#28 ダブル・ファウル

 在原美裕の父だと名乗った男性は、亮介から見て、30代半ばあたりの年齢に見えた。

 中学生の娘がいるにしては若い外見。身につけたスーツも折り目正しく、"ピシッとしている"という印象があった。


「すみません、わざわざお時間を取っていただいて」

「いえ、お気遣いなく」


 応接室のソファに、向かい合う形で座る。

 今日の面談は在原が申し込んできたものだ。生徒の保護者が平日の夕方に、それも自分から面談を申し込んで来るのは、珍しい事だった。

 保護者からこういった話がある場合、たいてい、子供の事で悩み事や相談がある場合なのだが……


「それで、お話とは?」

「はい、うちの娘の……美裕の事で」


 やはり。

 しかし、一体何を心配に思うのか、亮介にはわからなかった。

 美裕は、亮介の担任する1-Bの生徒ではない。亮介の目線では、女子バスケ部の活動ぐらいでしか美裕を見る機会はない。

 だがその活動の中で見る限り、美裕に特段の問題があるとは感じない。

 彼女は、既存の部員たちの中に違和感なく融け込むことができている。チームの戦力としても優秀だ。彼女が転校してきてくれたおかげで冬の大会に希望が見えてきたとさえ言える。

 だが、父親が、担任ではない亮介に面談を申し込んできたという事は――


「部活での事なんですが、美裕は上手くやれていますか?」

「ええ、それはもちろん」


 在原の不安を振り払うように、亮介は力強く答えた。


「他の部員の子たちとも仲良くやれていますし、選手としても優秀です。何ら問題はありませんよ」

「そうですか……」


 在原は答え、しばし黙り込んだ。

 微妙な表情だった。問題が起きてもおかしくない、しかし起こってほしくはない。その狭間で戸惑っているような。


「何か、気になる事でも?」

「……ええ」


 在原は躊躇いながらうなずき、スマホを取り出して亮介に見せた。

 カメラ機能で撮ったらしい画像。いかにも活発そうなショートヘアの少女と美裕が、笑顔で並んでいる。

 二人とも、汚れひとつない新品のシューズを履いていた。色違いのエアジョーダン12だ。


「美裕には、一緒にバスケットを始めた従姉妹いとこがいたんです」






 #28 どっちもどっちダブル・ファウル






 美裕のフローターシュートは、慈のブロックの上を越えて、綺麗にゴールの中央を通り抜けていった。


「く……」


 慈は歯噛みして、ボールを拾い上げる。

 振り向いて視界に入った美裕は、余裕綽々といった様子だ。


「もう一本?」

「当然よ」


 苛立ちを隠せずに慈は答えた。

 居残り練習と称した1on1勝負を、既に10本以上やっただろうか。どちらが何回のゴールを決めたか、既に覚えていない。

 ただ確実に言えるのは、美裕のゴール回数は、慈の倍には達しているだろうという事だ。


「在原さんもやれるでしょ、まだ」

「そうねえ。まだ時間は平気。やりましょっか」


 のんびりとした口調で言いながら、ディフェンスの位置に就く。

 にこやかだ。焦りや不安などは感じない。純粋にバスケットを楽しんでいる。

 楽しむ余裕がある事が、誰の目にも明らかだ。

 楽しくもなるだろう。あれだけ優れた能力があれば。

 慈には、それがたまらなく腹立たしかった。


 ――ダムッ!


 必要以上なほど力強くドリブルをついて、オフェンスを開始する。

 右に突破ドライブ

 美裕はディフェンスの姿勢を保ったまま、慈の進路を塞いでくる。

 スピードに決定的な差はない。

 抜けない。


(左に切り返して――)


 違う。

 今日の練習で、それで失敗したばかりだ。左手ドリブルで抜けるほど、自分は器用でも素早くもない。

 なら。


(まっすぐ……行く!)


 強引に突破ドライブ

 美裕に体を接触させ、押し合うようにゴールへ突き進む!

 押し合いは――不利。

 慈の体勢がよろめきかける。

 だが意に介さず、慈はゴールへ猛進した。

 そのまま、無理矢理にレイアップ!


(何でもいいから、入れっ……!)


 下手投げアンダーハンドのシュートフォームで跳び上がる。

 もっとも基本的なはずのシュート。フリーであれば、成功して当然のはずのシュート。

 だが今は、シュートコース上に美裕がいた。


「んしょっ……と!」


 美裕がブロックの手を伸ばしてくる。

 負けるものかと、慈は精一杯手を伸ばし、レイアップ!

