#29 プレイヤーオプション

「綾瀬さん、ちょっと待ってくれ!」


 1-Dの教室の前で慈の姿を見かけて、亮介は彼女を呼び止めた。

 慈はゆっくりと振り返る。

 その顔には、何の表情も浮かんでいなかった。


「何ですか、先生」


 驚くほど冷淡な声。

 その声音は、亮介に確信させた。慈の中では、処理しきれないほどの複雑な感情が混ざり合い、もう自分で抑えきれないところまで来てしまっていたのだと。

 逆に、何の感情も抱いていなければ、ここまで冷淡になる事はない。

 その感情の源泉は――


「……これの事で」


 亮介は、手にしていた一枚のプリントを見せた。

 "退部届"。

 綾瀬慈の名前が震えた字で書かれているそれは、彼女からの一方的な離別の意思表示だった。


「それが何か? 内容に不備でもありましたか」

「不備って……いや、そういう話じゃなくて!」

「じゃあ、何の話ですか」


 慈の言葉には、ほとんど抑揚がなかった。


明芳中ウチは全員部活制ですけど、転部の際には二週間の猶予期間がある校則のはずです」

「そうじゃなくて、なぜこれを……!」

「辞めたくなったからです。他に理由が必要ですか。所属する部活を自由に選ぶ権利は、生徒にあるはずですけど」


 抑揚なく、それでいて淡々と整然と。

 それは、どんな言葉よりも雄弁に、慈が対話を拒絶している事を示していた。


「……綾瀬さん」

「もういいですか。次の授業の準備があるので」


 慈は亮介に背を向け、立ち去ろうとした。

 それは、彼女がどこか遠いところへ行ってしまうような気がして。


「ちょっと待ってくれ! せめて、理由を……」


 慈は、首だけ振り返った。

 まったくの無表情。

 ただ――その目に恨みのような感情を、亮介は読み取った。


「つまらなくなったからです。バスケットが。……それじゃ」


 慈は亮介に背を向け、そして1-Dの教室へと入っていった。

 もう、振り返る事はなかった。






 #29 自分の道を選ぶ時プレイヤーオプション






「……めぐちゃん、辞めるんだって」


 練習前の部室で、鈴奈は言った。

 いつもの元気がどこへ行ってしまったのかという様子で発した言葉を、部の全員が聞いていた。

 茉莉花、瞳――そして、美裕。

 誰もが、言葉を選ぼうとして押し黙っている。

 それは愛にとっても同じだった。

 5人の中ではあまり親しい相手ではなかったとはいえ、これまで春からずっと同じチームの一員としてやってきた仲間が、欠けてしまう。

 それはあまりに唐突で、現実感がなく――それでいて、言葉に表しようがない悲しさがあった。


「……そっか」


 やっとの思いといった風で、茉莉花が口を開く。

 慈が退部するという事実に、賛成するでも反対するでもなく、ただ、受け入れたかのように。


「……まりちゃん、ムカついたらごめん。でも……冷たいよ、その言い方」


 鈴奈にとっては、受け入れがたい事なのかもしれない。慈とクラスが同じだから、慈の抱いている感情に接する機会が多いというのもあるのだろう。

 それでも、チームメイトを非難するのは、鈴奈にしては珍しい事だ。


「めぐちゃんが辛い思いしてたの、知ってるでしょ? 牧女と練習試合やった時は退場になっちゃったし、みひろちゃんとだって……」

「そこで私が出てくるの?」


 鈴奈の言葉を、美裕が遮った。

 不機嫌半分、悲しさ半分といった様子。いずれにせよ、ポジティブな雰囲気ではなかった。


「私、あの日は綾瀬さんに頼まれて1on1やってただけよ」

「そうかもだけど……あんなボコボコにする事ないじゃん……」

「手加減しろって言うの? それこそ違うんじゃないかしら」


 美裕の言葉には、いつものおっとりとした調子がない。話す速度こそいつもと変わらないが、きっぱりとした意思があった。

 鈴奈が言うには、"ボコボコに"と表現されるほど、慈と美裕の1on1勝負は一方的な結果だったらしい。

 愛は、その様子を直接見てはいない。

 けれど、その様子を鮮明に想像できた。慈と美裕では、土台の身体能力に大きな差があるのだから。


「勝負するからには、どっちかが勝ってどっちかが負けるものでしょ。

