#13 アイソレーション

 PFパワーフォワードというポジション名に対して、慈は常々思う所があった。

 そもそもフォワードという単語は、日本人の一般的な感覚で言えば、サッカーのポジション名としての馴染みが強い。攻撃的。点取り屋。荒々しい。目立つ。エース――おおよそそんなイメージを連想する単語として。

 そこに枕詞まくらことばとして、"パワー"などと付くのだ。

 とんでもなく強そうな名前になる。


 しかし自分のありようは、そのイメージとは裏腹なものだ。


 慈は、明芳中女子バスケ部の5人の中で比較して、運動能力は特段優れている方ではない。

 身長はまあ高い方だが、特異的な長身を持つ愛の前にはかすんでしまう程度だ。

 何より、"パワー"などという枕詞に反して、慈はあまりに非力だ。体質的に食が細めだから仕方ないと言いたいが、細身ゆえの不利を痛感する事は多い。

 愛を相手にした場合は言うまでもなく、男バス1年生チームや瀬能中のPFパワーフォワードを相手取った時にも、パワー負けによってゴール下から押し出された事は一度や二度ではない。

 慈はその弱点を自覚している。

 だからこそ、非力さが不利にならない、中距離ペリメーターからのシュート精度に活路を見出そうとした。

 女子実業団選手の試合動画を手本として、綺麗なシュートフォームを体が覚えるまで自主練習に励んだ。

 成果は出ているように思う。事実、瀬能戦において慈は得点源の一人だった。


 だが、越えるべき壁は、そんなに低いものではなかった。






 #13 置いてけぼりは嫌だからアイソレーション






「瀬能中の監督さんがね、練習試合のスコアシートを送ってきてくれたんだ」


 練習開始前の部室。ミーティングと称して、亮介はそのように話を切り出した。

 そして、長机に2枚の用紙を広げる。

 細かいマス目形式の表に、びっしりと数字が書き込まれている。意味を理解できない者が見れば、それだけで頭痛を起こしそうな様式だ。

 だが、


「これは……時系列順に、誰が点を取ったとか、ファウルしたとかの一覧ですか? もう一枚は、個人成績の一覧」

「うん、その通り」


 ただちに、瞳がその概要を言い当てた。

 その言葉を皮切りに、スコアシートに対して、群がるように5人が視線を落とす。

 5人とも、その様式の複雑さに辟易した様子はない。むしろみな真剣な様子で、興味深い資料だと捉えている事が見て取れる。

 5人ともが、バスケットの全容を理解してきている証拠だった。


「数字は嘘をつかない――なんて言葉がある」


 シートに目を落とす5人に対して、注目を引こうとするかのように亮介は言った。

 あまりにも勿体つけた言い方だった。

 瞳が視線を上げると、亮介は、いかにもいい事を言ってやったぜと言わんばかりの表情で5人を見渡していた。

 数学教師らしいセリフが出せた事にご満悦らしい。

 ぷっ、と瞳は小さく噴き出してしまった。


「……笑うとこじゃないよ?」

「ふふっ、すいません、つい。続けてください」

「……」


 納得がいかない、と顔に書いてあるかのような様子は、5人にとって笑いと和みのネタでしかなかった。


「……っく、ふふ」

「先生……」


 茉莉花が笑いを堪え、愛がフォロー不可能だと言わんばかりの視線を投げ、


「あははははは! せんせー悔しそう!」


 鈴奈の言葉が一番直球だった。

 亮介は無言でカバンからスポーツドリンクを取り出すと、飢えたサルがバナナの皮を剥くさまを彷彿とさせる動作で慌ただしくキャップを開け、喉を鳴らしてごっ、ごっと飲み下した。

 ぷふぅ。

 額の汗を拭い、ようやく気を取り直したかのように話を続ける。


「いいかい、みんな」


 あまりよくなかった。小さい失笑がなおも続いていた。

 とりあえず無視して続ける事にした。


「数字は客観的な結果だ。そこに嘘やごまかしは一切ない。自分の能力や特性、対戦相手との力量差が正確に表れる。なぜこんな数字になったのか――というのを読み取れば、各自が今後、どんな練習をしていけばいいのかが見えてくる。今日、練習前にこれを見てほしかったのは、そのためだ」


 亮介がそこまで言葉を続けると、ようやく場の空気が引き締まった。

 その様子を見て取ると、亮介は明芳チームの一番上、愛のスコアを指す。


「例えば、中原さんのスコアがわかりやすいね。15ディフェンスリバウンド、3ブロック。これはなまじのCセンターでは出せない数字だ。インサイドの守備面においては、中原さんは瀬能中を圧倒していたと言っていいだろう」


 突然の名指しに愛は驚いた顔を見せた。しかし数字に対する解説の話になると、目覚ましい活躍をした事に嬉しさ半分、真剣さ半分といった様子で聞き入る。


「だが、オフェンスリバウンドは2本しか取れていない。得点も6点だけだ。男バス1年生チームとの模擬戦ではもっと攻撃面でも活躍していたイメージがあったと思うが、なぜこの差が生まれたと思う?」

