第31話


 薄手のロングスカートと淡い水色のシャツ。それと灰色のカーディガンを羽織って、外に出た。気温のことだけを考えたのだけれど、街はもう深い色をしていて、私だけが夏の色をしている。もう、私以外の誰も夏のことなど忘れた顔をしている。浮き上がっていて、居場所がない。背を丸くして、涼しい街をこそこそと歩く。

 出版社での打ち合わせは、思ったよりもうまくいった。私が何も話さなくても設楽さんは上機嫌で、ずっと汗を拭いながら、どれだけ本が売れたのか、それに自分がどう尽力したのかという話だけをしていた。私が何かに応えようと考え躊躇う間に設楽さんはどんどん先に行ってしまい、私はただ出された冷たいお茶を飲んでいた。外はもう涼しいのに、スーツ姿の設楽さんは真っ赤な顔でハンカチで汗を押さえている。

「いや、ほんと、よく売れていますよ。本当に」

 数字も見せてもらって、最後に念を押すようにそう言われて、私ははあ、とうなずいた。どうでもよい気がした。あの物語は私の手から去ってしまい、設楽さんや、本屋を歩き回る営業の人や、本屋で本を売る人たちのものになったのだと感じている。私のものだったはずなのに、もうそんな実感がない。

 献本を何冊かもらって、紙袋を下げて、応接間を出る。すると、崇がいた。別に驚きはない。こういうことはよくあるからだ。崇は設楽さんに丁寧に頭を下げる。綺麗に頭を下げるな、と感心する。本当に、崇は昔から、こういう些細だけれどある種の世界では非常に重視されることを抑えるのが得意だった。私にはいまだにできない。

「飯行くか」

「はは、仲がいいですねえ」

 答えるまでもなく、行くものとして話が進んでいく。崇はもう一度軽く設楽さんに頭を下げて、背を向けた。私がついていくことを知っている背中。私はついていく。それ以外のことをしたことがない。

「具合が悪いのか」

 傲慢な背中に比べて、声が妙に優しい。私は沈黙を答えにした。崇はその意味を正確に受け取って、勝手にうなずいた。なんだか、涙が出そうになった。

 ふらふらとついていく私に合わせてか、崇の歩みはゆっくりになる。でも慣れない速度で歩くせいか、手足の運びがぎこちなく乱暴だ。体の中の、自分でもどこにあるのかわからないような場所が、勝手にきゅうっ、と縮んで痛む。崇。崇だ。

 会社を出て、崇が入ったのは蕎麦屋だった。父が生きていることはしょっちゅう三人で入った店だ。静かな店内には、父の色紙が麗麗と飾ってある。他の、何人もの大御所の作家も行きつけにしていたが、飾ってあるのは父だけだ。

 店主は私と崇に気づき、ほんのわずかに、私的な感情を込めた微笑みを浮かべる。そういうところを、父は大変に気に入っていた。寡黙だが、人間味のある蕎麦屋の店主。

 崇はざると日本酒。いつもそうだ。父は天ざる。そして崇と日本酒を飲んだ。お昼でも。私はそのときどきで違う。

「おちょこは」

 尋ねられて、私は首を振った。崇は一つで、と言う。

「私は鴨南蛮を」

 温かいものが食べたかった。店員さんが行ってしまうと、崇はそば茶を一口飲んで言った。

「飲まないのか」

「うん」

「お前、ざるはほとんど食べないな」

 そう言われて、確かにそうだなと思った。ここはざるがうまいんだと皆言うのだが。

「粋じゃねえな」

 からかうように崇が言い、ふと私は思いついて言い返した。

「私、粋って、そんなに好きじゃない」

「なんで」

 聞かれて口にしたことは、自分でも思いがけないことだった。

「自殺って、どっちかって言うと、粋でしょう」

 私はどんな顔をしているのだろう。崇がひどく、ひどく悲しい顔をしたので、そう思った。微笑みを口元に作る。

「私は粋じゃないよ」

 笑ってほしい。でも、崇は笑わなかった。本当に、悲しい顔のまま、じっと私を見つめていた。私も笑うのをやめて、崇を見つめ返した。二人でお互いの悲しみを確認しあうように。

「ごめん」

 私は茫然として崇の声を受け取った。ごめん。意味がよく理解できなかった。崇がそんなことを、言うなんて考えたこともなかった。

 ごめん。

 そんなことを、崇が。

 それでも聞き間違いを、疑うことはできなかった。崇の顔が、まっすぐ私にいたわりと、謝罪を伝えていたから。それは、私をいっそう悲しくさせた。心の中の硬いものが、ぼろぼろにちぎれていく。崇。私の、一番近かった男の子。私と家族になるはずだった男の子。もう、何もかも終わった話なのに。

 料理が運ばれてくる。私たちは会話もなく、お蕎麦を食べた。私は鴨の脂でつやつやするお蕎麦を口に押し込み、崇は控え目な音を立ててざるそばを啜った。あったかいお蕎麦は、確かにあんまり粋じゃないと思った。父はいつも音を立ててそばを啜った。私も青葉も、それはできなかった。やろうとしたのだけれど。幼い崇だけは上手に啜り、父は崇を褒めていた。私も青葉も、口の端から間抜けにつゆを垂らしていた。粋じゃない私たち。あったかいお蕎麦の汁を飲む。葱がやわらかくあまくてとてもおいしい。粋じゃなくても、とてもおいしい。父がいたら、なんと言ったろう。私に大葉の天ぷらをくれたかもしれない。崇はそれを見て、太るぞ、と笑う。私はそれに答えず天ぷらをさくさくと食べる。硬めのからっとした天ぷら。父は私を見て、ゆすらは本当にうまそうに食べる、と喜ぶ。とうさま。とうさま。私をここに連れてきて、そしてどこかに行ってしまった人。

