#9 ティップオフ

 放課後、職員室の窓から眺めた校庭はやけに広く感じられた。

 それは、全ての部活で運動部の3年生が引退し、部活に興じる人数が減った事によるものだと亮介は気づいた。


「寂しくなりましたね」

「ええ」


 亮介から提出された申請書に印鑑を押しながら、校長は相槌を打った。

 今は7月の初頭。

 バスケ部に限らず、ほとんどの運動部は、夏の全国中学大会の地区予選を終えたところだ。

 もし順当に勝ち上がっていたのなら、県大会に向けて3年生も部活を継続している時期でもある。

 そうなっていないという事は、明芳中の全ての運動部が地区予選で敗退したという事だ。


「毎年の事ではありますが、熱心に部活をやっていた子ほど可哀想になってしまうものです」


 押印した書類を『購入申請書(少額)』と書かれたファイルに綴じつつ、校長は言う。

 言葉通り解釈すれば、明芳中の運動部は今まで県大会に出場した事はないという意味だ。


「どうですか斎上くん。女子バスケット部は?」

「うーん、そうですね……伸びしろはあると思いますが」


 亮介は苦笑いして言葉を濁した。

 彼女たちがどこまで上がっていけるかはまだ未知数だ。

 そして、そもそも亮介自身、大会で彼女たちに良い成績を残させる事を主目的としていない。


「――結果はどうあれ、部活で経験した事が、あの子たちの今後の糧になればいい……と。そう思っています」

「ふむ、なるほど」


 校長は鷹揚に頷いた。少し考えるようにして、言葉を続ける。


「結果はどうあれ、ですか。……教育の一環としては、それが正しいのかもしれませんな」

「ええ。そう思います」


 亮介は頷いた。

 彼女たちが全国を目指せるほどのチームになれるかと言われれば、恐らくノーだろう。県大会レベルに到達するのでさえ、人並み外れた努力が必要なのだ。

 だから、彼女たちと自分にとってのできる範囲で精一杯やり、悔いなく終われればそれでいい。

 あの日のように、悔いさえ残らなければ。






 #9 ここから始まる物語ティップオフ






「なあセンセー、男子がやってるみたいな片手撃ちのシュートってあるだろ?」


 中距離からのシュート練習の最中、そう尋ねてきたのは茉莉花だった。

 先日の男子1年生チームとの模擬試合で課題に挙がった、中・長距離のシュート。今は、それを重点的に練習している所だ。


「あれって、あたしらの両手撃ちとどっちがいいんだろ。どう違うのかわからなくてさ」

「んー……」


 亮介は少し考える。

 その仕草に対して、茉莉花は期待を表情に浮かべた。きっといつものように、確かな論理に裏打ちされた、それでいて実戦的な答えをくれるのだろうと。

 やがて亮介が返した言葉は、


「ぶっちゃけ、どっちでもいい」


 なんとも適当感があった。


「えー、何だよそれ」

「えーとね、あくまで"一般論で言えば"だが、両手撃ちの方が、非力な子でもロングシュートを無理なくゴールまで届かせる事ができる。ただし、左右の腕の力が均等でないとまっすぐボールが飛ばない分、技術が要る……とされている」

「一般論では、って何さ」

「その例に当てはまらない選手も多いんだ。特に女子は、外国だと片手撃ちの選手が多いが、両手撃ちする日本代表選手の方がロングの精度は高かったりね。まあ、要はその人に合った撃ち方なら何でもいいのさ」

