第16話

 久しぶりに、居間で仕事をしている。女性誌に載る、短いエッセイだ。もうほとんど出来ているので、読み返して文末や文の位置を考える。短い原稿を弄り回すのは、楽しい。ちょっとパズルのような趣がある。

 読点をある場所に一つ増やし、別の場所のを一つ減らす。少しすっきりした。さめた緑茶を啜って、木崎と青葉の後ろ姿を見る。二人で並んで、ゲームをしているのだ。テニスのゲームで、青葉はときどき声を上げるけれど、木崎は無言だ。

「あ、あー」

 青葉が言い、コントローラーを落とすように置くと、両手を後ろについて天井を仰いだ。

「勝てると思ったのになあ」

「ちょっと焦りました」

「ちぇ。木崎さんなんなら苦手なの?」

「テニスはそんなに得意じゃないですね」

 なんだよ! と青葉は言い、首を逸らして私を見た。

「おたくの旦那さん、お客さん相手に大人げないよ」

 さかさまの青葉と目を合わせて、私は笑う。青葉もくしゃりと目尻に皺を寄せる。

「手加減しましょうか」

「言わずにこっそりしてほしかったなあそれ」

「青ちゃん、大人げない」

 三人でくすくす笑う。青葉はそのまま後ろ向きに倒れこむと、寝返りを打って腹這いになり、私を見上げた。

「ゆすらちゃん、まだ仕事?」

 私は原稿に目を走らせる。読み返しすぎて弄りすぎて、文字が脳みそにしみこんでしまった気がする。少し時間を置いてから読み返したほうがよさそうだ。

「いったん休憩」

 原稿を伏せて置くと、やったあ、と青葉は言い、飛ぶように起き上がった。

「ゆすらちゃんもゲームしようよ」

「やだ。できない」

 昔から時々誘ってくるけれど、面白さを理解する前にできなさに腹が立つのでやりたくないのだ。後ろでやっているのを見るほうがまだ楽しい。

「ボードゲームありますよ」

 木崎が、カセットの入った箱をテレビの下から取り出して青葉に見せる。

「これやろうよ。すごろくみたいなもんだよ。うまいとか下手とかないから」

「運ですしね」

 二人が口々に言う。なんだか楽しそうな気にもなってきたけれど、乗せられるのもなんだか癪だ。唇を尖らせる。

「私今日、グラタンが食べたい」

「グラタン?」

 青葉が首を傾げる。

「何のグラタンですか」

「美味しいグラタン。バターいっぱい使ったやつ」

 ふむ。と木崎は頷くと、

「善処しましょう」

 と笑った。それで、私もゲームをすることにした。


 買い物にと木崎が離脱してしまってからも、私と青葉はまだコントローラーを握っていた。ゲームは、別に面白くはない。サイコロを投げて、マスを進んで、そこで何かして、お金が増えたり減ったりして、ということの繰り返しだ。私にも何をやっているのか理解はできるけれど、別に面白くはない。でも、やめられない。

「うーん」

 青葉が唸る。でも、目はいいのが出ている。マスを進むと、お金がもらえた。

「これじゃ負けてあげられないなあ」

 私も唇を尖らせて、サイコロを投げる。私もお金をもらえたけれど、青葉との差は開く一方だ。

「全然勝てない。どういうことなの」

 ずっとやっているのに、一回も勝てない。運だけ、のはずなのだけれど、運だけ、とはとても信じられない。なんだか私のわからない法則で勝敗が決まっているように感じてしまう。

「落ち込まないでよ」

 青葉が私の頭を撫でる。大きな手がごつごつと頭に触れる。青葉は大きい。あんなに小さかったのに、いつの間にか、こんなに大きくなってしまった。どこにでも行くことができる、青葉。

 私は何もできないのだな、と、暗い方に気持ちが流れていく。何一つ上手にできない。どこにも行けない。気持ちを、どこかにしっかりと置いておくことも、できない。

「落ち込んできた」

 ぐすぐすと拗ねた口ぶりで呟いて、膝を抱える。青葉は伸び上がり、ゲームの電源を切ってしまう。高い音でできた音楽がやむと、しん、と途端に空気が平らになって、耳が落ち着く。膝を抱えたまま、身体を斜めにして、青葉の肩に凭れる。青葉は、私の括った髪を軽く引っ張る。昔と変わらない気安さに安心する。

「髪の毛多いね相変わらず」

 結び目を指でなぞる感触がする。

「ゆすらちゃんは父さん似だね」

「青ちゃんのほうが似てる」

「ゆすらちゃんのほうが似てるよ。ずっと似てる」

 そうだろうか。髪の多さはともかく、顔だけなら、青葉のほうがずっと似ている。でも、そうなのかもしれない。私はいかにも、「島田仁の娘」だ。そういうふうに生きてきた。青葉は、「島田仁の息子」という職には、つかなかった。私が自分で選んで「島田仁の娘」になったと言い切れぬように、青葉も選んでその席に座らなかったわけでは、ないのだろう。