 お蕎麦を食べ終えて、崇はちびちびとお酒を飲んでいる。手持無沙汰だけれど、話すべきことが思いつかない。黒いものが体の中にたまっていて、それと食べたばかりのお蕎麦がへんなふうに混ざって嫌な気持ちだった。横になりたい。

「本当は」

 崇がふいに言った。私は黙って首を傾げた。

「褒めてやるつもりだったんだ」

 首は傾げたまま、黙っていた。何が言いたいのかわからない。

「新作、よかった」

 びっくりした。今日はびっくりしてばかりだ。

「よかったの」

「よかったよ。もうだめかと思ってた」

 褒めながらも、貶さずにはいられない崇に笑う。笑って、そうか、崇はあれを読んだのか、と、気づいた。気づいたも何も、崇が私の書いたものを、読まないはずもないのに。それがただの事実の一つじゃなく、実感になった。崇は私の物語を、読んだのだ。そして、いいと思った。そういうことが、本当に起こったのだ。崇の中に、私の物語がある。この頑固な男の子の中に、私の物語の場所がある。

「ありがとう」

 お礼を言った。面白いことだと思ったから。崇は目を瞬いて、それから不機嫌な顔を作る。ちょっといつもの崇になった。

「ちょっと褒められたぐらいでいい気になるな」

「いい気になるよ。崇だもん」

 いい気になったので、おなかも落ち着いてきた。崇はたじろぎ、それからさあっと白い頬を紅く染めた。可愛いな、と私は微笑む。崇を可愛がる大人たちは、こういうところが可愛くて堪らないのだろう、と

「なんだよ」

 頬は染めたまま口を尖らせる。崇の心はものすごく無防備だ。無防備なまま、無防備なことにさえ、気づかずに生きてきた崇。だからこそ、その傲慢な無防備さを、みなが守ってやろうとする崇。息が詰まった。愛おしさと妬ましさと懐かしさのようなものが全部混じった気持ち。私も崇のように生きられたら、どれだけ。でも、これも私のただの思い上がりかもしれなかった。当然私がそれとも知らずに持ち、崇が持っていないものも、あるに違いないから。

 それを考えると、少し心がしなっとした。でもそれを崇に気づかせたくなくて、話を変える。

「よかったって、どこが?」

 崇は途端、生き生きと目を輝かせる。

「書き出しからずっと緊張感があった。お前これまで絶対長編だと息切れしてただろ」

 そうかな、と考え、そうかも、と説得されてしまう。まだ幼いころは違ったけれど、大人になってからは、書いていてどうしても文字に現実が混じっていってしまった。幼いころに書いたものは、空想を支える言葉の力がまだ、なかった。

「先生がお前にあれだけ期待してた意味がようやくわかった」

 期待。わからない。それでも今の私に、やっぱり作家としての父は遠かった。どうやっても、あんな言葉を操ることは私にはできない。できるようになる気もしない。もっとも、それは私の問題というよりも、父の問題だという気がする。父はあまりにも際立っている。誰も手が届かない。

「お前は、」

 崇は言いかけて、そこで言葉を切った。息をして、もう一度言う。

「お前は、すごいよ」

 私は黙っていた。どうしていいのかわからなかった。そんなことを言われたって、どうしようもない。どうしようもない? わからない。でもそういうことを、ずっと言われたくないと思っていた気がする。そういうことを言われないように、ずっとふるまっていたような気がする。自分でもはっきりとわからないまま。

「お前はすごい。俺よりも、ほかの誰よりも、すごいんだ」

 そんなことを、言わないでほしい。あなたは崇なのに。いつだって父と自分だけが特別で、他のすべてうっすら軽蔑している、あの崇なのに。私のことも、ずっと侮っていてほしい。あなたの心の高い場所に、私を勝手に上げないでほしい。私はただ、物語が書きたくて、それを誰かと分かち合いたいだけなのに。勝手に、私を私がなりたくないものに、しないで。あなたが。

 あなたが、ずっと、そばにいてくれるわけでも、ないのに。

 かつん、と、浮かんでしまった言葉が、硬く私の中のどこかにぶつかった。痛くて、響く。きつく口を結んだ。そうしないと叫びだしそうだった。

 私の内側で起こっていることをまるで気づかずに、崇は言う。

「お前は、すごいんだ。知らないふりも、忘れたふりも、するな」

 お腹が重たくて、でも下半身が浮き上がって、うまく自分の形に落ち着けない。

 自分の形。でも、それは勘違いだったのかもしれない。私が思っていた私など、本当はもういないのかもしれない。それは私が決められることではなかった。外側から、私を押しつぶして決めるものだったのかもしれない。そして、どうしても押しつぶしきれない私が、形として残る。そういうものだったのかもしれない。そして、外からかかる力も、内から抗う力も、時が流れて、変わっていくのだ。私はいつの間にか、私の知らない私になる。自ら望み、そして押し付けられ、気づかぬうちに。

 崇は私を見つめている。透き通った美しい目。ずっと知っている目。でも、知らなかった目で。私が変わったように、崇もまた変わったのだろうか。それとも、ただ私が、知らなかっただけだろうか。わからない。

 ただわかっているのは、どちらにせよ、知ってしまったことは、もう取り消せないということだった。

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