#18 ワークアウト
「行ってきまーす!」
日曜の朝、開店準備中の厨房に立っていた
厨房から顔を覗かせてみれば、一人娘はTシャツにスポーツ用のショートパンツという出で立ちで、だいぶ使い古されたゴム製のバスケットボールを片手に、スニーカーに足を通しているところだった。
「なんだ鈴奈、今日は部活は休みじゃないのか?」
「そうなんだけどさ、なんか休んでられなくて」
振り返った一人娘の表情は、明るかった。
つい昨日の試合では大敗を喫したというのに。それも、宗太郎をはじめとした商店街の面々が見ている中で。
ミニバス時代で仲間外れにされた頃のように、また塞ぎ込んでしまうのではないかという心配もあったが――
「昨日の帰りにね、もっとああしとけばよかったー、みたいな話がいっぱい出て。もー凄い疲れてたんだけど、全っ然バスケやり足りなくて。
で、今日は休み返上であいちゃんと秘密特訓! えへへっ」
屈託なく笑って友達との約束を話す姿に、暗い過去の名残は見えない。
釣られたように、宗太郎もにっかりと笑った。
「あいちゃんってーと、酒屋の中原さんちの子だな? あの背の高い」
「そーそー。
楽しそうにチームメイトの事を話す娘の姿は、ミニバス時代よりもずっと輝いて見える。
それは、あの頃と違って、仲間たちが傍にいるからに違いない。
今の娘は、好きな事に一人でただ打ち込むのではなく、同じ過程を共に歩む仲間たちがいる。それは単なる友人に留まらない存在に違いない。
きっとそれが、月並みな言い方だが、青春を謳歌するという事なのだろう。
(感謝だなあ、先生には)
女子バスケット部の顧問だという、斉上と名乗った若い教師は、一度この店に来た事があった。
鈴奈に連れられて来た彼は、背は高いもののガッチリとした体型ではなく、雰囲気もどこか優男風で、運動部の顧問という感じの人物ではなかった。
だが、やはり彼は素晴らしい指導者だったに違いない。
試合の勝ち負けはさておき、娘が仲間たちとともに、こんなにも活き活きと好きなバスケットをやっているのだから。
「……ね、おとーさん。次の大会はきっと勝つからね、あたしたち」
勝ち負けはさておき――などと考えていたのが表情に出てしまっていたのだろうか。娘の言葉が鋭く突き刺さった気がした。
親としては娘の成長が見届けられれば満足だが、本人としては結果を出したい気持ちもあるに違いない。気の合う仲間たちと組んでいるチームでなら、尚更だ。
「……ん、おう。楽しみにしてるぞ、頑張れよ!」
「ありがとっ。じゃ、行ってきまーす!」
ボールを小脇に抱えて、鈴奈は元気よく駆け出して行った。
#18
かつて氷堂家があった場所は、茶色い土が剥き出しの更地になっていた。
何もない空虚な空間の真ん中には、ぽつんと設置された立て札。年内には新築住宅の建築が始まると書かれていた。
茉莉花がその光景を目にしたのは、秋大会の翌日、町内をジョギングしていた時の事だ。
(ここに住んでたのが、半年前か……)
産まれてからの12年あまりを過ごしてきた場所が更地になっていた事に、不思議と悲しみや寂しさは感じなかった。
半年前という時間も、とても遠い過去のようにも感じるし、あっという間の半年だったような気もする。
(今が楽しいから、かな?)
