#7 アンサー

「どーだセンセー、もうレイアップはだいたい入るようになったよ!」


 練習開始前の体育館。やってきた亮介に対して、茉莉花はそう宣言して綺麗にレイアップシュートを決めてみせた。


「ナイッシュ。上手くなってきたじゃないか」

「へへへ」


 亮介の賞賛に、茉莉花は素直に嬉しそうな顔をした。

 生徒指導室に呼び出されて不貞腐れていた少女と同一人物だとは、とても思えないほど素直になったものだ。

 基礎体力が備わっていた事もあって、ここの所、初心者メンバーの中では彼女がもっとも上達を見せている。負けず嫌いらしい性格も良い具合に働いているようだ。

 だからこそ、亮介も教え甲斐があった。


「もう少しゴール下まで踏み込んで、ほぼ真上に跳び上がるような感覚で撃つと、もっと成功率が安定するよ」

「へー……よぉし」


 茉莉花は再びボールを構えた。獣の舌なめずりを思わせるような、ゆっくりとしたドリブルを幾度かつく。

 そして、勢いよくゴールへと駆け出し――

 滑った。


「あっ」


 勢いよくつんのめって倒れそうになる。咄嗟に足を踏み出してこらえるも、一歩、二歩と不格好にたたらを踏んで……

 こらえきれず、どさっと尻餅をついた。


「痛って……」


 よろめきながら茉莉花は立ち上がろうとする。亮介も慌てて駆け寄り、助け起こそうと手を貸しに来た。


「氷堂さん! 大丈夫かい?」


 亮介は心底心配そうだった。その表情のまま、茉莉花に怪我がないかをくまなく観察している。

 途端、茉莉花は赤面した。


「だっ、だだだ、大丈夫だよ、怪我なんかしてねーって、ほら!」


 茉莉花は誤魔化すように、亮介の手を借りずに立ち上がって見せた。くるりと反転して亮介に背を向けると、明後日の方向に転がっていったボールを回収しに行く。

 不覚だ。亮介の目の前で、余裕綽々の態度から無様に滑って転ぶとは、あまりに格好悪い。

 だが、そんな茉莉花を亮介が追いかけてきた。


「氷堂さん」

「な、何だよセンセー。あたしは大丈夫だって……」

「ちょっと聞きたいんだけど、シューズの裏がすり減ってないかい?」


 予想していた言葉とだいぶ違っていた。

 何やら一抹の残念さが茉莉花の胸をよぎった。そりゃあ怪我はしていないと主張したのは自分だが、なぜシューズ。


「……ん、確かにすり減ってるかも」


 茉莉花は、履いている体育館履きシューズを床に擦らせて言った。シューズの裏が、滑る感覚がある。


(昼休みとかもここでバスケしてたしなあ)


 バスケ部の活動が始まってまだ1ヶ月も経たないほどだが、ずいぶん走ったものだ。なまじ他の初心者たちより走れるだけに、茉莉花のシューズはもっとも消耗が早かったのかもしれない。