「うーん。じゃあさ、その一般論ってやつで言うと……」


 茉莉花はボールを構え、両手でジャンプシュートを放った。

 リングの中央からボール半分ほど右にズレた位置に着弾。すげなく、ボールはリングの外側へと弾かれる。


「あたし、さっきから右にズレたり左にズレたりで、全然まっすぐ飛ばないんだけど、あたしの場合は片手撃ちの方が合ってる?」

「かも知れないね」

「よっし、じゃあやってみる!」


 茉莉花はボールを回収すると、さきほどと同じ位置に構えた。両手撃ちの時と同じ構え方から、ジャンプし、右手のみでボールをリリース。

 ボールはリングの遥か左へ飛んでいき、バックボードに当たって明後日の方向へと跳ね返った。


「げ……」


 明らかにさっきまでより酷い。

 たまたまボールが跳ねていった方向にいた愛が、ボールを回収し、投げよこしてくれた。若干の気まずさを感じながらも、茉莉花はそれを受け取る。


「……センセー?」

「構え方の問題だね。今のは、両手撃ちの構え方のまま右手だけで撃ったから、ボールに対して、右から左へと向かう力しかかからなかったんだ」

「こうじゃなくて?」


 茉莉花はシュートのフォームを取る。ちょうど、バレーボールで言うところのトスを上げる瞬間のような姿勢だ。


「うん、片手撃ちの場合はそうじゃない。利き腕の前腕が垂直になるように、こう脇を締めてだね」

「ひゃあ!? ちょっ、センセー、腕触るんなら触るって言ってくれよびっくりするじゃんか!?」

「え、ああ。ごめん」


 亮介は茉莉花の肩と上腕から手を引いた。

 どうもバスケの事となると周りが見えなくなっていけない。男子バスケ部の後輩に教えていたときの感覚が抜け切らないせいか、つい部員たちが女子である事への配慮が疎かになってしまいがちだ。


「先生……」


 低く静かな声音で呼びかけ、慈が批難の視線を浴びせて来た。

 実に気まずい。


「いや、うん、ごめん。つい」

「誠意が感じられません。やり直し」

「本当に申し訳ない」


 茉莉花と、(なぜか)慈にそれぞれ頭を下げる。

 ふう、と慈はため息をついた。仕方ないから許してやろうと言わんばかりの様子だった。

 気を取り直すように、慈は両手撃ちジャンプシュートボースハンドジャンパーの構えを取った。

 膝を伸ばしながら小さくジャンプ。そのリズムに乗せるように腕を伸ばし、リリース。

 ボールは綺麗な弧を描いて、リングを通過していった。


「おー。ナイッシュー、めぐちゃん! すごいじゃん」


 鈴奈がボールを回収し、慈に投げて返す。

 慈は得意げに返球を受け取った。

 シュート練習を重点的にやるようになってから一週間ほどが経つが、5人の中では慈が比較的高いミドルシュート精度を発揮し始めている。シュートフォームに最も早く到達したのも彼女だ。


「あたしも経験者として負けてらんないなー。そりゃ!」


 鈴奈がジャンプシュートを放つ。

 体を大きく"く"の時に曲げるような姿勢でリリースされたボールは低い弾道で飛び、リングの上を滑るようにしてこぼれ落ちた。


「あちゃー」


 外れたボールを小走りに回収すると、鈴奈はドリブルをついて元の場所へ戻ってきた。


「うーん」

「若森さん、もう少し高めにボールを飛ばしてみたら? 今のフォーム、何だか凄く無理がある感じがするけど」

「かなあ? うーん」


 慈の言葉に、鈴奈は小さく首を傾げる。

 彼女のシュートフォームは、全身をバネにしてボールを弾き出しているかのようだ。ただボールを遠くまで飛ばすだけなら理想的なフォームかもしれないが、細かく狙いを定めるのは難しいだろう。


「フォームもあまり良いとは言えないけど、直接的な原因は弾道だね」


 亮介は右手でボールを掲げ持つと、左腕で半円を作り、それをゴールリングに見立てて説明を始める。


「女子用のボールの直径は約23cm。対して、ゴールリングの直径は45cmだ。直径23cmの球形が直径45cmの円の内側を通過するには、入射角として最低でも33°以上の――」