この半年あまり、濃密な時間を過ごしてきた気がする。
今は更地でしかないあの場所には、かつて喜びや安らぎがあった。一家の大黒柱である父の下、何も心配する事なく、毎日友達と楽しく遊んでいた。
それが失われてからの3年あまりは、正直に言えば辛かった。弟たちに不自由をさせないためとは言え、新聞配達や内職の手伝いばかりで、自分のための時間などなかった。
今は、とても充実している。
亮介という恩師を得た。彼の手配で、生活の事で悩まなくて済むようになった。本気で打ち込めるバスケットと出会えた。
仲間たちにも恵まれた。中学の3年間だけと決めたはずのこの時間が、いつまでも続いてほしいとさえ思ってしまう。
(――それに)
ふと、後ろを省みる。
「はっ、はっ、ふぅっ――」
いくらか遅れたペースで追走してくる、ピンクのトレーニングウェアを着た姿。
瞳だ。
「瞳、大丈夫?」
「はっ、ふ、ん……平気」
顔の汗を拭い、息を切らしながらもはっきりと瞳は答える。
茉莉花は走るペースを落とし、瞳の傍に並んだ。
「なんか、ごめん。付き合わせたみたいでさ」
「はっ、はっ……いいの。やるって言い出したの、私だし」
そう言い切る瞳の目元には、確かな意志があった。
ほんの半年前、茉莉花に付き合う形で入部した頃には、バスケットに特別な興味や関心があるわけでもないと言っていた彼女が、だ。
「……残念な負け方しちゃったから、ね」
その声音にも、深い後悔がある。
惜しかった、という意味での残念さではない。相手が強敵だったとはいえ、自分たちのあり方を見失うような試合をしてしまった残念さだ。
試合の流れを作る司令塔役である彼女だからこそ、その無念もいっそう強いのだろう。
そうでなければ、試合で全力を出し切った翌日、休みを返上して体を動かしてなどいるはずもない。
そうせずにはいられないほど、瞳にとって昨日の試合の後悔は強いのだ。
それほどまでに、彼女がバスケットに本気になっている事の証でもある。
「……なんかさ、立場が変わったよな」
「そう?」
「そーだよ。バスケやるって言い出したのはあたしだったのに、瞳の方がマジになってんじゃん」
「そうかな……うん、そうかも」
少し迷って、瞳は肯定した。
茉莉花は、それが嬉しかった。バスケットを通じて、親友が素直な本心を見せてくれるようになった事が。
かつて瞳は、罪悪感と打算で茉莉花に歩み寄って来た。茉莉花もそれを知ったからこそ、瞳の言葉をどこまで素直に信じていいのかわからなくなっていた時期もあった。
けど今は、彼女の言葉は本心からのものだと信じられる。
チームの仲間として苦楽を共にしてきた半年間があったからだ。
「今度やる時はさ、ちゃんとやって勝ちたいよね」
瞳のその言葉にはブレがない。仲間たちと勝利の喜びを分かち合いたいという、その想いは一貫している。
それが何の打算もない素直な気持ちである事を、茉莉花は知っている。でなければ、あれほど堂々と司令塔役をやれるはずがない。
「ん。次は絶対勝つ。いつものあたしたちのバスケで、ね」
バスケットが、自分と瞳を再び繋げてくれたのだ。
恩師である亮介とバスケットそのものに対して、顔向けできないようなプレイをしてはならない。
次こそは。
「――次の大会ってさ、冬だったよな」
「うん、先生はそう言ってた。大会は春夏秋冬、1回ずつ」
次の大会までは、3ヶ月。
それが、自分たちに与えられた猶予期間だ。次の大会こそ、立派な選手として
「じゃあそれまでに、あたしはあの4番に追いついてやる!」
茉莉花は言った。挑戦心に満ちた、前向きな表情だった。
御堂坂中の4番、橋本環。茉莉花と同じ
大会で活躍できるレベルとは、彼女のような選手を指すというのなら。
「そうならなきゃ、勝てないもんな」
勝ちたい。
それも実力で、正々堂々と。
どこまで勝ち上がれるかはわからない。
いつか亮介が語ったとおり、中学の引退試合を勝利で飾る事ができるのは全国大会で優勝した1校だけだ。そこを目指せるのか――自分はそれを目指したいのかすらも、茉莉花自身、わかっていない。
ただ理屈ではなく、行ける所まで行ってみたい。
バスケットが好きになったから。
自分たちの成長こそが、恩師である亮介への恩返しにもなるだろうから。
「ん。頼りにしてるよ、
微笑みながら答える瞳。
細かい言葉はいらなかった。気持ちは、一緒のはずだ。
「じゃあさ、瞳」
ジョギングを続ける二人の視界では、住宅地の片隅にある公営アパートが近づいてきた。
茉莉花の現在の住まい。
町内を一周してきて、二人のジョギングのゴール地点だったところだ。
だが、まだ全くやり足りない。
たった3ヶ月で一人前のプレイヤーになるために、休んでなんかいられない。
「練習やろーよ。これから学校行ってさ」