 私、負けず嫌いなの。負けないために努力してる。体操やってた頃からそう。そうやって頑張って実力を身につけたのに、本気出しちゃいけないなんておかしいじゃない」

「……」


 鈴奈は反論できなかった。

 いや、鈴奈に限らない。この場の誰もがそうだ。

 明芳中女子バスケ部ができて以来、全員がより良いプレイヤーになろうと努力してきた。

 運動能力やスキルを手に入れた事は嬉しかったし、手に入れたものは試合で試したくて仕方ない気持ちもあった。

 少なくとも、愛はそう理解している。

 この半年あまり、そこに楽しみを見出していた事も事実だ。


「それに……」


 美裕は言葉を続けた。声のトーンを落として。


「……変に手加減なんかする方が、余計に相手のプライド傷つけちゃうじゃない」


 言葉が、重い。

 それは何らかの実感、実体験に基づいた言葉に違いない――と、愛はそう感じ取った。

 だからこそ、愛も反論できない。

 けれど。


「……私、なんか、ヤだな」


 それは、愛の率直な気持ちだった。


「私、このチームが解散する時は笑って終わりたい。いつかも言ったけど、その気持ちは変わってないから……」

「あいちゃん……」


 それは愛がかつて、男子バスケ部の3年生たちの引退試合を見た後に言った言葉だ。

 そして、鈴奈が愛をこのチームのキャプテンに推薦してくれた、その根拠となった言葉でもある。


「誰か一人でも欠けちゃったら、なんか……違うチームになっちゃう気がして。私は、ヤだな……」

「……うん、私もそれ、思う」


 愛の言葉に同意したのは、瞳だった。

 彼女の手元のスマホには、作戦盤アプリ。先日語ってくれた、インサイドの守備が強固なチーム対策――シューターを活かすフォーメーションが表示されている。


「綾瀬さんがヘコんでるのは私もわかるの。でも、そんなに落ち込んで、部活辞めちゃうほどの事かなって……もったいないと思わない? せっかくみんなと仲良くなれたのに」

「ひとみちゃん、それもちょっとキツいよ。めぐちゃんは多分、自分はぜんぜんって思ってて……」

「それ言ったら、私の運動音痴の方がひどいもん」


 瞳は、くすっと笑う。

 嫌味はなく、自分の運動能力の低さを落ち着いて受け入れていた。


「綾瀬さんは、贅沢言ってる……って言ったら言いすぎだと思うけど。せっかくみんなと仲良くなれたのに、自分で繋がりを切っちゃうのはもったいないって私は思うな。たぶん、何かひとつでも自信を持てるものがあれば、またみんなと楽しくバスケやれるんじゃないかなって」


 それは瞳自身が、そうやって自分の心のバランスを取ってきたからこその言葉だ。

 彼女は、普通に考えれば致命的なレベルの運動音痴だ。加えてバスケットでは不利な低身長でもある。

 しかし、視野が広く頭がいい。作戦能力とパスセンスを磨き、味方に点を取らせ、自分の守備の弱点も味方に補ってもらう事で、明芳のPGポイントガードを任されてきた。

 瞳は、チームに依存する事にためらいはない。

 むしろチームメイトと協力し、お互いを補い合う事が彼女のアイデンティティだ。

 一人では何もできない、個としては劣った選手である事を、ポジティブに捉えていると言ってもいい。

 だからこその言葉だ。


「そうでしょ、茉莉花?」

「……ん」


 だからこそ。

 茉莉花にその言葉は、響いた様子がなかった。


「ごめん、瞳。あたしの考えは……ちょっと違う」

「?」


 瞳は、茉莉花の顔を覗き込んだ。

 愛から見えた茉莉花の横顔は、複雑な葛藤を抱えているようで、しかしまっすぐな目元には確かな考えが秘められていた。


「あたしたちはチームだし、仲間だよ。けど……何て言うのかな。ここまで一緒にやってきたんだから3年間ずっと一緒にやっていたいって、それをあたしたちから求めるのは、違うと思う」


 茉莉花は、訥々と語った。

 淡々としているようで、口調は冷静で。それは、彼女なりに考えた末の言葉に違いなかった。


「もちろんあたしだって、綾瀬にいなくなってほしいわけじゃないよ。だけど綾瀬がバスケを、本当にもう嫌だって思っちまったのなら……無理に引き留めるのは、それこそ仲間じゃないってあたしは思うんだ」


