#34 ファイトオーバー

「体育館の改装工事、ですか?」


 3学期の期末テストも終わり、春休みを目前にした日の職員室。突然の報せに、亮介は驚いた。

 ええ、と校長は自席に座ったままうなずく。


「設備が老朽化してきていますし、たびたび保護者の方々から体育館にロッカールームがない事への不満の声も上がっていましたからね。予算の目途もついたので、急な話ですが」

「ええと、時期はいつごろですか?」

「春休みのうちに実施する予定です。新学期が始まってからでは動きが取りづらいですからね」

「そう……ですか」


 困った。

 体育館の設備が改善される事は喜ばしい。しかし春休みは、運動部にとっては貴重な"特訓"の期間だ。

 こういった長期休暇期間には、部で合宿を行うチームも多い。公立校の経済力ではなかなかそのようにはいかないが、だからこそ代わりにみっちりと練習を組まなければ、大会で戦うライバル校に差をつけられてしまうだろう。

 自分の教え子たちは勝利へのモチベーションが高い。ならばそれに応えようと、そう考えていた矢先の通達だった。


(屋外コートを使うっていう手もあるけれど)


 校庭の隅には、屋外のバスケットコートが2面ある。男子バスケ部と話し合えば、片方のコートを使わせてもらう事は可能だろう。

 だが、屋外コートは好ましい練習環境とは言えない。

 まず天候に左右される。雨が降れば使えないし、風が吹けばシュートの感覚が狂う。また剥き出しの地面の上をスニーカーで動き回るのは、床の上をバッシュで動くのに比べて滑りやすい。これはストップ&ダッシュの際に顕著だ。

 さらに言えば剥き出しの地面のコートである以上、転んだりした場合の怪我の危険性は体育館よりも高い。春休み期間を使った長時間の練習であれば、足腰に普段以上の疲労がある分、そのリスクはさらに高い。


(何かもっと、いい練習場所はないかな……)


 バスケットゴールのある体育館。

 市民体育館のような、公共のスポーツ施設を借りるという手はある。だがこの時期はクラブチームや社会人サークルの予約でいっぱいになっている事が多いはずだ。

 今から予約を取ろうとして、取れるかと言うと――


(……あ、そうだ)


 こういう時は人脈だ。

 校長との話を終えた亮介は、携帯電話を取り出し、電話帳アプリの『や』のタブを開いた。






 #34 遥かな夢を追いかけてファイトオーバー






「オッス、斉上! なんだ、随分いいツラ構えになったじゃねえか」

「ああ、まあ、去年お前にビシッと言われたからだろうね」


 愛たちは亮介から、明芳中の体育館の改装工事の間、別の場所で練習を行う事にしたと聞いていた。

 そうして連れて来られたのは、大宮方面の電車に乗って20分の駅、その付近にあるスポーツクラブだった。

 亮介を出迎えた男性は、どうやら顔見知りの様子だった。亮介と同い年ぐらいで、身長は190cm近いだろう。スポーツ刈りで筋肉質な、いかにも"鍛えてます"的な人物という印象だ。


「で、そっちの子たちがお前の教え子か」

「ああ。あ、みんな、こいつは僕の高校時代のチームメイトで、ここのスタッフの矢嶋。今回、ここの予約を押さえてくれた人だ。ついでに練習も少し見てくれるそうだ」

「よろしくな!」


 にかっ、と歯を剥き出して笑う。やや暑苦しい印象はあるが、快活だ。


「えっと、宜しくお願いします」

「「「宜しくお願いしまーす」」」


 愛が一礼すると、他のメンバーたちもそれに倣う。

 はっはっは、と矢嶋は笑った。満足気だった。


「いや、礼儀正しい子たちで結構なこった。よし、じゃあ案内するぞ。地下1階だ!」


 言って、先導する形で歩き出す。亮介がそれに続き、愛はその後ろについて行った。


(練習を見てくれる、か)


 矢嶋と呼ばれた男性は、身長190cm近い。それでいて体つきが分厚く、いかにも力強そうな感じだ。

 大黒真那より――たぶん、大きくて強いだろう。


(この人、Cセンターかな?)


 体格から、そう予想する。

 その予想通りなら、愛にとって今日の練習は貴重な時間になるだろう。亮介と同じチームで戦っていたCセンターに練習を見てもらえるなら、自分がより高いレベルへ到達するチャンスが得られるに違いない。

