第5話

 志賀さんに呼ばれたので、喫茶店に行った。志賀さんに会うのは久しぶりだ。

 待ち合わせです、と告げて、中に入る。平日の昼間なので、さほど混んではいない。すぐに見つかった。薄い黄色のシャツに、茶色のカーディガンを羽織った、姿勢の悪い志賀さん。お互いほとんど同時に気づいたのか、私と目線を合わせてにっこり笑った。もう五十近いのに、子供みたいな笑い方をする。

 いつもなら、私の顔もほころぶところだけれど、そうはいかなかった。志賀さんは四人掛けのテーブルに、連れと一緒に座っていた。背を向けていたその人も、志賀さんの様子につられて振り返る。

 崇だった。

 崇はほんの一瞬だけ驚いた顔をすると、そのことを恥じているかのようにまた背を向けて、珈琲を飲んだ。私は困惑し、困惑を隠す気にもなれず、弱弱しく志賀さんたちのもとに歩み寄った。

「ゆすらちゃん、久しぶりだねえ」

 私と崇の屈託をまるで無視して、志賀さんが明るい声で言う。

「こんにちは」

「座って座って。ゆすらちゃん、ケーキ食べるかい? パフェもあるよ。好きなもの頼みなさい」

 メニューを開いて差し出してくる。私は志賀さんの向かい、崇の隣に座った。崇は何も言わず、表情を私から見えない程度に逸らしている。耳朶の薄い白い耳と、少年めいてなめらかな首筋。

「なんにしようかな」

 私はメニューを受け取り、ざっと目だけ通して、店員を呼んだ。紺色のワンピースに真っ白いエプロンの制服。私はいつもの通り、バタークリームのケーキと紅茶を頼んだ。

「ケーキ、一個でいいの?」

 志賀さんに言われ、二個頼めばよかったか、と思ってメニューを見ると、なんだか他のケーキがとても美味しそうに見えてしまう。癪なので、メニューを閉じてスタンドに立てる。

「一個でいいです」

 平気な顔をして言う。

「どうだか」

 と、崇が顔をそむけたまま言う。むっとして睨みつけるけれど、志賀さんが微笑ましい、と言わんばかりの視線を向けてくるので、恥ずかしくなってやめた。ふふ、と志賀さんが笑う。

「ゆすらちゃん、元気そうだね」

「元気ですよ」

 と応える。志賀さんに最後に会ったのは、父の葬儀のときだった。崇のパーティーにも来ていなかった。もともとは、賑やかな場所やお酒の席が好きな人なのに。

「志賀さんも、元気そう」

「なんとかね」

 と、志賀さんは笑うけれど、もともと削げている頬の肉が、さらに薄くなった気がした。唇の色も、あまりよくない。お酒ばかり飲んでいるのかも、しれない。

「崇君は、元気がなさそうだよ。ゆすらちゃん」

 何がしかを含ませた声で、志賀さんが付け加える。崇が気分を害したのが、気配だけでわかった。といっても、子供っぽくて棘のない気分の害し方だけれど。志賀さんといると、私も崇も、なんだかとても幼い気持ちになってしまう。

「崇君の新しい本、僕が表紙を描くんだけどね、元気がなさそうだから、ついでに慰めてあげようと思って」

 ね、崇君、と志賀さんが目配せすると、崇は顔を僅かに顰めて珈琲を啜った。

 志賀さんは、イラストレーターだ。駆け出しのころに父に気に入られて、表紙をたくさん任された。家にもよく来て、何日も泊まっていったりした。その間父のお酒の相手をしたり、私たち、つまり私と崇と弟の、遊び相手にもなってくれた。崇が作家になってからは、崇の本の表紙もよく描いている。私の本にも描いてくれようとしたけれど、父が「志賀の絵は、ゆすらには合わない」と言ったので、なかったことになった。私は志賀さんと、志賀さんの絵がとても好きなので、残念だった。けれど父にそう言われると、確かに合わないかな、と思ってしまった。志賀さんの絵は、私のものには重すぎる。あるいは、私の書くものは、志賀さんの絵には軽すぎる。

 私の前に、ケーキと、紅茶が運ばれてきた。黄色っぽいバタークリームとスポンジだけでできた四角いケーキだ。とても質素な見た目だけれど、子供のころから、私はこれが好きなのだ。ここに来ると、必ず頼む。