「松田さんのディフェンスが上手かったから、だと思います」


 自分の直接対決マッチアップ相手だった瀬能キャプテンの名を出し、愛は即座に答えた。


「男バスの十和田くん相手の時と比べて、パスも貰いづらいし、オフェンスリバウンドも取らせてもらえなくて」

「うん、わかっているならいい事だ。今日からは次の試合に備えて、パスの貰い方と、オフェンスリバウンドの取り方を練習していこう」






 スコアシートの数字と亮介の言葉に、慈の胸中は穏やかではなかった。

 愛の獲得したリバウンド数は、攻防を合わせると17本にも及ぶ。明芳の総リバウンド数の半分以上を一人で占めている数値だ。瀬能の4番が7リバウンド、瀬能のPFパワーフォワードが8リバウンドだった事を考えると圧倒的だと言える。

 対して、慈は4リバウンド。慈の記憶では、いずれも運良く自分の真上に落ちてきたボールだ。

 数字を比較すると、インサイドを務めるCセンターPFパワーフォワードの中では、慈だけ明らかにリバウンド数が少ない。

 慈が直接対決マッチアップした瀬能のPFパワーフォワードは、どっしりとした体形だった。彼女に対して、パワーとウェイトで明らかに劣る慈がリバウンド数で負けてしまうのは、仕方ない部分もある。

 では、得点力ではどうか――


「へー、あたし22点も取ってたのか! 試合中は数えてる余裕なんか無かったなぁ」


 悪気はないのだろうが、茉莉花の言葉が慈の苛立ちを助長する。


「一般的に、20点取れればエースだと言われるね。大したものだよ」

「へへへ。……あー、でも一番多くシュート外しちまったのもあたしなんだな。もうちょっと確率上げないと、か」


 茉莉花の言葉を聞き、慈はシュートの内訳に着目してスコアシートに目を走らせた。

 茉莉花は、26本中11本のシュートを決めて、22得点。

 慈は、12本中6本のシュートと、2本のフリースローを決めて、14得点。

 シュートの成功率で言えば慈の方が優っている。だが、シュート回数を比較すると、茉莉花は慈の倍以上。

 この差が偶然とは思えない。

 必然性があるとすれば――。


(……ディフェンスを振り切れるかどうかの差?)


 スコアシートを凝視しながら、慈はそう推測した。

 詳しい経緯は聞いていないが、茉莉花は女子バスケ部に入部する以前、ほぼ毎日のように2時間近く自転車を漕いでいた時期があったという。脚力にかけては、慈より明らかに上だろう。

 それがディフェンスを振り切る瞬発力の差となって表れた結果だとしたら、この数字の説明はつく。

 茉莉花の方が、シュートチャンスにありつける回数が多い。

 それが得点力に繋がっている――とすれば、これはシュート精度を多少磨いたところで埋まる差ではない。仮に瀬能戦において、慈が茉莉花と同じ22得点を取ろうとしたなら、90%近くシュートを成功させなければならなかったのだ。いくら何でも現実的な数字ではない。


「……」


 慈は黙り込んだまま、その他の数字を目でなぞった。

 アシスト数では瞳が、スティール数――この場合はパスカットなども含むらしい――では鈴奈が、頭ひとつ抜けた数字を記録している。

 では、慈ならではの強みはどこにあるのか?

 それは、スコアシート上からは読み取る事ができなかった。






「慈」


 成人男性の声が慈を呼び止めたのは、亮介を含めた女子バスケ部のメンバーが部室を出て体育館へ向かう途上だった。

 振り返れば、声の主は――


「……お父さん?」


 40代半ばの、グレーのスーツを来た男性。慈にとっては見慣れたその人物は、彼女の父親だった。

 突然現れたその人物に、部員たちの注目が集まる。慈にとっては、心地のいいものではなかった。


「……なんで、ここに」

「仕事だ。2年前の事件についての、経過の視察でな」


 2年前の事件。慈には、そのフレーズに思い当たる節がない。

 周囲のメンバーを見渡してみても、ピンと来ている者はいない様子だった。

 ただ一人、亮介を除いては。


「生徒たちに説明はしていないのかね」

「あ、ええ、過去の出来事ですので。今年入学してきた子にわざわざ説明する事は……」

「だとしても、過去の戒めとして話はしておくべきではないのかね」


 慈の父の言葉は厳しい。明確に責めている語調に、亮介も毅然と返答できなかった。

 それもそのはず。


「県教育委員である私が視察に来ているのだ。それだけ県教委も事態を重く見ているのだと認識してもらいたいな」


 そう言われると、亮介は返答に窮するしかなかった。

 そもそも県立の学校は、県の教育委員会という上位の組織によって管理される立場にある。公立学校の教員と県教育委員では、一般企業で言えば平社員と親会社の重役ほどの立場の差がある。亮介の対応が弱腰になってしまうのも無理はない。