やり足りない気持ちも、きっと一緒だ。
茉莉花がそう考えた通り、瞳の表情には拒否の色はない。
「いいけど、体育館は他の部活が使ってるんじゃない?」
「
「茉莉花らしいね」
ふふっ、と瞳は笑った。
"らしい"と言うのは、がむしゃらな所だろうか。それとも、思い込んだら止まらない所だろうか。
きっと、両方だ。
彼女は親友だ。自分の良い所も悪い所も、誰よりもよく知っている。
「あたし、ボール取ってくる。 ……あ、ちょっと休憩してく? 麦茶とかあるけど」
「あ、うん。じゃあ、いただいてくね」
走るペースをゆるめ、ゆっくりとした歩行へとシフトする。
アパート外縁部の階段を登り、2階へ。203号室が現在の氷堂家だ。
ジャージのポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。
「ただいまー。すぐまた出てくけど」
「お邪魔します」
4人家族には少々手狭な、1LDKの間取りが目の前に広がる。
玄関すぐ傍のキッチンへ向かうや、茉莉花は冷蔵庫から自家製の麦茶が入った瓶を手に取った。
「茉莉花、お母さんは?」
「仕事。今はスーパーのパートやっててさ、日曜は毎週仕事だよ」
この家に移り住んでから、母も心なしか明るく社交的になった気がする。少なくとも、客商売ができる程度には。
集合住宅という環境の影響もあるかもしれない。最低限の経済的な余裕ができた事も、きっと関係しているだろう。
「姉ちゃん、すぐまた出てくって何……」
姉弟共用の部屋から、弟が顔を覗かせた。二人の弟のうち、上の弟の
来客の姿を目にして、硬直していた。
「こんにちは、尚人くん。お邪魔してます」
「こ、こんにちは神崎さん! ちょっ、姉ちゃん、なんで神崎さんが」
「別にいーだろ? 休憩に寄っただけだよ」
「言っといてくれたらもうちょっと掃除とか――」
「尚人くん、背ちょっと伸びた? もうすぐ私、追い抜かれちゃうね」
「あっ、はい! もうちょっとで150で……」
わかりやすい弟だ。茉莉花は可笑しそうに笑って、コップに注いだ麦茶を飲み干す。
「尚人、
「友達ん
「偉いねー、尚人くん」
「あ、ありがとうございます……」
真っ赤になって照れ顔をする尚人。まったくもって、わかりやすい弟だ。
同時に、留守の間の家事をやってくれるのは本当にありがたい。
「じゃあ尚人、悪いけどあたしたちは学校に練習しに行くから、家の事頼んだよ。来週はあたしが尚人たちの分もやるからさ」
「練習って、またバスケの?」
「他に何があんのさ」
下駄箱の隅にしまわれていた、ゴム製の屋外用ボールを取り出す。
空いた時間のちょっとした練習用にと、なけなしの小遣いで買った安物のボール。それも、もうすっかり傷や摩耗が目立つようになってしまった。
この半年間、バスケットに本当に夢中だった。
「姉ちゃん、昨日は大会だったんだよね」
「ん。まあ、負けちゃったけどさ」
「母ちゃん言ってたよ。次の大会の日は、休みが取れたら絶対見に行くって」
「……そっか」
なんとなく、部活での自分の姿を家族の目の当たりにするのは、気恥ずかしい気持ちもあったが。
「姉ちゃんの活躍してるとこ、みんな見たいってさ。次の大会の日が決まったら、教えてよ」
「ん」
昨日の大会では、鈴奈の親が呼びかけたという商店街の人々が応援に来てくれた。
あの人たちが応援してくれたからこそ、それに恥じない戦いをしなければという気持ちになれた。
なら、家族が駆けつけてくれたなら。
「じゃあ、みんなで来てくれよな。冬の大会には」
それは、どれほど心強い事だろう。
「あらぁ、愛ちゃん! 昨日は残念だったわねぇ」
鈴奈との約束の場所に向かおうとした愛を呼び止めたのは、向かいに住む紺野さんだった。
彼女の一家が営むクリーニング屋は、中原酒店と、愛が生まれる前からずっと道路を挟んで店先を向かい合わせて来た関係だ。
家族とは言わないまでも、半ば親戚に近い感覚だと言える。
「あ、こんにちは紺野さん。……えっと、昨日見に来てくれてたんですか?」
「あらやだ! そうよねぇ、誰が見に来てたとか一人一人覚えてるわけないわよねぇ。そうなのよ、うちの旦那に店お願いして見に行ってたの! 中原さんちの旦那さんと奥さんも喜んでたけど、も~、アタシもあんな感激したのは息子が初任給でご飯おごってくれた時以来よ! もうね、愛ちゃんは赤ちゃんの頃から見てきたから、アタシにとってはほとんど娘みたいな感覚なのよ。それがあんなちゃんとした大会で試合に出て? アタシはバスケットのルールとかよくわからないんだけど、愛ちゃんが一生懸命頑張ってるのはよ~く伝わってきたし、最後にアタシたち観客に向かって礼! ってやった時はまあ、立派な子になってくれたわーって感動よ、もう! それに何? 若森さんちのご主人から聞いたんだけど、愛ちゃんキャプテンやってるって言うじゃない。大したものだわぁ!」
