第32話

 手紙を、読んでいない。

 たくさんの手紙が来る。あの本を出してから、たくさんたくさん手紙が来る。封を切っていない手紙。私はそれを分類して楽しむ。住所とか、封筒の色とか、柄とかで。かわいらしい封筒のものが多い。シールで今にもはがれそうに封をしているものもある。まだ幼い子がくれた手紙かもしれない。読まずに、眺めて、空想して、分類して、楽しむ。封を切るのが、楽しみで、でも、恐ろしいのだ。一度味わったいやな気持が、楽しみを邪魔する。いやな手紙のほうが、少ないのに、べったりとその痕跡が、落としにくい場所にもしみ込んでいる。

 といっても気分の落ち込みは、だいぶんましになった。もうあまり暗い気分には、ならない。ならないけれど、落ち着かない。いつも、ふわふわとしている。自分のかたちやありどころが定まらないような。何かしたくて、でも何なのか決めかねて、ぼんやり、時間が流れていく。短い文を思い付きのように書き散らして、でもまとまったことを一つも始められない。浮かれているのかもしれない。あんまりよくわからない。本が売れて、今までで一番売れて、書評でもたくさん褒められて、手紙もたくさん来て、賞の、候補になった。日本で一番有名な、大衆文学の賞だ。初めて候補になった。五作選ばれたうちで、私が一番若い作者だ。なんだか、信じられない。この賞どころか、大きな賞の候補になること自体が、初めてなのだ。そういうところとは、全部縁がないと思っていた。

 私は父の娘で、そのうえ比較的若いものだから、騒がれている。いろいろなことを、言われている。悪いことも、いいことも。悪いことのほうが、たぶん多い。でも、今はあまり気にならない。傷つく隙が、今の私の心にない。ふわふわふわふわ置き所がなく、いろんなところを動き回っている。喜んだり、傷ついたり、そういうはっきりとした気持ちを、持てないまま。

 一つ一つの封筒の形や柄を見慣れて、住所も字のかたちを目が覚えてしまった。新鮮さのない花のようになった手紙をひとまとめにする。くったりした花束のような手紙たち。読めば、またひとつひとつが生き生きとするだろうか。

 考えてみれば、私は本の作者に手紙を送ったことはない。半ば仕事上の付き合いだったり、知り合いの間柄で、ということは何度かあったけれど、一面識もない、ただ好きな物語を紡いだだけの人に、何かを伝えようと考えたことはなかった。この人たちには、私に伝えたいことがあったのだ。それをうれしく尊いことと感じるけれど、うまく受け止めることが、やはりできない。文机に頬をぺたりとつける。ふわふわする。落ち着かない。落ち着きたい。でも、落ち着くのが怖い。いずれ落ち着かなくてはいけないと感じていても、それが今なのは嫌だ。全部、先送り。いいことも、悪いことも、全部。

 本を読もう、と思って、でも面白すぎるものを読むのがいやで、でもつまらないものを読むのも、もちろん嫌で、それでショートショートばかり読んでいる。崇なんかは馬鹿にするのだけれど、私はショートショートが好きだ。応募されたものを作家が選んだアンソロジーを何冊も買っている。文字でできたパズルみたい。収まるところに全部収まって、なるほど、と思って、それでおしまい。書いている人がそれぞれ違うので、文にも、出てくるものにも、新鮮さがあって、飽きない。いろんな人の作る小さな物語。時折、びっくりするほど出来がよいものもあって、作者の名前を憶えておいたりすると、しばらくしたら、作家になっていたりする。そういうのも楽しい。ちょっとしたことではあるけれど、楽しい。ちょっとした楽しさというのは、とても大切なものだ。本質ではない、飾りのようなもの。でもそういうものがなくて、どうやって生きていけるのだろう。

「ゆすらさん」

 名前を呼ばれて、振り向く。寒くなってきたので、いつの間にか体をずいぶん縮めていた。わずかに開いた戸の向こうに木崎がいる。

「おやつできましたよ」

 うなずいて、立ち上がる。暖められていない空気が触れて、ぶるりと震えた。


 ホットケーキだった。丸くて、分厚くて、きつね色の。

「ホットケーキだ」

 口に出すと、ぱちん、と、その言葉は現実に定着した。ホットケーキは現実だった。甘い香りも白い湯気も、上にのった溶けかけたバターも。真っ白いお皿の上のホットケーキ。飲み物はココアだった。白い細かい泡が茶色の上に模様を作っている。