 瞳は驚きと感心が半分ずつ。鈴奈は残念そうな、しかし言い返せないような。茉莉花の言葉に、めいめいそんな反応を見せた。

 数秒の沈黙。

 やがて口を開いたのは、鈴奈だった。


「……ホントにそうなのかな。あたしたち、めぐちゃんにしてあげられる事とかないのかな」

「ないわけじゃないと思うよ。けど――」


 茉莉花は天を仰いだ。これまでの事を思い出すように。


「あたしたちが手助けしようとして、綾瀬のヤツが受け入れるかどうか……ってのがね。あいつ、一人で頑張るタイプじゃん」


 慈は、人の助けを借りようとしない。

 愛が記憶している限り、確かにその傾向はあった。誰にも言わず、一人で自主練習をしていた事が多い。

 このチームで最も早くジャンプシュートを身につけた時もそうだ。女子実業団の選手の動画を手本として、秘密特訓をしてきたと言っていた。

 秋の新人戦で敗れた後も、敗因を自分なりに考え、一人で練習に取り組んでいた。

 コツコツとした努力の量で、人を上回る事。

 もしかするとそれが、優等生である彼女のなのかもしれない、と――


「みんな、入っていいかい?」


 愛がそう考えた瞬間、ドアの向こうから亮介の声がした。

 この部室は、更衣室を兼ねている。したがって亮介が入室する際には、必ず一声かけるのが通例となっていた。

 もっとも今は、着替え中ではないが、それ以外の理由で"入ってほしくない"という空気が充満していた。

 部員たち同士の空気が、重い。

 既に慈が退部届を出したというのなら、顧問である亮介にも、きっとできることは何もないだろう。


「……どうぞ」


 しばし躊躇った後に愛が答えると、ドアが開く。

 亮介は――愛想笑いと言えばいいのだろうか。何か苦しいものを飲み込んで、無理に作った微笑みを浮かべていた。

 一同を見渡し、どんよりとした空気を感じ取って怯んだ様子を見せながらも、連絡のために口を開く。


「ええと、今日は体育館で、入口側の半面を使います。それと――」


 そこまで言ったあと、視線を美裕に向けて。


「在原さん。練習前に、ちょっと二者面談をいいかい?」

「……はあ」


 答えた美裕の表情は、暗かった。

 自分が悪者なのかと言いたげに。






「ねえ、綾瀬さん」


 金曜の昼休み、愛は、見慣れた長い黒髪の後ろ姿に声をかけた。

 振り返ったのは、確かに慈だった。

 ただし、まったくの無表情。


「……何かしら、中原さん」

「ん……ちょっと、部活の事で」


 愛がそう切り出すと、慈は、かすかに眉をひそめた。

 だが、すぐにまた無表情に戻る。もはや、何の関心も抱いていないと主張するかのように。


「何? 私はもう、バスケ部員じゃないんだけど」

「うん、知ってる」


 愛はうなずいた。思わず微笑みが漏れてしまったのは、安堵したからだ。

 愛の想像は外れていなかった。もし慈がバスケットに対する関心と情熱を本当に失っていたのなら、嫌そうに表情を歪めるはずがない。

 本当に関心がないのなら、何の反応も示さないはずだ。


「……知ってるなら、何の用なのよ」

「ちょっと、言いたい事があって」


 微笑みかけて、愛は一歩だけ歩み寄った。

 その胸中には、用意してきた言葉がある。

 慈が退部届を出したと聞いてからの数日、改めて愛は考えた。チームの誰が欠けてしまうのも嫌だというのは、間違いなく自分の正直な気持ちだ。けれど茉莉花の言った通り、それを慈に強制するのは自分のエゴでしかない。

