第17話
朝ごはんはおむすびだった。おむすびと豆腐とわかめのお味噌汁と、卵焼き。木崎の定番の朝ごはんだけど、三人なので小ぶりのおむすびが何種類も大皿に盛ってある。ほぐした鮭と細く切った大葉とごまの混ざったおにぎりを取って、齧る。鮭の塩っ気と大葉の風味とごまの歯ごたえ。美味しくて、幸せになる。朝の空気に、ふわふわとお味噌汁から立つ湯気が混じる。
「今日、出かけてくるね」
枝豆とおじゃこのおむすびを頬張った青葉が言う。
「お出かけ?」
うん、と口の中のものを飲みこみながら頷き、お味噌汁を啜った。
「崇と遊んでくる。で、夜崇連れてきていい?」
「木崎さん、いい?」
もちろん、と木崎は頷く。
「ごちそうを用意しないと。何がいいかな」
「崇にはカレーでいいよ。それかオムライス」
「本当に?」
私の方を見て尋ねるので、少し考えて、頷いた。
「好きだよ。カレーかオムライスなの。崇は」
「子供だからねー」
でも自分で好きとは言わないのだ。子供だから。
「なんでもいいよ。好き嫌い多いけど、結局食べるし」
だいたい、成瀬崇と言う男は、食べることに重きを置いていないのだ。おいしいものを食べる、ということに全然情熱を持たない。あるものを口に入れるだけだ。
「考えておきます。帰るの、何時ごろになりそうですか」
「七時ぐらいかな。映画観てくるんだ」
軽く言う青葉の唇から、飛び出しそうな喜びを見て、気まずくて、おむすびをもう一つ手に取る。塩のおむすびだ。他より少しだけ小さく握ってある。ぴかぴかに光る表面に歯を立てると、塩っけと一緒にお米がほぐれて甘さが立つ。
「楽しそうですね」
「うん」
堪え切れないように、青葉がふふ、と笑う。その声の響きに、なんとも居心地悪さを覚えて、その居心地悪さを見ないように、おむすびをもう一口齧る。
木崎は本当にオムライスを作った。黄色いきれいな卵で包まれて、上にとろりと真っ赤なトマトソースをかけられたオムライスが、白いお皿の上に行儀よく乗っている。
「成瀬さんからどうぞ」
どうも、とお皿を運んできた木崎に頷いた崇の頬は、ぼんやりと赤みが差している。オムライスが好きだと木崎に知られたのが、恥ずかしいのかもしれない。
「お先にどうぞ」
笑う青葉にちらりと目線を送ると、スプーンを握って、端っこを小さく掬い、慎重に口に運ぶ。
「おいしい?」
尋ねる青葉に、眉間に皺を寄せ、小さくうなずく。青葉はははっ、と声を上げる。
「崇美味しいって! 木崎さん」
「それはよかった。先にオムライス以外のものを摘まんでてください」
「はーい」
私と青葉は大皿にたっぷり盛られたポテトサラダを大きな木のスプーンで取り分けて、食べ始める。
「このポテトサラダ美味しい。アンチョビ?」
「アンチョビとクリームチーズとニンニクです」
青葉の問いに、木崎が背を向けたまま答える。
「美味しいね、ゆすらちゃん」
私は頷いて、ビールを一口飲んだ。塩っ気と胡椒がきいていて、これだけずっとちまちま摘まんでいたいような美味しさだ。
「崇にも」
と青葉は崇の小皿にもどんと盛る。崇はオムライスを掬ったスプーンを握ったまま、礼も言わずにちらりと青葉の顔に視線を走らせた。崇の前のオムライスは、もう半分ほどなくなっている。これだけさっさと食べながらも、なるべく形を崩さないようにしているのが、なんとも崇だ、と思う。崇だな、と、面白いような、呆れるような、諦めるような、そういう気持ちで。
「はい、青葉さん」
木崎が青葉の前にオムライスを置く。
「あ、ゆすらちゃんが先じゃないの?」
「青ちゃんからでいいよ」
「やった。ありがとうございます。いただきます」
青葉がにっこり笑ってスプーンを取る。
「さて、すぐにゆすらさんの分をやらないと」
「待ってるね」
「はい」
木崎は台所へと少し早足で帰っていく。私はそら豆のポタージュを一口飲む。目に優しい緑のスープは、味わいも優しく、爽やかだ。
「今日、何の映画観たの」
なんとなく尋ねると、青葉はカタカナの名前を口にした。ぱっとイメージが沸かないような英単語だ。
「SF映画だよ」
「どっちが見たがったの?」
「青葉だよ」
「崇の好きな映画って、グロいか眠いかどっちかだよね」
「譲ってやっただろ。でも悪くなかったけどな意外と」
崇はアメリカの有名な短編集の名前をあげた。二十年ほど前の本で、私も読んでいる。表題作はかなり複雑な時間についてのSFだった。
「そのうちのいくつかを原案にしてて、結構話も凝ってたな。不自然なところもなかったし」
「適当に選んだんだけどね。ちょっと難しかったけど面白かったよ。眠くはなかった。あとポップコーン食べた。崇が」
半分笑いながら、青葉が崇を目で示し、崇は恨めしそうに睨み返す。崇のオムライスはもうない。本当に、好きなものは食べるのが早い。