 メープルシロップをとろとろかける。いい匂い。

「冬のおやつだね」

「寒くなってきましたからね」

 一口分に切って、噛り付く。バターと卵の香り。ふんわりした生地。次の一口は切り取ってから、口の中に運ぶ前に唇につけてみた。ふわふわした生地から出てくる湯気を唇で楽しんでから、食べる。

「おいしい」

「今日は自信作なんです」

「分厚い」

「はい。頑張りました」

 木崎は自分の分を焼きに行く。私はココアを一口。ホットケーキとココア。なんだか絵本の中の子供になったような気持ちだ。ふうふうとのんびり息を吹きかける。ふわふわとして、落ち着かなかった気持ちが、落ち着いく。それで、変な姿勢でいたので変な筋肉が痛むような、疲れのようなものが心に溜まっていたことに気づく。疲れたな、と、ココアを飲む。疲れた場所にしみるような甘さ。疲れて、癒されて、また疲れて、癒されて。こんなふうに生きて、この先もそう生きる。ふわふわとした心が落ち着いたのが、冷たい場所だったことに、気づく。私はどうして、こんなふうなんだろう。もっと簡単な生き方が、ありそうなのに。どうしてそう、生まれつかなかったんだろう。私という体と心を、気にしなくていいような生き方。そういう人だって、たくさんいるはずなのに。どうして私は、そうなれなかったんだろう。

 つめたい気持ちを溶かすように、ホットケーキを体の中に取り込む。たっぷり分厚くて、分厚いぶんたっぷりあたたかくて甘い、ホットケーキ。お腹が重たくあたたかくなる。お腹がほっとしているけれど、頭の中がまだつめたい。もう一口。ゆっくり噛みしめる。溶けたバターとシロップがしみて、予期していたのに驚くほど甘い。その瞬間は、甘さだけに脳みそまで浸る。

「失礼」

 木崎が自分の分をもってやってくる。ほわほわと湯気の立つホットケーキとココアのカップを持った、静かな佇まいの男。木崎がいると、寒さがゆるむ。私はほのかに安心してしまう。誰といても、一人でいても、思い出の中でさえ、硬い場所が、木崎といると、ゆるんでしまう。そんな場所がゆるむのだとさえ、知らなかったような場所。

 木崎はホットケーキにナイフを入れる。木崎のものは、きれいに焼けてはいるけれど、私のほど分厚くない。

「分厚いの好きじゃないの?」

「好きですけど、焼くのがちょっと大変なので」

 予想していなかった答えに、胸が詰まった。シロップでびしゃびしゃで食べかけの、分厚いホットケーキ。私のホットケーキ。

「私分厚いの、好き」

 詰まりながらそう言った。木崎はくるりとシロップをケーキにかけて、ナイフを静かに入れた。

「知ってますよ」

 胸に詰まっていたものが、熱くなる。胸が熱くて、そこから広がって、肩や腰や足先が痺れた。この痺れを、幸福と呼ぶのかもしれない。ココアの湯気を鼻先に受けながら、そう思った。

 痺れた指先で、ナイフとフォークを操って、ホットケーキを食べる。木崎も私も黙って、ゆっくりと、食べる。私のお皿が空っぽになって、ココアを飲み終わっても、まだ私はそこで、痺れたような気持で、食べる木崎を眺めていた。眺めるというつもりもなく、ただ自然に。ただそこにいて、そこにいたから、眺めていた。木崎はおいしそうに、ふっくらした生地にシロップとバターを丁寧に絡めて、口に運び、しっかりと咀嚼する。その動作を繰り返すことで、お皿の上のケーキは着実に減っていく。当たり前のことだ。当たり前のことを、当たり前じゃないような気持で、眺めた。私の中のケーキ。木崎の中のケーキ。私たちは同じようなものでできている。私の手と、木崎の手、私の唇と、木崎の唇。全然違うのに、同じようなもので。