 だから。


「もし綾瀬さんが、またバスケットをやりたくなったら――」


 もし、と但し書きがつく。

 けれどそれが、辞めるという選択をした彼女に手を差し伸べる絶対条件だ。それ無しであれば、ただの押しつけでしかない。

 慈がバスケットに苦痛しか感じていなくて、何の未練もないのなら、その手を取る事もないだろう。

 けど、そんな事はない。愛はそう確信していた。

 完全に関心を失ってしまったのなら、さきほどのような反応はないはずだから。

 だから愛は、自信を持って、続く言葉を口にした。


「いつでも戻って来て。8番、空けて待ってるから」

「……」


 慈の返答はなかった。

 ただ、答える言葉を探すように、宙に視線を漂わせて。


「……もう、戻らないわよ。勉強に専念するんだから」


 うつむいて。

 そして背を向けて、立ち去って行った。






 土曜の昼、慈は学校指定の肩掛けバッグを提げ、電車で東京方面へと向かった。

 土曜は練習試合だと、亮介は言っていた。

 時刻はそろそろ正午。明芳中女子バスケ部は、今頃練習試合を始めているところだろう。

 もう、どうでもいい事だ。

 およそ20分の乗車時間の後、駅を出て、ショッピングモールへ。そしてスポーツ用品店へと足を運ぶ。

 そこは、およそ半年前、明芳中女子バスケ部のメンバーがバッシュを買った店だった。


「おや? よう、いらっしゃい。今日は一人かい?」


 茶色く染めた長髪の、いかにも印象の男性が声をかけてくる。

 見知った顔だ。亮介の元チームメイトで、この店の店長で、そして慈のバッシュ選びにアドバイスをくれた人物でもある。

 その人物に慈は、小さく会釈した。


「お久しぶりです、桐崎さん」

「へぇ、嬉しいね、名前覚えててくれたんだ。いやぁ、他のみんなからは"てんちょー"だからなあ」

「桐崎さんこそ、よく私たちの顔を覚えてますね」

「ま、元チームメイトの教え子だからね。……おっと、もちろんみんなが可愛いからってのもあるぜ?」


 元チームメイト。

 軽薄を装う桐崎の言葉の中で、その単語だけが特別に重い意味を持っている。そのニュアンスを慈は聞き逃さなかった。

 こんな外見と言動だが、彼は亮介の高校時代のチームメイト。つまり、全国大会インターハイまであと一歩という所まで迫ったチームの一員だったのだ。

 人に違いない。

 慈と違って。

 そう思ってしまうと、慈の中にはすっきりしない感情が、また頭をもたげてきた。


「で、今日はどうしたのさ、一人で」

「ああ……はい」


 慈は肩掛けバッグを椅子の上に下ろした。

 どう話を切り出そうか、実は少しだけ迷っていた。けれど、彼も人に違いない――そう思うと、遠慮気味な気持ちもどこかへ消えていった。

 バッグを開け、中身を取り出す。

 シューズだ。

 白地に紺色のラインが交差した、24.5cmのバッシュ。

 それは半年前に慈がこの店で購入し、これまで愛用してきたバッシュだった。


「これ、処分をお願いします」


 つきつけるようにシューズを差し出して、言った。

 "処分"――と、強い言葉を意図的に使った。変に日和ひよった言い方をすれば、気持ちが揺らいでしまう気がして。


「……何があったのさ?」


 桐崎は二、三度せわしなく瞬きをした後、声のトーンを落として聞いてきた。

 慈は嘆息する。

 やはり、彼も側の人間なのだ。

 理由もなくバスケットに対して、くじけたり、嫌になってしまったりする事などないのだ。彼の目に映る世界では。

 所詮は、住む世界が違う相手。

 根本的に人種が違うのだ。


「別に……嫌になっただけですよ。バスケットが」

「ずいぶん急な話じゃんよ。何があったのか話してみ?」

「言ったところで……理解できませんよ、桐崎さんには」


 目が座る。じっとりと暗く、睨むような視線になってしまうのを慈は自覚した。

 桐崎は――

 ひとつ溜息をついて、壁にもたれかかり、肩をすくめた。


「まあ、内容によっちゃ、俺にはわからない事かもな。けど覚えてる事はあるぜ。君がそのバッシュを買った時の事とかな」

「……」

「"本気でやるからには一流の道具を使え"、だっけか。いい事言う親父さんだと思ったよ、俺。で、君の本気は半年で冷めちまったのかい?」

「……そうですよ」


 抑揚なく慈は答えた――そのつもりだったが、声は震えていた。


「私は本気でした。チームの誰よりもようになろうと思って、一人で自主練して、どうすればいいのか無い知恵絞って考えて……!

