第18話

 毛布をぐるぐると体に巻き付けて、部屋の隅でじっとしている。小さな暗闇の中は私の体温と匂いで満ちている。誰も入っては来ない。誰も。外では雨が降っている。はっきりと聞き取れるような音は聴こえず、空気が揺れる気配だけが部屋に届く。

 もうすぐ、一年になるのだ。もう二か月で。母が死んでから。父が死んでから。

 出版社を通じて、取材をいくつか申し込まれた。全て断ったけれど、憂鬱だ。どうして、放っておいてくれないのだろう。どうでもいいではないか。誰がどんなふうに死んだって、誰に関係があるというのだ。

 うつ伏せになって、毛布に頬を押し付けて、勇ましい乱暴さで煩わしいものを切り捨てようとするけれど、気持ちは簡単に揺らいで、萎えてしまう。煩わしいものがたくさんあって、煩わしくて息苦しくて逃れたいけれど、でもその煩わしさによって、島田ゆすらという女は育まれ、今ものうのうと生きているのだ、という、単純な事実を思い出してしまう。産まれたときからずっと、人に見られ、人に読まれ、人に語られる。それが私だ。それだけが、私だ。そこに安穏として、いろんな特別を当たり前のものとして受け取ってきたのに、煩わしいことからだけは逃げたいだなんて、笑える。

 自分を慰め、自分を苛めて、それを繰り返しているうちに、頭の中がぼんやりとした痛みに満ちて、うまく考えることができなくなってくる。そんな中で、空想を弄びだす。可哀想な身の上で可哀想な目に遭う女の子が、物語の都合としか言いようがない力で幸せになるような、ごくごく他愛なく単純な、お砂糖だけを詰め込んだような空想だ。とても売り物にはならないような。苛められて疲れ切った脳みそと心に、空想のお砂糖がじんじんと沁み込んでいく。自分の空想で自分を痛めつけて、自分の空想で自分を癒す。それが私だった。あまりにも、私だ。私は、こんなふうにしか存在することができない。これまでずっとそうだったように、これからもそうやって、自分を必要以上に痛めつけて、必要以上のお砂糖を摂取して、だましだまし生きていくのだろう。時々、自分というものが、とてつもなく重たく感じる。自分が選んだわけでもないのに、決して捨てることのできない、重たい荷物のように。私は私を抱えて、立ち尽くす。こんなに重たいものを持って、どこに行けるというのだろう。

 でも時々、ほんの時々、なんでもできる、と感じるときもあるのだ。私は何にでもなれるし、どこへでも行ける。私は私の意志によってのみ動くのだ、と。そして私は勢いよく走り出し、すぐに、自分の重さに耐えかねて立ち止まり、痛む足と自分の重さに動けなくなる。でもそんなもの気のせいなのかもしれない。ただの気の持ちようで、何も痛んではいないし重たくもないのかもしれない。私はただ、どこにも行きたくないのかもしれない。

 こんなふうに、私は飽きずに私を細かく切り刻んでいく。終わりがない。どうしようもない。

 これは多分一種の自傷行為なのだと思う。でも、ある種の快楽を伴う自傷行為でも、あった。ある種の快楽。それから、ある種の安心。傷をつけるのが自分なら、少なくとも加減がわかっている。私は臆病で、予期せぬ一撃を人からもらうぐらいなら、自分で先にそこに切り付けて、痛みに慣れておこうとする。勿論そんなことをしたところで、傷つくのに変わりはないのだが。

 雨の気配は、毛布の中にもひっそりと滑り込む。疲れて、眠ってしまおうかと思うけれど、頭のどこかがずくずくと疼いていて、眠りに落ちるのを邪魔する。毛布の外に出て、木崎にまとわりつけば、多分今よりは気分が晴れる。出よう。出なくては。と思うけれど、毛布の外に出るということがとてつもない冒険のように思えて、立ち上がることができない。出よう。出なくては。でも、できない。横たわりながら、ずっと、立ち上がることに失敗している。休んでいるのではなく、一秒一秒、立ち上り損ねているのだ。立ち上がろう、という意思を、身体を動かすところまで持っていくことが、できない。落ち込んでいるのをなんとかするよりも、落ち込みの中でまどろんでいたいという、怠惰が勝つ。このままずるずると、怠惰に落ち込み続けるうちに、眠りこんでしまうのかもしれない。

「ゆすらさん」

 ぼうっとした頭に風穴があくように、声がした。するりと何の抵抗もなく、私は毛布から滑り出た。自分でも驚くほどに、あっけなく。ひんやりとした外気に熱を持った肌が触れて、とても気持ちがよかった。

「蓑虫みたいになってましたね」

「うん」

 頷いて、手を伸ばす。なんの躊躇もなく、その手を木崎は受け止め、私を立たせてくれた。

「蓑虫に何か用だった?」

「蓑虫の中身に」

 木崎はおそらくひどい有様だったろう私の髪を、指で整えてくれる。用の中身を聞きたくて首を傾げると、

「行きましょう」

 と、手を引いてくれた。木崎の手は雨の日の空気の中でも優しく乾いている。手を繋いで廊下を歩きながら、私はさっきまで散々弄んだ懊悩が、毛布の中に置いて来たように、自分の中にはもう見当たらないことに気づいた。


 座っていてください、と言われたので、大人しく座っていたけれど、台所に立つ木崎の後ろ姿に興味を引かれたので、こっそり近寄ってみる。

「おや」

 声をかける前に、気づいて木崎は笑う。どこから出したのか、背の高い硝子のコップを持っている。硝子が薄くて普段使いには向いてないけれど、なんとなく全体が優美な、多分高価なコップだ。久しぶりに見た。