紺野さんは商店街でも有名な話好きだ。
愛は困惑しながらも、笑って答えた。自分たちの戦いを見届けてくれる人がいた事は、素直に嬉しい。
「応援、ありがとうございました」
ぺこりと、頭を下げて。
「――次はもっといい試合できるように、頑張りますから」
自然と、そんな言葉が出た。
自分のコンプレックスを打破するために始めたバスケットだったが、今は自分以外の人の気持ちも背負っているのだと学んだから。
チームメイトも。顧問の先生も。そして、応援してくれる人たちもだ。
「――偉いっ!」
破顔一笑。紺野さんは、腕を伸ばして愛の肩を叩く。
「ちょっと前まであんなオドオドしてて、いっつも見てて心配だった愛ちゃんがねぇ! ま~、こんな立派な事言うようになっちゃって! 謙虚に頑張る気持ちっていうの? そういうのすっごい大事よ、スポーツに限った話じゃなくて社会に出てからも! いやね、私はスポーツの事とかよくわからないけど、でもやっぱりどんな世界でもね、信頼されるのはそういう人なのよ!」
「あはは」
「その気持ちを忘れずに頑張るのよ! アタシ、次の大会とかも応援に行くから!」
「はい。次の大会は冬ですけど、その時もお願いします」
矢継ぎ早に褒め称えられるのは、悪い気はしないけれど、あまりにもくすぐったい。
頬が綻ぶような、引きつるような。何とも表現しづらい感覚を愛は感じていた。
嬉しいか嬉しくないかで言えば、嬉しかった。
「う~ん、それにしても、あの愛ちゃんがねえ……」
紺野さんは愛の全身を、足元から頭まで一通り眺める。
「美人になったわぁ、愛ちゃん!」
「ふへっ?」
変な声が出た。
予想外。と言うか、さきほどまでの話からの脈絡がない。驚きのあまり珍種の動物かと思うような声が出てしまった。
慌てて愛は口元を手で覆うが、出した声が引っ込むはずもなかった。
顔が、少々火照る。
紺野さんの表情を見てみれば、愛のその仕草すらも可愛らしいと言いたげだった。
「あのね、愛ちゃんの事ずーっとアタシは心配してたのよ。だってねぇ、せっかくこんな背が高いのにいっつも丸まった猫背で、うつむいて歩いてたじゃない。この子将来大丈夫なのかしらってホント心配だったのよ~。でも今の愛ちゃんを見てたらそんな事思わないわ。こんな、スラッとしてて、背筋もピシーっとしてて! 美人だしカッコいいわよ~! 将来はモデルさんかしら!」
「あ……」
言われてみれば。
半年前とは、商店街の光景が違っている気がした。
愛にとって、生まれ育ったこの商店街の"色"は、彩りのないものだった。アスファルトの灰色と、立ち並ぶ店たちの色褪せたセメントの色。
今は、視界の先に青が広がっている。
上を向いた者にしか見えない、空の色が。
(そっか……)
改めて気づく。
自分に見える世界が、半年前とは変わっている事に。
特別に意識する必要もなく、背筋を伸ばして歩く事ができるようになっていた。
奇異なものを見る目を恐れて、うつむく事もなくなった。
なぜならこの身長は、明芳中女子バスケ部の
――君がその身長を武器に戦って、活躍して、周りからの目を羨望の眼差しに変えたいと望むなら――
亮介の言葉が、リフレインした。
愛がバスケットを始めるきっかけになった言葉だ。
"高さ"は、憧れるほどの"格好良さ"になりえる。亮介はかつて、愛よりも高い身長と、空を飛んでいるのかと錯覚するほど美しく華麗な空中技をもって、それを証明した。
だからこそ、半信半疑ながらも、愛は亮介の指導を受ける事にしたのだ。
(私、なりたかった自分になってたんだ……)
亮介ほどの名選手にはなれていない。
それどころか、チームも自分も、地区大会で惨敗する程度の存在でしかない。
でも、自分は確かに成長していたのだ。
その証拠に、羨望ではないかもしれないが、周囲からの目は変わっている。
自分の目に見える世界も、いつの間にか変わっていた。
「愛ちゃん、すっごくいい顔してるわよー」
自覚する。
自分は、微笑んでいる。ここまで歩いて来る事ができた、自分自身への誇りによって。
「だいたい女の子がそういう顔してる時って、素敵な恋してる時なんだけど」
「あはっ、それはちょっと違うかも。私、今はバスケットに夢中ですから」
「うんうん、愛ちゃんの場合はそうよねぇ! バスケットが恋人って感じ? それとも部活の友達とか先生がいい人たちなのかしら? それでもいいと思うわよ~。あのね、夢中になるものは何でもいいの。大事なのは尊敬できる人がいて、お互い成長し合えるような関係でいる事よ! この商店街のご夫婦もね、だいたい円満に長続きしてるのはそういう人たちなの。愛ちゃん、バスケット部にいるんでしょ、そういう人?」