 そのように考えたちょうどその時、鈴奈が体育館にやって来た。


「ちゃーっす! 今日もよろしくー!」


 満面の笑顔で元気よく挨拶してくる鈴奈。

 その足元は、黄色いナイキのエンブレムがでかでかと入ったシューズに彩られていた。






 #7 しがらみを越えて駆け抜けた先にあるものアンサー






「というわけでみんな、今度の日曜はバッシュを買いに行こう」


 週末の練習に代わる内容として、亮介はそう提案した。


「バッシュ?」


 練習前の準備運動をしながら、いまいち要領を得られず愛は問いかけた。

 亮介は片足を軽く上げながら、自分の足先を指す。


「これこれ、こういうやつ。バスケットシューズね」

「略してバッシュ、ですか。なんかマックみたい」

「小さい"ツ"はどこから来たんだー、って?」


 ふふっと笑いながら瞳が相槌を打つ。

 一方で、準備運動をしながらも懐疑的な様子を見せたのは慈だった。その視線は亮介のバッシュに向いている。


「正直言って、ただのファッションにしか見えないんですけど……」


 白を基調としながらも、鮮やかな赤でアクセントをつけたデザイン。ひときわ目を引くのはヒールの赤い半透明なパーツと、金色で書かれたアシックスのエンブレム。

 素っ気ないデザインの体育館履きに比べると、いかにも派手だ。


「まあ、ファッションでもあるってのは否定しないけどね」


 亮介は苦笑いしながら、左右に小さくステップを踏んだ。

 キュッ、キュッと靴底ソールが音を奏でる。


「でもやっぱり、ちゃんとした機能があるからこそ、どんなバスケ選手でも履いてるんだよ。フットワークが目に見えて違うし、足首の怪我防止にもなる」

「そういうものですか……」


 いまいち実感できない様子の慈。対称的に、うんうんと頷きながら亮介の説明を聞いていたのは鈴奈だった。


「やっぱり走ったり跳んだりする時の感覚ぜんぜん違うよね。

 あとアレだよみんな、好きな選手と同じとかのバッシュ履いてるとテンション上がるよ!」

「あー、それはあるね。ファングッズ的な」


 相槌を打ちつつ、亮介は鈴奈のバッシュに改めて視線を向ける。白を基調としつつも黄色で縁取りされた配色のシューズだ。表面に縫い付けられた大きなナイキのエンブレムが否応なく目を引く。


「エアマックス・アップテンポか。若森さん的にはやっぱり、ミラーをリスペクトしてるのかい?」

「えへへ、うん。ほら、マンガでもあたしの好きなキャラって3Pシューターだし。やっぱ点取り屋のシューターって憧れるなーって」

「アレンが出て来るまではミラーが世界最高のシューターだったからねえ。最近だとカリーかな? まあ彼はSGシューティングガードじゃないけど」


 何やらディープな話が始まってしまった。

 アキレス腱のストレッチをしながら、愛はどこか遠い世界の話題として二人の会話を聞いていた。

 そもそも愛は、バスケットに興味を持ったのがごく最近の事だ。好きな選手と言われてもまったくピンと来ない。かろうじて、ジョーダンという選手が有名らしいと知っている程度だ。

 しかし、同じレベルの知識であろう瞳が、二人の会話に反応を示した。


「じゃあ先生、PGポイントガードの名選手にちなんだバッシュもあります?」

「もちろんあるよ。興味が出てきたかい、神崎さん?」

「ええ、怪我防止になるならやっぱり履いといた方がいいですし……履く以上はほら、あの選手のバッシュ履いてるとか只者じゃないぞみたいな雰囲気出てた方がかっこいいかなって。

 中身は、まだこんなですけど」


 苦笑いしながら瞳は答える。言うなればハッタリだ。

 しかし鈴奈が、にこやかに笑ったまま、馬鹿にした様子は全くなく瞳の言葉に反応した。


「それでいいんじゃない? 見た目からで。

 凄い選手と同じバッシュ履いてるんだから、見かけ倒しにならないように練習頑張ろう……みたいな気持ちになるじゃん?」

「うん、そうなれたらいいなって」

「いいじゃんいいじゃん、そうしよ!」


 瞳は乗り気だ。どれほどの効果があるのかは、愛にはわからなかったが。

 賛成派を一人得た事で勢いづいたかのように、亮介は話を続ける。


「それに真面目な話、怪我防止の役割が結構大切だからね。

 バスケで一番多い怪我は、足首の捻挫だと言われている。急激なダッシュ&ストップや、ジャンプからの着地など、足首に負担のかかる運動が多いからね。しかも、一度やってしまうと復帰するのに2~3ヶ月かかる場合もあるし、体に癖がついて再発もしやすくなる。