「ゆすらちゃんは父さんにも、母さんにも、そっくり」

「そう?」

「うん。ゆすらちゃんを見ると、帰ってきたなって思う」

 私は微笑みながら、喉のあたりに焼け焦げができるのを感じていた。この家に、私。そこに帰る、青葉。私は口を閉ざし、身体を丸める。青葉の手が離れる。悲しみの気配が、沈黙を染めていく。疲れるな、と思う。まだ新鮮な悲しさと楽しさが交互にやってきて、心が追いつかない。疲れてしまう。

「そろそろ、また出るよ」

 心に空いた隙間に、ぴったりと嵌るように、青葉が言った。あんまりぴったりと嵌るので、私は一瞬、動けなくなる。

「いっちゃうの?」

 縋るような声が出た。それが罪悪感から来たのか、本心なのか、自分でもわからない。多分、どちらでもあった。ここに青葉がいるのがつらくて、でも出て行かれるのもつらかった。どうしてこんなふうになってしまうのだろう。家族なのに。大好きなのに。

「いっちゃうよ」

 青葉が軽薄なほど明るい声で言う。つられて笑ってあげることもできず、私はちいさく頷いた。

「また帰ってくるよ」

 玄関の方から、物音がする。木崎が帰ってきたのだろう。

「グラタン、僕も楽しみだな」

 それには、何の異論もなく、頷いた。


 グラタンのお皿の、縁のチーズがぐつぐつと泡を生んでいる。焦げたところを狙ってスプーンで掬い、ふうっ、と湯気だけを吹いて、そのまま口に入れる。熱い。焦げたチーズの香りと塩気が、痛いぐらいの熱さの後にしみる。

「猫舌の反対って、なんていうのかな」

 ふうふうと、青葉はスプーンに息を吹きかける。私は口の中のものを飲みこむと、もう一口グラタンを食べる。ホワイトソースと玉ねぎが自然に甘くて、注文通りのバターの香り。木崎は本当に、私の食べたいものをきちんと再現してくれる。ちょっと怖いぐらい。

「わかんない」

「作家なのに」

 青葉は笑って言うと、ようやっと、でもおそるおそる、といった様子でグラタンを口に入れ、ぎゅっと目を瞑った。青葉は猫舌の反対の、反対だ。皺だらけの顔にちょっと笑い、海老を掬って口に運ぶ。噛むと、ぷちんと砕けて魚介の風味と、閉じ込められていた熱が溢れて、顔を顰める。

 ふふ、と笑い声が聞こえて、顔をあげると、自分の分のグラタンを持った木崎が立っていた。キルトのマットの上にグラタンを置くと、ミトンを外して隣に座る。私の視線に目元を緩める。

「同じ顔をするから、ちょっと面白くて」

 その言葉に、青葉が顔をくしゃくしゃにするので、私も真似てみる。木崎が噴き出す音がした。

「そんなに似てる?」

 つられて笑いながら聞く青葉に、喉の奥を笑いに痙攣させながら、木崎がこくこくと頷いた。私もつられてしまって、三人で、何が面白いのかもう曖昧なまま、笑う。

「そんなに似てると思ってなかったんですけど、似てますね」

 ようやっと笑いをおさめた木崎が言う。私は大皿から薄く切って焼いたフランスパンを取る。ホワイトソースのグラタンのときは、必ず用意してくれる。ホワイトソースを乗せて齧ると、ざくざくと砕けたパンとソースが絡んで、とても美味しい。

「木崎さん、兄弟いる?」

「兄と姉が。年がだいぶ離れてるんで、ゆすらさんと青葉さんみたいな、いかにも兄弟って感じではなかったですね」

 木崎のお兄さんとお姉さんには、一度、会ったことがある。結婚前に、木崎の家でみんなでごはんを食べたときに。木崎に顔立ちや肌の感じが似た、穏やかな人たちだった。木崎の家はこじんまりとしていて、あたたかくて、美味しいごはんがたくさん出てきて、みんな物静かだった。大きなテレビの上に、動物の置物がたくさん飾ってあって、可愛らしかった。お義母さんが作ったものだと言っていた。ご飯を食べているときも、テレビがついていて、私にはそれがとても不思議だった。この家とは全然違う、嗅いだこともない、でも濃密な家庭の匂いがしていた。かつて私がその中にいたような、濃密さ。私はその濃度に打ちのめされて、一瞬、息もできなくなるほどだった。

 今この家に、あの匂いはあるのだろうか。多分、ない。私が一人でいたときに比べれば、それらしいものは漂っている。でも、違う。しかしもう、私には、それを取り戻したいのか、よくわからない。全部薄れていく。匂いも、記憶も。私の望みは関係なく。

「でも木崎さんはもう、俺のお義兄さんだから」

 青葉がにこにこと笑う。木崎はほんの一瞬、虚をつかれたように目を見開いて、それからいつもの穏やかさで微笑んで言う。

「青ちゃん、ちゃんと野菜も食べなさい」

 今度は青葉が噴き出した。けたけたと笑った後に、

「わかりましたお兄ちゃん」

 と、フォークをサラダのアスパラに突き刺した。

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