 でも、みんな私を軽々と越えていく! 明芳のみんなも! 相手チームの子も! 転校生さえ! あんなに練習したシュートも、試合だとさっぱり入らない……!」


 いつしか、声が抑えられなくなっていた。店内の注目が慈に集まっていた。

 けれど、そんな事はどうでもよかった。

 一度思い出してしまうと、ネガティブな感情は、もう歯止めがきかなかった。


「結局私は、んですよ! 本気でやったって、結局、負け犬にしかなれない……!

 だから面白くない。本気のつもりでしたけど冷めました。辞めます。何が悪いって言うんですか……」


 吐き出すだけ吐き出すと、目頭が熱くなってきた。

 未練がないと言えば、きっと嘘になる。

 けれど、その未練を表に出したところで、成し遂げられる事は何もない。

 だから、切り捨てるのだ。


「……辞めたい、ってのなら自由にすりゃいいと思うけどね」


 慈の感情の吐露が終わると、少しの間を置いて、桐崎は言い出した。


「ただ、君がっつうと、俺は疑問だな。今の話だと」

「……は?」


 桐崎の言葉に、慈は低く絞り出したような声で疑問符を返した。

 努力していないとでも?

 少しでもいいプレイヤーになれるよう、この半年、これまでの人生で一番頑張ってきたはずなのに?


「……知ったような口、聞かないでください。桐崎さんに何がわかるんですか」

「いやぁ、わかんねーよ。けどさ――」


 桐崎は、会計用のカウンターに備えられていたメモとペンを手に取った。手早くペンを走らせて、書き上がったメモを慈に渡してくる。

 URLと、何かのIDとパスワードらしき文字列が書かれていた。


「ま、いっぺんそいつを見といてくれよ。

 昔々、あるドヘタクソなバスケットボール部員がいましたとさ。そいつがどうやってスタメンになったか……ってね」






 シューズの処分を断られた慈は、帰りの電車の中で、メモに書かれていたURLにアクセスしてみた。

 古いSNSのようだった。スマホ用レイアウトになっていない画面は、文字が小さく、少々見づらい。

 何度かミスタップしながらもIDとパスワードを入力すると、ログインに成功した。

 桐崎のアカウントだった。

 フレンド欄に並ぶいくつかの名前の中に、"斉上 亮介"、"岐土 怜司"と、覚えのある名前も見つけられる。

 コミュニティのトピックには、"県大会決勝リーグ日程"、"練習試合日程"、"地区予選振り返り用動画"……

 きっとこれは、彼らの高校時代のバスケ部用アカウントだ。

 いくつかのトピックを流し読みしていくと、コメント欄が慈の目に留まった。


『例によって何か気づいた事あったらアドバイスください。いちおー今回は、前回の課題になってたポストアップへの合わせの動きを意識したつもりです』


 これは桐崎が書き込んだものだ。

 過去分に遡って見てみると、ほとんど毎試合のように、チームメイトたちにアドバイスを求めている。

 1年生の時から、ずっとそうだ。


『ちょっと気になったんで確認してみたけど、桐崎のシュートは外れる時、手前側の事が多いね。ワンドリブルから撃った時はほとんど手前側に落ちてる。ドリブルからだと膝がしっかり入ってないっぽいかな』


 これは亮介だ。


『ぶっちゃけ桐崎はそんなに走れる方じゃねーから、撃ったらすぐ下がる感じでいいと思う。リバウンドとかルーズボールとか、中途半端に追いかけようとしてディフェンスの戻りが遅くなってるぞ』


 どうやら3年生時にはキャプテンだったらしい矢嶋という人物も、忌憚のないコメントを残している。


『速攻だからって無理にレイアップに行かなくていいと思います。例えば今回もミドルならフリーで撃てたところを、レイアップに行こうとして、戻ってきたGガードに掴まってるので』


 小鳥遊という人物は、PGポイントガードで、副キャプテンだったらしい。

 彼らが桐崎の立ち回りをよく見て、丁寧にアドバイスしているのが見て取れた。

 試合の動画を再生してみれば、桐崎の立ち回りが変わっていったのが明らかだった。


(これって……)


 慈は見入っていた。

 電車を乗り過ごしそうになり、慌てて最寄駅で降りた。電車を降りた後もホームのベンチに座って、続きを見入った。

 1年生の秋頃までの桐崎は、ただがむしゃらにボールを追いかけて、何の役にも立てないうちにバテてしまっていた。

 冬になると、無理にボールを追わなくなった。その分、ディフェンスへの切り替えが早くなった。

 2年生の春頃には、シュートフォームが綺麗になった。どの位置、どんな状況でボールを受け取っても、姿勢を確かめるようにワンテンポ置いてからシュート体勢に入る事で、シュートの成功率が向上していた。