 だから、足首の保護や衝撃吸収といった機能があるバッシュというものを履いて、予防する必要があるんだ。楽しく快適にプレイし続けるためにね」

「捻挫、ですか」


 捻挫。その言葉の意味を確かめるように愛は呟いた。

 そもそも愛は、小学時代は本格的にスポーツをしてきた経験がなく、捻挫の経験もない。それがどれほどの痛みを伴う怪我なのかもわからない。

 だが、復帰に2~3ヶ月かかるというのが只事ではないのは理解できた。

 せっかく楽しくなってきたバスケを、2~3ヶ月も取り上げられてはたまらない。

 買うべきか。他ならぬ亮介もこう言っている事なのだし。


「先生、バッシュっていくらぐらいの値段するんですか?」


 両親にどう小遣いをねだろうか、算段を巡らせながら愛は尋ねる。


「物によりけりだけど、相場は10000~20000ぐらいかな。あまり人気のないモデルだともう少し安いのもあるけど」

「高っ」


 中学生の小遣いで買うには少々高い。

 一ヶ月分前借りでなんとかなるだろうか、早くも少々不安になってきた。


「まあ、安く買える店を紹介するよ。知り合いにスポーツショップの店長がいてね、少しぐらいは値切れると思う」

「お願いします、ほんっと」


 中学生の経済力は乏しいのだ。我らが顧問が学生時代の小遣い事情を忘れていませんようにと、祈るように愛は言った。


「……バッシュ、かぁ」


 ぽつりと、茉莉花が呟いた。

 気がつけば、彼女はこの話題にほとんど参加していなかった。






 日曜日の10:00、6人は学校の最寄り駅に私服で集合した。

 電車に乗って、東京方面へ向かう上り列車に揺られること20分少々。東京都にも近いその駅は、駅に面した大型ショッピングモールが存在している。

 亮介が部員たちを率いて入店したのは、その一角にあるスポーツショップだった。


「よぉ、斎上。同窓会ぶり」


 入店とほぼ同時に、亮介が知り合いだと言っていた相手らしき人物がレジカウンターから声をかけてきた。

 長髪で細面、ポロシャツにジーンズというラフな格好の青年だった。胸につけられた『店長 桐崎きりざきしょう』の名札がなければ、客と区別がつきそうにない外見だ。


「や、桐崎。こないだ話した通り、ウチの部員たちのバッシュを買いに来たんだけど」

「おう、わかってるわかってる。そっちの子たちだな」


 桐崎と呼ばれた彼は、亮介の肩越しに部員たちを見やった。どうも、と小声で言いながら慈が浅くおじぎをしたので、愛もそれに連られて同じようにした。


「はいこんにちは、初めまして。可愛いシンデレラちゃんたちのガラスの靴をあつらえろと仰せつかりました、魔法使いのじじいでございます」

「あはははは、何それ変なの!」


 鈴奈は指さして笑った。

 桐崎は芝居がかった一礼のポーズで固まった。


「……なあ斎上、最近の子ってひどくね?」

「お前がバカやってるからだろ」


 失笑しながら亮介は答えた。そして、部員たちに向き直る。


「えーと、こいつがここの店長で、僕の元チームメイト。こんなだけど、一応専門家だからアテにしてくれていいよ」

「こんなって何だよ、ひでーな。あ、んじゃバスケコーナーはこっちね」


 桐崎は手招きして、部員たちを店の奥へと誘導した。全員がそちらの方向に向かうのを見て、亮介は最後尾を着いていく。


「ふーん……本格的だね」


 店内を彩る品々を眺めながら、誰にともなく茉莉花が言う。

 特に言葉に出しはしなかったが、愛もなんとなく同感だと感じていた。プロチームのロゴらしきものが入ったボール、関節保護用のサポーター、スタビライザーソックスなる仰々しいネーミングの靴下に、恐らくはプロチームのもののレプリカらしい背番号入りのウェア。怪我の応急処置用らしいアイシングスプレーも陳列されている。

 いかにもスポーツ馬鹿の店だ。


 スポーツグッズを売っている所と言えば、デパートの上品なスポーツ用品コーナーぐらいしか見た事のない愛にとって、その光景は真新しかった。

 独特の熱気がある。

 ある意味で、それは授業での体育と部活バスケとの差異に近い。デパートのスポーツ用品コーナーは、言うなれば教育の一貫や余暇の趣味としての道具を販売している場所だ。

 しかし、この場所は違う。

 この店のバスケコーナーは、バスケが人生の一部になっている人のための場所だ。好きな選手や好きなプロチームなどの知識もあり、憧れの選手を目指して努力し、その途中で負った怪我も乗り越えて行こうという人のための場所だ。品揃えから、容易にそう想像できた。


「はい、んじゃバッシュはここね」


 桐崎が案内した先には、見本品のバッシュが所狭しと並べられていた。白、赤、黒、青、紫……目が痛くなるような色彩情報の洪水だ。

 亮介が部活の時間に履いているようなシンプルかつシャープなデザインのものから、仰々しく派手なものまで、デザインも多種多様。当然、機能性の違いもあるのだろうが、愛の素人目にはわかるはずもない。