「そう……ですね」
知らぬ間に、自分をここまで成長させてくれた亮介。
お互いの長所を活かし合い、ともに悩みやトラウマを乗り越えてきた鈴奈。
他の部員のみんなも、ともに努力して、いろいろな壁を乗り越えてきた。
共に尊敬し合い、成長し合える関係には、まさしく当てはまる。
「います。そういう人たちが集まってますから、ウチの部」
明芳中女子バスケ部は、きっと理想的なチームになりえるのだ。
理想に向けて進んでいこう。冬の大会までに。
鈴奈とともに愛が向かったのは、学校の校庭だった。
体育館は他の部活が使っているだろうが、2面ある屋外コートのどちらかなら少なくとも使えるだろうという考えだ。
だが、先客がいた。
「あれ? めぐちゃんだ」
学校指定のジャージ姿で、長い髪をポニーテールにまとめたその人物は、鈴奈が言い当てた通り慈だった。
遠目に見えた限り、慈はシュート練習をしているようだった。
左コーナーからの3Pシュート。
リングに弾かれ、外れる。
そのボールを拾いに行く。
そしてまた左コーナーに戻って、シュート。
機械的に繰り返しているようにも見える、単純な動作の繰り返し。
「スリーの練習してる……」
ぽつりと、鈴奈はつぶやく。
鈴奈の様子をうかがってみれば、どこか現実離れした出来事であるかのように、慈の練習光景を見ていた。
「……鈴奈ちゃん」
「あ、うん。なんでもないよ、だいじょぶ」
何でもない事はないだろう。
愛は確かに覚えている。鈴奈にはバスケットを始めるきっかけになったマンガがあり、特にお気に入りのキャラクターは3Pシュートの名手だったという。
それでなくても3Pシュートは、普通のシュートの1.5倍の得点価値がある、強力な攻撃手段だ。
そして、明芳中女子バスケ部に欠けているピースでもある。
「……めぐちゃん、何時からやってたんだろ」
慈のジャージには、汗のにじみが浮かんでいた。
激しい運動を必要としないシュート練習で、それほど大量の汗をかいていたとなると――少なくとも、10分や20分ではない。
愛たちが見ている事にも気づかずに、一心不乱といった様子で、ただシュートを撃ち続けている。
リングの手前側に弾かれて、外れ。
次の一本はリングに当たりもせず、奥側に落ちる。
その次はリングの奥側にかすった。
次はリングに当たり、二度、三度と小さく跳ねた後、リングの上を転がって、外側へ落ちていく。
その次の一本は、リングの内側に当たってネットの中へ滑り込んでいく。
ようやくの成功で人心地ついたかのように、額の汗を拭った。
「綾瀬さん!」
愛は、その段になって声をかけ、足早にコートへと向かった。
慈は汗だくの顔で振り向く。声をかけられて、ようやく愛たちの存在に気づいた様子で。
「中原さん、若森さん……」
「めぐちゃん、自主練?」
「……ええ。まあ、そんなところ」
慈は答えて、ボールを拾ってくる。
戻って来た立ち位置は、さきほどまでと同じ、左コーナーの3Pライン際だ、
「もしかして、ずっと3Pシュートの練習?」
「そうよ」
愛の問いかけに、慈はごくあっさりと答えた。
「めぐちゃん、シューターやるの?」
「シューターとか、呼び方は別にいいんだけど……」
てん、とボールを一度地面につく。
「私なりに考えたのよ。昨日の試合、どうすれば勝ててたかって」
"昨日の試合"という言葉だけで、愛は鮮明に思い出せる。
愛にとっては初めての、自分よりも大きい相手との戦いだった。他のメンバーたちにとっても、総じて自分たちより背が高い相手との戦いだった。
機動力で撹乱して勝負を挑もうとしたが、インサイドの守りを固められ、最後までその守備を破る事は叶わなかった。
「3Pシュートがあれば、勝ててた可能性があったと思うのよ」
言いながら、ゴールへ向き直り、シュートフォームを再び取る。
「外からのシュートなら、インサイドを固められても関係ないわ。それに3Pなら、得点も1点多く入るし」
再びシュートを放つ。
ボールはリングに弾かれ、外側へ落ちていく。
「……もちろん、もっと精度は高くないとダメだけど」
バツが悪そうに言い、慈はボールを回収しに行った。
「……綾瀬さん、しっかり考えてるんだ」
「当たり前じゃない。やるからには勝つつもりでやるわよ」
くすりと、笑いが漏れた。
彼女の、意地っ張りなまでの努力家ぶりは、微笑ましくも、仲間として頼もしい。
「……何よ、可笑しい?」
「んーん。ウチのメンバーは頼もしいな、って」
「どうしたのよ、急に」
「そんな急かなあ」
急だ。自分でも思う。今までの自分だったら、口に出していなかった事だ。
でも、いいのだ。今までの自分と違っていても。
自分はいつの間にか、イメージしていた"自分"よりも少しだけ高い位置に辿り着いていたのだから。
