第7話
志賀さんは美味しそうに、木崎の作ったものを食べていく。ビールのコップと箸を口にはこぶ合間に、木崎に質問を投げる。年齢、出身地、家族のこと、出身校、前の仕事のこと。不躾な質問も、志賀さんがすると臭みがなく、詮索癖というよりも子供じみた無邪気な好奇心のように聞こえるのが、奇妙だ。木崎は胡坐を組んで、ゆったりとビールを飲んだり志賀さんに注いだりしながら、問いに答えていく。
「木崎さん、法学部だったの?」
問いの中には、知らなかったことも出てくる。木崎は私を振り向いて、微笑んだ。
「そうですよ」
「奥さん、知らなかったの?」
志賀さんがからかうように笑う。
「知らなかった。聞かなかったし」
一人でビールを飲み続けている崇が、唇の片端だけを持ち上げて、目を細くした。
「へえ」
嫌な感じの笑い方だな、と思ったけれど、何も言わなかった。
「法学部、法律学科ですよ。特に熱心な学生でもなかったんですけど」
「いや立派でしょう。僕なんか中卒だからねえ」
志賀さんは、高校を中退している。毎日決まった場所に行くのが嫌だったから、と本人は言うけれど、どうやら、なにがしかの家庭の事情があったようだ。
「それで大学を出て、銀行勤め、か。立派だなあ」
「やることがないから大学に行って、生活のために働いていただけですよ」
木崎のそれは謙遜なのかもしれない。だが私は、そういう必要に応じて自分の生活を変える、ということができるのが、とても、考え付かないほど、偉い、と思う。私は必要なこと、やらねばならないことをいつもやらなくて、と言って忘れるでもなく、逃げることでよりいっそうその対象を大きくしてしまう、という、怠惰のためによけい面倒事を増やす人間なので、木崎の物事に対するごく簡単なあり方には、いつも感心してしまう。私の知る限りでは、人は、そんなに簡単に簡単になれないものだ。
「それで、今は働く必要がないから働いてないってわけですか」
全員の視線が、崇に集まる。だしぬけにつめたい水を掛けられたように、身体中が強張る。崇は三人の視線を避けるようにうつむいて、ビールを飲む。
崇君、と志賀さんが呼ぶ。それを遮って、木崎が口を開いた。
「そういうことですね」
穏やかな笑みと声には、気分を害した様子はまったく見つけられない。自分の悪意が跳ね返ってきたのか、崇のほうが気まずげに顔を歪めた。
「根が怠け者なものですからね。今は本当に楽しいですよ」
「私も楽しい」
言い添えると、木崎は私と目を合わせて笑いかけてくれた。私も微笑みを返す。
「あてられるねえ」
志賀さんが笑い、木崎にビールを注いでくれた。ありがとうございます、と木崎が応じる。
「そういえば日本酒もありますよ。冷やで。飲みますか?」
「お、いいねえ」
「成瀬さんとゆすらさんは?」
どうしようかな、と思っているうちに、志賀さんが言う。
「飲むよね? 二人とも」
少しなら、と私は答えたけれど、崇は眉をひそめただけだった。否定しないということは、肯定なのだろう。はじめて会う人間の前でも堂々と拗ねる崇の傲慢さが、私はすこし羨ましく、そして多分、同じぐらい、妬ましい。
「では四人分で」
木崎はすぐに酒瓶と、猪口四つを運んできた。藍色の切子の、とても美しいものだ。猪口を手に取って、光を透かしてみる。私の肌の上にも模様が走るのが、楽しい。ひとつひとつの模様を指先でなぞり、その冷たく鋭い感触を味わう。子供のころから、私はこの器が好きだった。少しいいお酒が手に入ると、父はこれを母に出させて飲んだものだ。私はそれが羨ましくて、しつこく触らせてくれとねだった。大きくなってからな、と、父はその都度笑って言った。
酒瓶から、常温の酒がとろりと注がれて杯を満たす。切子が弾く光が、酒を満たすことで和らいで見える。一口飲む。唇に硬くつめたく硝子が触れ、そのあとを酒が甘く撫でていく。お酒のことはよくわからないが、とても美味しい、と思う。ふわりと酔いの香りの息が漏れる。
「こりゃいい酒だ」
と、お酒好きの志賀さんが言うと、木崎は嬉しそうに笑う。
「いいでしょう。好きなんです。このあたりではあまり売ってないんですが」
そして、二人で日本酒の話をし始める。私にはわからないので、おかずを摘まみながらちびちびとお酒を啜る。靄のように、ゆっくりと酔いが回ってくる。
ふと崇の方を見て、すっ、と、頭が醒めた。崇は、ひどく暗い目で、自分の前に置かれた猪口を眺めていた。瞳の冷たさと、紅潮した目元の落差が、不穏で胸が悪くなる。
理由はわからない。だが、崇が確実に、気分を損ねた、それも、身のうちに留めておけないほどに損ねているのは、わかった。崇の唇の端が、震える。その内側で、悪意がざわめいている。
「これがどんなものなのか、わかってて使ってるんですか」