 ボールは――

 弾かれ、エンドラインの外へ。

 ダムッ、と無慈悲なバウンド音。シュートがゴールに届かなかった事実を、否応なく伝えてきた。


「……」


 歯噛みする。毒づきそうになるのを、飲み込む。

 美裕は、いかにも容易い事だったと言わんばかりに、余裕の表情だ。

 このままでは終われない。

 慈は、ボールを拾い上げた。


「ねえ?」


 美裕が話しかけてきた。

 やや間延びした口調。馬鹿にしているのかと思えた。

 慈は無言で、睨みつけるように美裕へ視線を向けた。


「無理に行ってもいい事ないわよ? 正面にディフェンスいるのに」


 イラつく。

 一対一で真っ向勝負を挑んでも、無駄だとでも言いたいのか。

 ボールを持つ指が、力み、震える。


「1on1って、駆け引きでしょう? 点を取れる攻め方しなきゃ」


 そんな事はわかっている。

 オフェンスの目的はゴールを決めて、点を取る事だ。イージーシュートのチャンスを作り、それを逃さない事。それが何より大事なのだ。

 5人でやり始めたばかりの頃、亮介にそう教えられた。今更教えられるまでもない事だ。

 それも転校生に、知ったような口調で。


「……続けましょ」


 パス。

 美裕はボールを受け取って、かすかにため息。そして、ドリブルをつき始めた。

 慈は距離を詰め、ディフェンスに着く。

 今度こそはやられない。腰を落としてディフェンスの基本姿勢を取り、美裕を正面から凝視する。

 美裕は、右、左とフェイクを交え、突破ドライブしてきた。

 右――!


(止める!)


 コースを塞ぐ。

 遅れず反応できた。美裕は突破ドライブを食い止められ、踏みとどまる。

 だがすぐに、ドリブルをつき続けたまま、慈に背を向けた。

 ディフェンスの姿勢を取った慈に対して背中を接触させて、体重をかけて押し込むように――

 これは、ポストプレイの体勢!


(嫌味……!?)


 苛立ちが募る。

 ポストプレイにはいい思い出がない。以前は練習でも愛にさんざんやられたし、牧女との練習試合でも、あの態度の悪い8番にゴールを奪われた。

 今もまた、その時と同じだ。美裕は体の強さを活かして、じわじわと慈を押し込んでいく。

 脚を踏ん張るが、押される。

 食い止めきれない。

 まるで、体の出来の違いを見せつけるかのように……


(――負けるもんですか!)


 なおさら、負けるわけにはいかない。

 これでやられてしまうのは、自分が劣っている点を認めるに等しい。

 それは、スタメン落ちへの最短経路に違いない。


 ――美裕が反転、ゴールに正対。ボールを高く持ち上げ、ゴールに全身で向かうようにシュート体勢でジャンプ!

 遅れまいと、慈はシュートコースを塞ぎにいった。


(負けない……!)