 そのチャンスを逃す手はない。

 次の夏こそは、勝ちたいから。

 よし、と意気込む。地下へと続く階段を下りる足に、自然と力が入る。


「気合入ってんじゃん、中原」


 すぐ後ろに続いていた茉莉花が声をかけてきた。

 振り返ると、茉莉花もまた意欲に満ちた目をしていた。


「氷堂さんこそ、やる気まんまんな感じ」

「へへ、そりゃあね。センセーの元チームメイトが練習見てくれるなんて、なかなかない事だしさ」

「うん。ひょっとしたら体育館が使えないの、ラッキーだったかも」


 冗談めかして言う。

 お互い、自然と笑いがこぼれた。


「絶対、ちょっとでも上手くなって帰ろーよ。そんで、今度の大会こそ地区優勝だ」


 地区優勝。

 茉莉花は何気なく口にしたのだろう、その言葉。

 それは少しだけ、愛の心の中でわだかまっていたものに、刺さった。


「……地区優勝、かぁ」


 自分たちは現時点で既に地区ベスト4のチームだ。地区優勝は、充分に現実的な目標だ。

 だが愛の中で、わだかまり続けている疑問がある。

 自分たちの最終目標は何なのか。

 去年の夏、男子バスケ部の引退試合を見た愛は、"解散する時は笑って終わりたい"と思い、その思いを素直に言った。

 その一方で、大黒真那や近衛真紀子といったライバル校のエースたちは、現実的に全国中学大会インターミドルを、そしてその優勝を目指している。

 自分は何を目指すべきなのか。

 何をすれば、笑って終われるのか。

 その答えは、まだ愛の中では出ていない。


「……まあ、あたしはさ」


 愛が何かを迷っている事を察したのか、いくぶん語気を落ち着かせて――亮介たちには聞こえない程度に声を抑えて茉莉花は言葉を続けた。


「もともとはセンセーがウチの、家庭の事情ってやつ? それをやっつけてくれたからさ。その恩返しのためにこの部で頑張ろうって思ったんだ」

「あ……うん」

「センセーはバスケが大好きでさ。あたしたちがバスケ上手くなったり、バスケを通して成長、って言うの? そうなれば喜んでくれるって……あたしはそう思ってる。だからあたしは優勝って結果を出して、センセーに応えたいんだ」


 述懐するように、言い終えて。


「……聞かなかった事にしといてくれよな。ははっ」


 気恥ずかしくなったのか、ごまかすように笑った。

 つられて、愛もふふっと笑った。チームのエースとして信頼している仲間の胸の内を、こんなに深く聞く機会はあまりなかった気もする。

 そして愛の気持ちの中のもやも、少しだけ晴れた気がした。

 先生に恩返しがしたい。

 その気持ちは、愛にも通じるものがあったからだ。






「いいか、ポストの得点力はディフェンスを中に引きつける大事な武器だ! ワンパターンじゃダメだぞ!」


 地下の体育館の中、ボールを手にした矢嶋は、見た目の印象通りの熱血口調で講釈を始めた。

 コートの片側のゴールでは、亮介がアウトサイドポジションの4人に指導をしている。残る愛と美裕の二人が矢嶋から指導を受ける形となっていた。ウォーミングアップを兼ねたレイアップシュートと、3対3を何本かやった後の事だ。


「さっきの3対3を見せてもらったが、二人とも攻撃パターンの引き出しが少ない。それだと自分より小さいか、軽い相手にしか通じなくなるぞ。点の取り方のバリエーションを増やすんだ!」


 言って矢嶋は、ボールを持ってローポストの位置に構えた。

 そして、愛に手招き。

 ディフェンス役をやれという事らしい。愛は、ボールを持ってゴールに背を向けた体勢の矢嶋に対して、ディフェンスの位置に就いて構えを取った。

 大きい背中だ。威圧感は、御堂坂中の大黒真那以上。

 この背中を越えて行きたいという気持ちは、自然と湧き上がってきた。


「まあ中学ぐらいだとよくある事なんだが、君らのポストオフェンスはほとんどが……こう、フロントターンだ!」


 片足を軸に反転ピボットターンして、ゴールへ踏み込む!

 これまで対戦してきた多くのチームのCセンターが使ってきた、ありふれた攻撃だ。愛は斜め後ろに一歩踏み出し、ブロックに跳んだ。

 20cm近い身長差もあって、ブロックの手は届かない。

 だが、シュートコースへの妨害チェックにはなる。

 がっ――と乾いた音を立てて、シュートは外れた。


「やるな」


 矢嶋は真顔で言って、ボールを拾った。

 なんだか可笑しくて、噴き出しそうになってしまったのを愛はどうにか堪えた。

 そして、元の位置取りへ。


「今のように、単純なフロントターンしかしない相手の攻撃ってのは読みやすい。だから、こんな風に――!」


 片足を軸に反転ピボットターン

 愛はさきほどと同じように斜め後ろへ一歩踏み出し――

 そこで、矢嶋の脚が動いていない事に気付いた。


「フェイクを入れる!」


 逆方向へターン、そしてゴールへ肉薄しシュート。

 あっさりと、矢嶋のシュートはリングをくぐる。


「もしくは――」


 再び、もとの位置へ。愛も再びディフェンスに着いた。


「バックターン!」


 かかと側から踏み込んで、矢嶋は愛の横へと体を入れる!

 横に守れない。下がらざるを得ない。

 下がろう――とした時には矢嶋がワンドリブルをついて、ゴールに正対。シュート。

 ボールはバックボードに当たって、きれいにゴールへ吸い込まれる。

 上手い。

 身長、フィジカル、いずれも愛より明らかに上の相手のはずだ。だがそれらの要素を活かすまでもなく、技でシュートを決めてきているのがよくわかった。

 それはまさに冒頭で説明した通り、自分より大きい相手にも通じるオフェンスを教えようとしているのだ。


「パターンはまだあるぞ。もう一本!」


 再び、二人揃って元の位置へ。

 フロントターンか、バックターンか――どちらに踏み込んで来てもいいよう、少し下がって愛は身構える。

 そして、矢嶋が左に動く!


(左!)


