と言うか、今は自分がもてはやされたくてやったわけでもないのだ。


「双三くんに神戸くんだっけ。ナイスディフェンス。二人ともセンスあるよ、きっとこれからどんどん伸びる」


 亮介は二人の健闘を讃えた。彼らに恥をかかせたまま終わっては宜しくない。大人として、最低限必要なフォローだ。


「今度は俺らにオフェンスやらせてくださいよ。一本やって勝ち逃げとかちょっとないでしょ?」

「ごめん、また今度ね。今はちょっと別の用事があるから」

「じゃあいいっすけど、引退までにはぜってー先生から一本取りますからね」


 元気のある少年たちだ。負けん気が強いのも選手としては長所だろう。お世辞でなく、彼らは伸びるに違いない。

 そして亮介は、愛のもとへと戻ってきた。


「中原さん」


 愛は、呆気に取られていた。亮介に声をかけられ、やっと我に返った。

 頬がかすかに紅潮している。亮介のプレイを見て、彼女が多少なりとも心を動かされた証拠だ。

 我が意を得たりと、亮介は笑った。


「中原さん、バスケは空中戦が醍醐味のスポーツだ。高さは、それだけで武器になる」

「……は、はい」


 こくりと。亮介が今まで見てきた中で最も素直な様子で、愛は頷いた。


「君の身長は、バスケの世界でなら貴重な才能だ。

 そして僕は高校の頃、全国大会インターハイの寸前までは行けた経験がある。

 君がその身長を武器に戦って、活躍して、周りからの目を羨望の眼差しに変えたいと望むなら、僕がそれを手助けしよう」

「羨望……ですか」


 愛は男子バスケット部員たちを見た。

 未だ、亮介が見せたスーパープレイからの興奮に冷めやらぬ様子だ。

 それは愛にしばしば向けられる奇異の視線とは正反対のもの。

 突如現れたヒーローに対する、惜しみのない賞賛だった。


「……なれますか? 私なんかが、先生みたいに」

「ああ、きっとなれる。僕がコーチするから――」


 ――いや。


 言ってから気がついた。亮介はひとつ長い瞬きをして、再び口を開く。


「……ごめん、言い直す。僕自身が、君と一緒にバスケをやってみたいんだ」


 類まれな才能を持つこの子と一緒に、今からでも見てみたい。

 あの頃の夢の、延長戦オーバータイムを。






「言っておきますけど」

「うん」

「私、先生みたいになれるとか、まだ半信半疑ですからね?」

「うん」


 愛が差し出した一枚の紙を、亮介は受け取った。


「だから、あくまでこれ、"仮"ですから」

「うん、わかってる」


 書かれていた内容を確かめて、亮介は満足した笑顔を見せた。


「ありがとう」

「どーも」


 愛は目を逸らした。けれど、そこにはもう、他人を拒むような意思はなかった。


『入部届 女子バスケットボール部

 1-B 中原愛

 顧問:斎上亮介』

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