「先生、2年前の事件って……?」

「……柔道部でね。イジメがあったんだ」


 2年前、つまりは亮介がこの学校に赴任してきた年の事。

 どこか話しづらそうに歯切れ悪く、亮介は語り始めた。


「有段者の子が初心者の子に怪我をさせた事で発覚したんだけどね。調べてみると、初心者の子に万引きをさせていた事まで芋蔓いもづる式に判明した……」

「その事件の再発防止などの対応状況を確認するため、私が来ている」


 亮介の言葉に対して最後に一言、慈の父は付け加えた。

 女子バスケ部の一同に対して値踏みするような視線。そして、言葉を続けた。


「……慈も、これから部活か」

「何が言いたいんですか」


 強張った口調で返答する慈。

 一瞬、慈の父は言葉を選ぶために考えるような様子を見せた。


「……いや、怪我には気をつけるようにな」

「心配されるような事はありません。柔道と違って、格闘技ではないんですから」

「だが、統計上は怪我の多いスポーツだと聞くぞ」


 ――相変わらずな調子だ。

 極端なエリート志向で、学歴至上主義な傾向の強い父。条件付きで運動部への入部を許可してくれたはずだが、考えを改めたわけではない様子だ。

 今後も、事あるごとにこうして部活の悪い面を取り挙げて物を言ってくるのかと思うと、嫌気が差してくる。

 嫌味のひとつも口をついて出ようというものだ。


「そういう事を、この学校の生徒一人一人に言ってるんですか」

「馬鹿な。常識で考えろ、一人一人を相手にやるわけがないだろう」

「なら、親子として言っているという事ですね。仕事で来ているのでしょう。公私の区別をつけられたらどうですか、


 慈がそう言うと、彼女の父は黙った。明らかに、言葉に詰まっていた。


「行きましょ」


 用は済んだとばかりに部員たちに言うと、慈は体育館へと足早に歩いていった。






 ランニングと基礎練習を一通り終えると、スコアシートから読み取れた課題の克服のための個別練習が始まった。

 瞳は、計5回の攻撃権奪取ターンオーバーを許してしまった反省から、ひたすらドリブルを練習している。ディフェンスを抜くためのドリブルではなく、ボールを奪われないためのドリブルを。

 鈴奈はディフェンス役として、瞳の練習に付き合っている。

 茉莉花はシュート精度を上げるため、さまざまな角度からのシュート練習を。

 そして、愛と慈がペアになって、インサイドプレイの練習をしていた。


「よーし、もう一本だ! 中原さんオフェンスで!」


 亮介は愛と慈に着いて指導をしている。パスを出す役も兼任だ。

 愛がオフェンス、慈がディフェンスの位置に着く。

 愛はゴールの真横、3秒制限区域のギリギリ外に位置取りした。

 慈は愛の右側面を取るように守備に着き、パスコースを塞ぐよう愛の前に腕を回す。瀬能中の松田がしていたのと同じ、パスを遮断ディナイするディフェンスの姿勢だ。


「GO!」


 亮介が合図すると、愛は慈に対して、背中側から密着した。背中と右上腕で、慈が前に出て来られないように押さえ込む!


「くっ……!」


 愛が体重をかけると、慈は容易く背面へと押しのけられてしまう。パワーとウェイトの差は歴然だ。

 愛は慈を背面に押し込むと、空いている左手を上げた。そして、その左手めがけて亮介がパスを出す。

 ボールは何の障害もなく愛の手へと収まる。

 片足を軸に反転ピボットターンしてゴールに正対。真っ向勝負の体勢で放たれたシュートは、慈のブロックの上を通って、ゴールリングをくぐった。


「ナイッシュ! いいぞ、今の感じだ」

「はいっ」


 亮介に褒められた事にか、課題の解決が見えた事にか。いずれにせよ、早くも良い結果を出せて機嫌良さそうに愛は答える。


、という言い方をするけどね。今みたいにディフェンスを押さえ込んで、パスを貰えるコースを作るのがポストプレイの基本だ。そこから今みたいに真っ向勝負をしてもいいし、実戦だったら逆サイドにパスをさばく選択肢もある。いろいろな攻撃の起点になるプレイだから、是非身につけてほしい」


 亮介の説明はいつも通り明瞭で、筋道立っている。

 だからこそ――


(相手を押さえ込めるパワーがないと、論外って事……)


 転がったボールを回収しながら、慈はそう解釈した。

 言い換えればそれは、非力な慈には不向きな仕事という事ではないか。


「次、綾瀬さんオフェンスで!」


 亮介が指示する。慈は亮介にボールを返すと、愛と位置を入れ替わった。


「GO!」


 亮介の合図。

 慈はさきほどの愛に倣って、背中と右上腕で愛を押しのけようとした。

 が、


(重っ……!)


 びくともしない。

 単に体重があるというだけではない。押されないように踏ん張る力が強いのだ。少なくとも、慈が愛を押しのけようとする力よりはずっと。


「っく……!」


 どうにか脚を愛の前方に割り込ませ、ボールを受ける左手を上げる。

 高めに飛んできたパス。

 慈はゴールから遠ざかるように一歩踏み出し、愛のディフェンスから逃れてボールをキャッチした。

 ボールを貰う事には成功したが――


(遠い……!)