「いらないっていうのに、僕が買ったら結局半分ぐらい食べちゃうの」
「あったら食うだろ。買うほどは食いたくないけど」
「映画観ながら食べると美味しいですからね」
三人で、木崎の方を一斉に見た。木崎は笑って、私の前にオムライスを置いた。ふんわりとトマトソースの湯気が、鼻のあたまに当たった。
「召し上がれ」
「いただきます」
微笑み合って、木崎は台所に帰っていった。あと自分の分を作るのだろう。私はスプーンを握る。木崎のオムライスはまったくとてもきれいな色で、ぷっくりと中のごはんで膨らんでいる。形を崩さないようにそうっとスプーンですくって、口に運ぶ。中のチキンライスは甘めで、薄焼き卵はふんわりと柔らかい。いい大人が四人で囲むには子供っぽい食べ物かもしれないけれど、つい気持ちが丸くなってしまうような味だ。
「オムライス食べるのって、本当に久しぶりな気がする。美味しいな」
ね、と同意を促されて、頷く。確かに、外でもわざわざ頼んだりしない料理だ。
「木崎さんと会って、ゆすらちゃんと遊んで、みんなでごはん食べて、崇と映画観て、オムライス食べて、か。結構充実した帰省だったな」
振り返るような言い方に、冷たいものが服の中に入り込んだみたいに、肩が竦んだ。
「お前、もう行くのか」
私が言えない言葉を、崇が言う。青葉は微笑んで、うん、と、妙にはっきりと応えた。
「旅人だからね。長く一つの場所にはいられない」
付け加えた言葉は全部、言い訳のように響いた。でもその言い訳を剥ぎ取って、本当のことを聞くわけにはいかなかった。私は笑い、言い訳の上に、言葉を被せる。
「また帰ってくるんでしょう?」
「もちろん」
と、青葉は笑う。薄っぺらな約束だ。でも私たちは今、薄っぺらいことを積み重ねていくしかないのだ。それを繰り返したら、そのうちに、もっと確かなものができるかもしれないと、薄い期待をしながら。
「行くなよ」
でもそれは、あっさりと引き裂かれる。ぎょっとして、崇の顔を見る。怒りと言うよりも、驚きだ。崇はいつもあっさりと、踏みこんでほしくない、と言葉にせずに示した場所に、踏み込んでくる。私はそれに、いつまでも慣れることができない。いつでもぎょっとして、自分が悪かったような気になり、そんな気にさせた崇に、より一層腹が立つ。私だけが驚いているのではない、崇が悪いのだと確認したくて、青葉を見て、息を飲む。青葉は白い顔で、口元に笑みの欠片だけをひっかけていた。その目から、感情がすっぽりと抜け落ちている。今もうひと押ししたら、そのままどこかへ消えてしまいそうな、空っぽの顔。
でもそれは、ほんの瞬きほどの間で消え、青葉はいつもの剽軽な顔を作った。
「嬉しいね」
へへへ、と軽薄な笑いを付け加える。崇は不思議そうに眉を寄せるけれど、私があの顔に見た恐怖など、微塵も感じてはいないようだった。何故、崇はいつも、何も見ないでいられるのだろう。見ないようにしているのか、それとも、本当に彼の目には何も映らないのだろうか。私の目にも、崇には明白なものが、映らなかったりするのだろうか。わからない。こんなに長く一緒にいて、どれだけ慣れ合っていても、崇はあんまりにも、私と隔たっている。それを埋める術があるのかさえ、わからないほど。
混乱した空気の上から、穏やかな声が降ってくる。
「次に帰ってくるときは、先に教えてくださいね」
木崎だ。私たちは一斉にそちらを見る。三人の、それなりに緊迫した視線を一身に浴びながら、木崎が自分の分のオムライスを持って、席に着く。何も気にしていない様子で。
「好きなもの、たくさん作って待ってますから」
そう付け加え、いただきます、と軽く手を合わせる。湯気を出すオムライスと、木崎の平らかな様子に、私たちの緊張が、するりとほどける。青葉が、ふふ、と笑う。顔の筋肉の動かし方を今思い出したような、少しぎこちない、でも楽しげな顔。
「カレーが食べたいな」
「またカレーかよ」
崇が言い、ビールを啜った。青葉はそちらを見て笑い、木崎に言う。
「お義兄さんのカレーがいいな」
ふむ、と木崎は頷くと、オムライスを一口食べた。それからスプーンを置いて、青葉を真っ直ぐに見つめた。
「おにいちゃんに任せなさい」
その瞬間、穏やかならぬ音を立てて、崇がビールを噴き出した。変なところに入ったのか、咳き込みながら鼻を押さえている。青葉は慌ててティッシュを箱から大量に引き出して、崇に渡す。そして、崇の咳き込みに合わせるように、笑い出した。つられて私も笑い、木崎も笑い、それから崇も、咳き込みながら、笑っていた。もう何がおかしかったのかもわからずに、ただただ四人で思いがけずに起こってしまった爆発に巻き込まれるように、ひたすらに笑い続けた。
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