「え、ちょっとせんせー、何いきなり数学始めてんの」

「そりゃあ数学の先生だからね。……とは言ってもまあ、試合中に33°以上とかをいちいち意識する必要はない。ようはもう少し弾道を高くして、ゴールの真上に近い角度からボールが落ちていくようにしないと入らないって事」


 亮介はそう言葉を締めくくった。

 が、鈴奈はいまいち納得しきれない様子だ。


「うーん、届くかなあ。あたし、あんまり遠くとか高くまでボール飛ばせるほど力ないと思うし」

「それ言ったら私だって、あんまり腕力はないわよ」


 言いつつ、慈は再び中距離からジャンプシュートを放つ。高く弧を描いたボールはリングの奥のフランジに当たって小さく跳ね、リングの内側へ落ちていく。

 さきほどのシュートを映像として再生したかのように再現度が高く、そして綺麗なフォームだった。


「……なんか、めぐちゃん急に上手くなってない?」

「ふふん」


 慈は褒められて満更でもないといった様子だ。

 その様子を可笑しそうに見ていたのは、瞳だった。


「綾瀬さん、女子の実業団の動画とか見て真似してたもんね」

「ちょっ、神崎さん、何でバラすの!」

「いいじゃない、それだけ頑張ってるって事なんだから」


 顔を真っ赤にした慈に対して、瞳はくすくすと笑う。


「綾瀬さん、秘密特訓?」

「……ま、まあ、そんな所」


 愛の問いかけに慈は、顔を赤らめたまま、消え入るような声で答えた。

 茉莉花は窮屈そうに片手撃ちのシュートフォームを取りながら、その会話に疑問を唱える。


「ってか、瞳、なんで綾瀬の特訓の事なんか知ってんの?」

「こないだ部室で綾瀬さんがね、実業団の動画とか見せてほしいって私に」

「へー」


 話の流れを誤魔化すように再び両手撃ちのフォームを取った慈に、茉莉花は観察するような視線を向けた。

 慈はシュートの構えで硬直し、赤面したまま、むっとした表情で茉莉花を見返す。


「……しょうがないじゃない。私、パソコンとかスマホとか持ってないんだもの」

「いや、別にバカにしてるわけじゃねーって。頑張ってるなって、普通に感心してるとこ」

「……」


 慈は答えに窮したように、再度ジャンプシュートを放った。

 ボールは、今度はリングの手前側で弾かれ、床に落ちた。






 彼女たちなりに何かを感じ取ったのだろう、と亮介は思った。

 夏の全国大会予選における、男子バスケ部のあまりにもあっけない敗退、そして引退。そこに2年後の自分たちのイメージを重ね合わせた部分は間違いなくあるだろう。

 でなければ、大会の後に学校の体育館で行われた亮介と双三との1on1を、全員が見に来るわけもない。

 自主的に秘密特訓に取り組んでいた慈をはじめ、全員、それまでより熱心に練習するようになった印象もある。

 全国大会を目指すなどというのは、極めて無理に近い。

 だからと言って、バスケットが楽しければ別に負けてもいいというような、あまりにいい加減な気持ちで部活に臨んでいるわけでもない。

 いかに悔いを残さないか。

 きっと彼女たちなりに、その落とし所を探しているのだ。






「よーし、みんな聞いてくれ」


 本日の練習を終えて、全員が着替え終わった後の部室。亮介は、5人に対して切り出した。


「知っての通り、夏の大会で敗退したチームは3年生が引退し、世代交代が行われている。どのチームも次の大会となる秋の新人戦に向けて、2年生を主力とした新しいチームに生まれ変わろうとしている時期だ」


 大会というフレーズを聞くや、全員の目が真剣なものになった。それがどういう意味を持つ言葉なのか、彼女たちも夏の大会を観戦して理解した証拠だ。

 全員の表情を確認し、気負いと緊張がある事を確かめてから、亮介は言葉を続ける。


明芳中ウチの男バスも例外じゃない。高倉先生が言うには、神戸くんを新キャプテンとしてチームを再編し、実力のある子は1年生でも試合に出す方針だそうだ。1年生も2年生と同じ練習をさせる都合上、これからは今までのように頻繁には女バスとの5対5はできないとも言っていた」