 負けてはならない。もはや、なりふり構うつもりもない。

 横合いから接触する形になるのも構わず、慈は、体全体で当たりに行った。


「んッ……!?」


 美裕が驚きの声をあげる。

 慈からの接触は、ファウル気味のものだ。それも、思わず当たってしまったというレベルのものではない。

 空中で、美裕の体勢が流れる。

 しかし、美裕はシュートを放った。

 慈はボールの行方を目で追う。高いアーチを描いたボールは、バックボードで跳ね返り、リングの内側を転がるようにして……ゴール。

 視線で追えたのはそこまでだった。

 美裕と、もつれ合って――


「きゃん!」

「つっ!」


 転倒。

 硬い板張りの床に、慈は腕と手をついて倒れた。

 痛い。

 幸運と言うべきか、出血を伴う怪我はない。関節をひねった様子もなさそうだ。

 だが、床の感触は硬く冷たく、細かな汚れにもまみれていた。

 他のみんななら、決してこんな痛みは不快さを感じる事もないだろう。みんなは、もっとうまくやるはずだ。

 きっと。


「……痛った」


 美裕がゆっくりと立ち上がる。

 彼女も、大した怪我はなさそうだった。体育着についた汚れを、手で払う。


「……危ないじゃない」


 さっきまでのにこやかさが幾分なりを潜め、咎める語調で美裕が言う。


「気をつけてくれる? 本気になるのはいいけど、怪我したら元も子もないから」

「……」

「一緒のチームで、怪我とかさせ合っちゃったら、バカバカしいでしょお?」


 一緒のチーム。

 それは、確かにその通りだ。だが、どこか同意したくない自分がいた。


「来月には冬大会もあるんだし」


 その通りだ。

 わかっている。言われるまでもない事だ。突然、途中入りしてきた子なんかに。

 わかっているけれど。


「……負けたくないのよ」


 立ち上がりながら。半ば無意識に、口から出た言葉はそれだった。

 バスケットを始めてから、辛い事や苦しい事がたくさんあった。嬉しい事や楽しい事より、そっちの方が多かったとさえ思う。

 体格の不利、運動能力の不利、技術の不利。他校の選手に対してだけでなく、このチームのメンバーと比べても、自分が劣っている事を思い知らされてばかりだ。

 このままではいられない。

 自分が劣っている事を証明されただけで終わったら、何のために苦しい練習をしてきたのかもわからない。


「誰かに負けてばっかりは、もうたくさん……」


 勝者になりたい。

 そうならなくては、バスケットを始めた意味がない。

 そのためなら、少しぐらい乱暴なプレイをしてでも――何としてでも、自分の対戦相手を打ち負かす必要がある。

 自分をスタメンから追い落としそうな相手なら、なおさらだ。


「あぁ……そう」


 美裕は答えた。抑揚のない声だった。

 深く、ため息をつく。

 その様子は、慈のしゃくに障った。呆れて、馬鹿にしているように見えた。

 こっちは必死なのだ。

 人からすれば呆れるような事かもしれない。だけど、馬鹿にされるいわれはないはずだ。

 これでも、全力でやっているのだから。


「で、まだやるの?」

「やるわよ……」

「そう」


 ボールを、ワンバウンドで投げてよこされた。

 山なりの軌道で飛んできたそれを、慈は受け取る。


「じゃあ、続けましょ」


 美裕の口調は冷淡だった。

 慈はボールを手に、オフェンスの定位置へ戻った。






「――だからね、今度はこのフォーメーションを先生に提案してみようかなって思ってるの」


 電灯に照らされた部室の中で、瞳はチームメイトたちに言った。

 長机に置かれたスマホは、作戦盤アプリを表示していた。黄色い丸印が5つ、所定の位置に着いていた。


「なるほどねー、さっすがひとみちゃん!」

「いいな。中原も、どう思うよ?」

「うん、私もいいと思う」


 瞳が示したフォーメーションに、愛も肯定的な返事をした。

 瞳の説明を聞く限り、インサイドの守備が堅いチームへの対策を意識したフォーメーションだ。まさに秋の大会で苦渋を舐めさせられた、御堂坂中のような。


「あの頃から私たちも上手くなってるわけだし。新しい強みは活かさないと損だもの」

「だねっ。3P撃てる人も増えたし、在原さんも加わったし」


 愛は、素直にその意見を肯定した。

 チームの武器と言える要素が増えたのは間違いないと思う。Cセンターとして、攻守においてフォーメーションの中央からチームを見ていて、確かに実感する。

 冬の大会こそきっと、いい戦いができるはずだ。


「……っと、結構、いい時間になっちゃった」


 時計を見上げて、瞳が言う。

 そろそろ18:00。最終下校時刻だ。


「あ、ホントだ」


 愛は、少々驚いた。

 そもそもこんな時刻まで部室に残っていたのは、居残り練習をしている二人のためだ。

 亮介は来客があると言っていたし、慈と美裕は居残り練習だと突然言い出した。

 顧問が不在の状態でほったらかしにするのも良くない。

 だから、キャプテンらしい事をしようとした。せめて、居残り練習が終わるまでは待っていてあげようと。居残り練習が終わったら、お疲れ様とねぎらってあげようと。