 夏頃には、オフェンスで闇雲に動き回る事もなくなった。味方がドライブやポストアップを仕掛けるのを待って、ディフェンスの注意が引きつけられたタイミングで死角に回る。その立ち回りを徹底していた。

 2年生の秋には、それらが完成形になったように慈には見えた。決して自分が起点になろうとせず、味方の動きに合わせて空いたスペースで待機。ボールを受け取ったら落ち着いてシュート。そして、入ったかどうかを気にもせずに真っ先にバックコートへ戻る。ただそれだけを、ひたすらに繰り返す立ち回りだった。

 限定的な役割を、愚直にこなしていた。

 それは決して華々しくはないが、紛れもなく、チームの一員だった。


 ――あの人が言いたかった"努力"とは。


『とにかく、同じミスを繰り返さない事だと思う』


 慈の頭に浮かんだ疑問に答えたのは、高校時代の亮介のコメントだった。

 偶然にも、ただがむしゃらなだけだった頃の桐崎に対して、亮介は答えていた。


『なぜ上手くいかなかったのかの原因をちゃんと考えて、対策を持って次のチャンスに臨むのが努力だよ。ただ全力で突っ走ってるだけっていうのは、悔しさでヤケクソになってるだけだ』

『シュート1本とか、ドリブル1回つくのだってそうだと思う。どうして外したのか、どうして思うようにボールをコントロールできなかったのか、それをちゃんと考えられる人が速く上達するんだ』

『どうしても上手くできない事があったら、それは味方に任せるのも対策だよ。何でもできる人なんていないわけだしね』






 SNSを見終えた後、慈は学校へ走った。






 沈みかけた夕陽を見て、慈は、どれだけの時間SNSに見入っていたのかを自覚する事となった。

 体育館からは人の気配はなく、扉ももう閉まっている。

 だから慈は、校庭の隅にある屋外バスケットコートへと向かった。

 手近にある用具庫のドアを開け、屋外用のゴム製ボールをひとつ取り出す。

 そして、土のコートの上に立った。


(あの時……)


 牧女との練習試合で、シュートを外した時の事を思い出す。

 愛がポストアップして、ディフェンスがそこに引きつけられたのを見計らい、慈は左45度へ移動してボールを受け取った。

 それを再現する。

 地面にボールを跳ねさせ、それを追いかけるように45度の位置へ。

 反転し、ボールをキャッチ。そしてジャンプし――


(違う)


 違和感。

 試合中は考えている余裕もなかった。だけど、今は確かに実感できた。

 膝の溜めが浅い。

 シュートを放つが――リングの手前に当たって、外れた。


「……」


 バウンドして転がっていくボールを、緩慢に追いかける。

 拾い上げる。

 もう一度試したい気持ちがある。

 今まで自分がしてきた努力は、不完全なものだったのかもしれない。

 正しい努力をすれば、自分はレベルアップできるのかもしれない。

 そうすれば、今までは辿り着けなかった場所に――自分も行けるのかもしれない。


「……もう一度」


 牧女との練習試合を、もう一度思い出す。

 左45度の位置めがけて、パスに見立ててボールを跳ねさせ、それを追いかける。

 反転して、キャッチ。

 普段のシュート練習を思い出し、たっぷり一秒かけて膝を溜める。

 ジャンプ。

 そして、シュート。


 ――すぱっ。


 高い弧を描いたボールは、綺麗にリングの中央を射抜いていった。


「……」


 言葉にできなかった。静かな昂揚感があった。

 自分のシュートは、入る。

 ちゃんと撃てば、入る。

 これまで試合では実感できなかった事が、今、自分以外に誰もいない土のコートの上で、これまでにないほど実感できた。


(……もし、この心構えで、左コーナーから撃ったら)


 そこは慈にとって、もっとも得意とするシューティングスポット。

 ボールを手にして、そこに立つ。

 すぅ――はぁ。

 ゆっくりと深呼吸して、ボールを構える。

 狙う。

 膝を溜める。

 ジャンプして、シュート。


 ――がっ。


 リングの手前側に当たって、ボールは慈の方へと跳ね返ってきた。

 キャッチ。

 いつものシュート練習なら、外れた事を悔やみながら、すぐ次の1本を撃っていた。

 今回は、そうしなかった。


(原因を、考える……)


 高校時代の亮介が残したコメントには、そうあった。

 今のシュートが外れた原因は?

