第14話

 涙が顎からぽたぽたと滴る。手が塞がっているので拭うことも出来ず、流れるに任せる。視界がぼやける。

「代わろうか?」

「へいき」

 首を振って、瞬きで涙を払い、玉ねぎを乱暴に刻んで、刻んだ分を鍋に入れる。炒めるのは青葉の担当だ。うちのカレーは、玉ねぎをたっぷり使う。

 私と青葉は、二人で夕食のためのカレーを作っている。木崎は外出中だ。たまには羽を伸ばしてくださいと青葉が言うので、私もそれはそうかと送り出した。夕食までには帰ってくる。夕食には、青葉が会いたいというので志賀さんも呼んだ。

「すごい匂い」

 青葉の目も涙に分厚く覆われている。

「上手にできるかな」

 久しぶりに作るので、私の手つきは心もとない。

「多少失敗しても美味しくできるのがカレーのいいところだよ」

 玉ねぎを炒める青葉の手つきは、私よりはずいぶんしっかりしている。

「青ちゃん、料理うまくなった?」

「うまくなったかはわからないけど、前よりは慣れたね」

「私、前より下手になったかも」

 木崎が来る前は、今よりは台所に立っていた、ような気もする。締め切り前の真夜中に夜食を作ったり、青葉とカレーを作ったり、母の、手伝いをしたり。

「前よりって、それはちょっとひどいね」

 二人で顔を見合わせて笑う。

 玉ねぎを刻み終えると、手をしっかりと洗う。甘く香ばしい匂いと、じゅうじゅうという低い音。青葉はゆっくりと、玉ねぎを炒める。

「ゆすらちゃん、休憩だね」

「代わろうか?」

「へいき。でも暇だから、横で話してよ」

「なにそれ」

 くすくすと二人で笑う。丸く汗が浮かぶ青葉の額は、記憶にあるよりもずっと日に焼けている。

「何の話が聞きたいの? ケルト神話とか?」

「そういうのはいいや。あっちでも聞いたし」

「行ってきたんだ」

「ちょっとだけだけどね。連れて行ってもらった」

「誰に?」

 青葉はうっすらとした笑みを浮かべて、恋人、と言った。

「どんな人?」

「料理は上手じゃないな」

 何かを思い出しているのか、くすりと笑う。なんだか、大人の男の人のような笑い方だ。大人の男の人、なのだけれど。変わってしまった。ちりっ、と、どこかが焦げるような痛みが走る。

「そのうち、会わせてもらえる?」

「続いてたらね」

 線を引かれた。踏み込む気にはなれず、そう、とだけ言う。青葉は木べらで鍋をかき回す。母に教えてもらった、うちのカレーの作り方。私は母の言葉を思い出そうとする。玉ねぎは時間をかけて、弱火で。にんにくをたっぷり。お肉は大き目。煮込んだら一度冷まして……。

 母は料理が上手だった。料理が好きなのではなくて、美味しいものが好きだから、料理をせざるを得ないのだと、笑っていた。台所に行くと、私と青葉に色々なことを教えてくれた。色々なことを。私たちはそれをただ聞いていた。母の、白く小さいけれどがっしりとした手が、食材を美味しい料理へとなめらかに手際よく変身させていくのを、眺めながら。母は、私たちに、色々なことを教えてくれた。

 とても覚えておけないぐらいの、色々なことを。


 やっぱり、と、言うべきなのだろうか。志賀さんは、崇も連れてきた。崇はいつものようにむっとした顔をしていたけれど、青葉が笑いかけると、紐がほどけるみたいに笑った。子供っぽい、棘のない笑顔。そんなの、久しぶりに見た気がする。

「どこ行ってたんだよお前」

「世界中。かっこいいでしょ」

「馬鹿」

 崇の手が青葉の背中を叩く。青葉は笑い、崇も笑っている。二人は本当に仲がいい。お互いのお互いを好きな気持ちが、羞恥だとか反発だとかの余計なものに邪魔されずに、きっちり交換できている。大人になると、いや、物心がついてしまうと、そういうことはなかなか難しい。しばしば、他人に向ける好意は、そのまま弱みになってしまう。

「いい匂いだ」

 志賀さんが私を見上げて笑う。私がコップとビールを食卓に運ぶと、木崎が何も言わずに並べてくれた。

「玉ねぎをいっぱい使ったカレーの匂いですね」

 私は笑って頷いた。青葉と二人で、配膳をする。カレーライスと、サラダ。あと志賀さんが手土産にくれたチーズと生ハム。おもてなしには少し粗末な食卓かもしれないけれど、身内の集まりと言うことで、許してもらおう。崇にいたっては呼んだわけでもないのだし。

