第22話

 ここの湯はやわらかい。

 と父は言っていたけれど、私にはよくわからない。露天の湯は灯りを、水面にだけ白く纏っている。その下の湯は、空と同じほど暗い。私は裸の膝を抱く。肩に湯気と、夜風が当たる。湯に入っているせいで、風が随分ひややかに感じる。手のひらで湯を掬って、肩にかけた。

 大きな休みもなく、今の時期はそれほど宿は混んでいない。露天には私ひとりだ。それが急に、とても心細く感じた。家から離れて、こんなところで、私は何をしているのだろう。

 今日は、母の命日だ。

 母は癌だった。自分の健康に気遣う習慣のない人で、具合が悪いと病院に行ったときにはもう手遅れで、そのまま入院し、みるみる病み衰えていった。

 病院がいけない。病院なんか行かせなければよかった。

 ある夜、母を見舞った後、父がそう言った。言い終えるよりも前に、青葉が父の胸倉をつかんだ。父も私も顔を白くしたが、青葉は真っ赤な顔でぶるぶると震えながら、父から手を離して、居間から出て行った。私は青葉を追いかけた。そのとき父が、どんな顔をしていたのかは、わからない。そのときは、気にならなかった。わかろうと、しなかった。私は青葉が心配だった。違う。青葉のほうが、不安を分け合うことができた。父の不安と私の不安は、交じり合わないものだった。

 あの頃の記憶は、しかし明瞭ではない。実際に起こったことと想像と気分が交じり合って、ところどころつじつまが合わない。私と青葉は、いつも泣いていた気がする。二人で、青葉の部屋で、言葉もなくめそめそと泣いて、泣き疲れて眠った。でも、それは本当に起こったことだったのだろうか。もっと違う、子供の頃の記憶ではないだろうか。わからない。確かめるすべもない。何もかも全部、重要な時間も、些細なことも、交じり合って、流れて、薄れて、わからなくなる。私は一人で、私の記憶の前に立ちすくむ。もうなにが本当のことかも私にはわからない。私の記憶は、大切なものを大切に取っておきたいという、私の些細な希望にさえ答えられない。

 やめよう。

 座り込んでいたいという私の希望に沿って重たくなるお湯に、逆らって立ち上がる。温まった皮膚に触れる空気はつめたく、頭がぼんやりとした。のぼせかけていたのかもしれない。

 まだ、一年だ。突っ立って考える。病院で、母は灰色の顔をして、いつも苦し気だった。看取ったのは父だった。父は何も言わず、ただ母のちいさなちいさな手を握っていた。私と青葉は手をつないだ。みんな何も言わなかった。

 戸が開く音がする。誰かが露天に来る。私は背中を丸め、湯から上がった。


 目が覚めた。目を開いてもあたりは濃い闇だ。なにも見えない。悲しみのような焦りのような鬱積で、胸が重たい。私は何をしている。こんなにのうのうと、何も生み出さずに、一人で悲しい悲しいと落ち込んでばかりで。

 目の端から涙が流れて、布団にしみこんでいく。何をしているんだろう。いつまでも落ち込んでばかりいて。でも、やっぱり悲しかった。私は健康で、それなりに楽しく日々を過ごしているけれど、そこには母も、父も、いないのだ。そしてもう、二度と戻らない。

 母の死は、悲しかった。

 悲しかった。途方もなく悲しくて、今も悲しい。でも、それはちゃんとした悲しみだった。人に語り、分かち合うことのできる、悲しみ。

 父の死は、そうではなかった。

 あの日は雨が降っていた。音も気配も吸い取ってしまうような、雨が。父を見つけたのは私だった。でも、本当にそうだったのだろうか。わからない。思い出すのがこわい。揺れる父のはだかの足。あれは本当にあったことだったのか?

 父が好きだった。父が大切だった。父もそうだと思っていた。母を愛し、私を愛し、青葉を愛していると。そう信じていた。疑ったことさえなかった。私たちは同じ悲しみを抱えているのだと思っていた。諍いや齟齬があったにせよ、私たちの結びつきは壊れない。信じていたのだ。その結びつきを、疑ったことさえ、なかった。

 でもそんなものはなかったのだ。私のどこかがまだ血を流している。そんなものはなかった。父にとって、私と青葉は、なんでもなかったのだ。父の悲しみは父のものでしかなくて、私たちとそれを分け合うつもりはなかった。父は行ってしまった。何も言わずに、私たちを取り残した。新しい悲しみを置いて。そして、青葉もいなくなってしまった。私の信じていたものは、全部なくなってしまった。私は一人ぼっちになった。持っているのは思い出とお金だけ。そして、それだけあれば十分じゃないかと、ときおり人は言う。それを言う人々を憎みながら、でも、同時にそれに縋りつく自分がいることも知っている。私は生まれてからずっと恵まれていた。そうでない生き方など想像もできない。恵まれていない人生を歩く力など、私にはない。

 でも苦しいのだ。苦しくて、悲しくて、寂しい。私はこの苦しみを、どうしていいのかわからない。苦しむこと自体を罪と感じることもある。本当は私に苦しむ資格などないのだと。私は切り離されている。これまで生きてきた自分から。そこにあると信じていたものから。でもそれに完全に背を向けることもできないでいる。私はそれらから、自由にはなれない。決して、なれない。

 布団の下で手を伸ばす。すぐにあたたかいものに触れた。私とは違う、あたたかい身体。木崎。私の、木崎。私を助けてくれた人。涙が出る。止まらない。木崎の肩を指で撫でる。木崎。私の木崎。私だけの。

 木崎の寝息が、ほんの微かに聞こえる。安らかで穏やかな、私のものではない眠り。木崎。

 うう、と木崎が呻き、肩を撫でる私の指に触れた。確認するように手のひらで触れ、それから私の手を握った。あたたかくて大きな手のひら。そのまま、木崎は眠りに戻っていった。

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