 ゴールから離れてしまった。

 さきほどの愛は、慈をゴール下へ押し込むようにしてボールを貰った。必然的に、一歩踏み込めばゴール下という位置だった。

 だが今の慈は、ゴールから遠ざかってしまっている。ミドルシュートの位置だ。

 やむなく慈は小回りに反転し、ジャンプシュートを試みた。体に覚え込ませたシュートモーションを再現し、ボールをリリースし――


「ふっ!」


 跳び上がり腕を伸ばす愛。

 突如、壁がそびえ立ったかと錯覚するような高いブロック。

 ボールは愛の指に触れる。

 そして勢いを失い、リングの手前で失速して床に落ちた。


「……」


 わかっていた事ではあるが――パワーでも高さでも、愛が優る。

 慈は、歯噛みするしかなかった。






「なんかさ、中原のブロックって妙に高いって感じるんだよな」


 休憩時間中、茉莉花がふとそんな事を言い出した。

 ストロータイプの水筒からスポーツドリンクを飲みながら、愛は目を瞬かせる。どういう事? と聞きたそうに。


「いや、背が高いってのがまずあると思うんだけど、なんかこう……一瞬、腕が伸びてくるみたいな感じがしてさ」

「……氷堂さんもそう思う?」


 聞き返したのは慈だった。

 初めての2on2ミニゲームの時から、幾度も実感してきた事だ。腕を伸ばして跳び上がった愛は、いつも身長差以上に高く感じる。

 それを一番強く実感しているのは、愛と同じインサイドポジションを務めている慈だろう。


「んー、まあ、なんとなくカンでそう思うだけだけど」


 曖昧ながら、茉莉花は慈の言葉を肯定した。

 慈の抱いていた感覚は気のせいではなかったのだ。だが、それがどんな原理によるものだと言うのか。

 当の愛は、戸惑いの表情のまま、ストローから口を放した。


「そんな事言われても、私、何か特別な事してるつもりはないんだけど……」

「わかった! あいちゃんはヨガの達人!」

「いや、ないから……」


 鈴奈の放った冗談に苦笑して答える愛。

 だが、亮介は、


「着眼点は間違ってないかもしれないね。ちょっと検証してみようか」


 そう言って、体育倉庫に向かった。

 1分も経たないうちに戻って来た彼の手には、巻き尺。5.5mのテープ式のものだ。


「中原さん、腕を真横に伸ばしてみてくれるかい? 指も伸ばしてね」

「?」


 疑問を顔に浮かべながらも、愛は立ち上がり、言われるまま腕を伸ばした。

 亮介は巻き尺を引き伸ばし、


「あー! せんせーがあいちゃんのスリーサイズ測ろうとしてるー!」

「違うから!!」


 鈴奈からの謂れなき風評被害に抗弁しつつ、愛の背面に回り、愛が伸ばした腕に巻き尺を当てた。


「……うん、ウィングスパン181cm。これが中原さんのブロックの高さの秘密だね」

「ウィングスパン?」

「腕を伸ばした時の、横幅の事」


 振り向いて聞いてくる愛に、亮介はそう答える。


「日本人のウィングスパンは、普通は身長と同じぐらいになるんだ。中原さんの場合は身長より9cm長いから、身長172cmの普通の人よりも片腕4.5cmぶん高いブロックができるって事になる」

「腕……ですか」


 愛は腕を下ろし、まじまじと自分の腕を見つめる。


「日本だとあまり馴染みのない概念だけどね。欧米のスポーツ界では身長や体重と同じぐらい、基礎的な特性のひとつとして重要視される要素だよ」

「そんなに?」

「そんなに。ブロックする時だけじゃなくて、ブロックされないためにも、リバウンドにも、面取りにも有利だからね」


 へー……と愛は感心して、どこか不思議そうに自分の腕を見ていた。

 やはり、愛の体には秘密があったのだ。インサイドの競り合いが有利になるような。

 慈はそれを実感し、またひとつ、愛との隔たりを感じた。






 休憩が明けると、準実戦形式の3on2が始まった。

 オフェンス3人に対してディフェンス2人。これは一見すると不公平に見えるが、実はかなり実践的な練習だ。ディフェンスが崩れた瞬間を想定して、そこからゴールまでの"仕上げ"の過程の練習になる。

 もちろん守る側も、数的不利な状況でいかに持ちこたえるかという練習になる。


「いただきぃ!」


 鈴奈がドライブで茉莉花を抜き去った。

 ゴール下で待ち構えているのは、愛。

 鈴奈はそのままレイアップシュートの体勢――から、慈へとパス。

 慈のシュートがゴールを射抜いた。


「ナイシュッ!」

「ええ」


 ドライブからの綺麗なアシストを決めた鈴奈の賞賛の言葉を受けるも、しかし慈の表情は晴れやかではなかった。


「くっそー、やるなぁ若森」


 茉莉花も鈴奈のドライブを素直に賞賛する。瀬能戦で手に入れた新たな武器であるそれは、オフェンスの組み立てにおいて強烈なアクセントだ。


「まりちゃんももっとドライブ使っていいと思うよ? シュートとドライブどっちで来るかってディフェンスが迷うと、攻めやすいし」

「あー、なるほどな。よーし」


 答えつつ、茉莉花は今度はオフェンスの位置に着く。

 瞳から茉莉花へパス。慈が、そのディフェンスに着いた。


「っし」


 やる気まんまんといった様子で、茉莉花はボールを構える。

 低い体勢だ。さきほど鈴奈と話していた内容からして、抜きに来る可能性が高いか――

 慈はドライブが来ると読んで、やや下がり気味の位置に構えた。


(必ず止める……!)


 慈は真剣だった。得点力において自分より上である茉莉花が相手となれば、対抗意識は抑えられない。

 彼女を止めたからと言って、慈の評価が相対的に上がるわけでもないのだが。


(でも、そんなのは理屈じゃない)


 負けたくない。

 それは嫉妬かもしれない。

 だとしても。

 覆したい――!

 覆さなければならない。

 自分は劣っているのだと、何もかもが伝えてくる今の状況を!


 茉莉花が突き進んで来た。

 体勢を低くして、慈の右側を抜きにかかる!