 そのために愛は、着替えを終えたあと、部室で待つ事にしたのだ。

 そうしたら、他の部員たちもつき合ってくれた。話題が冬の大会の事になると、作戦談義が始まった。

 そうして、いつの間にか時間が過ぎていたのだ。


「じゃああたし、ちょっと様子見てくるよ。めぐちゃんたちの」

「あ、うん。お願い」


 鈴奈は席を立つと、小走りに部室を出ていった。

 時計を再び見れば、長針はそろそろ真上を指そうとしている。もはや、いつ最終下校のチャイムが鳴るかという頃合いだ。


「こんな時間まで作戦会議やってるとか、なんか、ホントにバスケに夢中になっちゃったね、私たち」


 みんな今年の春までは、バスケに興味もなかったはずなのに。


「ホントな」

「うん。本気でスポーツやるなんて、私、前は想像もしてなかったもん」


 茉莉花も、瞳も、笑い合う。

 本当に、すっかりいい仲間になったものだ。それはきっと、同じチームで、同じ目標を掲げているからだろう。


「こんな時間まで居残り練習してる二人も、頼もしいし」

「……そっかな」


 疑問を呈したのは、茉莉花。


「?」


 愛は、問い返すように疑問の表情を向ける。

 茉莉花は、少し考えた。言葉を選ぶように。


「いや、なんつーか……居残り練習頑張ってるのはわかるんだけどさ」

「うん」

「なんか、綾瀬は……あたしたちと違うとこ見てる気がするんだよな」


 違う所を見ている。

 その表現に、愛は――不鮮明だが、心に引っかかるものを感じた。


「……それ、なんとなく私もわかるかも」

「だよな、瞳?」

「うん」


 いくらか沈痛な声のトーンで、瞳も答えた。

 三人とも、何らかの違和感を感じている。ならばきっと、気のせいではないだろう。


「綾瀬さんって、5月とか6月とかの頃は……もっと楽しそうにバスケやってた気がする。シュート決まった時とか、すごい嬉しそうにしてて」

「……うん」


 このチームで、もっとも早くまともにジャンプシュートが撃てるようになったのは、慈だ。

 それを、照れながらも誇らしそうにしていた。その事を愛も思い出す。


「最近じゃ、綾瀬の奴、あんま楽しそうじゃないよな」


 ――言われてみれば。

 最初はシュート一本にさえ一喜一憂して、シュートが決まるごとに喜びをあらわにしていたはずだ。

 それが最近では、ポジティブな感情を表に出す事があまりない。

 むしろ、今のままでいいのだろうかと、疑問を投げかける事が多い。

 それはD組で学級委員長を務めているとも言う、生来の生真面目さ、厳しさによるものだろうと愛は思っていた。


 そうだったのだろうか?


 疑問を投げかける事が多かったのは、現状を楽しめていなかったからではないか。

 牧女戦では退場になった。入れ替わるように飛び入りしてきた美裕は、慈とは対照的に大活躍した。これも慈にとって面白い事のはずはない。

 そもそも牧女戦で退場になった時、慈は明らかに冷静さを欠いていた。亮介の制止も聞かず、審判に文句を言うほどに。

 よほどのストレスがなければ、そうはならないだろう。


「……うん」


 牧女との練習試合が終わって以来、慈は表面上、落ち着いて練習に参加してくれている気がした。

 ただ、口数が少なかったのは事実だ。

 それは、強い不満を溜め込んでいたから?


「……PFパワーフォワードに不向きみたいな話、気にしてたのかもね」


 瞳の言葉に、愛は記憶をたぐる。

 慈は体が細く、インサイドの勝負には不向きだ。だからこそ愛は、彼女の分までインサイドの仕事を頑張っていたつもりだ。

 それが余計なお世話――とまでは言わなくとも、"自分にはできない"と示された事は、彼女にとっては不満だったのだろうか。

 アウトサイドシュートが得意という点で、彼女はチームに貢献してくれていた。それでいいと思っていた。

 そうでは、なかった?


「……私も、様子見て来よっかな」


 なんとなく放置していてはいけない気がして、愛は、パイプ椅子から立ち上がった。

 その時だった。

 部室のドアが、音を立てて乱暴に開いた。


「あいちゃん! みんな!」


 鈴奈。

 体育館から走って来たのか、軽く息を切らしていた。その顔には、動揺が浮かんでいた。


「れ、鈴奈ちゃん。どうしたの?」

「すぐ来て、体育館!」


 余裕のない物言いから、緊急事態だという事はすぐにわかった。

 鈴奈は一度息を整えると、言葉を続けた。


「――居残りの二人! ケンカみたいになってるから!」






 慈は強引に突破ドライブを試みたが、しかし、美裕を振り切る事はできなかった。

 疲れ切った脚はふらつき、もうスピードが出ない。接触を受ければ、容易にふらつく。

 それでも、慈はやり続けた。

 ディフェンスを振り切れないまま、レイアップ。

 脚に充分な力が入らず、ジャンプもままならない。

 美裕が正面を塞いでいる。

 ディフェンスに立っていた美裕に、体が弾き返された。

 それでも、強引にシュート!