 反応して、愛は斜め後ろに踏み出す。

 が、矢嶋は踏み込まず、その場で左回りに反転した。

 ジャンプシュート。

 ボールはリングの金具フランジで小さく跳ね、リングの内側に当たり、リングの上を滑るように転がって――危なっかしくもリングの内側を通って行った。

 ほっ、と矢嶋は安堵の息をついた。


「……と、このように! オフェンスってのはディフェンスとの駆け引きだ。フロントターンで大きく踏み込む、バックターンで素早く抜く、相手が下がってるようならジャンプシュート。最低この3つは使い分けられるようにならないと、自分よりデカくて強い相手には歯が立たないぞ!」

「はいっ!」


 愛は威勢よく答えた。

 自分より大きくて強い相手を倒す手段。それは、より高いレベルを目指す上では欠かせないものだから。

 だから、是が非でも欲しい。


「俺がディフェンスするから、君らがやってみろ」

「はいっ、お願いします!」


 あの大黒真那よりも高い壁。

 これを越えて行く事は絶対に必要だと、愛はローポストの位置でボールを手に取った。






 結果から言えば、愛は矢嶋のディフェンスからゴールを奪う事はできずにいた。

 身長や体の強さも勿論だが、敏捷性でも矢嶋の方が上回る。経験の差か、ディフェンスの読みの鋭さのようなものも感じた。

 フロントターンすればターンした位置へ先回りされ、バックターンしてもワンドリブルするところで追いつかれる。

 一方で――


「よし、来いっ!」

「はあい」


 美裕が矢嶋に背を向けて、ローポストでボールを構えた。

 160cmの美裕と比べると、身長差は頭ひとつ以上。まさに大人と子供だ。

 だが美裕は怯んだ様子もなく、右、右、左と細かく上半身を振ってフェイクを入れ、矢嶋にをかける。

 そしてターン!

 左足を軸に、反時計周りのフロントターン。右利きのプレイヤーにとってもっとも自然にでき、だからこそもっともありふれた攻撃方法だ。

 矢嶋は当然、それを読んでいたとばかりにターンする先に入り――


「んしょっ……!」


 美裕は自分の左側まで、右足を伸ばした。

 体勢を低くし、矢嶋の逆をついて横へ体を入れる。ワンドリブル、そしてゴールへ踏み出しながら姿勢を整えて。


 ふわっ――


 得意のフローターシュート。

 高く浮かんだボールは、ブロックに跳んできた矢嶋の手の上を越えて、ゴールへと落ちていった。


「よっし!」

「ぬう!」


 ボールを回収する矢嶋が悔しそうな表情を浮かべたのが、なんとも子供っぽい印象だ。

 やや大人げなく熱くなっていた事を自覚したのか、矢嶋は気を取り直すように一度咳払いをした。


「やるな。リバースターンからのフローターとは」

「んふふ。得意技なんです、あのシュート」


 まさにだ。美裕のフローターシュートは、冬の大会でもゴール下の重要な得点源だった。

 そもそも彼女はシュートだけが上手いわけではなく、シュートに持ち込むまでの体の使い方が上手い。普段の練習でも愛が美裕のディフェンスを担当する事が多いが、体操競技の前歴によって育まれた、パワフルで柔軟な体の使い方は見事なものだと思うばかりだ。

 それがゴール下でのフィニッシュ力の差となって現れている気がする。


「よし、交代。もう一本だ!」

「あ、はいっ」


 愛がオフェンス側となってボールを持ち、ローポストの位置に就く。

 上半身を細かく振ってフェイクをかけて――


(こっち!)


 バックターン。

 右足をかかと側から踏み出しゴールへ迫る。そしてワンドリブル、跳ねあがってきたボールをキャッチしてゴールに正対――

 その瞬間には、もう矢嶋が正面にいる。


「っ!」


 シュート。

 無理気味なシュートだった事はわかっていたが、ドリブルを使ってしまった以上、他にない。

 ボールは案の定、矢嶋のブロックに弾かれる。


「まだまだ遅いっ」

「はい。うーん……」


 転がっていくボールを回収しながら、考える。

 美裕と自分にスピードの差はそれほど無いはずだ。スピードではなく、体の使い方の上手さの違いという気がする。

 と言っても、美裕ほど体が柔らかいわけではない。それをどう補うか――


「中原さん」


 ボールを拾いに屈んだ愛の頭上から、声。

 見上げると、亮介だった。


「あ、先生。みんなは?」

「あっちで2対2やってるよ」


 亮介が指し示した対岸のゴールでは、言う通り、4人が2対2の練習をしていた。

 何らかの形が決まった練習らしい。3Pライン沿いでオフェンスの二人が交差する瞬間にスクリーンをかけ合いながらボールを受け渡し、ディフェンスを撹乱して攻撃に移る動きのようだ。

 鈴奈と慈が守備対象交代スイッチする隙をついて、ボールを保持していた瞳がゴールへ突き進む、と見せかけてパス――のふりをしてジャンプシュート。

 すぱっ、と小気味よい音を立ててシュートが決まる。


(あ、凄い)


 二重フェイクからのシュートは、一瞬、牧女バスケ部の近衛を思い出させた。

 もちろん、彼女ほどのスピードや華麗さは瞳にはないけれど――それでも1年前には致命的なレベルの運動音痴だった子が、チームで一番フットワークのいい鈴奈からゴールを奪えるほどに成長している。

