第8話
大丈夫かな、と志賀さんが呟く。大丈夫でしょう、と返すことも出来ず、視線を手元に落とす。くるりと指で猪口を回すと、光が、水滴のように散らばって手の甲に落ちた。とぷりとお酒が波打つ。その姿に、脳のどこかが反応した。ああ、と、崇の態度が、少し腑に落ちる。少しだけ。
「思い出したんですけど」
「うん?」
「この切子って、私が生まれたときに、成瀬のおじさまがくれたんだった」
志賀さんはぱしぱしと目を瞬いて、それからああ、と脱力したように言った。
「そりゃあ、面白くないよなあ」
「大人げない」
私は言って、蓮根をざくざくと齧る。
「少しは可哀想だと思ってやってよ。僕に免じて」
可哀想? 私があからさまに面白くない顔をしたのだろう。志賀さんに笑われてしまう。
「みんな、そんなにそうだと思ってたのかな」
「まあ、そうだねえ」
具体的な単語を使うのが嫌でぼかしすぎた私の言葉でも、伝わった。ということは、本当にみんな、そんなにそうだと思っていたらしい。私と崇の間で、そんなことが話題になったことは、一度だってないのに。一度だって。
「先生は、そうなったら喜んだだろうね。本当に」
志賀さんが、しんみりと言ったその言葉に、鎮火したはずの怒りが、かっ、と燃え上がった。
「そんなことどうでもいい」
荒い声を上げる私に、志賀さんが心配そうな眼差しを向ける。その眼差しに、恥ずかしくなって、目を閉じ、小さく息を吐く。もう一度目を開いて、暴れだそうとする怒りを抑えつけて言う。
「死んだ人のことよりも、生きてる人のほうが、大事だから」
そして、お酒を一口、飲んだ。唇に触れる硝子のつめたさも、お酒の甘さも、そしてそれを注いでくれた木崎も、現実だった。現実に、私の喜びのために、あるものだった。父は、現実ではない。父はもう、どこにもいない。崇と結婚したところで、父が喜んだりは、しない。決して、しない。
そんな私を見て、志賀さんは、微笑んでいた。いつもとは違うやりかたで。寂しさを、剥き出しにしたような微笑みで。私の視線に気づき、気まずそうに、お酒を飲む。
「死んだ人よりも、生きている人か」
「うん」
「この年になると、なかなか、そんなふうに思いきれなくてね」
冗談めかした語尾が震え、不摂生のせいでか濁った白目が、じわりと潤んだ。私はそれを、見ないふりをした。ふふっ、と志賀さんは笑い声で湿った空気を振り払い、ことさらに陽気に言う。
「まあ、崇君のことは、大目に見てやってよ」
私はお刺身に醤油をつけて言う。
「嫌です」
「困ったね」
お刺身を食べる。志賀さんはだらしなく丸めた背を、少し正して私に向き合った。
「あのさ」
「はい」
視線を彷徨わせ、わずかに言いよどんだ後、笑みを作って、言った。
「崇君はさ、ゆすらちゃんが好きなんだよ。子供のころから、今も。だから、可哀想に思って、少しは大目に見てやってよ」
崇が、私を、好き。
ため息をついた。
「崇は私を好きじゃないですよ」
想像していた反応と違ったのだろう。志賀さんの手の中で切子が揺れて、かたりと音を立てた。
「崇は私を好きじゃないですよ」
繰り返す。
「……言い切るね」
「だって、そうだから」
その誤解には慣れてしまった。いちいち訂正して回るわけにもいかないけれど、完全なる誤解なのだ。いくらそう見えたとしても、崇は私を好きじゃない。私はそれを、知っている。崇は、私を、好きじゃない。
「随分、頑なだね」
「みんながそういうこと言うけど、違うから」
「違うんだ」
「違います」
違うのか、と志賀さんは切子の縁を指先でなぞる。あからさまに納得しきっていない声。
本当にみんな、一体どこを見て、そんな考えに辿りついて、信じ切ってしまうのだろう。いや、多分、わかっている。それが、一番都合がいいからだ。父を喪った私、島田ゆすらという女にとっての、一番美しい結末、だからだ。島田ゆすらという女の、物語。私はときどき、自分の人生を、そんなふうに感じる。私以外の誰かが書き、私以外の誰かが読む、物語。父がいた頃なら、それでもよかった。物語を生きることで、私は父に寄り添えていると感じていたから。でも。
でも。
私は唇を噛む。その痛みで、低い方へ暗い方へと流れていこうとする思考を堰き止める。お酒をぐいと飲み干すと、喉に熱を蟠らせたまま、もう一杯、手酌で注いだ。
「崇は私を好きじゃないし、私は崇に優しくしません」
志賀さんと、それから自分を納得させるために、きっぱりと言う。それから、結婚してるし。これは声に出さずに付け加える。
志賀さんはおかしさと呆れと、多分悲しさを唇に乗せて微笑むと、つやのない睫毛を伏せた。
「かわいそうに」
私はそれを、聞かないふりをする。
今日ぐらいは片づけを手伝おうと思ったのだけれど、座っていてください、と言われてしまったので、おとなしく食卓で待っていた。まだ身体に、浮き立つような、けだるいような酔いが残っている。それ以外は、いつもと同じ静けさだ。抱えた膝の上に頭を乗せて、目を閉じ、沈黙に耳を浸す。
「ゆすらさん?」
洗い物を終えた木崎が、私の顔を覗き込む気配がした。
「なに」
「起きてたんですか」
「うん」
目を開ける。思いのほか、木崎の顔が近くにある。視線が合う。私たちは微笑む。相手へと落下するような自然さで、唇が重なり合って、すぐに離れた。木崎の唇は、お酒くさくはあるけれどいつもと同じあたたかさだった。安心する。木崎は微笑んでいる。
「今日は」
「はい」
ごめん、と言いかけて、小さな違和感を覚える。
「ありがとう」
そうだ。多分、こちらのほうがふさわしい。
「どういたしまして」
「大変だったでしょう?」
崇を追いかけた木崎はすぐに戻ってきて、志賀さんと随分長いこと飲んだ。結局、酔いつぶれて立ち上がるのも一人では難しい志賀さんのためにタクシーを呼んで、肩を貸して乗せてあげていた。タクシーの後部座席で、眠りかけた志賀さんは肉のそげた部分に溜まった影のためか、ひどく年を取って見えた。
「それほどでも」
木崎は平然としている。隣に座った木崎の肩に、私は頭を寄せる。後頭部に、木崎の手のひらが乗った。あたたかくて、気持ちがよくて、それまでもぼんやりと漂っていた眠気がずしりと頭にのしかかる。
「ねむたい」
「寝ますか」
「ねない」
「はい」
寝ないと言いはしたけれど気持ちがよくて、なかなか身体を立て直せない。木崎は手のひらを、後頭部から背中に滑らした。ますます眠たくなってくる。眠気に引きずられながら、私は尋ねる。
「木崎さん」
「はい」
「崇と、なにか話した?」
「特になにも」
「変なこと、言われなかった?」
「いいえ」
「そう」
よかった。
木崎の手のひらは、ゆっくりと私を眠りに落とし込む。ちいさな気持ちのささくれも、気がかりも、眠りによって宥められ、平らかにされて、今日という現実が、昨日という思い出に押し込まれていく。
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