「あの、先生。どういうのがお勧めですか? 初心者には」

「んー、そうだね。インサイドのポジションをやる子……ウチだと中原さんと綾瀬さんだね。二人はハイカット型を履いた方がいい。くるぶしの上ぐらいまで保護するタイプのやつね。

 ジャンプからの着地の際に足首を捻ってしまうのを防止するために、足首を堅く保護するんだ。できればサポーター付きのソックスを併用すると、なおいい」


 愛はバッシュが並べられた棚を眺めた。幾つかのバッシュは亮介が表現した通り、足首よりも上までを保護してくれる構造になっている。


「で、その中で自分の足に馴染むものを選ぶといい。例えば僕はアシックスのがしっくり来るから、中学から何足か買って来た歴代バッシュ全部アシックスだ」

「んー、なるほど……」


 自分に合うものが、この中から見つかるだろうか。一ヶ月分の小遣い前借りを含む12000円の予算で、良いものが手に入ればいいが。

 愛はそのあたりの陳列棚から、ハイカット型のものを選んで値札を見始めた。






「わ、めぐちゃん何それ! 凄くない!?」


 唐突に鈴奈が声を上げた。

 鈴奈の視線の先にあったのは、慈の手にあった白封筒。そこからは、福沢諭吉が5人ほど顔を覗かせていた。


「別に全額使うつもりはないんだけど……『本気でやるからには一流の道具を使え』って、ウチのお父さんが」

「へー! いいお父さんじゃん!」

「うん……いえ、そうかしら」

「そーだよー」


 手放しで賞賛する鈴奈と、今ひとつ納得しきれない様子の慈。そんな二人に、桐崎がひとつのバッシュを持ってきた。


「一流の道具を使え、か。かっこいい事言ってくれるお父さんだねぇ」

「普段はそんないい父ではないです」

「反抗期だなぁシンデレラちゃん。親孝行にこれなんかどうだい? 日本代表選手も使ってた実績のある、一流も一流、超一流のバッシュだぜ」


 そう言って桐崎は、手にあったバッシュを差し出すように見せて来た。

 極めてシンプルなデザインのハイカットバッシュだった。真っ白な表面に紺色の4本のラインが交差しているだけの簡素な外見は、体育館履きと大差ない素っ気なさにも見える。


「……地味ですね」


 周囲の空間を彩る華美なバッシュたちと見比べて、慈は思ったまま口にした。

 しかし、桐崎は怯む様子もなく言葉を返す。


「渋好みと言ってほしいねぇ。ま、確かに派手じゃない。だけど使い心地はいいよ。特にブレーキ性はピカイチだ。

 体育館履きだと、ダッシュから急にはピタッと止まれない事も多いだろう? その点こいつは、靴底ソールが床に粘りつくみたいによく止まる。機敏な動きをアシストしてくれる一品さ」


 立て板に水を流すような桐崎の売り文句。半信半疑の気持ちでそれを聞いていた慈は、ふと視線を商品棚に向けた。

 そこには派手なバッシュがあった。

 どぎつい赤と黒の二色からなる表面に、金色の靴紐。いっそ下品なぐらいに派手な色合いだ。亮介の勧め通りにハイカットでもある。


 それを履けたら、どんな気分だろう。


 自分を派手に飾り付けるような靴だ。万にひとつ、父が試合を観戦しに来るような事があった時、娘がこんな品のない色合いのバッシュを履いていたら、父はきっと険しい顔をするだろう。

 それがよかった。

 あの頑固で、堅苦しく、わからず屋で、遊ぶ事も満足に許してはくれない父。その父に反抗してバスケットを始めたのだから。

 やるからには、徹底的に父に背いてやればいい。それはきっと爽快な事だろう。

 その上で自分が活き活きと活躍でもしようものなら、さすがの父も自分の教育方針が間違っていたと認めざるを得ないだろう。


 ――そう思ったが、手元にある50000円は誰が出したものか。

 父に迎合するつもりはない――けれど。


「……わかりました。その地味なやつ、試し履きさせてください」


 慈は、そのバッシュを受け取った。






 茉莉花は、バッシュ売り場の端にある中古品売り場から、慈と桐崎のやり取りを眺めていた。

 なんとなく、視線を別の方へと向けてみた。






「中原さん、どう? 決まった?」


 陳列されたバッシュをひとつひとつ見ていた愛にそう話しかけてきたのは、瞳だった。

 瞳はその手に一足のバッシュを持っていた。淡いペールブルーと白の二色からなるバッシュだ。ペールブルーのパーツは丸みがかったデザインになっており、クールな色合いの中にどこか愛嬌めいたものを感じさせる。22cmほどのサイズである事から、なおさら可愛らしく見えるだろう。