 素晴らしい成長ぶりだ。

 自分を運動音痴だと強く認識していて、最初はバスケに興味があるわけでもなかった彼女は、PGポイントガードに抜擢されてから目覚ましい上達を見せてきた。

 それはチームの頭脳という役割がピッタリと彼女にフィットしたから。

 言い換えれば、抜擢した亮介の先見の明だ。


「えーとね、中原さん、ちょっと何本か見せてもらってたんだけど」

「はい」


 姿勢を正し、傾聴。

 亮介はいつも的確なアドバイスをくれて、導いてくれた。今回もきっとそうなのだろうという確信がある。


「中原さんはもう少しハンドリングを鍛えた方がいいね」

「ハンドリング、ですか?」

「うん、ドリブルとか、ボールを手で扱う技術全般」


 なんとなく、自分の右手を見る。

 普段、何気なくボールに触れている手だけれど。


「まず大前提として、中原さんは在原さんほど体の柔軟性はない。これは前歴の違いがあるから仕方ない事だし、無理にそれを身につける必要があるわけでもないと思う」


 うなずく。

 それはまさに愛が考えていた通りだ。美裕と自分の最大の違いは、柔軟性に端を発する体の使い方の上手さ。


「中原さんは体が大きいし、脚も長いから、ターンの時に思い切って踏み込めばディフェンスはかわせると思う。だけど今は、ドリブルする時に体の動きが縮こまっているように見えるんだ」

「……そうですか?」

「やってごらん。ドリブルありとなしで」

「はい」


 その場で、ポストの位置でやっているように身構える。

 バックターン。脚を大きく伸ばし、ぐるっと反転。

 元の位置に戻る。

 バックターン、しながらドリブルをついて、ボールが跳ねあがってくる位置を見定め、キャッチ、そして反転した姿勢で足をつき――


「……あ」


 明らかに、2回目の方が縮こまった姿勢のターンだ。そして、遅い。


「ドリブルの苦手な選手にありがちな事だけど、ドリブルに合わせた体の動きになってる。だから100%のスピードが出せていないし、身幅も充分に使えていないんだ」

「あー……なるほど、わかった気がします」


 ひとつ、嘆息。

 これまでは、なまじ体が大きいだけで、古典的なCセンターとしての役割は果たせてきてしまった。だからこそ、そこから抜け出すのは難しい。

 けど、そのままではいけないのだ。


「なんか、ちょっとガックリ来ますね。ドリブルとか、意外と基本的な事が私っていまいちだったんだなって」

「うーん、まあ中原さんはミニバス未経験だったし、それに早いうちからCセンターの役割に固定させた影響でもあるよ。実際、地区大会レベルならこれで通用するし、ベスト4まで行けたわけだしね」

「でも、上を目指すならこれじゃダメって事ですよね?」

「そうだね。県以上の大会で通用する選手は、みんなそういう基礎が高いレベルで身についてる」


 確かに、と納得する。

 県選抜チームの練習を見学した時にも実感した事だ。選抜選手たちはポジションに関係なく、みんな基礎のレベルは高かった。


「それはポジションやチーム内の役割がどうこうっていう事じゃなく、もっと単純に、いいバスケット選手であるために絶対に必要な事なんだ」






 少しだけ、愛はボールの扱い方を見直した。

 と言っても、すぐに牧女バスケ部の近衛のような、華麗なドリブルができるようになるわけではない。

 いずれはそうなる必要もあると思う、けど今、即効性のあるやり方は――


「よし、いいぞ。来い!」

「はいっ!」


 ローポストの位置で、矢嶋のディフェンスに背を向け、オフェンス開始。

 上半身を振って、左に一度フェイク。

 右――と見せかけて左!

 低い姿勢でターン。ここからドリブルで突破ドライブする体勢だ。

 矢嶋はターン先を既に塞いでいる。


(ここから――)


 低い姿勢のまま、強くワンドリブル。

 踏み込む体勢に見えるはずだ。矢嶋は下がって、突破ドライブに備えてきた。


(ここ!)


 ボールキャッチ。

 そして、ジャンプシュート!


「うぉっ……!」


 一歩離れた位置から、矢嶋は驚きの声を漏らした。

 ボールは――リングの中央から少しずれて、リングの内側に当たり、ネットの中で螺旋を描くように沈んでいった。


「やったっ!」


 矢嶋相手の、初ゴールだった。

 ローポストのすぐ横あたりの位置からの、短めのミドルシュート。これまでの愛なら選択しなかったオフェンスだ。

 それは、自分よりも大きくて強い相手からゴールを奪うために有効な選択肢だった。

 ワンドリブルで崩すという前段を踏まえた事で、ようやくそれは現実的な武器になってくれた。


「ぬう、やるな」


 賞賛と悔しさが半分ずつのような矢嶋の様子を、可笑しく思えるぐらいの余裕が戻ってくる。


「ジャンプシュート上手くなったわねえ。私も負けてられないわ」


 褒めてくれる美裕にボールを渡し、順番交代。

 成長と成功が楽しい。

 仲間と一緒にそれが実感できるなら、なお楽しい。

 その楽しさがあるから、バスケットボールが好きになった。

 好きになったからこそ、悔いを残したくない。

 だから努力するのだ。

 なんとなく、そんな初心に帰った気持ちだ。


「まあ、しかし。すっかり立ち直ったみたいだな、斉上のヤツは」


 ふと矢嶋が口を開き、そんな事を言った。


「立ち直った?」


 何気なく、愛はそのフレーズを繰り返す。

 立ち直った、というのは妙な表現だ。愛の知っている亮介はいつもバスケットへの情熱に燃えていた。そうでなければ身につかないほどの深い知識と経験を持ち、自分たちを導いてくれていた。