「えー……何だよそれ、勝ち逃げじゃんか」


 茉莉花が不平を漏らす。

 結局のところ男バス1年生チームとの模擬試合は、今まで3戦やって、女子チームが全敗している。徐々に差が縮まってきた実感はあったが。


「男バス1年に勝つために、いろいろ作戦考えてたりとかしたのにさあ……」

「確かに、それも良くはないけど」


 茉莉花の言葉に苦笑しながら、瞳は言葉を受け取ったかのように続ける。


「5対5の、試合形式での練習ができないのが問題ですよね。どっちかって言うと」


 瞳の言葉に、亮介はうなずいた。

 明芳中女子バスケ部は5人しかいない。実践を想定した連携などの練習をしようとしても、2on2や3on2でしかできないのだ。

 5人全員でのプレイが、試合でのぶっつけ本番になってしまうのでは、あまりにリスクが大きい。


「そう。そこでだ。これから、週末には他校との練習試合を積極的にやっていこうと思う」

「他校……」


 口にしたのは愛だった。

 だが、驚いたのは全員一緒だったのだろう。にわかに、怯んだような雰囲気が部室内に満ちる。


「先生、質問です」


 沈黙を破るように、慈が挙手して言った。


「他校の1年生チームと練習試合、っていう事ですか?」

「いや。わざわざ明芳中こっちに来てもらうか、相手校あっちに試合会場を用意してもらう必要があるんだ。そこまで手間をかけて、相手の2年生お断りっていうのは、ちょっとない」

「じゃあ……」

「君たちにはこれから、基本的に上級生を含むチームと戦ってもらう事になる」


 ――再びの沈黙。

 上級生チームと戦うという事におののいている様子が見て取れた。当然の心理だろう。


「先生、夏の大会の時と言ってる事が違いません? 上級生チームと試合してもボロ負けするだけだって……」


 懐疑的な目を向けて疑問をぶつけてきたのは愛だ。

 うん、と亮介はうなずく。


「あの時は確かにそう言った。でも、あれは3年生にとって重いものが賭けられた最後の大会で、時期的にもチームが成熟している頃だったから、君たちにはまだ早いと判断したんだ。

 逆に今のタイミングなら、来年の夏の大会に向けての調整をしているチームはないし、どこもまだ再編されたばかりでチームとしての成熟度は低い。2年生の人数が少ないチームを選んで勝負を申し込めば、今の君たちでもそこそこ勝負になるはずだ」

「ちゃんと考えてはくれているって事ですね。わかりました」


 慈はそう答えて、質問を締めくくった。愛も、やや不安そうではあるものの、納得した様子を見せる。


「で、だ。実は、最初の練習試合の日程はもう組んである」


 亮介は傍らのカバンからカレンダーを取り出すと、壁にかけた。そして、9日後の土曜日に赤ペンで丸をつける。


「来週の土曜。相手は瀬能中って所だ。試合会場はあっちの学校の体育館になる。電車で移動するから、当日は9:00に駅集合だ。

 瀬能中について少し話しておくと、南埼玉地区の学校だ。夏の大会は1回戦敗退。2年生は3人しかいない。県大会出場の実績もない。まあ、言っちゃなんだが弱小校と言っていいだろう。けど、実績がないのは僕たちも一緒だ。決して油断しないように。それから……」






