第34話
緑茶を飲むのは久しぶりだった。木崎が出してくれるのは、紅茶かほうじ茶のことが多い。テーブルの上には大きな菓子鉢。いろんなお菓子が入っている。どら焼きに、栗のお饅頭に、クッキーに、マドレーヌ、それからきんつば。見慣れた光景だった。すっかり忘れていたけれど、成瀬のおうちはいつもこうだった。来客が多いので、いつもたくさんお菓子が置いてある。
「ゆすらちゃんほんとにごはん大丈夫?」
おばさまの言葉に微笑んで首を振る。おじさまは今フランスなので、食事は各々勝手に済ませているのだという。崇だけじゃなく、成瀬の人はあまり食べない。そんなことも久しぶりに思い出す。みんな痩せていて、おばさまはいつ訪ねても真っ黒い髪をきちんと結って、濃い色の口紅をはっきりと輪郭をとって塗っている。
「大丈夫です」
「そう? おなか空いたらすぐに言ってね。たいしたものじゃないけどすぐに出せるものがいくつかあるから」
私は笑ったままうなずいた。また、小さな子供の気分になる。私も青葉もよく食べるので二人で泊まるときにはたくさんたくさん食べ物が出てきたものだ。崇に太るぞと言われながら、私はもぐもぐとおばさまの手料理や、いただきものだという高い缶詰を食べていた。成瀬のおうちのごはんはなんだか不思議な味がした。おいしいけれど、いつでも舌になじみがないような、よそ行きの味。崇の育った家のごはん。
「でも今日は、さすがにゆすらちゃんも手がつかないわね。何かテレビでもつけましょうか」
うなずく前に、骨ばった手首が伸びてリモコンを取り上げ、テレビをつけていた。おばさまの爪は赤く塗られていた。子供のときからずっとそうだ。今も多くはないが、私たちが小さいころはそういうふうに装っている子供がいる女性というのは本当にとても少なくて、私はとても素敵だと思っていた。おばさまの化粧と香水の混じった複雑な香りや細い足首に似合う高すぎるヒールは、私に大人になるということへの期待を植え付けた。実際のところ、私のような子供がいくら時間を与えられたところで、そんな大人になれるわけでもなかったのだけど。崇が崇のまま大人になったように、だいたいみんな子供のころのような大人にしかなれないのだ。
あの頃は、そんなことは知らなかった。知らないことが多すぎた。
テレビはアニメをやっていた。家族向けの、小さな子供とそのペットの猫が主人公のアニメだ。三人ともなんとなく言葉もなく、画面を見ていた。三人の気分とテレビの画面の明るさも音の軽さも全然合っていなかったけれど、全然合っていないものが流れているほうが、なんだかましな感じだった。私はお茶をほんの一口飲んだ。
「ゆすらちゃん」
おばさまが突然、でもしばらく口を開くべきときを伺っていたんだろう、というやり方で言った。
「はい」
「おうちの人に電話しなくて大丈夫?」
おばさまと、それから崇も私を見ていた。
「大丈夫です」
どうしてだか、普段とは違う声の出し方で、そう答えていた。普段とは違うけれど、成瀬のおうちにいるときは、いつもこういうふうに話していたのを、思い出す。島田さんの家のゆすらちゃんの声。今の私は、こんなふうに話すことはもうなかった。いつからだろう。装っているとも意識しなかった装いを、しなくなったのは。
「もしとれても、会見はしないって言ってあります」
設楽さんがどういうか心配だったのだけれど、思いのほか快く受け入れられた。平凡な会見をするよりは、会見をしないほうが、宣伝になると言ってくれた。真意がどこにあるのかはわからないが、ありがたいことではあった。ありがたいことではあったが、そもそもなんで会見をすることを前提にされているのかという理不尽はあった。私がほしいからと挑んだ賞でもないのに。
「じゃあゆすらちゃん、自分が取ったってニュースで知る羽目になるってこと?」
「時間的にはそろそろだな」
崇が時計を見上げて言う。私がとると決まったわけではないのに。そんなにほしいと思っていなくても、どうせならほしい、と期待してしまいそうになるのを抑えて、笑う。賞と私との間に、距離があるような顔をしておきたい。
「ニュースやってないかしら」
おばさまがチャンネルを変える。崇が何種類も置いてある新聞の一つを取り上げてテレビ欄を見る。先におばさまがニュースをやっている局を見つけた。
「これにしておきましょうか。ゆすらちゃん、大丈夫?」
「はい」
「どうせお前だから緊張することないだろ」
「崇」
「ゆすらじゃなかったら謝ってやるよ」
「たかし」
笑ってしまう。おばさまに窘められ、私に笑われて、崇はかすかに唇を尖らせる。
「でも、お前だよ」
呆れた顔で口を開きかけるおばさまよりも、先に言う。
「ありがとう」
崇は小さくうなずいて、そっぽを向いてしまった。謝るところが、少し見たくなった。本当に謝ってくれるような気は、あまりしないけど。
気持ちはずいぶん楽になっていた。どちらでもいい、と本当に思った。取れなかったら謝らないまでも、崇は落ち込むだろう。それはそれで楽しい。
そのとき、電話が鳴った。
成瀬の家の電話は、昔ながらの黒電話だ。ベルが忙しない音を立てる。三人で視線をやりとりして、おばさまがすっと立ち上がった。
「はい。成瀬ですが」
相手の声を聞いて、おばさまはよそ行きの態度を少し緩めた。
「ああ、はい。来てますよ」
受話器を手を抑えて、私を見る。
「ゆすらちゃん、旦那様」
その瞬間、この状況のすべてがたまらなく後ろめたくなる。けれどそれを感じていること自体も後ろめたくて、私は平気な顔で立ち上がり、受話器を受け取った。
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