 それが"立ち直った"とは。まるで、一度バスケットに失望していたかのような。


「なんだ、君らアイツから何も聞いてないのか?」

「……何かあったんですか?」


 目を丸くする矢嶋に、愛は歩み寄り、訊く。

 あー、と、矢嶋は言い淀んで頭を掻いた。


「いや、まあ、これは俺らの力不足もあったから、あんま偉そうには言えないんだが」

「高校時代のチームメイトってお話でしたよねえ? 高校の頃に何か?」


 美裕も関心を持ったようで、話を促してくる。

 んむ、と矢嶋は再び一度言い淀んで、重く口を開いた。


「斉上のヤツ、バスケ辞めてたんだよ。高校の最後の夏の大会から、去年の4月まで」

「……え」


 とても、そうは思えない。

 ずっと一筋にやってきた人なのだと思っていた。そう思わせるだけの、経験と情熱から来るカリスマ性のようなものを感じていた。

 対岸のゴールに目をやれば、亮介がアウトサイドポジションの4人にシューティングの指導をしている。

 ここからでは話は聞こえないが、動作を実演しながら教える彼の姿は、いつも通り経験と情熱に溢れた指導者の姿に見えた。


「最後の夏の大会、俺ら、県大会の決勝リーグで負けちまってな」


 亮介が指導する姿が視界に映る中、背中から矢嶋の言葉が聞こえてくる。


「1点差だった。本当に惜しいとこだったが……俺らが目標にしてた全国大会インターハイ出場が叶わなくてよ」


 亮介はきっと高校時代も、いい選手だったのだろうし、理論立った口調で仲間たちを導いていたのだろうとイメージできる。

 今、その彼に指導されているチームメイトたちの姿は、きっとその頃と重なる姿なのだろう。

 なら、自分たちの辿り着く先は――?


「斉上のヤツ、最後のシュートを外した事をすげー悔やんでたし……それにあいつが言うには、俺らは"最高のチーム"だったんだそうだ。それなのに全国に行けなかったんだから、それが自分の限界だろうって言ってよ。それで辞めてたんだそうだ」


 限界?

 そうなのだろうか。

 愛から見て、亮介は優れた指導者だし、プレイヤーとしても充分上手いと思う。

 愛は県選抜の練習で、次元の違う世界を見てきた。中学女子の県選抜でアレなのだから、全国、それも男子とかプロになれば、もっともっと次元の違う世界があるのだろう。

 そして当の亮介も、どこでも通用するというわけでもないのだろう。

 だからと言って。


「……そんな、だからって何もかも投げ出して辞めなくても」

「ああ、そう言ったよ俺も。なんせアイツほどマジになってバスケやってた奴、他にいなかったからな」


 ええ、と愛はうなずく。

 亮介のバスケットに対する情熱は本物だ。だからこそ、バスケットで夢が叶わなかった失望感が大きい事も理解できなくはない。

 でも、好きなものを捨てる理由にはならないはずだ。

 たとえ夢が叶わなくても、好きなものを好きと言えないのは辛いこと。

 それに――夢のために努力して手に入れてきたものは、決して無駄にはならないはずだ。


(だって、先生自身が言った事……)


 4月のあの日、亮介は言った。愛が自分の大きい体にコンプレックスを感じなくなるよう、バスケットを通じて育てると。

 あれ以来、いろいろなものを学んだ。

 リバウンドを取り、相手のシュートをブロックし、チームを守ること。

 ハイポストからパスを回し、仲間たちのオフェンスを援護すること。

 キャプテンとして仲間たちを支え、盛り立て、姿勢を示すこと。

 それら全てはただ選手として上達するというだけでなく、自信という、生涯の宝物になるものへと繋がっていた。

 亮介が指導してくれたから、背筋を伸ばし胸を張って歩けるようになったのだ。

 それはバスケットコートの外の事かもしれない。けど頑張れば、何かがどこかで花開く。

 高校の頃の夢が破れたという亮介にも、きっと同じ事が言える。

 言えるはずなのに。


「まあ、斉上のヤツ――」


 どこか遠い目で矢嶋は語る。

 それは悲しく、寂しい――当時の亮介がどんな様子だったのか、知っているからこその表情に見えて。


「自分のせいで全国に行けなかったって、あの頃はホントにヘコんでたからな。君らを教える事でいろいろ紛らわせてるけど、まだどっか引きずってるんじゃねーかな……」






「17時から他の団体がこの更衣室使うらしいから、みんなそれまでに着替えて外へ、だそうよ」

「はーい」

「えーっと、あたしの……あ、ここだここ。やっぱいつもの部室のロッカーと違うとちょっと迷うなぁ」

「……」

「? あいちゃん、どしたの? 座り込んじゃって」

「中原さん、怪我?」

「あ、ううん、そういうのじゃないの。ちょっと……矢嶋さんから、先生の昔の話を聞いちゃって」

「せんせーの? え、なになに?」

「うん、高校時代の事。ほら、矢嶋さんは先生の高校の頃のチームメイトだって言ってたじゃない」

「言ってたね」

「あ、高校時代に大会でどこまで行ったー、とか? センセー上手いもんな、やっぱ全国とか――」

「全国、行けなかったんだって。最後の試合、1点差で負けて。最後のシュートを先生が外して」

「……」

「……」

「……」

「私さ、先生の事はずっと凄い選手だったんだろうなって思ってた。中学も高校も、たぶん大学も大活躍して……ずっと一途にバスケやってた人だと思ってた。でも違った。高校の最後の夏の大会で負けてから、私たちの顧問になるまでずっとバスケから離れてたんだって」