 しばらく亮介の話が続いた後、幾つかの質疑応答を経て、その日のミーティングは終了した。

 亮介は部員たちに先んじて部室を後にし、部員たちは荷物をまとめて帰り支度を済ませる。


「あれ?」


 帰り際、愛は足元の違和感に気づいた。

 カバンだ。

 長机の脚に立てかけられているそれは、普段は部室にないもの。亮介の忘れ物だろう。


「ねえみんな、先生ってまだ職員室にいるんだっけ……?」

「多分、まだいると思うけど。あ、先生の忘れ物?」


 慈が覗き込むようにして、黒いカバンの存在に気づく。


「うん。ちょっと、届けて来ようかなって」

「あ、じゃああたしも一緒に行くー。それから一緒に帰ろ、あいちゃん」

「あっ、うん。じゃあ職員室に……」


 言いかけて。

 愛は気づいた。半開きになった黒いカバンの中に、数十枚の紙資料。

 学校名、女子バスケ部の部員数、過去の大会実績。そのような情報が羅列されている資料だった。


「これって……」


 明芳中女子バスケ部にほどよいレベルの相手を探した、努力の形跡。

 それは、亮介もまた本気で取り組んでいる事の証左だった。






 瀬能中は、明芳中と同じように、取り立てて特徴のない県立の中学校だ。

 校門前までやって来ると、明芳中女子バスケ部一同の目には、明芳中よりいくらか敷地が広い事が見て取れた。その代わりというわけではないだろうが、校舎は古びている印象があり、体育館と校舎を繋いでいる渡り廊下の屋根も傷みが目立つ。