 膝――は、ちゃんと溜めていた。それが原因ではないはずだ。

 何だろう。

 慈は、自分のシュート動作をスロー再生するかのように、ゆっくりとフォームを取ってみた。

 外れたシュートを撃ったとき、自分はどんな撃ち方をしたか。構えて、狙って、膝を溜めて、跳び上がり……


「……リリース、少し早かったかしら」


 慈のシュートは、好調な時、いつも高い弧を描く。

 今の一本は、そういった時に比べると、低い弧を描いていたような気がした。

 なんとなく、一瞬早く――つまり手が低い位置にあるタイミングで撃ってしまったような、おぼろげな記憶があった。


「それが原因だとしたら……」


 独り言を呟いている事など、慈はもう、自覚してもいなかった。それほどに集中していた。

 さっきシュートを成功させたときに意識した行程は、構えて、狙って、膝を溜め、ジャンプして、シュート。

 そこに、意識的にひとつ行程を加えてみる。

 構える。

 狙う。

 膝を溜める。

 ジャンプ。

 そして、ボールが頭より高く上がったところで、シュート!


 ――すぱっ。


「……入った」


 今までのように、入れと願って闇雲に撃つのではなく。

 自分の失敗を、自分で分析して、改善できた。


「……もう一度……」


 自分は本当に正しい努力ができたのか、確かめたい。

 自分に本当にシュートを決める力があるのか、確かめたい。

 慈はボールを拾い上げ、左コーナーに再び立った。

 構える。

 狙う。

 膝を溜める。

 ジャンプ。

 そして、ボールが頭より高く上がったところで、シュート!