 ボールは――リングの手前に弾かれて、落ちた。

 慈の体は――


「っぐ!」


 尻餅をつく形で、倒れる。

 痛い。

 だが、少々の痛みはどうでもよかった。自分が何も達成できない事実、その方がよほどに苦しい。


「ねえ」


 ボールを回収した美裕が、見下ろしながら話しかけてくる。


「あなた、何やってるの?」


 淡々とした口調だった。

 数えきれないほどの1on1勝負によって息が切れ、頬も紅潮していたが、表情は冷淡だった。


「ディフェンスいるのに無理に行ってもいい事ないって、言ったと思うけど」

「……」


 慈は、無言で。

 美裕からの視線を受け止めながら、ゆっくりと立ち上がった。


「だいたい、なんで1on1勝負にこだわるのかしら」

「……負けたく、ない」


 言葉が、口から漏れ出る。

 何も考えていない、ただ口から出た言葉だった。


「負けっぱなしで、いたくない。何やってもやられっぱなしで、納得いかない……」


 バスケットを始めたのは、こんな気持ちを味わうためじゃなかった。

 バスケットは、もっと楽しいものだったはずだ。

 プライドを傷つけられるだけがバスケットではなかったはずだ。


「……そう」


 ボールを手の中で弄び、美裕が言葉を返した。あくまでも、平淡な口調だった。

 美裕は、またオフェンスの定位置へ戻る。

 慈もディフェンスの定位置に着いた。

 何十敗もした今、慈にはどのように美裕を打ち負かそうかという思考もなかった。

 ただ、このままでは終われない。

 その意地だけだ。


「あなたって、上手くなりたいとか、チームの戦力になりたいとか、そういうのじゃないのね」


 ボールを下段に構えながら、美裕が言ってくる。


「自分が勝った、っていう結果が欲しいだけ」

「……」

「それか……自分は優れてるんだって、自分で納得できれば満足するのかしら?」

「……そうよ」


 醜い気持ちだ。

 だけど、これ以上自分の中に溜め込んでおく事もできなかった。


「そうよ。私は人より優れていたい! 負けっぱなしなのが許せない! だから、私のポジションを取ったあんたに勝たなきゃ、満足できない……!」

「……はぁ」

「偉そうにため息ついて……! バカだと思ってるんでしょ! ええ、バカで結構よ!」


 美裕はドリブルをつき始めた。

 視界がにじみ、嗚咽で呼吸も苦しくなる中、それでも慈はディフェンスを続けた。


「バカで結構だけど、でも……! 私、そんな間違ってる!?」


 美裕は答えない。

 ゆっくりと、力強くドリブルをつきながら、ポストの位置に迫る。


「誰だって……スポーツとか趣味とか始める時って、自分が楽しいから始めるもんでしょ!? 満足したいからやるんでしょ!?」


 美裕は答えない。

 背中を慈に接触させて、じりじりとゴール方向へ押し込んでいく。

 肩越しに一度だけ慈を見てきたが、その表情からはどんな感情も読み取れなかった。


「私、楽しかったのは最初だけよ! 今は全然楽しくない! 練習が苦しいだけ!」

「……」

「体も強くない、運動神経も普通で……自主練とか頑張ってもみんなに叶わなくて! 結局才能なのかって思う事ばっかりで! やればやるほど、私はダメだって思い知らされるばっかりで……!」

「……」

「バスケットなんか始めるんじゃなかったって、思いたくなくて……!」


 ポストからの突破ドライブ

 美裕がゴールへ切り込んできたのを、慈は止めようとした。

 コースに割り込む。

 ふらつく脚が言うことを聞かず、出遅れる。

 それでも、ブロックを試みる。


 ――だんっ!


 美裕が力強く床を蹴り込む音がした。

 両足跳びで、体全体でゴールへ向かうような姿勢の――パワーレイアップ。

 ブロックに行った慈と、接触。

 慈は――軽々と押しのけられた。

 よろめき、倒れる。

 顔を上げる気力もなかった。

 ボールがバックボードに当たり、ネットをくぐった音が聞こえた。

 ボールが床で跳ねる音。

 ボールはその場で何度かバウンドして……やがて静止した。


「……」


 言葉が出なかった。

 体は満身創痍だけど、全力で勝負したつもりだった。気持ちも、これまで自分の心にしてきた蓋を空けて、ありったけをぶちまけた。

 でも、負けてしまう。

 どうしても。


「――結局、あなたって」


 やっと美裕が声をかけてきた。

 顔を下げたままの慈に、美裕の表情は見えなかった。だが少なくとも、声音は冷淡なままだった。


「自分の事しか考えてないのね」






達美たつみちゃんという子で……私の兄の娘なんですけどね」


 スマホの画面に目を落としながらも、どこか遠いところを見るように在原は言った。

 寂しさと、後悔。それらを、向かい合っている亮介も感じ取る事ができた。


「達美ちゃんが美裕を誘って、一緒にバスケットを始めたんです。中学に入った時に」

「シューズは、その時にお揃いのものを?」

「ええ、私と兄がそれぞれお金を出して。あの頃は、本当に二人とも楽しそうだった……」


 スマホの画面の中で、二人は満面の笑顔だった。

 カメラに向かってピースしている二人は、真新しい、色違いのシューズを履いている。


「楽しそう"だった"……ですか」


 過去形だ。

 それを強調した亮介の言葉に、在原はうなずいて応えた。


「従姉妹だし、家も近かったので、小さい頃から実の姉妹のように仲が良かったんです。中学に上がってすぐ、一緒に女子バスケ部に入って……休日も二人で、ゴールのある公園で練習していたりしたんですよ」