 いかにもな、平凡な中学校だ。

 愛の抱く勝手なイメージでは、例えば強豪校だったなら、学校の外観からして一味違う雰囲気が漂っているものだと思っていた。

 少なくとも目の前の学校には、そんな様子がない。それが、わずかながら緊張を和らげた。


「さて、そろそろ来るはずだけど」


 ノータイの半袖ワイシャツに夏用のスラックス姿の亮介は、腕時計を見て時刻を確認した。そろそろ10:00になろうかという頃だ。


「瀬能中の方と待ち合わせですか?」

「いや、別件。まあ、この練習試合に関係はしてるんだけど」


 慈の問いかけに亮介はそう答える。

 どういう事なのかと慈が意味を図りかねていると、一台のセダン車が軽快なエンジン音を立てて走ってきた。そして、明芳中女子バスケ部一同の前で停車する。

 小さな機械音とともに、車のドアの窓が下りる。


「ハァイ、可愛いシンデレラちゃんたち。元気してたかい?」

「……店長!?」


 茉莉花が部員たちを代表したかのように驚きの声を上げる。

 部員たちにとってはバッシュを買ったスポーツショップの店長。亮介にとってはかつてのチームメイト。桐崎だった。

 相変わらずのキザで軽薄な喋りだ。


「本っ当にお前のキャラは変わらないよな」

「アイデンティティと言ってほしいね。俺ぁ、可愛い子には可愛いとしか言えないのさ」


 苦笑しながら亮介が言い、桐崎が軽い調子で答える。部員たちと接している時よりも、だいぶ砕けた口調だ。


「てんちょー、何しに来たの?」


 車に近づきながら鈴奈が問いかける。

 すると、桐崎は悪戯っぽい笑いを浮かべて、ひと抱えほどある紙袋を取り出した。


「ちょっとお届け物さ。ついでに、シンデレラちゃんたちのデビュー戦を是非拝見したくてね」

「なに? 応援に来てくれたってこと?」

「そんなとこ。――ほれ斎上、注文のブツ」


 桐崎は窓から紙袋を差し出す。

 亮介はそれを受け取った。紙袋の立てる音から、それなりの重量がある事がわかる。


「サンキュ。ああ、駐車場は裏口の方みたいだよ」

「OK。んじゃあ、体育館で会おうぜ」


 言うや、桐崎は車の窓を閉め、瀬能中の裏口へと車を走らせていった。

 改めて、亮介は瀬能中の正門に正対する。


「――よし、行こう。このチームの初陣だ!」


 亮介は正門を通り抜け、瀬能中の体育館へ向かう。部員たちも、その後に続いた。






「先日は練習試合のお話をどうも。瀬能中女子バスケ部顧問の古谷です」


 体育館の入口で明芳中を出迎えたのは、亮介と同い年ぐらいの若い男性教師だった。握手を求めるように右手を差し出してくる。


「明芳中女子バスケ部顧問の斎上です。今日は宜しくお願いします」


 古谷の手を握り返し、亮介は挨拶を返した。

 見れば、古谷の後ろに広がる体育館のコートでは、既に瀬能中女子バスケ部のメンバーらしき少女たちがウォーミングアップを始めていた。その人数は10人ほど。一様に、白地に青の文字が描かれたユニフォームを着ている。


「右手にロッカールームがありますので、着替えはそちらを使ってください。審判とオフィシャルはウチの3年生がやります。特に準備を手伝っていただいたりはしなくて大丈夫です」

「ありがとうございます。では、のちほど」


 亮介は古谷に一礼して、部員たちへと向き直った。

 明芳中女子バスケ部の5人は、練習試合とはいえ、このメンバーで臨む初めての対外試合にやや緊張の面持ちだ。まして、不慣れな場所での試合アウェーゲームなのだから尚更だ。


「よしみんな、少しだけミーティングをやろう」


 彼女たちの緊張をほぐす必要がある。それに、渡さなければならない物もある。

 亮介は部員たちを先導するように、ロッカールームへと入っていた。


 ロッカールームは、有り体に言って手狭だった。

 それでも、県立の中学校にロッカールームがあるだけマシだとも言える。明芳中女子バスケ部メンバーは、部室がもらえるまでは体育倉庫かトイレで着替えていたのだから。

 亮介はロッカールームの奥まで進むと、部員たちに向かい合った。

 自然と、5人は半円を作るように並んで亮介と向かい合う。


 5人全員に、大なり小なり緊張の色があった。


「みんな、緊張しているね」

「それはそうです。他所と試合するのは初めてですし」


 慈が答えた。ほんのわずかに、声が上ずっている。

 さもありなんと、亮介は頷く。


「うん。それは正常な気持ちだ。勝ちたいという気持ちがなければ緊張する事もない。君たちが本気で取り組んでる証だよ」

「あったりまえだ。あたしたち、負けるために来たわけじゃないんだから」


 茉莉花が顔を上げて言った。自分に言い聞かせる意味もあっただろう。

 微笑ましくも頼もしい事だ。亮介は笑って、言葉を続ける。


「そうとも。相手は上級生混じりのチームで、確かに不利かもしれない。けど、やるからには全力で勝ちを狙っていく。

 コートに立つ前に、今まで君たちがやってきた練習と、身につけてきたものを思い出してほしい。5月アタマに部ができたばかりの頃には、たった2ヶ月でここまでバスケットらしい形になるとは誰も思っていなかったはずだ」


 5人は亮介の言葉を静聴する。

 愛が、亮介の言葉を肯定するように小さくうなずいた。

 毎日の基礎練習で身につけた技術は、体育の授業でしかバスケを体験していなかった彼女たちにとっては、ひとつひとつが画期的なものだったはずだ。それらの技術を習得する前の自分と比較すれば、思ったよりも遠い場所まで来ているのだと気づくだろう。