「……そう、だったんだ」

「……気持ちはちょっとわかっちゃうわよねえ。バスケが大好きで、一生懸命やってきた。だから大事なところで負けて、夢が叶わなかったショックが大きかったんだろうって」

「あ、でもでも! 今はあたしたちの顧問をすっごい楽しそうにやってくれてるじゃん!」

「そうね、純粋に面倒見のいい人だとも思うけど、バスケに対して前向きでなかったらああまでできないと思うわ」

「うん、だからきっとせんせーはもう立ち直ってるよ、大丈夫大丈夫」

「ん、それは私もそう思う。私、この部活と先生のおかげで、いい意味でだいぶ変われたなって……自分でも思うし」

「あ、それはそうかも。中原さん、4月の頃とはだいぶ印象変わったものね」

「やっぱりそう思う?」

「うん、明るくなった。最初はなんだかちょっとネガティブな感じだったのに」

「センセーのおかげで変われたっていうのなら、あたしもだな。小6の頃は運動部やってるなんて思いもしなかったし、いろいろあって家まで変わったし……バスケ始めてから、なんか家が明るくなった気もするし」

「そういえば健介くん、ミニバスチーム入りたいって言ってるんだっけ?」

「あー、そう。そうなんだよ。だからキッズ用のバッシュが必要でさ。驚いたよ、健介のヤツちゃっかり小遣い貯金しててさぁ」

「ふふ、今度は茉莉花も家で教える側だね」

「かもなぁ。って言うか瞳もだいぶ変わったじゃん」

「そう……だね、うん。自分でもビックリしてる。4月の体力測定じゃクラスで50mビリだった私が、運動部で司令塔ポジションやってるんだよ? ふふ、ホントありえない」

「ひとみちゃん上手くなったよねー、今日あたしもついにワンゴール取られたし」

「明芳の正PGポイントガードの座、渡さないからね? 相棒」

「べーつーにー。いいの、あたしはSGセカンドガードで。ひとみちゃんの影で」

「あはは。まあそんな冗談はともかく、私、この部活に入ってホント良かったと思ってるんだ。ね、茉莉花」

「ん?」

「ほら、4月ごろ、ちょっとこじれてたじゃない。私たち」

「あ。あー……うん」

「茉莉花ともう一度友達になれて、ホント良かったって思ってる。だから、その橋渡しになってくれた先生とバスケには感謝かな」

「ちょ、瞳、あんま恥ずいこと言うなよ」

「あはは」

「仲いいわねえ、お二人さん」

「あーもう、茶化すな!」

「ちょっとだけ羨ましいわ。私、従姉妹とこじれたままだし」

「あ、そっか、みひろちゃん……」

「私も先生から聞いたけど、在原さん……あのあと従姉妹さんとは会ってないのよね」

「ええ、そう。達美ちゃんが私につっかかって来るようになって、大怪我して……それ以来」

「……」

「一応、お父さんから様子は聞いてるんだけど。骨折治って、あっちでバスケ続けてるって」

「……いつか、スッキリさせたいね」

「そうねえ、いつかは。でも今は明芳でバスケが楽しめるようになったから、ひとまずそれだけでも良かったわ」

「……」

「最初のうちは、ここでもつっかかってくる子がいるのかって、げんなりしたけど」

「やめてって。あの時は私も子供じみた事したって反省してるから……」

「んふふ。ごめんなさいねえ、思い出させちゃって」

「もう」

「なんだかんだ言ってさ、めぐちゃんとみひろちゃん、コンビネーションいいよね」

「それは、3対3の時にこの組になる事が多いし」

「たぶんその影響? 在原さん、オフェンスリバウンド取ってパス相手を探す時、まず左コーナー見てる気がするけど」

「あっ……」

「……ええと」

「二人が仲良くなってくれて嬉しいなー、私も。あの時は結構心配したからね、キャプテン的に」

「別に仲良くはないわよお。ただちょっと、距離感? がわかってきたって言うか」

「そうそう、そういう事よ」

「ふふ」

「笑わないで」

「ごめんごめん。でもあの時も先生がいろいろ取り持ってくれたの思い出しちゃって」

「ああ……そうねえ。綾瀬さんが退部届出したあと、二者面談だとか言われて、私が怒られるのかと思ったけど」

「ちゃーんと話聞いてくれたもんね、せんせーは」

「ええ。それは私、嬉しかった……かしらねえ」

「私も……思い出してみると、いろいろ迷惑かけてしまったかしら。退部届を保留にしておいてもらったり、居残り練習に付き合ってもらったり。ただでさえ意地張って、いろいろ生意気な事を言った気がするのに」

「でもさ、冬大会の1回戦は綾瀬のおかげで勝てたようなもんだし、センセーもそれは喜んでくれたろ」

「え? ええ……」

「じゃあ、"迷惑かけた"じゃなくて、"ありがとう"でいいじゃん」

「……そう、かしら。うん、そうね」

「めぐちゃん相変わらず素直じゃなーい」

「ほっといてってば、性格なんだから。若森さんは逆にストレートすぎなの自覚してる?」

「してるよ。だってあたし、せんせーがいなかったらバスケ続けてないし、この部にもういないから」

「わ、きっぱり言うね」

「だってあたし、イップス治ってないし。って言うか、一生治らない人も多いんだって。背が小さいのにジャンプシュートも撃てないままじゃ、普通のチームじゃ使いようがないじゃない」