「っ!」


 慈は床を蹴って斜めに後退。

 抜きに来た茉莉花に追いつきつつ、その進路を阻む。

 茉莉花は速い。鈴奈ほどではないにせよ、慈の瞬発力では着いて行くだけでも全速力を要する。

 抜かせまいと、茉莉花の行く手を全速で塞ぎ――


 キュッ!


 靴底ソールの甲高い音。

 茉莉花が急停止していた。

 そして、素早くシュート体勢!


「!」


 慈はただちに足で全身にブレーキをかける。

 が、抜かれまいと全速で走っていた以上、そう急には止まれない。

 流れた体勢を整え、茉莉花に向かおうとする――

 その時には既に、茉莉花は片手撃ちジャンプシュートワンハンドジャンパーを放ち終えていた。

 ボールはバックボードで跳ね返って、リングの中へ。


「っし!」


 茉莉花が声を上げて喜ぶ。

 抜くと見せかけて、急停止から即シュート。慈が記憶を辿る限り、今まで茉莉花が見せた事のない攻撃パターンだ。

 慈は、放たれたボールを呆然と見ている事しかできなかった。


「ナイッシュ、茉莉花。調子いいじゃない」

「へへ、まあね。どうよ、あたしの新ワザ」


 瞳の賞賛に、茉莉花は得意気だ。

 そうもなるだろう。抜くと見せかけてからのシュートという攻撃方法は、恐らくつい先ほど鈴奈から受けたアドバイス――抜くか撃つか相手を惑わせる、という言葉をヒントに思いついたものに違いない。

 わずかなヒントから、自分の得意技と組み合わせて応用してしまう。

 それは、才能やセンスと呼ばれるものだろう。


「センセー、どうよ今の?」

「うん、急停止ジャンプシュートプルアップジャンパーだね。いいと思う」

「えー、普通に呼び名とかあんのかよ。せっかく新ワザ閃いたと思ったのに」


 自力で編み出したと思った技が、実は既製のものだという。茉莉花は不満そうだ。

 だが、慈にしてみれば、それこそ贅沢な悩みだ。

 きちんと名前を与えられるような――言うなれば有用なものだと認められた技。それと同じ結論に、何の予備知識もなく辿り着いたのだ。

 それはきっと才能だ。

 才能という言葉が陳腐すぎるならば、応用力や飲み込みの速さと表現してもいいだろう。

 実業団の選手を手本に、形から真似して得意技を身につけた慈とは対照的だ。

 そして、スコアシートから分析した結果からすると、慈の得意技は茉莉花に対する決定的な優位にはならない。

 同じFフォワードとしての、優位が見い出せない。


「それはそうとさ、中原さん」


 独り悩む慈をよそに、瞳が口を開いた。


「もう少しスクリーンかけに来てくれてもいいんじゃない? あんまりゴール下から動いてる印象ないけど」


 瞳の言う事は正鵠だ。瀬能戦でも、ピック&ロールのスクリーナーになっていたのは、大半が茉莉花と慈だ。

 瀬能戦の愛はわずか6得点に留まったが、ピック&ロールに絡めば、より簡単にディフェンスを切り崩せていた可能性もある。

 だが、愛は納得していない様子だ。


「そんな事言ったって、私がゴール下にいなかったらリバウンドどうするの?」


 ――愛に悪気はないのだろうが。

 慈は歯噛みする。

 その言いようは、と言っているも同然ではないか。

 慈は、転がったボールを勢いよく掴み上げた。


「さ、みんな、次の一本行きましょ」


 愛と瞳の話を断ち切るようにそう言い、今度はオフェンスの位置に着く。

 これ以上、引き離されてなるものか。

 慈の目は、真剣そのものだった。






 体育館の2階からその様子を見ていた視線に、慈が気づく事はなかった。






 部活が終わり、部員たちが帰宅すると、亮介は体育館の戸締まりと後片付けを済ませた。

 無人の職員準備室で、部活用のジャージ姿から、ノータイのワイシャツにスラックスというクールビズ・スタイルに着替える。少量の私物が入ったカバンを手にして、ようやく帰宅の目処がついた。

 とはいえ、明日以降に備えて考えるべき事は少なくない。

 特に、部活の事。

 よりピンポイントに言えば、慈の事だ。


(あの子をどう起用するかは、結構大きい分かれ目だな)


 瀬能戦を経て、部員たちの特性はより明確になった。スコアシートによって、本人たちもそれを客観的に認識しただろう。それは練習中の姿勢にも表れている。

 だからこそ、起用方法を見直さなくてはならない部分も出てきた。

 特に、慈。


(中原さんと共にインサイドを固めてもらうつもりで、2番めに背の高い彼女をPFパワーフォワードに配置したが……)


 結果を見る限り、それは正解だったとは言いがたい。

 慈は細身だ。瀬能のPFパワーフォワードを相手にした時、パワー負けしていた印象が強い。まして、愛とでは比べるべくもない。

 しかし、自主的にシュート練習をしてくるなど、努力している事は感じ取れる。自分なりに得意分野を確立し、役に立とうとしているのだ。

 事実、彼女は得点源の一人としてチームに貢献している。エースと呼べるほどではないにせよ。

 しかし、Cセンターの補佐役という意味でのPFパワーフォワードをこなせているかと言うと、ノーだ。


外4人・中1人フォーアウト・ワンインにフォーメーションを変えてみるか? 中原さんの負担は大きくなるけど……)