「自信を持って行こう。君たちはもう、バスケット選手だ」


 亮介はそう言葉を締めくくった。

 そして改めて、彼女たちの目元に現れている気持ちを読み取る。

 5人とも多少の緊張は残るものの、これまでの努力を思い出したのか、その目には勝利への冷静な意志がある。

 いいコンディションだ。亮介は選手時代の、自身が好調だった日を思い出してそう感じた。


「先生、ゼッケンをください」


 5人の中でもひときわギラついた目をした慈が、手を出しながら言ってきた。

 今まで、明芳中男子バスケ部の1年生チームとの試合の際に身につけてきた赤ゼッケン。それが彼女たちにとっての戦闘服だ。

 が、亮介はかすかに笑って、首を横に振った。


「他所の学校と試合するっていうのに、体育着にゼッケンじゃ格好つかないだろう?」


 亮介は、手にしていた紙袋から中身を取り出した。

 赤みがかった黄色の――


「ユニフォーム!」


 目を輝かせて鈴奈が反応した。

 山吹色の、ノースリーブウェアと膝丈ハーフパンツ。胸の"MEIHOU"の文字と背番号は紺色で書かれ、首元と肩口も同じ色で縁取りがされている。

 体育着にゼッケンという出で立ちとは一線を画す衣装。それは、身につけた者が一人前のスポーツ選手である事を証明するかのようだ。


「背番号は入部届の提出順ね。4番、中原さん。5番、氷堂さん。6番、神崎さん。7番、若森さん。8番、綾瀬さん」


 亮介は5着のユニフォームを取り出すと、一人ずつ名前を呼びながら、5人それぞれに配った。

 5人は、あるいは高揚した様子で、あるいは緊張の面持ちで、ユニフォームを受け取る。


「……」


 愛は無言で、受け取ったユニフォームをじっと見つめていた。

 一人前のスポーツ選手の証とも言えるユニフォーム。テレビの中のスポーツ選手と、先日の夏の大会でしか見た事のなかったもの。それを自分が着るという事に、どこか実感が持てずに呆けている様子だった。


「せんせーせんせー」


 やおら、鈴奈が勢いよく手を上げる。


「何だい?」

「あいちゃんがキャプテンなんですか?」

「ふぁい!?」


 裏返った声とともに愛が振り向いた。

 変な声が出た自覚はあるのか、たちまち赤面する愛。だが驚きと混乱の方が勝っているのか、そのまま黙り込む事もなかった。


「え、ちょっ、何、どういう事!? キャプテンって何!?」

「だってマンガとかでも、4番つけてる人がみんなキャプテンだし。せんせー、そのへんどうなの?」

「んー。うん、まあ普通は4番の人がキャプテンだね。学生バスケだと」

「ちょっ、ちょっとちょっと先生まで何言ってるんですかえっとえっと!」


 愛はぶんぶんと首を振るように全員を見渡した。


「そ、そう、ほら、キャプテンなら綾瀬さんとかでいいじゃないですか! なんかよく仕切ってるし!」

「ヤよ、クラスでも委員長やってるのに」

「じゃ、じゃあほら、氷堂さん! いつもやってやろうって言い出すの氷堂さんだし!」

「いや、ガラじゃねーよ、あたしがキャプテンなんて」

「神崎さん! PGポイントガードやるようになってからいつもみんなに指示出してるし!」

「うーん、運動音痴な運動部のキャプテンなんて聞いたことないけど……?」

「わ、若森さん! ミニバス経験者だし!」

「あたしは、あいちゃんがいいな」


 にぱっ、と屈託ない笑顔で鈴奈は言葉を返した。

 愛は赤面から冷めやらないまま、ユニフォームを胸に抱くようにして、困惑を露わにする。


「……なんで、私?」

「あいちゃんが一番、このチームのこと好きだと思うから」


 鈴奈はあっさりと言い切った。その言葉に照れる様子も、言い淀む様子もなく。


「こないだの夏の大会の帰りの電車でさ、あいちゃん、最後は笑って終わりたいって言ってたでしょ?」

「う、うん」

「あれって、チームとみんなの事が好きじゃないと、出て来ないセリフだと思うんだ、あたし」

「……」


 数秒、愛は言葉が出せなかった。

 肯定の沈黙。

 このチームは居心地がいい、楽しくやりたい――そう言っていたのは紛れもなく彼女だ。照れ隠しに否定しようにも、相応しい言葉は見つからなかったに違いない。


「全国を目指すなんて簡単に言っちゃダメだとか、先生にも厳しいこと言われちゃってさ。でも、負けるつもりで3年間やろうとも思わないし。どういう気持ちで頑張ればいいのか、あたし、ちょっと迷ってた感じあるんだけど……