「いただきます」

 と手を合わせて、フォークを取る。ケーキの角を小さく切り取って、口に入れる。バタークリームが、口の中の温度で形を崩していく。

「いいねえ、ゆすらちゃんは」

 志賀さんが、感心したように言う。

「本当にものをおいしそうに食べる」

「こいつには飯さえやっとけばいいって先生も言ってましたからね」

 馬鹿にしたような崇の言葉に、不意に思い出したことがあった。言っておくべきなのだろう。フォークを置き、志賀さんに向かって話しかける。

「このあいだ、金つばが届いて」

「金つば?」

 志賀さんは怪訝な顔をする。それはそうだろう。

「送り主の名前も、のしもない金つばが、届いて」

「ちょっと怖いねそれ」

「でも、好きだから、食べました。美味しかった」

 私は崇の方を見ずに、気配だけを窺う。

「よくわからないけど、よかったね」

 事情は多分わからないまま、でも私からなにがしかを感じ取った様子で志賀さんが言う。私は頷く。

「よかったです。うれしかった」

 崇の手が、コーヒーカップに伸びる。その手から何かを読み取れないかなと思ったけれど、無理だった。でも、言うべきことは言えたから、もういいだろう。

「僕からも何かお祝いをしなくちゃね。何がいいかな」

「お祝いって、結婚の?」

「そりゃそうだよ。いつの間にか結婚してたね」

 志賀さんの声に責めるような響きはない。むしろ、面白がっているように聞こえて、私の口も軽くなる。

「人に知らせるの、億劫で」

「青葉君にも知らせてないの?」

 弟のことを訊かれて、頷く。

「どこにいるかわからなかったから」

 弟は父の死後の色々な実務的な手続きが終わると、家を出てしまった。時折、思いがけないところから風景写真の葉書が届く。指宿だとか、フィリピンとか、リヒテンシュタインだとか。だがメッセージは添えられていない。筆不精なのだ。私たちはまずまず仲のいい姉弟だけれど、顔も性格も、似ていない。

「優雅な姉弟だなあ。まったく」

 志賀さんの言葉に、曖昧に笑う。実際、そうなのだろう。私と弟の生活は、生産ではなく浪費で占められている。私たちが生み出したわけではない富の浪費に。

「相手も働いてないんだろ」

 崇がむっつりした声で言う。その言葉に、思いがけず腹が立った。自分の生活が非難されたり笑われるのは、傷つくことはあるにしろ、仕方のないこととも思う。けれど木崎を軽んじられるのは、腹が立つ。木崎のことを、何も知らない癖に。

「私がやめてほしかったの。仕事」

 考えて、付け加える。

「毎日一緒にいたかったから」

「へえ」

 崇は鼻白んだ様子で言い捨てる。志賀さんは、堪え切れない、というふうに笑う。

「一緒にいたかったから、ね。そりゃいいな。いい男なんだろう」

 どう応えるのが正解なのかわかりかねて、とりあえず素直にうなずいた。

「いい男です。私にはもったいないぐらい」

「いいねえ」

 志賀さんは楽しそうに言う。志賀さんはよく女の人の家に転がりこんだり、女の人を引き込んだり、と色々しているそうだけれど、長続きしない。父やその周りが見かねて、誰か、結婚に向いた女の人を紹介しようとしたことが、昔は幾度かあったけれど、いつも、頑なに拒んでいた。

「志賀さんは?」

「僕?」

「結婚しないの」

 志賀さんは、長年の放蕩のせいで少し濁った両目を見開いたあと、困ったように笑った。

「僕はもうじじいだよ。相手がいない」

「ふうん」

 実際のところ、年齢は結婚しない理由になどなりはしないと思った。特に志賀さんのような職業で、志賀さんのような性質の人には。でも、すわりのよい言い訳ではあるのだろう。

「崇君ぐらい若くて男前なら、考えるところだけどね」

 とばっちりを受けた崇が、顔を顰めた。

「やめてくださいよ」

「ははは」

 頭でも撫でそうな鷹揚さで志賀さんが笑う。崇はさらに顔を顰めた。崇は子供っぽい男なのだな、と、既知のことを、改めて思い知る。何故そんなことを今思ったのかな、と考えて、木崎を男の基準にしていたことに気づいて、驚いた。いつの間にか、木崎は私の中で一つの男の基準になっていた。それは気恥ずかしくはあるけれど、あたたかく安心で、どういうわけか誇らしくさえあることだった。木崎が私の中に、ゆっくりと根づいていく。

「ゆすらちゃん」

「はい」

「会いたいな。そのいい男に」

 思いがけない提案に首を傾げ、それから、いいですよ、と言った。志賀さんに、以前の私をよく知っている人に、木崎を見てほしいとも思った。

 かちゃり、とやや乱暴な音を立てて、崇がカップを置いた。私と志賀さんの視線が、不機嫌そうな崇の顔に向く。

「行くなら、俺も行きます」

 不思議に強い声だった。志賀さんはくすりと笑う。

「だってさ」

 それで、今日さっそく、家に連れていくことになった。

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