「なんだか楽しそうだったから」

「ばれますか。やっぱり」

 そう言いながら、木崎は冷蔵庫を開けて、振り向く。

「やっぱり待っていてください。そっちのほうが多分楽しい」

「はあい」

 そうまで言われてしまったので、すごすごと引き下がる。何をしているのかな、と木崎の背中を見る。コップを持っていたから、やっぱり飲み物だろうか。でも冷蔵庫から、オレンジらしきものを出している。オレンジとコップ。なんだろう。オレンジジュース? だめだ。つい何か考えてしまいたくなるけれど、当ててしまったら楽しくない。目を閉じて、額をぐりぐりと座卓に押し付ける。

「面白いことをしてますね」

 木崎の声が降ってくる。顔を上げると、軽いめまいがした。私は馬鹿だ。笑える。

「好奇心と戦ってたの」

「なるほど」

 そして、木崎は私の前に、好奇心の源を置いた。

「わあ」

 自分の顔の隅々にまで、ぱっと明るい血が流れるような感覚だった。

「どうです」

 木崎の声は自信に満ちている。私は拍手をした。

「素晴らしい」

 パフェだった。極限まで透明なコップの中に、茶色と白とオレンジの層ができている。そして一番上にはきらきら光るオレンジ。雨の気配の中で、オレンジの香りが鮮やかに咲いている。

「素晴らしい」

 繰り返す。

「どうぞ召し上がれ」

 頷いて、私はスプーンを取った。これもどこかから出した、長くて優美な線のスプーンだ。この家はいろんなものを仕舞い込んでいる。木崎はそれを見つけ出して、ひとつひとつに意味と楽しさを与えてくれる。

 どこから手をつけようか迷って、一番上のオレンジに手をつけた。口に含むと、いっそ乱暴なぐらいの瑞々しさが溢れる。次はどうしよう。オレンジを食べたことで見えたアイスクリームに手を付ける。私の頭の中はもう、パフェのことしかなかった。今味わっている美味しさと、これから味わえるはずの美味しさだけが私の全部。

 アイスクリームを口に入れて、唇を結んだまま木崎を見上げる。賞賛を確信した余裕たっぷりの笑みを浮かべている私の夫。

「ホワイトチョコ?」

 木崎は正解、と頷いた。

「なかなかいいでしょう」

「すごくいい」

 私はオレンジとホワイトチョコのアイスクリームと一緒に掬った。スプーンの容量からすると少し無理があったけれど、なんとかそれを成し遂げる。行儀はよくないけれど、顔をスプーンに近づけて、口に入れる。オレンジの酸味とホワイトチョコの甘さがつめたくとろけていく。

「すごくいい」

 繰り返す。何度だって言いたかった。今度はチョコレート色のアイスクリームを掬う。ホワイトチョコにはないほんのりとした苦味が味覚を立体的にする。二種類のアイスクリームのどちらもとてもなめらかだ。

 木崎が横に腰掛けて言う。

「自慢してもいいですか?」

「なあに?」

「アイスクリームは手作りです」

「素晴らしい!」

 私はさっきよりも音高く拍手をした。道理でおいしいはずだ。木崎は誇らしげにそれを受け止めている。私はアイスクリームをもう一口食べた。甘くて、つめたくて、とても美味しい。美味しい。すると突然どこかの扉が開いて、涙が零れた。驚いて、指先で拭う。

「泣くほど美味しい」

 木崎は微笑んだまま、私の頭をそっと撫でてくれた。大きな手のひら。私よりもずっと大きな、手のひら。

「ゆすらさん、喜んでくれるかなって作ったんで、喜んでもらえると、嬉しいですね」

 アイスクリームが溶けないように、私はスプーンを動かす。甘くて、美味しくて、つめたくて、嬉しくて、多分、私は幸せなんだろうと思えた。どんな悲しみも不幸も、このパフェには入り込むことができない。私のためのパフェ。私のための木崎の思いやりのかたち。パフェの底にはコーンフレークではなくクッキーを砕いたものが入っている。溶けかけたアイスクリームに絡めて、食べる。

 最後の一口を食べ終わって、目の前には空のコップがある。さっきまでそこに詰まっていたものが今私の中にあるのだということが、魔法のように思える。

「ごちそうさまでした」

「はい」

「木崎さんの分は?」

「味見をしすぎてしまったので、また今度にします」

「そんないいことしてたんだ」

「内緒ですよ」

 笑って言うので、私も笑う。

「お茶でも淹れましょう。お腹が冷えたでしょう」

 私は首を振った。

「こっちがいい」

 木崎の胸に滑り込んで、鎖骨のくぼみに頭をもたせ掛けて、背中に手のひらをつけた。木崎の胸は、ちょうど私にぴったりの広さで、私にぴったりの温度をしている。身体の中の冷たいものが、心地よく溶けていく。木崎の腕が私の背中に回る。木崎は何もかも私にぴったりだ。ずっとこの腕の中にいたい。ずっとずっと、この男がそばにいてくれたら、他の誰もいなくて構わない。誰もいなくても、構わない。木崎がいれば。木崎さえいてくれれば。私は目を閉じる。自分の望みの底にある冷たいものを、この安心ですべて忘れてしまいたい。

 電話が鳴った。耳から体が冷えていく。木崎が身じろぐのを腕の力を強めて止めた。

「出ないで」

「でも」

「出ないで」

 木崎は私の頭に手を当てて、はい、と言った。鳴り続ける電話の音から逃げるように、私は木崎の胸に顔を押し付ける。

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