 ――すぱっ。


 スウィッシュ音が響く。

 それは慈にとって、これまで聞いてきたどんな音楽よりも心地よく、心を揺さぶる音色だった。


「……も、もう一度!」


 慈は小走りに、転がっているボールへと駆け寄った。

 そして、それを拾い上げ――


「パス、出そっか?」


 声がした。

 振り向くと、


「左コーナーのキャッチ&シュート、得意だもんね。綾瀬さん」


 愛が、微笑んで立っていた。

 愛だけではなかった。茉莉花、瞳、鈴奈、亮介。そして美裕も。

 女子バスケ部が総出で、そこにいた。


「……どうして。今日、練習試合じゃなかったの?」

「練習試合の反省会やってたんだよ、部室で。そしたら、なんか練習してるヤツが見えてさ」


 茉莉花の答えに、慈は自分の手元を見た。

 屋外用のボールが、確かにその手の中にはある。

 それは練習していた人間の姿。

 こんな時間に一人でシュート練習をしているのは、バスケットを捨てた人間の行動ではないのは明らかだ。


「あのさ、めぐちゃん」


 鈴奈が進み出てきた。

 拳を握って、悪戯っぽい仕草で慈の肩をやんわりと叩く。


「今日の練習試合、また負けちゃったんだ。めぐちゃんのせいだからねっ」

「え、私……?」

「相手、長身選手二人ツインタワーのチームで、ゴール下強かったの。ひとみちゃんがせっかく、外から攻めるフォーメーション考えてくれたのにさー」


 瞳の方へ視線を向ける。

 瞳はスマホを操作して、作戦盤アプリを表示していた。

 画面の中では黄色マークの選手たちが複雑に連携して動き、最終的に"4"がボールを持ってゴール下へ向かうタイミングで、"5"と"8"が両コーナーの配置に着いた。


「これね、シューターが2人いないとできないの」


 画面を指し示し、瞳が言う。

 画面の中では、ゴール下にディフェンスが密集した瞬間、ノーマークの"8"へパスが飛んだ。


「だから、綾瀬さんが戻って来てくれると助かるんだけどなぁ……って」

「……でも」


 慈は視線を巡らせた。

 その先にいたのは――美裕。

 美裕は目が合うと、うつむき気味に視線を逸らした。

 だが、亮介がその背中を押した。


「在原さん、こないだ話した通りだよ」

「……はあい」


 どこか気まずそうに返答。

 そして美裕は、ゆっくりと、慈の目の前へと歩み出てきた。

 気まずいのは慈も同じだった。自分が人間である事への歯がゆさを、八つ当たりのように彼女にぶつけてしまった事は事実だ。

 けど、だからこそ、慈は自分から口を開いた。


「……在原さん、怒ってない?」

「怒ってるに決まってるでしょお?」


 美裕の答えは、いつもどおりにスローペースな語調で、しかし不機嫌そうだった。

 だが。


「……ただ、別に、綾瀬さんがウザいとかは思ってないわよ。前の学校で綾瀬さんと同じように絡んできた子がいて、それを思い出したから……イラッと来ただけ」


 そこまで言うと、美裕も慈を正視した。

 お互い、わだかまりも、ままならない苛立ちも、ゼロではないけれど。


「綾瀬さんが部に戻ってくるなら、私も反対はしないわ。けど、こないだみたいなラフプレイはやめてちょうだい。怪我して大事おおごとになってからじゃ、遅いのよ」

「わかってるわ。……ごめんなさい、在原さん」


 慈は、小さく頭を下げた。

 横から鈴奈が、愉快そうに笑いを見せる。


「みひろちゃんはさ、チームの仲間が怪我しないか心配だったんだよね」

「そこだけ切り取って言わないでちょうだい。怪我させて、こっちが悪者になるのも嫌なのよ」

「"も"、かー」

「あのねえ」


 鈴奈と美裕のやりとりが聞こえる中、慈は頭を上げる。

 そして今度はまっすぐ、美裕に挑戦的な視線を向けた。


「――それと、こんなセリフ言いたくないんだけど、ありがとうって言っておくわ。1on1の時、手加減なしでやってくれて」

「……どういう意味かしら?」

「もし、手加減して勝たせてもらってたら、余計に惨めな気持ちになってたと思うもの」


 美裕は、驚いたような、意外だというような――そんな表情を見せた。


「……なんか、こないだヤケになってた人のセリフとは思えないわねえ」

「そう……ね。頭が冷えたんだと思う」

「それは結構な事だけど、もしまた挑んで来るなら、その時も手加減しないわよ? 私、負けず嫌いだから」

「わかってるわ」


 慈はうなずく。

 今日ようやく辿り着いた、自分なりの答えを反芻しながら。


「正直言って、私、在原さんの事が妬ましくて仕方ない。いきなり転校して来て、あっさりと私のポジションを奪っていったあなたの事が。

 でも、はっきり言って、今の私じゃどうやってもあなたには勝てない。それはもう認めるわ。だけど……」


 ある下手なバスケットボール部員が、どうやってスタメンまで上り詰めたのか。

 彼が誰のアドバイスを受けていたのか。

 亮介を一瞥して、今日学んだ事を心に落とし込みながら――心に浮かんできた気持ちを、そのまま言葉に。


「……だけど私、まだ諦めない。まだこれから、もっとすごく上達できる可能性もあると思うから」


 上達への近道かもしれない、努力の形。

 そこに、まだ見ぬ自分の可能性が眠っているかもしれないのだ。


「先生」


 鼻白んだ様子の美裕から、亮介へ。視線を移動させ、呼ぶ。

 彼には、大事なものを預けたままだ。

 それを察してくれたのだろう。亮介は、ポケットに忍ばせていたそれを取り出した。


「――これ、ね」


 "退部届"と書かれた封筒は、まだ開かれていなかった。

 亮介が差し出したそれに手を伸ばし、返してもらう。

 慈はその場で、封筒を真っ二つに破った。

 ひょっとしたら、自分に眠っている可能性なんて無いのかもしれない。部に戻っても、ただ苦しい思いをし続けるだけかもしれない。

 けど、知ってしまった。自分は、努力の仕方さえ下手だったのだという事を。

 正しい形の努力の向こうに、どんな自分の姿が待っているのだろう。

 気になってしまったからには、それを追いかけずにはいられなかった。

 追いかけてみたくなるほどには、まだバスケットに未練が残っていたのだ。


「また、宜しくお願いします」


 慈は亮介に、深々と頭を下げた。

 まだ見ぬ景色へ、彼が連れて行ってくれると信じて。






 もうすぐ12月。

 冬の大会は、すぐそこまで迫っていた。

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