 一年。ふと、浮かんだ。今日の日付を思い出そうとする。難しい。

「ねえ」

 木崎は口の中のものをゆっくり飲み込んで、はい、とこちらを向いた。

「もうすぐ一年だね」

 ふ、と木崎の顔が緩んで、微笑みをつくる。

「お気づきになりましたか」

 それで、木崎はずっとわかっていて、黙っていたのだ、と知る。私がふわふわしている間、木崎はちゃんと、一日一日きちんと過ごしていたのだ。私がどれだけふわふわ落ち着きなくても、木崎は木崎のままで、私を待っていてくれるのだ。

「何か、ほしいものある?」

 そう聞いたのは、後ろめたかったからかもしれない。木崎は予想外だったようで、わずかに目をいつもよりも大きく開き、それからいつもの笑顔になった。

「どうしましょうか」

「ゲームでも買う?」

 真面目に尋ねたのに、木崎は声をあげて笑った。でも例えば、私は木崎の好きなものを、あまり知らないのだった。料理。ゲーム。そのぐらい。でも料理に関する何かを喜ばせるためにあげるのは、無神経だろう。無神経というか、恩着せがましい。それは私も食べる料理なのだから。

「ゲーム買ったら、一緒にしますか」

 尋ねられて、困惑した。一緒にするという発想が、私にはなかったから。

「一緒にしたい?」

 聞き返してしまい、自分で自分を卑怯だと思った。木崎に選ばせるかたちにするのは。そして私が予想した、あるいは期待した通り、木崎は首を振った。微笑んで。

「二人でどこかに行きましょうか。落ち着いたら」

 ぴったりと私の都合に合うことを言う。木崎がそれを選んで口にしたのか、私がそれを選ばせたのか。本当は、私は、ふわふわとしては、いけなかったのではないか。私がふわふわしている間もずっと、木崎がしっかりとしているのは、木崎がそういう人間だからではなくて、そうでしかいられないからではないか。二人ともふわふわはできなくて、でも、ふわふわしてもいい方の立場は、私だけなのだ。どうしてだろう。これが答えだ、というものの感触はあるけれど、それを、言葉としてまとめることができない。うまくとらえられない、というだけではなくて、それを、とらえたくない。これもまた、ふわふわ、している。ふわふわ、できるから。

「木崎さんは」

 居心地が悪くて、口を開いた。木崎は促すようにかすかに首を傾げた。穏やかな木崎。いつでも穏やかに私を待っている。

「私にいらいらしたり、しないの」

 まただ。どうして、こんなことを聞いてしまうのか。卑怯だ。

「しませんよ」

 木崎は優しい。穏やかで、落ち着いていて、いらいらしたりしない。いらいらしないと、約束してくれる。我が家は何もかも行き届いていて、分厚くておいしいホットケーキを焼いてくれる。そのことが、ずっしりと重くて、息苦しい。息苦しくなる自分が、後ろめたくて、余計に、息苦しい。何もかもすべて、私のせいなのだった。木崎は悪くない。木崎は正しい。木崎が正しくなかったことなど、一度もなかった。そしてそれもまた、私のせいなのだった。私が木崎を、その場所から動けなくさせている。

「木崎さんは」

「はい」

 私の中で起こっていることに、まだ木崎は気づいていない。でも、すぐに気づくだろう。そういう男だから。木崎から気づかれるのが嫌で、私は自分から、何かを引きずり出そうとしてしまう。

「私が可哀想だから、結婚してくれたの」

 そんなことを、考えたことはなかった。なかったのに、とうとう、と考える。とうとう言ってしまった、と。考えにもならずにずっと漂っていたものが、今、ようやく言葉になって、私はそれを抱えきれずに口にしてしまった。

 木崎の顔に、微笑みが失せる。木崎は困惑しているようだった。私のせいだった。全部私のせいだった。

「ごめんなさい」

 耐えきれなくて、謝った。苦しい。謝りながら、どうして、と、思ってしまう。どうして。苦しい。苦しくて、うつむく。木崎の顔を、見たくなかった。今は。

 空のお皿が目に入る。そこにあった、分厚いホットケーキ。こんがりと均一な色をした、きれいなおいしいホットケーキ。それがそこにあったときには、確かに私は幸せだったのに、どうしてすぐに、こうなってしまうんだろう。ホットケーキ分の幸福を、私は圧倒言う間に費やしてしまう。べっとりお皿にこびりつくシロップ。ケーキの滓。

「夕飯は、何にしましょうか」

 問いかけてくれるその優しい声に、私は答えられなかった。

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