 在原はそこで一度、言葉を区切った。

 天を仰ぎ、しばし無言。それほどまでに、思い出すのが躊躇われる事だという事は、亮介にもわかった。

 続きを促す事なく、次の言葉を待った。

 たっぷり10秒以上かけて、在原は視線を亮介の方へ戻した。


「……達美ちゃんは、本格的にスポーツを始めたのは、中学のバスケ部からでした」


 ――美裕は、体操競技の経験者。それは亮介も耳にしていた情報だ。

 体幹の強さ、柔軟性、スタミナ。それらが、の子たちと比べると格段にハイレベルだ。それらを活かした独特の技も併せ持っている。

 つまり。


「下地が違った、と?」

「ええ。最初はあんなにも楽しそうだったのに、すぐに実力の差がついてしまって。達美ちゃんはだんだん、美裕にかなわなくて悔しいとか、辛いとか、そういう言葉を口にするようになって……」

「……それは……」


 当然の結果だ。

 美裕は子供向けのスポーツクラブで、2年ほど体操競技をやっていたという。基礎身体能力を2年間も鍛えてきた子に、素人あがりの子でかなうわけがない。

 当然の結果――なのだが。


「ある日、達美ちゃんが大怪我をしたんです」

「大怪我……?」


 問い返す亮介に、在原はうなずいた。ゆっくりと、沈痛に。


「……きっかけは、夏の大会が終わって3年生が引退した後。2年生中心のチームになって、初めての練習試合でした」


 よくある事だ。亮介はその話を、ごく自然な流れと受け止めた。

 夏の大会は、3年生にとっては中学最後の大会。その大会が終わった後、ひとつ下の学年の子たちの世代が主役となる。

 チームとしても主力メンバーが一新され、新しくチームとしての形を構築し始める時期だ。

 だからこそ早い段階で練習試合を組み、新しいチームを実際に動かしてみるという試みは、妥当な考えだと納得できる。

 この秋には亮介自身も、瀬能中に対して、そのタイミングを狙って練習試合を申し込んだのだから。


「美裕はその試合で、2年生たちに混じって試合に出させてもらえたんです。しかも、それなりに結果を残す事もできました」

「わかる気がします。あの子は、優れていますからね」

「……ありがとうございます」


 在原の返答に、嬉しそうな色はなかった。

 我が子の事を褒められた嬉しさを打ち消してしまう、その正体は――


「……でも、達美ちゃんにしてみれば、悔しかっただろうなと思います」


 美裕の従姉妹の事。


「……そうですね、悔しいでしょう」


 会ったこともない少女の気持ちを想像して、亮介はそう答えた。

 自分のすぐ近くにいるプレイヤーが、あっという間に上達し、試合で活躍している。焦りや苛立ちがあっても不思議ではない。

 それが自分と血縁関係にある従姉妹なのだから、"才能の違い"という言い訳もしにくいはずだ。


「その試合の少し後、公園で一人で練習してる達美ちゃんを見かけました。確か、夜の20時近い時間だったと思います」


 中学生の女の子が一人で出歩くには、遅い時間だ。


「家まで送ろうかと思って、声をかけたんです。けど、拒まれました。まだ練習し足りないからと」

「……」

「"美裕を倒すんだ"、と。達美ちゃんがそう言ったのを、私は忘れられません」


 在原の言葉に、亮介は答えられなかった。

 そもそも夜の20時まで練習すること自体、オーバーワークも甚だしい。だが、それ以上に何よりも――


「一緒に始めたはずのバスケットが、二人を引き裂いてしまった。……シューズを買い与えて、バスケットをやる事を許可したのは、正しかったのか。今、少し自信が持てていません」