「みんなが真剣にバスケやって、一緒に頑張って上手くなってくの、楽しいし嬉しいよ?」
慈へと視線を向けて、ゴール下へ歩いていきながら、愛は言った。
かつて思い描いていた気がする、"明るい自分"を演じたような喋り方で。
ただ、言葉だけは素直な本心だった。
鈴奈の明朗さ、慈の頑張り、茉莉花の積極性、瞳のひらめき。どれもが愛にとっては、バスケットを楽しみ、前向きに取り組むための良い刺激だった。
きっとこういう関係を、仲間と呼ぶのだろう。
そして、それは自分が何よりも大切にすべきもののはずだ。
「――キャプテンだからね、私」
いつにない愛の様子に、慈は怪訝な顔だった。
3Pラインから放たれたボールは、高い弧を描いてリングに弾かれ、落ちていく。
愛は跳び上がり、そのボールを掴んだ。
ボールの向こうに見えた空は、青かった。
「あれ? なんだ、みんな来てたのかよ」
着地と同時に、ふと、背後から聞き慣れた声。
振り向けば、ジャージ姿の茉莉花と、私服らしいトレーニングウェア姿の瞳がいた。
「やほー、まりちゃん、ひとみちゃん。ってか全員揃っちゃったね」
「考える事は一緒、ってか」
くくっ、と笑いを堪えるようにしながら、茉莉花はゴム製のボールをつく。
瞳は軽く手首の準備運動をしながら、進み出た。
「せめて冬の大会は、みっともなくない試合をしなきゃ……ってね」
「あ、うん。それ私も同じ気持ち。なんて言うか、悔いの残る負け方しちゃったよね」
「そうそう」
瞳と愛はうなずき合う。
実力で負けていただけではなく、ダーティプレイに走ってしまった二人だからこそ、悔いが残る部分も共通だ。
この悔いは、次の公式戦で晴らすしかない。
「よっし。みんな揃っちゃったし、3on2やろっか!」
キャプテンらしく。
愛は、仲間たちに呼びかけた。
「斉上くん、大会は残念でしたな」
校長が突然にそんな言葉をかけてきたのは、亮介が職員室で事務仕事を処理している最中だった。
大会前は部の指導に時間を割いていたため、書類仕事が少し溜まっていた。大会が終わってから、一気に片付けようと思っていたものだ。
幸か不幸か、明芳中女子バスケ部にとっての秋大会は、昨日一日で終わってしまった。
「……ええ。残念でした」
事務仕事用のノートパソコンに向かって手を動かしながら、亮介は答える。
「あの子たちは1年生だけのチームです。上級生と戦う事になりますから、厳しい試合になるだろうとは思っていましたが……」
「ふむ。何かあったようですね」
「ええ」
校長は今日、偶然用事があって日曜出勤していたと言う。
上司ではあるが、比較的話しやすい人だ。職員室という空間にこの二人しかいない事が、苦痛とは感じなかった。
昨日の大会を見に来ていなかった校長は、女子バスケ部が大敗したという客観的な事実しか知らないはずだが……
「ただ大負けして残念だった、という話ではない……と」
「少々、私の指導不足が明らかになった部分がありまして」
亮介は手を止める。
少々、亮介にとってもショックだった事は事実だ。
「……勝つためとはいえ、あまり正々堂々とは言えない手段を取った子がいまして」
「ほう」
「私の教え方が至らなかった事は認めた上で、部員の子たちに注意はしました。本人たちも行き過ぎた行動だった事は自覚してくれました。
ただ……父兄の方々が見に来てくださっていた中での事だったので。本人たちが変に悔やんで、気落ちしていなければいいんですが」
試合で疲れた体だけでなく、心も休める必要もあるかもしれない。亮介はそう考え、今日は部活は完全休養日とした。
気持ちを整理し、月曜には元気な顔を見せてほしい。負けた事も、やってしまった事も、仕方ないと割り切って、これからの事へ気持ちを切り替えられるように。
「……ふむ」
校長は、ちらりと視線を窓の方へ向けた。
口元には優しい微笑み。孫を見守る、"おじいちゃん"の。
「斉上くん、心配は無用なようですよ」
「え?」
「一区切りついたら、校庭に行ってあげなさい」
亮介は、窓の外を見た。
いくつかの運動部がまばらに活動している中、校庭の隅のバスケットコートに――
「……あの子ら」
思わず、苦笑い。
自分がプレイヤーだった頃は顧問が言っていたセリフを、今度は自分が言う立場だった。
「完全休養日だって、言ったんだけどなあ」
「こーらっ! 今日は完全休養日だって言ったろっ!」
「あ、せんせー! えへへー、みんな揃っちゃった」
鈴奈をはじめ、誰も悪びれた様子はなかった。
亮介自身も、口元を引き締めきれなかった。彼女らを休ませる事も顧問としての大事な役割だと理屈ではわかっているが、試合の悔しさを何かにぶつけずにはいられない衝動もよくわかる。
数年前は、そうやって自分が顧問に叱られていた側だったのだから。