「鈴奈ちゃん……」

「せんせーはそんなあたしにも役割があるって教えてくれた。このチームにいていいんだって言ってくれた。だからあたし、この人を信じてついて行こうって決めたんだ」

「それで今じゃ、明芳ウチの切り込み隊長だもんね」

「えへへ、うん。だからあたし、せんせーには本当に感謝してる。あたしたちが上手くなったり、役割をこなせたり、試合に勝てたりする事でせんせーが喜んでくれるなら、そうしたいって思うんだ」

「恩返しな感じ?」

「うん、恩返し。それそれ」

「恩返しかー、そうだなぁ。あたしたち全員、何かしらセンセーに助けられてるもんなぁ」

「あはは、言われてみると変な部活だよね。みんな先生に助けられた子たちかあ」

「……ねえ、みんな」

「ん?」

「もし先生に叶えたい夢があるとしたら、みんなはそれを叶えるのを手伝う?」

「はいはい、あたしやる!」

「あなたはそう言うわよね。……まあ、でも、私も同じ意見かしら。当然、内容によるけど」

「そうだなー、あたしたちは結局中学生だし、大人を手伝える事なんてたかが知れてるだろ。もちろん、手伝えるものなら手伝いたいけどさ」

「私も同じかな。できる事なら。ああまでお世話になってて何もしないのも悪いと思うし」

「みんなよりこの部でやってきた時間は短いけど、私もそこは同じ気持ちのつもり。やっとバスケを楽しめるようになったなあって、そう思うから」

「うん」

「あいちゃん?」

「あのね、みんな。あ、在原さんには初めて言うかもだけど……私、このチームが解散する時は笑って終わりたいって、そんな風に言ったと思う」

「うん、言った言った。凄いいい目標だと思ったよ、あたし」

「それって具体的にどこまでやる事なんだろう、って最近迷ってたの」

「……」

「……」

「……」

「先生は言ってた。最後の夏の大会を勝利で終われるのは全国大会で優勝した1校だけで、そこを目指すのは現実的じゃないって。日本一になるには日本一の努力をしなくちゃならない。全国大会に出たいって事すら、簡単に言っていい事じゃないんだって」

「それは、うん……」

「正論っちゃ正論だよな。地区ですらヤバい相手がいるのに、全国ってどんだけ遠いんだって」

「でもね、矢嶋さんから聞いたの。先生がそういう風に言ってる理由」

「理由?」

「高校の頃、先生は全国大会インターハイを目指してた。でも県大会の決勝リーグで、最後のシュートを外して負けたって」

「え……」

「……そっか、だからせんせー、あんなキツく言ったんだ」

「だからね、みんな」

「……」

「……」

「……」

「私たちの目標、これでいこう!」






 亮介は着替えを終え、スポーツクラブのロビーで部員たちを待っていた。

 部員たちは17時を少しだけ過ぎて、ロビーにやってきた。いつも時間をちゃんと守る部員たちにしては、珍しい事だ。


「こらこら、みんな。ちょっと遅刻だぞ。時間厳守!」

「はーい、すいません、せんせー」

「たまたま次の団体の人たちがまだ来てないからいいようなものの、公共施設なんだから――」


 ふと。

 亮介はそこで言葉を止めた。教え子たちの様子がいつもと違う。

 愛も、茉莉花も、瞳も、鈴奈も、慈も、美裕も。

 みな一様に――緊張したような、ワクワクしたような、それでいてどこか感極まっているような。

 何なのか。わからない。

 ただ、何らかの想いが溢れている事だけは克明に読み取れた。


「……ええと、みんな。どうしたんだい?」

「実はさ、ちょっとみんなでいろいろ相談してたんだ。それで遅くなっちゃってさ」

「相談?」


 見当もつかず、亮介は聞き返すだけ。

 愛が、ボールの入ったスポーツバッグを肩にかけたまま、一歩進み出た。


「先生。私たち、"最高のチーム"になれると思いますか?」

「……え?」


 最高のチーム。

 そのフレーズには覚えがあった。1年近く前の同窓会で自分が使った言葉だ。

 高校時代――上赤坂高校バスケ部は、自分にとって生涯で最高のチームだと信じていた。それにも関わらず全国大会インターハイには行けなかったという事実は、今でも心のどこかに刺さっている。

 バスケットに対する情熱の残滓は、明芳中女子バスケ部の顧問として燃やしている。

 けれど、どう頑張っても、高校最後の夏だけは二度と来ないのだ。

 それだけが、刺さったままなのだ。


「……中原さん、その話は」

「矢嶋さんから聞きました。先生は高校時代のチームを、"最高のチーム"だと思っていたって。それなのに全国に行けなかった事を、今までずっと悔やんでいたって」

「……」

「先生、覚えてますか? 私、このチームが解散する時はみんなで笑って終わりたいって言いました。"みんな"って、先生も含めてです」


 彼女が何を言おうとしているのか、なんとなく、察する。

 けどそれは、簡単に口にしていい言葉じゃないと教えた言葉だ。ネガティブな感情が入った、素っ気なく厳しい言葉で言ってしまった覚えがある。

 それでも愛は、その言葉を?