「……」

「達美ちゃんが怪我をしたのは、部活の練習中での事でした。美裕に無理にぶつかって……脚を骨折したんです」

「骨折……」


 あってはならない事だ。仲の良かった二人が、バスケットが原因で刺々しい関係になってしまい、しまいには大怪我に繋がるなど。

 部活は教育の一環だ。そうでなくとも、亮介は一個人としてバスケットを愛している。

 だからこそ――バスケットが原因で、子供たちの関係が険悪になってしまったという事実が、看過できない事に思えた。


「そんな事があって、美裕が前の学校にいづらくなって、転校の手続きをしました。……そんな事件があったものですから、美裕も転校先でバスケットを続けるかどうか、迷っていたみたいです」

「迷って? あの子は、練習試合に飛び入りしてくるほど積極的でしたが」

「私が背中を押したんですよ。またバスケットをやりたいなら、遠慮するなって。例の事件だって、美裕が悪いわけではなかったんですから」


 美裕が悪かったわけではない。それはその通りだ。

 話を聞く限り、美裕は純粋にバスケットを楽しみ、そして体操競技で培った基礎身体能力を武器として活躍していた。

 その美裕に対して、達美が嫉妬していただけに聞こえる。その嫉妬も人間らしい感情と言えるが――いずれにしても、美裕に非があるわけではない。


「美裕は、今でもバスケットが好きなんです」


 在原は、膝の上で拳を握り、顔を上げて言った。


「親としてあの子には、好きな事を目一杯やってほしい。だからどうか、先生。あの子が過去の事件に苛まれないような、楽しい部活をさせてやってください」






 愛たちが体育館に到着したとき、慈と美裕の居残り練習は終わっていた。

 慈が床に座り込むように倒れており、それを美裕が無表情に見下ろしていた。


「……何よ、"自分の事しか"って」

「言葉通りよ。あなた、自分が楽しくないって、それだけじゃない」


 二人の口調は、淡々としていた。

 だが、決して相容れない何かがある。会話を途中からしか効いていない愛にも、それは感じ取れた。


「楽しかったり、気分が良かったり……そういうのがあるから部活やるんだろうっていうのは、まあ、私もそう思うわ」

「……」

「あなただけじゃない、私もそうよ。私もバスケットが好きだし、やってて楽しいからこの部に入れてもらったの。そこはたぶん、あなたと同じ」


 愛は、二人の間へと小走りに進み出始めた。

 あまりに淡々としていて、いつものおっとりとした様子が感じられない美裕に。何の感情も感じられない慈に。危ういものを、愛なりに感じ取っていた。


「バスケットを楽しもうとしてるのはみんな一緒。上手くいかなければ悔しいのも一緒。私って負けず嫌いだもの、上手くできない時は自主練とか頑張って上手くなってきたわ。そういう風に前向きに頑張れる人同士だから、"チーム"なんじゃない」

「……」

「あなたは何? みんな頑張ろうっていう練習の場で、一人のイライラを振りまいて。しまいには、怪我したりされたりするような無理矢理なプレイして。そんなの、ちっとも"チーム"じゃないじゃない」

「……」


 慈は、何も答えようとしなかった。

 ただ、それ以上言葉を交わさせてはいけない気がして。


「在原さん、ちょっと待っ……」


 愛が、割って入ろうとするよりも早く。


「あなたが上手くいかないイライラを、私にぶつけないでくれるかしら。迷惑だから」


 その言葉は、美裕の口から出てしまった。


「……」


 慈はうつむいたまま、何も答えなかった。

 やがて、ゆっくりと立ち上げると、黙って体育館の出入口へと歩き出した。


「ねえ、ちょっと……!」


 愛は、慈の行く手を遮って引き留める。

 慈は緩慢に顔を上げた。

 無表情だった。

 居残り練習をしていたはずなのに、努力の達成感も、バスケットを楽しんでいる気持ちも、もっと上手くなりたいという焦りや苛立ちさえも、そこにはなかった。

 ただ、真っ赤な目が、泣いていた事を雄弁に語っていた。


「綾瀬さん、何があったの?」

「……何も」

「何もって事は……」

「どいて」


 慈は、愛を押しのけた。

 練習中の身体的接触フィジカルコンタクトであれば、愛にとっては物ともしなかった相手のはずの慈。しかし、やんわりと押しのけようとしてきた手は、拒絶の意思があまりにも明確で。