「私はまだ……神崎さんはもう、それで決めたの?」

「うん。これ、有名なPGポイントガードの選手のモデルなんだって。サイズもちょうどいいし」


 瞳はとても嬉しそうだ。早くも、このバッシュを履いて試合に臨む事の想像を楽しんでいる事が見て取れる。


「そっかぁ……私も合うのが見つかればいいんだけど」


 そもそも愛は足のサイズからして26.5cmだ。レディース用でサイズが合うものは少なく、メンズ用のものから選ばざるを得ない。

 幸いバッシュというものは、メンズ用かレディース用かで外見的なデザインが代わるわけではない。が、男モノを身につけるという行為は乙女的に躊躇われるのも確かだ。

 まったく、女の子らしい体形の子が羨ましい。

 小さく嘆息しながら、愛は再び陳列されたバッシュに目を走らせた。


 そこで、一足のバッシュが目に留まった。

 どこかで見たような色合いのバッシュだった。

 なんとなく手に取ってみて、それが亮介のバッシュに似た色合いなのだと気づいた。

 白と赤。

 全体の基調としては白を使いつつも、アクセント的に赤が使われた配色。

 しかし数秒かけてよく見れば、亮介のバッシュより明るめの赤が使われていて、エンブレムもナイキのものが入っている。亮介のバッシュとは色が似ているだけの別物なのだとわかった。

 だが、改めて見てみるとこれはこれで悪くない。側面のパーツなど、赤から黒へのグラデーションがかかった色合いになっていてオシャレだ。それに、亮介が勧めた通りのハイカット型だ。


「おっ、お目が高いね、そこのシンデレラちゃん! そいつを選ぶとはなぁ」


 唐突に愛に声をかけたのは、桐崎だ。愛が振り返ってみると、桐崎は何やら嬉しそうに、バッシュを手に取った愛のことを見ている。


「なんとなく目についただけですけど……このバッシュ、何か凄いものなんですか?」

「ああ、そうさ。君、その身長だからCセンターだろ? そのバッシュもNBAの凄えCセンターが履いてたモデルなんだぜ」

「凄いCセンター、ですか」


 そうとも、と桐崎はしたり顔で頷いて語り続ける。


「15年間ずっと同じチームでプレイしたCセンターでね。平凡な成績だったチームを、NBAでも屈指の強豪に押し上げちまったのさ。

 216cmの身長に加えて、テクニックもスピードも超一流。ある試合のスコアなんか、34得点10リバウンド10アシスト10ブロック。NBA史上でも4人しか達成した事のない、四項目二桁記録クァドラプル・ダブルだ」

「34得点10リバウンドって……」


 愛は絶句し、先日の男バス1年生チームとの試合を思い出した。自分のスコアは4得点4リバウンドだったはずだ。

 自分たちが行った試合の数倍の時間を走り切り、プロ選手たちがひしめく中で自分の数倍の成績を叩き出したその選手は、きっと超人的な選手なのだろう。素人考えでも、それは察しがついた。

 瞳も同じような考えに至ったようで、口を開く。


「得点とリバウンドもそうですけど、アシストとブロックもって言うのが凄いですよね。世界最高クラスのオールラウンダーだったって事ですよね?」

「ああ、当時は間違いなくそうだったとも」


 桐崎の語り口は、まるで自分の武勇伝を語るようだった。瞳は感心したようにその話に耳を傾けている。


「どうだい、二人とも。決まったかい?」


 そんな会話に割り込んで来たのは、亮介だった。

 亮介に逸早く向き直ったのは、呼ばれた二人ではなく桐崎だった。その表情は、まるでダイヤの原石でも見つけたかのよう。


「やべぇぞ斎上。この子、わ。なんとなくで選んだのがこれだってよ」

「へえ、提督アドミラルか! やるなぁ、中原さん」


 やるな、と言われても。愛は反応に困るばかりだった。

 桐崎の言った事が本当なら、その選手は間違いなく超人的な名選手なのだろう。34得点という数字もそれを裏付けている。だが愛としては、直接プレイを見たわけでもない以上、リスペクトしようというほどの感情は湧いて来ない。