 勝てるかどうかはともかくさ、最後は笑って終わりたいって、凄くいい目標だなって思って。だからあたしは、着いていくならあいちゃんがいい!」

「若森さん……」

「"鈴奈"でいいよっ」


 快活な笑みで、鈴奈は愛に答えた。






 コートの上では、既に瀬能中の選手たちが待っていた。

 背番号はそれぞれ4、7、8、9、10。

 亮介の弁によれば、4番は一般的にキャプテンの背番号だと言う。

 ベンチに目をやれば、落ち着き払った様子で5、6番が座っている。11、12、13番の選手もベンチに控えているが、その3人は明らかに場慣れしていない様子だ。

 察するに、4、5、6番が2年生。

 学年と実力が比例していると仮定すれば、コートに出ているメンバーは、半数が2軍メンバーという事になる。


「舐められてんね」


 茉莉花が、味方にだけ聞こえる声量で呟く。明芳が1年生チームだと知って、手加減しているつもりだろうか。


「手加減されるのも、なんだかシャクね」

「じゃ、驚かしてあげようよ」


 むっとして言う慈に対して、瞳は不敵に言う。


「行こ、あいちゃん!」


 鈴奈は、勇気づけるように愛の背中を軽く押した。


「うん」


 愛は、小さく頷いた。そして、コートの中央へと進み出ていく。

 背番号4を背負って。


 明芳中ベンチでは、彼女たちをコートへ送り出す亮介が見守っていた。その表情は、教え子である彼女たち5人を誇らしく思っているかのように、穏やかながらも堂々とした笑みを湛えている。

 自称観客として来ていた桐崎も、明芳ベンチに座っていた。頑張れよ――と手を振る彼に対して、茉莉花が拳を掲げて応じる。


「整列!」


 瀬能中の、引退した3年生だという審判が呼びかける。

 センターラインを隔てて、両チームのスタメンが並んだ。

 瀬能中のスタメンは、やはり4番以外は1年生のようだ。雰囲気からして4番だけ落ち着きが違う。平均身長で見ると明芳中より瀬能中の方がやや高いが、Cセンターであろう4番の身長は、愛よりいくぶん低い。


「礼!」

「「「よろしくお願いします!!」」」


 瀬能中の方が、いくらか声が大きかった。

 思わず、気圧されそうになる。愛の手の中は、緊張の汗で既に湿っていた。

 と、愛の肩に小さい手が乗る。


「あいちゃん、ジャンプボール頑張ってね」


 鈴奈だった。

 ジャンプボール。

 試合開始のセレモニーでもあるそれは、愛にとっては得意分野だ。今まで男子チームとの模擬試合において、3回に渡って十和田と競り合い、そして3回ともボールを制してきた。

 瀬能中の4番の身長は十和田とほぼ変わらない。

 なら、負ける気はしない。

 愛はひとつ、長いまばたきをした。目を開いた瞬間には、だいぶ心が落ち着いていた。


「ありがと、。ボールの回収、よろしくね」


 愛は、センターサークルに進み出た。

 両チームの選手たちがセンターサークル周囲に散らばる中、愛は瀬能中の4番と相対する。

 4番の表情を伺う。1年生チームと聞いていたのに自分より長身のCセンターがいて面食らった様子だが、所詮は1年生だろうと侮っている雰囲気も垣間見える。

 こちらに油断はない。

 こちらは初陣だ。変に手を抜いている余裕はそもそも無い。誰が相手だろうと、全力でぶつかるのみ!

 愛の頭から、雑念は消えた。

 審判が、瀬能中4番と愛の合間にボールを構える。


 ピッ!


 吹き鳴らされたホイッスルを合図に、ボールが真上へ投げ上げられた。

 試合開始ティップオフ

 愛は脚に力を込め、ボールめがけて全力で跳び上がった。

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