 愛はその場から一歩、後ずさった。

 その横を、慈が通り過ぎていく。

 体育館の出入口に向かって、躊躇なく歩いていった。


「め、めぐちゃん! ちょっと待ってよ!」

「綾瀬! なあ、おい……!」


 鈴奈たちも、慈を追っていく。

 そうして、体育館から姿を消していった。

 後に残ったのは、愛と、ボールを持ったまま立ち尽くしている美裕だけ。

 美裕は――


「……はぁっ」


 深くため息をついて、体育館の端のボールケージにボールを放り投げた。


「なんで、こうなっちゃうのかしらねえ……」


 かすかな呟き。

 それは、悲しみの色を帯びていた。






 帰宅した慈は、母親に対して機械的に"ただいま"の一言だけを告げて、自室に向かった。

 そのまま、ベッドに倒れ込む。

 制服の下で汗がべたつく感触があったが、そんなものはもうどうでも良かった。


『自分の事しか考えてないのね』


 美裕の言葉が、刺さったままだ。

 図星だと自覚はしている。

 今の自分はわがままだ。本当なら冬の大会に備えて、チーム一丸となって勝利のために努力するべきだと、頭ではわかっている。

 頭ではわかっているからこそ、考えれば考えるほど、自分の存在意義が見出だせなくなっていく。

 明芳中女子バスケ部というチームの中で、自分一人だけ、何ひとつ秀でたものを持っていない。

 チームの勝利を最優先するのなら、慈はおとなしくスタメンの座を譲るのが最適解という結論になってしまう。


(私……そんな事するためにバスケットを始めたんじゃない……)


 人に負けたり、譲ったり。そんな事をするのが目的ではなかった。

 楽しみたかったし、勝ちたかった。それは個人の力比べや成長という意味でもそうだし、チームとしてもそうだ。

 でも、負けてしまう。

 どれほど努力しても、結果が追いついてこない。

 努力して乗り越えようとすればするほど、空回りばかりしてしまう。


(どうして……)


 愛のような体格がない。

 茉莉花のようなセンスがない。

 瞳のような頭脳がない。

 鈴奈のような敏捷性がない。

 美裕のような体の強さがない。

 言ってしまえば、おそらく、。だから、努力しても芽が出ない。

 背が人並みより少し高いぐらいで、体は細く、運動神経は並み。頭だって良くはない。勉強の成績がいいのは、平凡な頭に頑張って詰め込んでいるからだ。


(……勉強……)


 目を開ければ、勉強机が目に入った。

 中学の入学直前に父から渡された参考書が、ブックエンドにもたれている。


(……勉強とか、テストなら)


 勉強すれば勉強しただけ、テストの点や偏差値に反映される世界だ。

 やればやっただけ、やらない人に勝てる。点数で、自分の成長も具体的にわかる。

 技術を学んでも体がついて来なかったりするスポーツとは、違う。


(……もうこれ以上、惨めに負けたくない……)


 自分は、バスケットに向いていない。

 どんなに努力しても、芽が出ない。勝負に負けてしまう。チームメイトに置いていかれてしまう。そして、追いつける気がしない。

 人たちだって努力しているのだ。明芳中のみんなもそうだし、他校のチームの子たちもそのはずだ。自分が追いつくには、どれほどの努力が必要?

 きっと、非現実的な時間が必要だ。

 1日は24時間しかない。授業や食事や睡眠の時間もある。そうして余った1日数時間を、すべて練習に費やしたとして――

 それで、人たちの1日2時間の練習に勝てるのか?

 勝てる気がしない。

 だからきっと、自分が彼女たちと同じステージで戦う事は、現実的に無理なのだ。


「……っく。ぅ……」


 もう、辞めてしまおう。

 勉強に専念しよう。

 勉強なら、努力しただけ結果になる。バスケットと違って、努力した時間が無駄に終わる事はない。

 猛勉強して、運動部の子たちじゃ入れないような偏差値の高い高校に入って、いい大学に行こう。

 あの子たちにはできないような事をやるのだ。それで満足だ。

 学歴バカの父も、きっと喜んでくれる。

 チームのみんなも、ヘタクソに合わせた練習をせずに済むようになって、万々歳だ。


「う、ぐ……うう……!」


 涙が溢れてくる。

 シーツを掴み、ベッドに顔を埋めた。

 涙なんか溢れて来るはずがない。自分は、自分が勝負できるステージへ行くのだから。

 努力しても報われない場所を抜け出して、勝利と成功へ繋がる道を歩み出す事にしたのだから。

 だから、嬉しいはずなのだ。

 喜んでいなくてはいけないはずなのだ。


「うあああああああ! ああああああああああああああ!!」


 慈は泣いた。声を抑えずに泣いた。

 明日からはもっと輝かしい日々を送る。惨めな気持ちになるだけだったバスケットに、未練なんかない。

 だから、今だけは。

 今だけは、やりようのないこの気持ちを解き放った。

 すべて涙とともに、洗い流されてしまえばいいと。






 翌日、慈は、退部届を提出した。

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