 どちらかと言えば、亮介のバッシュになんとなく色合いが似ていた事の方が重要なのだ。

 愛が初めてバッシュというものを間近で見たあの日の、白と赤のバッシュを履いた亮介のプレイは、愛の脳裏に強烈に焼きついている。

 自分よりも高い身長の持ち主による、人並み外れて高く、軽やかで、華麗なジャンプからのシュート。

 高いという事の格好良さを、愛が初めて知った瞬間だった。


 あのようになりたい。


 コンプレックスの源だった自分の"高さ"を、格好良さにしたい。亮介が提案してくれたその理想を信じ、格好良い高さに憧れたから、今、愛はここにいる。

 だから、愛が最もリスペクトしているバスケット選手は亮介なのだ。

 もし、エア亮介などというバッシュがあったなら。それも白赤カラーの在庫がこの店にあったなら、愛は迷うことなくそれを手に取っていただろうと――


(……いや、うん。無いかな)


 愛は一人、無言でかぶりを振った。冷静に考えてみれば、部員たちの中で自分一人だけ顧問の先生とお揃いのバッシュとか、恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。

 斎上先生のこと好きなのー? とか絶対からかわれる。

 うん、やっぱり無い。

 無いけど。

 それなら自分は何を履くのかという疑問に戻って来る。


「中原さん、それにするのかい?」


 愛の手の中にあるバッシュを見ながら、亮介が問いかけてくる。

 口調から察するに、愛がたまたま手に取ったバッシュは、亮介の目で見ても高く評価できる選手が使っていたもののようだ。

 愛が最もリスペクトしている選手から見ても、高く評価される選手のバッシュ。配色は亮介のバッシュになんとなく似ていて、そして亮介の勧め通りのハイカット型。

 たまたまこの一足が目についたのは、運命力?

 無根拠に、そんな概念を信じてみたくなった。

 だから、


「……ん。これにします」


 バッシュを抱きかかえて、愛はそう答えた。


「お買上げあざーっす。14000円になりゃっす」

「すいませんちょっとまけてください予算オーバーなんです」






 亮介が愛に代わって値切り交渉を始めた様子を、茉莉花は黙って見ていた。

 ちょっとまけてもらえば買えるらしい。

 深いため息が出た。






 交渉の結果、愛も望み通りのバッシュを買うことができた。

 慈もさきほど試し履きしていたものに決めたらしく、会計を済ませている。


「えっと、あとは茉莉花?」


 瞳が部員たちを見渡して言い、視線を巡らせる。

 茉莉花は中古品コーナーの片隅にいた。あまり積極的にバッシュを見比べているような様子もなかった。

 茉莉花は、自分に視線が集中している事に気づくと、居たたまれずに視線を逸らすような仕草を見せた。


「……氷堂さん?」

「ん、センセー……」


 亮介に話しかけられて、茉莉花は緩慢な反応を示す。


「……あのさ、やっぱりあたし、体育館履きでいいや」

「……」


 亮介も言葉に詰まった。

 金銭的な問題だという事は亮介にもわかる。彼女の家の経済状況が芳しくない事は、以前の一件でよくわかっている。予算がいくらなのかと問い質すのも残酷なのだろう。


「……正直言うとさ、こんな高い道具が必要になるって思ってなかったんだ、あたし」


 傷みの目立つ中古のバッシュを手に取って、茉莉花は言う。値札には、6000円と書かれていた。


「センセーのおかげでウチの家計、ちょっとはマシになったからさ。たぶん、母ちゃんに言えば一足ぐらいは買ってもらえると思うんだけど……」

「親御さんに話してないのかい?」

「……うん」


 茉莉花は少し躊躇ってから、頷いた。


「あたし、弟が二人いてさ。そいつらが中学に上がる時も、制服とかカバンとか買うのに結構金かかると思うし……それに、弟たちだってホントならゲームとかいろいろ欲しいものがあるの、我慢してるんだ。

 あたしだけこんなに値が張るもの買うのも、なんだな……って」


 茉莉花は、手に取っていたバッシュを商品棚に戻した。


「例えばこれがさ、教科書とか制服とか、どーしても必要なものだったらあたしも遠慮してないよ。でもそれって、学校ちゃんと卒業するのが将来役に立つからだろ?