「ちゃんと休養を取るのもプレイヤーとして大事な事だぞー、みんな」
「そんな事言われてもさ、じっとしてなんかいられないよ」
茉莉花が答え、右サイド45度の位置に構える。
オフェンス時、彼女が最も得意としている位置取りだ。
「冬の大会で、もっといい試合をしたいですからね」
言葉を継いだのは、ボールを持っていた瞳。
言い終わるや、素早くパスが飛ぶ!
亮介が制止する暇もなく、3on2のミニゲームが始まった。
茉莉花がボールを受け取り、ドリブルしてゴールへ突き進む!
愛がその前に立ち塞がろうとして――
「とおっ!」
茉莉花は、3秒制限区域のライン上から跳んだ!
「おっ……!」
亮介は感嘆の声を漏らす。
茉莉花はレイアップシュートに似たフォームから、下手投げでボールを放り投げる。
ボールは、リングを大きく外れて落ちていった。
「ありゃっ」
落ちてくるボールは、無言で愛が取った。
あっさりと攻撃が終わってしまった事に、茉莉花は消化不良そうに頭を掻く。
「あー。やっぱぶっつけじゃ上手くいかないかぁ」
「まりちゃん、今のって御堂坂の4番のやつ?」
「ん。あの4番の技をパクってやったら強いんじゃないかなって思ってさ」
学びに貪欲だ。それは好ましい事だと、亮介は感じる。
御堂坂の4番――橋本環は、優れたテクニックを持った選手だった。特に彼女の使う変則的なシュートは、明芳メンバーにとっては初めて相手取るものだったから、印象も強く残っていたのだろう。
相手の凄さを素直に認め、吸収しようとする姿勢。それは茉莉花の長所に違いない。
だからこそ顧問としては、その学びを補助するべきだと思えた。
「うん、積極的に技を盗もうとするのはいい事だ。だけど、もう少し技の理解を深めておこうか。中原さん、パス」
「完全休養日じゃなかったんですか?」
くすっと笑いながら、愛はワンバウンドさせてボールをパスしてくる。
いつになく明るい愛の雰囲気に少しだけ面食らいながらも、亮介はボールを受け取る。
「……中原さん、何かいい事でもあったのかい?」
「んー、はい。そんな感じです」
「ん、そっか」
詳細までは聞かなかった。
だが、もしバスケットを通じて彼女が明るくなってくれたのなら、それは喜ぶべき事だ。
当初は、そのためにこの部を作ったのだから。
――それが今では、みんな真剣にバスケットに取り組むようになったわけだが。
「さて、それじゃあ説明しよう。御堂坂の4番が使っていたような変則的なレイアップは、フィンガーロールシュートという技だ」
「フィンガーロール……」
茉莉花が食い入るような目をして、その名前を繰り返す。他のメンバーも、真面目な顔で静聴している。
上達と勝利を目指して、みな真剣に取り組んでいる証拠だ。
バスケットを始めようとしたきっかけよりも一歩先へと、全員が踏み出していた。
「御堂坂の4番は、普通のレイアップよりも少し遠い位置から撃つためにこのシュートを使っていた。それは覚えてるね」
「はい。あれでタイミング外されました」
愛がうなずく。昨日の試合ではそれのせいで、ブロックに跳ぶタイミングすら逸して、ゴールを許してしまった。
亮介はその答えに満足げに、言葉を続ける。
「タイミングを外された、というのは的確な理解だね。だけど、少し遠くから踏み切って撃つ事がフィンガーロールの本質じゃないんだ。
例えば、普通のレイアップは――」
言葉を切って、ドリブルで駆け出す。
ゴールへ向かって、一歩、二歩。ふわっと跳び上がり、高く掲げた手から軽くボールをリリース。
リングに"置いてくる"かのように亮介の手から放たれたボールは、そのままリングの内側へと滑り落ちた。
「みんなも知っての通り、こうだ。高く跳び、極力ゴールリングの近くまでボールを持ち上げて、軽く指で押し上げるように放つ。
リングのすぐ近くから、リングの中へ最短距離でボールを届けるように撃つ。とても素直なシュートだ」
「つまり――」
真っ先に反応したのは瞳だ。
"素直なシュート"という言葉をヒントに、どうやらすぐに理解したようだ。
「素直じゃない撃ち方で、ディフェンスをかわすシュートって事ですか?」
「うん、おおよそその認識で合ってる」
亮介はにこやかに答えると、ボールを手に、再びゴールから距離を取る。
「中原さん、ブロックしてみてくれるかい?」
「あ、はいっ」
愛は答えて、ゴール下で身構えた。
どことなく楽しそうな表情だった。それはきっと、どのような技を目の当たりにできるのかという期待。
亮介は一度、強くボールをついた。
「行くよ?」
「はいっ!」
亮介はドリブルして駆け出した。
まっすぐにゴールへ突き進む。その途上には、愛がいる。
構わず、亮介はゴール下へ踏み込んだ。
一歩、二歩。そしてジャンプ!