 思考を巡らせながら、亮介は昇降口に向かって校舎の廊下を歩いていた。

 と、


「……失礼。ちょっといいかね」


 亮介を呼び止める声。

 思考を止めてそちらに注意をやれば、声の主は、グレーのスーツを着た――教育委員の綾瀬だった。






 生徒たちはみな下校し、空も薄暗くなった時刻。こんな時間に応接室の電灯が点くのは珍しい事だった。


「ええと……お話とは?」


 普段よりもいくぶん緊張して、亮介は問う。

 綾瀬はどこか尊大な雰囲気のまま、亮介の向かいに座っている。だが言葉を選ぼうとしている様子で、かすかに目が泳いでいた。

 数秒、考えるようにして。


「……君は、女子バスケット部の顧問――という事でいいのだったな」

「あ、ええ。それが何か……?」

「いや、うむ」


 再び、数秒の沈黙を経て。


「……君の教育方針を聞かせてもらいたい」

「教育方針、ですか?」


 思わず亮介は聞き返す。

 "教育方針"とは、出し抜けに訊かれるにはスケールの大きい命題だ。それを県の教育委員という立場の人物が言うのだから、重く深い意味を勘繰らずにはいられない。

 どう答えるべきか――質問の意図を計りかねて、亮介は一秒あまり沈黙。

 亮介が答えあぐねている事を察して、綾瀬は言い直すように言葉を継いだ。


「顧問をしている君の目から見て、部活動は子供の将来にどんな利点があると思うかね。

 一般論で言えば、部活動……それも運動部は、学生の本分である学業との両立は難しいと言うだろう。部活に費やせる時間を勉強に充てた方が、より良い成績を収める事ができ、進学や就職にも有利になると私は思う」


 至って真面目な顔で綾瀬は言った。紛れもなく本心からの言葉だと、その様子が雄弁に語っていた。


「これが例えば、プロスポーツ選手になれるような才能を持った子なら話も違ってくるだろう。だが、そういう特殊な例を除けば――

 つまり大半の普通の子にとって、運動部というものは、将来的なメリットのない活動であるように私には思えるのだ。それどころか怪我の危険性や、縦社会的な文化に基づくイジメ行為などの事例も枚挙にいとまがない。

 それだけのデメリットを超える何かがあるのか、君の考えを聞かせてもらいたいのだ」

「ええと、それは明芳中を代表して私に回答をお求めですか?」

「いや、君個人に訊いている」


 きっぱりと言い切る綾瀬。その顔は、厳格な教育委員としてのものだ。

 それだけに、亮介も答えに困る。

 明芳中を代表してではなく、一個人としての見解を示せと言う。つまり亮介がどう答えようとも明芳中の教員たちの不利益にはならないが、言い換えれば、答えた言葉の責任は亮介が負うという事だ。


「まさか実際に運動部の顧問をしている君が、部員の子たちの将来に対する影響を考慮していなかったという事はあるまい?」


 もし何の考えもなかったのであれば失望だ、と言わんばかりの口調。

 もちろん亮介も何も考えていないわけではない。綾瀬の言葉は、亮介に考えを整理させる結果となった。


「もちろん、何も考慮していないわけではありません。部活を通して学んだ、授業では得られない経験が、子供たちの人生の財産になると思っています」


 そもそも女子バスケ部発足のきっかけは、愛の今後を考えての事だ。人並み外れた長身を持つ彼女は、バスケを通してその体格を活かせる舞台を経験し、今では入学当時より前向きな精神を身に着けつつある。

 発足当時のその思想に基いた指導をしてきたからこそ、亮介の下では、瞳が作戦能力やリーダーシップを開花させ、鈴奈も過去のトラウマを乗り越える事ができた。

 今の亮介の言葉は、確かな実体験に基づくものなのだ。

 だが、


「月並みな言い分だな」


 綾瀬は腕を組み、懐疑的な答えを返した。


「授業では得られない経験とか人生の財産とか、いかにも尊く聞こえる言葉を並べるのは簡単だ。だが、それが子供の将来のためになる事をどう証明できるというのだね。

 それよりも学業の成績を伸ばす事に注力した方が、就職に有利になるという明確な利点があると私には思える」

「何も、良い成績を収めて、良い所に就職する事だけが人生ではないのでは?」

「そんな事はない。職業というものは、その人間に生涯ついて回るレッテルだ」


 亮介の率直な意見を一蹴して、綾瀬は断言した。

 なんとも頑固な人物だ。

 確かに綾瀬の言う通り、学校というものは、子供たちが職業に就き社会に出るための準備の場という性質もある。

 だが綾瀬は、"そのための場所"という考えが強固すぎはしないか。


「職業に貴賎はない、という言葉もありますが」


 様子を伺う意味で、亮介はそのように言ってみた。綾瀬は堅苦しい印象のある人物だ。格言やことわざといった権威のある言葉には、一定の理解を示すかもしれないと。

 だが綾瀬の険しい表情は、和らがなかった。むしろ、逆に厳しくなったとさえ感じる。


「不勉強だな。どのような職業でも貴賎はないという意味でその言葉を使ったのなら、誤用もはなはだしい。

 当時で言う士農工商、つまり社会の発展や維持に貢献する職業には、役割の違いこそあれど上下や貴賎の概念を設けるべきではない――というのが石門心学せきもんしんがくで謳われている本来の意図だ。少しは読書をしたまえ」