 だけど、バスケで将来メシ食って行けるかって言ったら、できないじゃん。女子のプロバスケリーグがあるわけでもないし……あったとしても、あたしの背丈じゃプロ選手なんて無理だろうし。

 第一、金の事とか成績の事とか考えると、あたしは高校行けるかも怪しいしさ。弟たちにはせめて高校ぐらい行ってほしいから、あたしが中卒で働かないといけないかなって思ってるし……」


 そこまで語って、茉莉花はようやく亮介と正対するように視線を上げた。


「だからあたしは、金のかからない範囲で中学3年間だけバスケができれば、それでいいんだ」


 茉莉花は笑っていた。

 寂しさの上に、無理に貼り付けたような笑いだった。


「――おいおいおいおい、何だ何だ!」


 答えあぐねていた亮介の後ろから、突然声がかけられた。

 桐崎だった。


「桐崎……」

「斎上ィ。家計が苦しい子が一人混じってるってのはこないだの電話でも聞いたぜ。俺だって何とかしてやりたくて、他の店から安いユーズド品を集めといたさ。

 だけど何だよ今の話は。泣かすじゃねーか、おい! なあ可哀想なシンデレラちゃん、予算おいくらよ?」

「ごめん、店長。あたし、ほんとに電車代ぐらいしか金持ってきてないんだ。最初っから買えると思ってなくて……」


 実質、ほぼ無一文。

 さすがにその回答には桐崎も一瞬たじろいだ。

 だが、すぐに道化めいた仕草と口調を取り戻す。


「――OK、OK。いや、いいぜ。裸足で舞踏会に送り出したら、それこそ魔法使い失格だ。

 ちょっと待ってな、何とかするさ!」






「昔な、NBAで凄ぇ選手がいたんだ」


 一度バックヤードに姿を消した桐崎は、ひとつの化粧箱を持って戻って来るなり、そう言った。


「そいつは物凄い苦労人でなぁ。両親は離婚するわ、義理の親父はドラッグ中毒だわ、家は貧乏でガスも水道も止められるわ、無実の罪で逮捕されるわ。

 おまけに、バスケット選手としちゃチビの部類だった。NBA選手の平均より20cmは低かったんだからな」


 茉莉花は、黙ってその話を聞いていた。

 どこか身につまされる話だ。自分と似た――いや、父親がろくでもない分、自分よりもよほどひどい境遇だとも思う。


「にも関わらず、10年間で4回も得点王に輝いた本物のエースだった。……このバッシュは、その選手が初めて得点王の座に輝いた時のヤツさ」


 言いながら、桐崎は化粧箱を開ける。

 一瞬、茉莉花は目を奪われた。


 黒。


 光沢のある黒のバッシュだった。靴底ソールのゴムは白いが、それ以外は全体的に黒。加えて、アクセントとして配色された鋭角的な赤と黄色の小さなパーツが、黒をさらに引き立てているデザイン。

 何者にも染められず、自分の道を駆け抜ける。そんな意思を体現したかのようなシューズだった。


「……これ、いくら?」


 恐る恐る聞いた茉莉花に、桐崎はニッと笑って答えた。


「こいつは俺からのプレゼントさ。お代はいらないぜ」

「は!?」


 茉莉花は思わず大声を出して驚いた。桐崎は、してやったりとばかりの表情を浮かべている。


「まあ、半分嘘なんだけどな。斎上、この子らのバッシュの買い替えの時もウチに買いに来てくれるって事でどうだ? そしたらオマケでこの一足をプレゼントって事で」

「ああ、それはいいね。是非そうして――」

「ちょ、ちょっと待った!」


 焦った様子で制止をかけたのは、茉莉花だった。

 何事かと、亮介も桐崎も視線を茉莉花に向ける。お互いに良いアイディアだと思ったのだが、という様子で。


「……あのさ、店長。タダでいいとか言われたら、受け取れないよ。

 だって、みんなちゃんと小遣いとかから出して買ってんのに、あたしだけタダで貰っちゃったら……ズルいじゃんか」


 茉莉花は、消え入るような声でそう言った。

 亮介はそれを聞いて、はっと気づいたような表情を見せた。5人に対して公平でないやり方だった事に気づいたに違いない。


(気遣ってくれたのは、そりゃありがたいんだけど)


