第4話
パーティーで躓いて、気持ちがめそめそとしてしまって、二週間ほどになる。幾分回復したけれど、まだふとしたときに、気持ちが重くなる。それでも締め切りが気持ちを察して動いたりはしないので、気持ちが塞いだまま、原稿を書いている。軽やかで愛らしい短編小説、というのを書くつもりなのだけれど、何しろ気持ちが塞いでいるので、書いているときに気持ちを無理に持ち上げなくてはならず、疲れる。ピンクの服を着たり、木崎に買ってきてもらったピンクの小さな薔薇を飾ったりして、どうにか軽やかで愛らしい気持ちに、なろうとしている。
「ゆすらさん」
ぼんやりしていたところに声がかかって、びくりとする。
「なあに」
怠けているのが気まずくて、姿勢を正そうとして、だがそれも癪なので、組んだ腕から顔を上げずに尋ねる。どのみち、戸の向こうの木崎に私の姿は見えないのだが。
「お茶しませんか」
木崎の声は、どこか得意げな響きを持っている。私は起き上がり、戸を開いた。
スコーンはレーズンが入ったものと、何にも入ってないもの。添えられているのは、クロテッドクリームとイチゴのジャムだった。台所は、バターと砂糖の焼けた匂いで満ちている。気づかなかったのが不思議なぐらいだ。うっとりするような、香ばしく素敵な匂い。
「焼いてたんだ」
「焼けるかな、と思ったので、ちょっとやってみました」
木崎の顔は、やっぱりどこか得意げだ。紺色の地の厚い大きなカップに、揃いのポットから紅茶を注いでくれる。円い水面に、夕日色の波が立つ。
「これ、素敵なティーセットですね」
「母がイギリスで買ってきたやつだと思う」
「へえ。それはそれは」
「あんまり使ってなかったけど」
久しぶりに見たので、そんなものがあることさえ私も忘れていた。
「あまり紅茶は飲まなかったんですね」
「そうだね。父はコーヒーのほうが好きだった」
母は時々ケーキを焼いてくれた。生地のずっしりとした素朴なチーズケーキや、チョコレートケーキ。焼くのはいつも夕食の後で、焼けたら家族四人で食べた。そういうときも父に合わせてコーヒーだった。幼い頃は、牛乳と混ぜて。高校生になる頃にはブラックで。私も弟は特にコーヒーが好きだったわけではないが、父と同じものを飲む、ということに意味があった。私も弟も、父が好きだった。大好きだった。
湿った気持ちがまた戻って来そうになったので、手を合わせていただきます、と言った。木崎も席についている。スコーンを手で割ると、湯気が指に当たった。何もつけずに一かけら口に入れる。ざくざくと生地が、あたたかく甘く崩れていく。
「おいしい」
「よかった」
クロテッドクリームをたっぷり乗せて、もう一口食べる。つめたいものとあたたかいものを一緒に食べるのには、何か刹那的というか、儚い奢侈を感じるので、好きだ。甘くなった舌に、紅茶の苦味が快い。
あっという間に、私の皿は空になる。その間木崎は半分ほどスコーンを食べただけで、面白いもののように私を眺めていた。目線が合うと、小さく微笑んで、カップにもう一杯紅茶を注いでくれた。
「まだありますけど食べますか?」
誘惑されたけれど、首を振った。
「夕飯、食べられなくなるから」
木崎は頷く。
「今日は肉じゃがにしようと思って。新じゃがで」
「あとは?」
「あとは、おたのしみです」
「はい」
楽しみだ。
紅茶の香りを吸い込んで、胸郭を満たす。お腹と鼻と舌が満ちていて、幸福だな、と思った。幾分軽やかで、愛らしい気分にも、なった。夕食まで原稿を頑張ろう、と、柄にもないことを思った。
「木崎さん」
「はい」
「がんばるね」
木崎は微笑んで、
「じゃあ、僕も頑張ります。料理」
と言った。楽しみだ。
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