第21話

 文房具屋で小さなノートを買った。オレンジの表紙の、外国製の薄いノートだ。そこに、いろんなことを書いて遊んでいる。読んだ本のことや、食べたもののことや、小説になりそうな思いつき。

「仕事が終わっても、また書きものですか」

「うん。でも、これも仕事」

「仕事?」

 うん、と頷いて、ノートを閉じた。木崎は座布団を枕にして横になっている。ゆるく着た浴衣から細くて白い脛がにょっきり伸びている。ここに来てから、木崎はお風呂に入ってばかりいる。

「色々書いておくと、後で考えるのに役に立つから」

「なるほど」

 納得したのかしていないのかわからないけれど、木崎は頷く。

「書くことはゆすらさんの天職ですね」

「天職」

 自分ではよくわからない。書くことが好きだけれど、天職というのはもっと、広がりのある言葉のように思う。私が書くことで、私以外の誰かが助かったり、するだろうか。

「他にすることがないだけだよ」

「そんなことはないと思いますよ」

 ごろりと寝返りを打って、腹這いになる。最近、よく寝ている木崎を見る。家だと木崎は、よく働いていたな、と思う。私は木崎に並んで横になる。木崎の頬に触れる。

「ちくちくする」

「剃ったほうがいいですか」

「ううん」

 自分の頬をつける。ひげってどうしてこんなに硬いんだろう。木崎はさほど体毛は濃くないけれど、ひげは硬く、わりに広範囲に生えている。伸ばしたらどんなふうだろう。

「伸ばすの?」

「どうしましょう」

「伸びたのもみたいな」

 そう思った。色々な木崎を見てみたい。家の木崎と宿の木崎が違うように、ひげが生えた木崎も、今の木崎と違うだろう。

「僕、そのまま伸ばすとみっともなく生えるんですよね」

「そういうもの?」

 木崎は頷いて、それから私の唇に唇を重ねた。

「でも、ちょっとやってみましょうか」

「うん」

 木崎の指が、私の背中をたどった。私の肌が粟立つ。それは肉体的な反射ではなく、その指の持つ意図を感じ取ってのものだった。私はどうするべきかよくわからず、そのまま木崎に身を寄せていた。木崎の指が、這い登り、うなじの肌に触れた。私はちいさく息を飲み、肩を竦める。自分の身体の輪郭を、突然に意識させられる。額がぬるい汗で濡れる。

 ふ、と、木崎が笑った。指が離れる。湿り気を帯びた肌を空気が撫でて、つめたい。

「お昼寝します」

 両腕を組んで、そのうえに顎を乗せて言う。

「おやすみ」

「はい」

 木崎は目を閉じる。呼吸に合わせて背中が動くのを、隣で見つめる。すぐに寝息特有のゆったりとしたリズムになり、私は、木崎を好きだな、と思った。とても好きだ、と。

 優しく、穏やかで、あたたかい、私に都合のいい、木崎が。

 私も目を閉じる。畳の上で、身体が強張る。木崎の体温を感じる。木崎の寝息に、呼吸を合わせる。

 それでも、私は眠れそうになかった。


 騒がしい。目を閉じたまま思う。テレビの音だ。そんなに大きくない。明るい歌。幼児番組のものだ。私は小さく目を開ける。頭の下に座布団が、身体の上に綿毛布があった。なんだか、それだけで泣きそうになった。

 毛布をかぶったまま、ずりずりと音を立てないように畳を這う。胡坐をかいている木崎の太ももに、頭を乗せた。

「わあ」

 木崎は驚いて、でもすぐにいつもの穏やかさで笑い、私の頭を撫でてくれる。私は木崎のお腹に顔を埋めた。座っているせいで、薄い贅肉が段になっている。そのまま、テレビの歌をまねて歌った。私が子供のころからやっている番組なので、歌うことができる。木崎が笑い、お腹が振動する。

「懐かしいですよね」

「木崎さんも見てた?」

「はい」

 木崎も子供だったんだな、という当たり前のことが、なんだか新鮮だった。子供の頃の話も聞いて、子供の頃の写真も、見たことがあるのに、ちゃんとそれを感じたことがなかった。私はこの男のことを何も知らないような気がする。何も知らない。何も、見ていないから。

「木崎さん、どんな子供だった」

 それで、聞いてみる。

「どんな。どんなでしょう」

 思いもかけないことを言われた、といった調子で、木崎は考え込む。

「ぼんやりした子だったと思いますよ。家で子供が自分だけだったので、周りより遅れるのが当たり前でした。甘やかされてたんでしょうね」

 私は木崎の実家に招かれたときに見せてもらった、子供の木崎を思い出す。前髪が真っ直ぐに切りそろえられた、ふっくらした頬のかわいらしい男の子。

「今も、僕は甘やかされてますね」

 驚いた。

「そうなの?」

「しなくていいことは、しなくていいようにしてくれるでしょう。ゆすらさんは」

 そんなつもりはまったくなかったし、何の心当たりもなかった。どちらかというと、私は木崎に対しては横暴だと思う。それを思い出して、気まずくなる。本当は、もっと優しく、というよりも、大切に、しなくてはいけないと思っているのに、できていないから。

「木崎さんは、このままでいいの」

「はい」

「そう」

 木崎のお腹にまた顔を埋める。私の夫。私の木崎。テレビでは子供たちが歌っている。

 子供。

 木崎は、子供がほしくないのだろうか。

 頭に浮かんでしまったことを、口に出して尋ねることができない。木崎は私の頭を撫でてくれる。木崎の優しさが、手のひらから伝わってくる気がする。でも私は、こんなものに相応しい人間だろうか。怖くなる。怖くなって、木崎にしがみつく。木崎は小さく笑い、頭を撫で続ける。私はささくれていた部分が確かに癒されていくのを感じながら、心の下の方に、重たく冷たいものが溜まっていくような気がした。

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