ざわめきを制御しきれずに、崇の声は震えていた。言葉の意味ではなく、その震える悪意によって、部屋の空気が冷える。志賀さんはまた冗談めかして笑おうとしているけれど、うまくいかない。木崎は僅かに首を傾げる。
「すみません。不勉強で」
崇の悪意などまるで気にしない、というよりもむしろ、悪意にさえ気づいていないような穏やかさで、木崎は言う。
「どういうものなんですか? 綺麗な切子ですよね」
尋ねられて、崇は顔を歪めた。また、跳ね返ってきた自分の悪意に痛めつけられて。切子をそっと包んだ自分の手に、視線を落とす。伏せた睫毛に瞳が隠されて、なんだか泣いてでもいるかように、見える。泣いているはずなどないけれど。
崇の赤く濡れた唇が開く。けれどそこからは言葉が出てこない。重たいものが喉もとで留まって、うまく吐き出せずにいる。
崇君、と志賀さんが呼ぶ。崇は目を伏せたままでいる。それを見て諦めたように笑うと、志賀さんは木崎の方を向いた。
「これは、先生の気に入りの器だったんですよ。崇君は、先生の一番弟子で、息子みたいに可愛がっていたもんだから」
ねえ、崇君、と謝罪しやすいように志賀さんは促すけれど、崇は応えない。どうしてこんなに子供じみているのだろう。酔いでぼうっとした頭の後ろのほうが、苛立ちでちりちりする。どうして崇は、こんなに。
「それは申し訳ないことを」
木崎だけは張りつめた空気から無縁の様子で、静かに謝る。その謝罪にも、私の苛立ちは棘を増す。
「謝らなくていいよ」
酔いに加勢された情動が意志を振り切って、私はそう言っていた。木崎は不思議そうに、志賀さんは驚いたように、私を見る。崇はまだ俯いている。
「とうさまはもういないんだから、とうさまのことなんて関係ないよ。木崎さんがしたいようにすればいい。崇にも関係ない。今は私と木崎さんの家なんだから」
崇がゆらりと顔を上げて、私を見た。暗い瞳の底で、怒りがぼうっと光っている。私はそれを真正面から睨み返した。崇の怒りを受けることで、私の中で燻っていた何かが燃え上がる。
「私と木崎さんのものをどうしようと、とうさまにも、崇にも、関係ない」
崇の口元が、ぴくりと痙攣する。青白かった白目に、血管が浮き出して赤く濁る。それを見ていると、喉が締まって、背中の皮膚が粟立った。それでも、崇から目を逸らさなかった。
「ゆすらさん」
木崎が、私を呼んだ。背中をあたたかな手で撫でられたように、身体中から力が、怒りとともに抜けてしまう。崇も虚をつかれたのか、煮え立ったような顔色が、緩む。
「かき揚げ、最後の一個ですよ。食べますか」
戸惑いながらも頷いて、かき揚げを食べた。私の咀嚼音だけが、無言の四人の間を漂う。
「おいしいですか」
木崎が尋ねる。玉ねぎは甘く、そら豆はみずみずしく苦く、衣はさくさくと心地よく、かき揚げはやっぱり、とてもおいしかった。私は頷き、
「おいしい」
と、木崎と、それから自分に言った。木崎は微笑んで、切子を冷やで満たしてくれた。私はそれを手に持って、水面で光が揺らめくのを眺めていた。
「帰ります」
不意に、崇がそう言った。顔はまだ赤かったけれど、声からは酔いはほとんど読み取れない。え、と思っているうちに、崇は立ち上り、木崎に頭を下げた。思いのほか、しっかりとした動作だった。
「申し訳なかった。今日はこれで失礼します」
木崎は自分の気安い親戚を送り出すかのような笑みを浮かべていた。
「いえ、こちらもたいしたお構いもできませんで」
崇は頭を下げると、お邪魔しました、と言い、そのまま居間を出ていった。あっという間の、出来事だった。
志賀さんと私は顔を見合わせ、お互いどんな顔をしていいのかわからず、とりあえず二人とも首を傾げた。木崎は微かな苦笑を口元に漂わせて、崇が出ていった先を見つめていた。
やがて、志賀さんがぽつんとつぶやいた。
「困った子だね」
臆面もない愛情の中に、ほんの一かけら寂しさを落としたような声色。なんだか気まずくて、一口、日本酒を飲む。
「帰り、大丈夫ですかね」
木崎の言葉に、志賀さんが手を振った。
「大丈夫でしょう。この辺のことなら自分の家みたいに知ってるはずだから」
「なるほど」
と頷きかけた木崎が、何かに目を留め、眉を小さく動かした。視線の先には、本屋の紙袋が置いてあった。これは。
「成瀬さんのものですね」
私の考えに先立って、木崎が言った。私は頷く。木崎は立ち上り、紙袋を手に取った。
「届けてきます。今ならまだ間に合うでしょうし」
驚いたように志賀さんが口を挟む。
「いや、僕が今度会ったときにでも」
「少し外します。失礼」
皆まで言わせず頭を下げると、木崎は大股で、部屋を出ていった。
私は志賀さんと顔を見合わせ、もう一度、二人で首を傾げた。
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