同時に、愛もブロックに跳ぶ!
タイミングはピッタリだ。
素直にレイアップを撃てば、ブロックに伸ばした愛の右手が届く――!
「ふっ……!」
亮介は空中で体を捻り、ボールを持った右手を愛の右肩の後方へ。そして腕を振り上げ、手首を使ってボールを投げ上げた。
しゅるっ――!
手首と指のスナップが、音を立ててボールに鋭い回転をかける。
ブロックの死角から放たれたボールは、何に防がれる事もなく、勢い良く回転しながらゆるやかな弧を描いてゴールへ。
そして、バックボードの高めの位置に当たって、リングに自ら向かって行くように落ちていった。
すぱっ……とかすかな音を立て、ボールはネットの内側を通り抜ける。
「おーっ……!」
鈴奈が歓声を上げた。茉莉花も、初めて目にした技に目を丸くしていた。
「先生、今のって……どうやったんですか?」
聞いてきたのは慈だ。にわかには信じがたいものを見た、といった様子で。
「ボードに当たった後、ボールの向きが急に変わったように見えましたけど……」
「うん。そうなるように回転をかけた」
亮介はボールを拾い上げた。
ボールに横向きの回転をかけるように片手で軽く投げ上げ、キャッチして見せる。
「フィンガーロールシュートの本質は、ボールに力と回転をかける事だ」
「回転……?」
再び亮介が軽く投げ上げたボールに、茉莉花が視線を注ぐ。
彼女にとっては、今まで特に意識していなかった要素なのだろう。
「そもそもフィンガーロールシュートとは、手首と指のスナップを利かせてボールを放り投げるように撃つ、変則レイアップ全般の事を指す。
御堂坂の4番がやっていたような、"遠くから放り投げるレイアップ"は、その使い方のひとつに過ぎない。高く投げ上げてブロックの上を越すような撃ち方もできる。ボールの回転とボードの跳ね返りについてマスターすれば、今見せたように、あらゆる体勢・角度からゴールを狙う事もできるようになるんだ」
「へぇ……あらゆる角度からか、すげーな」
茉莉花は亮介を真似するように、指のスナップで回転をかけるようにボールを軽く投げ上げる。
「まあ、そこまでできるようになるには要練習だけどね。練習メニューとしては、マイカンドリルっていうのが――」
「ふふっ」
亮介の説明の途中、唐突に笑ったのは、愛。
「……中原さん、なんか妙に機嫌いいね、今日?」
「ん、はい」
愛は素直にうなずいた。嬉しそうな様子を、隠す気もなさそうだった。
「やっぱり、昨日の前半みたいにトゲトゲしてるより、こういうのが私たちらしいなって」
私たち――という言い方には亮介も含まれるのだろうか。
亮介も、なんとなく言わんとするところはわかった。
亮介が大好きなバスケットについて饒舌に語り、手本となる技を見せ、部員たちがそれに感心して感化され、和気藹々と、しかし真剣に上達を目指す。
できたばかりの頃のこの部は、そのようにしていたはずだった。
それが楽しい時間だったからこそ、今までこの部は続いてきたのだ。
「よっし、冬の大会までまた頑張ろ、みんな!」
愛は、仲間たちに呼びかけた。
今日この日が、再スタートなのだと。
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