「は、ええ……」

「教師である君がそのような安易な綺麗事に踊らされているようでは、生徒たちの将来に対する意識も懸念せざるを得ないな。

 想像してもみたまえ。例えば君に息子がいたとして、結婚相手として連れてきた女性が風俗嬢か何かだったら、君は素直に喜べるか?」


 あまりにも無遠慮な言いよう。そもそも、職業に基いて人を見下すような言い方は教育者としてどうなのか。

 しかし、一面的な観点としてはあながち間違いでもない。今の日本の社会は、批判はあれども学歴社会だ。良い学校、良い大学を卒業した者ほど就職の選択肢は広く、そういう者たちにしか一流企業や官僚組織などのエリートコースは開かれない。

 言い換えれば、"勉強ができないと、ろくな仕事に就けない"のだ。

 風俗嬢などという言葉を綾瀬が使ったのは、それを極端に突き詰めたたとえの言葉なのだろう――その使い方については異論を挟みたくもあるが。

 そして最初の話に戻れば、運動部と勉強の両立は、一般的に難しい。

 そのせいで勉強に支障をきたし、将来が台無しになったらどうしてくれるのだ、というのが綾瀬の主張なのだ。

 亮介はそれを理解し、綾瀬の言ったとおり自分に子供がいた時の事を想像してみた。何もかも部活のせいでとは言わないが、やはり不安になる。

 ――その段に至って、ようやく亮介は気づいた。


「……心配なんですね、娘さんの事が」

「っ」


 綾瀬は一瞬、怯んだ。視線を泳がせて言葉に詰まった様子が、亮介の言葉を肯定していた。

 考えてみれば当然だ。部のみんなでバッシュを買いに行った時、慈が持っていた大金は、彼が持たせたものだ。『本気でやるからには一流の道具を使え』と言い添えて。

 綾瀬の様子に、亮介もようやく肩の力が抜け、口元に微笑が浮かぶ。


「な、何がおかしいのかね」

「ああ、いえ、失礼。すみません、私の方が質問の意図を堅苦しく考えすぎていたようです」


 ようやく口がいつも通り回るようになってきた。

 そもそも綾瀬は当初、明芳中としての見解ではなく、亮介個人の意見を訊いてきた。その時点で気づくべきだったが、綾瀬も教育委員としてではなく、慈の父親として話しているつもりだったのだ。

 堅苦しい態度を崩そうとしなかったのは、彼なりの照れ隠しのようなものなのだろう。

 そう考えると、目の前のグレーのスーツを着た男の見え方も変わってきた。教育委員という名の怪物から、ただの一人の人間へと。

 綾瀬は大きく咳払いをすると、話を切り戻した。


「……まあ、娘が心配なのは事実だ」


 綾瀬は認めるように言う。

 宙を仰ぐようにして、ゆっくりと言葉を続ける。


「君にこんな事を言っても仕方ないのだが、私の父は土木系の労働者――いわゆるドカタでね。

 それも、非常にモラルの低い施工会社に勤めていた。人の敷地に勝手に資材を放置したり、汚れた格好のまま飲食店に入ったり、採算の取れなさそうな案件で手抜き工事をしたりね。無論、近所では悪者扱いだよ。

 だから私は、参観日にも父に来てもらった事など一度もない。悪者の息子などと槍玉に挙げられてはたまらないからな。まして低賃金ゆえにスーツの一着も持っていない父だ。汚れた作業着のまま来られても困る」

「……」


 亮介は黙って綾瀬の話に耳を傾けていた。

 子供は時に残酷なものだ。"悪者の息子"などという偏見を一度持たれてしまえば、そこから人間関係を修復するのは簡単ではない。

 恐らく、綾瀬はそれで苦労した事もあるのだろう。でなければ、この場でこんな話が出るはずもなかった。


「父の仕事場を目にした時は驚いたものだったよ。いい歳をして髪を染めたガラの悪い男や、敬語のひとつも使えない少年など、無教養を絵に描いたような者たちの吹き溜まりだった。

 父に訊いてみれば、彼らのほとんどが中卒か、高校中退。中には少年鑑別所に入っていた前歴のある者もいると言っていた。しかも彼らは、それを武勇伝のように語るのだよ。

 それで私は子供心に悟ったんだ。彼らのようにならないためには、高い学歴と、経歴に汚点がない事が重要なのだと。そうしなければ自分はもとより、子供の人生にまで悪影響を与えてしまうと。自分で言うのもなんだが、それ以来の勤勉を重ねて今に至っている」


 立派なものだ。少なくとも綾瀬の姿は、世間一般の目から見ればそう映るだろう。逆境の中で努力を重ね、県教育委員という高い地位を手に入れたのだから。

 その逆境の中で見つけた価値観こそが、綾瀬の人生の中心軸だったのだろう。

 だからこそ。


「……私にはわからんのだ。勉学ではなく、部活動に熱心になる気持ちが。

 失礼だが、女子バスケット部の活動を見させてもらった。……あれほど娘が真剣になっている所を見たのは初めてだ」


 深く息をつき、綾瀬は訥々と語った。

 慈の真剣さに関しては、亮介も心中、同意する。もともと彼女は努力家だ。自分の弱点を自覚し、長所を伸ばす事でその穴を埋めようと秘密特訓をしてくるほどに。

 今日の練習では特にその傾向が顕著だった。PFパワーフォワードとして不足している部分、仲間たちと比較して劣っている部分がわかりやすいからこそ、なおのこと真剣になったのだろう。