「変な話ですけど、私たち、ただ部活の顧問と部員ってわけじゃないと思うんです」


 愛がスポーツバッグを開け、ボールを取り出す。


「鈴奈ちゃんのイップスの事、氷堂さんの家の事、神崎さんが運動できない事、綾瀬さんの退部事件の事、在原さんの従姉妹の事、それから――私の、体が大きいコンプレックスの事。全部、先生が解決してくれた事です」

「……」

「先生は、私たちを真っ暗な世界から連れ出してくれました」


 愛が、ボールを胸の前で持つ。


「だから――」


 その先に続く言葉はきっと、簡単に口にしてはいけないと教えた言葉。

 仮に口にするならば、相応の覚悟が必要な言葉。口に出せば、もう後には退けない言葉。

 それでも、愛の目に迷いはなく。


「今度は私たちが、先生を全国へ連れて行きます!」


 差し出されたボールには、マジックで書かれた文字。少し丸っこい女の子文字で、力強く。

 "行くぞ、全国!"


「……中原、さん。みんな」


 亮介は部員たちを見渡した。

 全員の表情から読み取れたのは、決意と、不退転の努力の覚悟。そして――感謝。


「みんな、先生に助けられてここまで来ました。だから、これで先生に恩返ししようって、みんなで決めたんです」

「……」

「一緒に全国大会、行きましょう。先生!」


 不意に、世界がにじんだ。

 頬を落ちていく温かいものが何かある。


「あ……」


 指で拭えば、それは涙だった。

 そして、初めて気づいた。

 自分がバスケットボールに残してきた気持ち、高校時代に夢を叶えられなかった悔いの強さと――

 その悔いを突き破って自分の夢を拾い上げてくれた、教え子たちの成長に。


「みん……な」


 一人一人を、改めて見る。

 決意を顔に浮かべた教え子たちは、昨年の4月よりも、ずっと大人に見えた。


「クサいこと言うみたいだけどさ、今のあたしたちがいるのはセンセーのおかげだと思うんだよ」

「そーそー。だからせんせー、今度はあたしたちがせんせーのために頑張るよ!」


 視界のにじみが強くなる。もう、何もまともに見えないほどだ。

 ぼろぼろと零れ落ちてくる涙が止まらない。


「あり……がとう、みんな」


 もうひとつの事に、ようやく気付いた。


「僕は……世界一幸せな顧問の先生だ」


 自分がバスケットボールに捧げてきた時間と情熱は、教え子たちの心の中で花開いていたのだ。






「行ってきます!」


 セーラー服の襟に2年生色の校章をつけて、愛は自宅を出発した。

 右手には学生カバンを、そして左の肩には愛用のバッシュが入った肩掛けカバンを提げて。

 今日は4月、始業式の日。

 体育館の改装工事も終わっていて、今日から部活も再開できるはずだ。


「あいちゃん、おはよー!」

「あ、鈴奈ちゃん、おはよ」


 大衆食堂"わがや亭"の裏口から出てきた鈴奈と合流し、挨拶を交わす。

 今日から始まる2年生の日々も、登校時はきっと彼女と一緒だろう。


「クラス分けどうなるかなー。あいちゃん、一緒のクラスだといいね」

「うん。できればバスケ部みんな一緒だといいけどね」

「そりゃちょっと無理じゃないかなー、せんせーが校長になってくれたらワンチャン?」

「あはは」


 他愛ない会話を交わしながら、学校への道を進む。

 商店街を抜け、道を曲がり、ちょっとした坂道を登れば、学校へ一直線だ。


「みあちゃん、ウチの部に来てくれるかなー」

「ああ、佐倉小ホープのあの子。うん、来てくれると嬉しいな」

「うん! 他にもいい1年生、いっぱい入ってくるといいね」

「ふふ。地区ベスト4チームだぞーって宣伝しようか、仮入部期間に」


 話題は自然と、部活の事に。

 愛にとっても、鈴奈にとっても、他の部員たちにとっても、共通の目標が明確になったから。

 目指すべきは全国中学大会インターミドル

 そこに至るまでの道は長い。全国の前に県大会、そしてその前に地区大会。

 地区ベスト4チームである現状、まだまだ旅は始まったばかりだ。


「あ、桜がきれい」


 ふと目に留まった風景を、自然と口にする。

 道の横で花を咲かせて立ち並ぶ桜の木々は、そよ風の中、はらはらと花を散らせていた。


「ほんとだ、きれーい」


 鈴奈とともに桜を眺めながら、1年生の始業式の日を思い出す。

 あの頃、春は憂鬱な季節だった。自分は特異なほど背が高く、それゆえ新しいクラスメイトからの奇異の目に晒される季節だとしか思っていなかった。

 変に注目される事を恐れ、うつむき、背を丸めて歩いていた。

 あの頃は、こんな綺麗な景色があると気づく事もできなかった。

 今は前を向いて、胸を張って歩いていける。

 それはバスケットボールが、そして亮介がくれた心の強さだ。


「風もあるし、桜、早く散っちゃうかもね。今だけの景色かな」


 桜の季節は短い。すぐに散って、春は過ぎ去り、暑い夏が来るだろう。

 そして夏が来た時、全国行きを賭けた戦いがまた始まるのだ。


「よーっし、今日からまた部活、頑張ろ!」

「うんっ! 行くぞ全国、だね!」


 真新しい体育館が視界に映る中、愛たちは校門を通り過ぎていった。




<第一部 完>

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