 きっといつものように、バスケットの事となると周りが見えなくなるという、この顧問の悪いクセなのだろう。

 とはいえ茉莉花も特段、気分を害したわけではなかった。亮介のささやかな、ご愛嬌と言ってもいい欠点だ。今まで受けた恩の方がよほど大きい。


「……けど氷堂さん、だからって体育館履きは」

「うん、わかってる」


 亮介が、怪我防止のためにと気遣ってバッシュを勧めてくれた事は理解している。わざわざ店長に働きかけてもくれた。店長は店長で、履いているだけで自分にハクがつくような良いバッシュを提供してくれた。

 何より茉莉花は、目の前のバッシュが一目で気に入っていた。

 自分と同じように、貧しく体格も小柄というハンデを背負っていた選手が、世界一の点取り屋になった時のバッシュ。シンプルな黒とエッジの利いたデザインも、いかにも実力者という感じがして格好いい。


「……だから、店長。これ、電車代除いたあたしの小遣い全部」


 茉莉花は薄い財布を取り出すと、躊躇いなく中身を取り出した。その額、1300円。


「残りはツケにしといてほしいんだ。あたし、働くようになって、金に余裕できたら、絶対ちゃんと払いに来るから!」

「Good!」


 茉莉花の言葉に、最高にいい笑顔をして桐崎は答えた。


「利息も期限もなしだ。いつか払いに来てくれりゃいい。その代わり、思いっきりプレイしてくれよ」

「うん。たぶん、中学の3年間だけだけど……」

「だーかーらー、そういうのをいちいち気にすんなってのよ!」


 桐崎はバッシュの化粧箱を閉じ、紙袋に詰める。そして、それを茉莉花に突き出すように手渡した。


「確かに君の言う通り、家庭の事情やら何やらで続けたくても続けらんなかったりとかもあるかもしれねぇよ。でもさ、目の前に好きな事があるなら、余計な事は考えずに全力でやってみなよ。

 歳食ってから思うような、バスケやって良かったなーとかなんとか……そういう"答え"は、全力で取り組んだ先にしかないんだぜ!」






 翌日の月曜日、茉莉花は誰よりも早く体育館に来ていた。

 一刻も早く、バッシュを履いてバスケをしてみたかった。

 試しにバッシュに足を通してみると、体育館履きとはまったく感覚が違った。厚い生地がすっぽりと足を包み込み、確かに足が守られていると実感する。分厚いゴムの靴底ソールのおかげで、ほんのわずかに背が高くなったような錯覚も覚えた。

 走る。そして止まる。


 キュッ!


 高いスキール音を立てて、体は一瞬にして止まった。

 凄い。

 体育館履きの時の、体が滑るような感覚はまったくない。足にブレーキ装置が備わったかのようだ。


 今度はボールを取り出し、幾度か軽くドリブルをついてから、ゴールめがけて素早く走り込む。

 一歩、二歩。そしてそのままジャンプ!

 足の裏から伝わってくる、バネのような感覚。靴底ソールに仕込まれた空気エアのパーツが生み出す弾力だ。

 いつもより高く跳べた気がした。

 当然、シュートも外れるわけがない。


 着地。


 その際の衝撃も、体育館履きでプレイしていた時よりもはるかに小さい。

 改造人間にでもなった気分だ。

 顔がにやける。自覚してもなお、止められなかった。


「おっ。早いね、氷堂さん」


 体育館入口から、茉莉花に声がかけられた。亮介だ。

 茉莉花は顔を上げた。高揚した、にやけた笑いが溢れ出ていた。


「……センセー。バッシュって、凄いな!」

「だろう?」


 我が意を得たりと、亮介もにんまりと笑った。


「ちゃんとしたバッシュも手に入れた事だし、これからは練習ももうちょっとハードに行こうかな」

「ははっ、いいよセンセー、どんと来いだ」


 茉莉花は笑って答えると、改めて自らのバッシュをまじまじと眺めた。


(ったく、店長のキザヤローめ)


 茉莉花は内心で苦笑する。昨日、帰宅後に化粧箱を開き、この黒いバッシュの名前を知ったからだ。

 答えアンサー

 このバッシュを勧めてくれた事自体が、桐崎からのメッセージだったのだ。余計な事に気を取られずに、全力でやりなさいという。


(ああ、やってやるさ)


 茉莉花はボールを拾い上げ、シュートフォームを取った。

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