 それは――


「娘さんが真剣にバスケットに取り組んでいるのは、子供の頃の綾瀬さんと同じように、壁を乗り越えようとしているからだと思います」

「壁を……?」


 問い返してくる綾瀬。

 亮介は静かに微笑みを湛えたまま、うなずいた。


「綾瀬さんは、大変な努力や工夫をされてきたと思います。高い学歴や立派な職業を手に入れるために」

「まあ、そうだ。勉強に費やした時間は多大だった。工夫と言えば、自分なりの勉強法の確立や、志望校に特化した試験対策もしたな」

「ええ。それらは全て、良い学歴と職業を手に入れようというモチベーションがあり、難しい試験という壁があったからだと思います。壁を乗り越える過程で努力を継続する習慣が身についたからこそ、県教育委員にまでなられたのでしょう」

「……うむ」


 綾瀬は、亮介の言葉を噛み締めるようにうなずく。

 さきほど亮介に対して、格言の使い方の誤りを指摘したのもそうだ。いわゆるガリ勉でただ知識を詰め込んだだけの人では、会話の中で相手を説き伏せる材料のひとつとして、咄嗟に言葉を出す事はできない。

 それは紛れもなく、綾瀬が努力の結果として身につけた、生きるための力のひとつだ。


「娘さんも、今、同じ状態にあるんです」


 亮介は断言した。

 どういう事か、と綾瀬は目を見開くようにして表情で問いかける。


「あの子の周囲には、優れた才能を持った子たちがいます。彼女も決して戦力になっていないわけではありませんが、仲間たちに比べて劣っている部分が明確な分、本人もとても気にしています」

「……」

「置いて行かれまいと頑張っているんです。秘密特訓をしたり、実業団の選手を手本にしたり、彼女なりの工夫をして」

「……その努力や工夫が、慈にとって、今後の人生を生きていく力になると?」

「そう考えています。私は」


 本来、運動部の目的はそういうものだ。

 肉体を鍛えたところで、運動をやめて数年も経てば、すっかりなまってしまうものだ。しかし鍛錬された精神、そして習得した"学びの型"とでも言うべきものは、いつまでも残り続ける。

 言語化するならば、それこそが"授業では教えてくれない事"なのだ。


「……私は、部活をやっていた事がない」


 亮介の言葉をしばし噛み砕くように間を置き、ようやくといった様子で綾瀬は言葉を発した。


「娘の真剣な様子はよく伝わってくる。だが、何もアドバイスできる事がないのだ。将来の事を諭してやろうにも、勉学に励む以外の方法を私は知らん。

 ……私は、慈にどうしてやればいい?」

「見守ってあげてください」


 懊悩する様子の綾瀬に、亮介は端的に答えた。

 綾瀬は顔を上げた。迷う様子もなく微笑む亮介に、たったそれだけの事でいいのかと問い返すように。


「あの子は今、自力で壁を乗り越えようとしています。ああしろこうしろと、細かく口を出す必要はないんです。

 子供を見守って――助けを求めている時や、誤った道に進みそうになった時に手を差し伸べる。それが、私たち大人の役割ではないでしょうか」






 その日の夜、慈は自室で腕立て伏せをしていた。

 部の練習後だけあって、体は疲れ切っている。それでも、限界以上に自分を追い込まなければ、愛にも茉莉花にも追いつける気がしなかった。

 特に、愛。

 同じインサイドポジションと定義されている彼女とは、インサイドの活躍度が段違いだ。その差は、パワーと体格による所が大きい。

 身長は伸ばそうとしても伸びるものではない。なら、せめてパワーだけでも彼女に追いつかなくてはならない!

 初めて行った本格的な筋トレ。ほんの7回の腕立て伏せで、早くも上腕には力が入らなくなってきた。8回目の際にはプルプルと腕が震え、やっとの思いで体を持ち上げる。


(せめて、あと2回……!)


 キリのいい回数までは行きたい。10回もできないとか、いくら何でも情けなさすぎる。

 額に汗を垂らし、歯を食いしばって、慈は体を沈め、持ち上げた。

 あと1回。

 最後の1回に挑もうとしたその時、コンコン、とノックの音がした。


「……はい?」


 慈はよろけかけながら、立ち上がる。この時間にこの部屋のドアをノックする人物は、家族以外いないはずだ。

 ゆっくりとドアが開く。

 姿を表したのは、彼女の父親だった。


「慈」

「……何でしょう」


 慈はベッドに座りながら、問いかけた。

 この父の事だから、また口うるさく勉強をしろとでも言いに来たのだろうか。そうであるなら筋トレなどしていた事は、父に口撃の絶好の口実を与えてしまう。


「……あー、その、だな」


 だが、父はしばし迷うように、言い淀んだ。いつも上から目線で、必要以上に厳しい事ばかり言う彼にしては珍しく。

 やがて、10秒あまりもそうして言葉を選ぶようにした後。


「……バスケットで道具や資料が必要になったら、遠慮なく言うようにな」


 それだけ言って、返事も求めずにバタンとドアを閉めてしまった。

 ドアが閉まる間際、かすかに見えた父の顔は、いつも通りの気難しいものではなかった。


「……?」


 何があったのだろうか。

 ――わからない。


 慈は、とりあえず最後の1回に取り掛かった。

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