「いっぱいあるからどんどん食べて。おかわりはご自由に」

 青葉が崇に笑う。崇は小食だけれど、カレーは好きだ。それもお店でナンと食べるようなものではなく、家のカレーが。

「ああ、島田家のカレーだ」

 志賀さんが嬉しそうに言いながら、ごはんとルーをかき混ぜる。崇も一口食べて、

「おばさんの味だ」

 と言った。私も食べてみる。ルーに溶け込んだ玉ねぎの味。母の味、に、似ているけれど、まったく同じなのかどうか、自信がなかった。母のカレーはもっと、もっと、なんだろう。何か、違う気がする。違う気がするけれど、わからない。

「本当だ」

 と志賀さんが言う。志賀さんが言うなら、そうなのかもしれない。そもそも、母の味というものを、私はちゃんと覚えているのだろうか。見たことはあって、頭の中にはっきりと浮かんでいるはずのものを絵に描いてみろと言われて、描いていくうちに、頭の中にあるものさえ曖昧になっていく。そういうふうに、母の味が、私の中でぼけていく。

「おいしい」

 と、木崎が言う。私は木崎と目を合わせる。木崎は笑う。私と目が合ったのが、嬉しいことみたいに。私も笑う。木崎と目が合うのは、嬉しいから。

「おいしいです」

「よかった」

 よかった、で、多分いいのだと思った。ごはんにとって大切なことは、食べておいしい、ということだ。それ以外のことは、おなかがいっぱいになってから考えればいい。もう一口食べてみる。よく煮込んだ牛肉が、ほろほろと口の中で崩れた。美味しい。

「青葉くん、男っぽくなったなあ」

 志賀さんが、青葉の太くなった腕を触って言う。

「かっこいい?」

 青葉は力こぶを作って見せる。かっこいいよ、と志賀さんは青葉の腕を叩いた。

「顔は先生にそっくりなんだけどなあ、青葉くんは」

「才能は全部ゆすらちゃんに行っちゃったからね」

「私のほうにもあんまり来なかったよ。どこ行ったんだろうね」

 三人で笑っていると、崇が顔を上げた。唇の端に、カレーがくっついている。

「全部お前のところだよ。怠けるな」

 笑おうと思ったけれど、崇の目が思いのほか真剣で、スプーンを口もとにあてて、黙り込む。志賀さんが言う。

「先生が一番ゆすらちゃんを買ってたからね」

 それは、ときどき周囲から言われることだった。編集の人や、父の作家仲間の方たちに。でも、私自身は父の口からそんなことを聞いたことがない。父はただ、私に「たいした作家になろうとするな」という旨のことを、繰り返していた。自分が書きたいものよりも、大きなものを書こうとするのはやめなさい、と。聞きようによっては子供を手元に留めておこうとするひどい親のようだが、父は純粋に自分の経験からそう言っていたのだと思う。他の若い作家に言わなかったのは、単に立場のせいだろう。父は、彼がかつてなりたいと思っていたものよりも、大きくなりすぎてしまって、もうどうしようもなくなっていたのだ。私には、それがわかった。私もまた、産まれたときからただの小さな女の子ではなかったし、今も、ただの売れない作家ではないから。いいとか悪いとかではない。父はかつて賞を望んだように、大きくなりたい、と望んで、それが叶えられて、良いこともあっただろう。私もまた、そのことで随分得をしてきたのだと思う。ただ、それは一方通行の道なのだ。一度なってしまったら、もう戻ることはできない。父が今更ただの作家になることは決してできない。私もまた、ただの、一人の島田ゆすら、あるいは木崎ゆすら、になることは、できない。私たちの人生は、書く先から読まれていく物語だ。書きこんだ文字を、消すことはできない。私たちの物語は、あまりに多くの人に読まれてしまった。本を閉じてもらうことは、もうできない。

「怠けたまま、それなりに仕事ができれば、私はそれでいい」

 私の言葉に、崇が顔を歪める。怒っている崇。どうして怒るのか、私には理解できない。熱した崇の視線と、冷えた私の視線が、ぶつかり合う。

 自分の本当の大きさ以上に、大きくなりたくない。父がかつて願い、今の私が怯えること。他の人にわからないのは、仕方がない。私だって、その人たちのことはよくわからない。でも、どうして崇に、それがわからないのか。私にはそれが不思議でならない。父のそばにいて、私のそばにいて、どうしてそんなことがわからないのだろう。もしかしたら崇は、無限に大きくなれるのかも、しれない。無限に大きくなって、その大きさを、苦ともしないのかも、しれない。そう思う。そう思うとき、私は、崇が、少し、こわい。他のどんな、会ったことも、想像したこともないような人たちよりもずっと、崇と私は、隔たっていると、感じる。

「僕はゆすらさんが書くもの、好きですよ」

 ふ、と、木崎が言う。全員が、木崎を見る。視線の中で、木崎は穏やかに笑う。

「よくわからないけど、今のままのゆすらさんが、僕は好きです」

 ぴゅうっ、と、鼓膜を突き抜けるような音がした。青葉の口笛だ。久しぶりに聞いた。

「かっこいいな木崎さんは!」

 立ち上がり、木崎に向かって手を差し出す。木崎は躊躇う様子もなく、その手を自然に握った。

「あなたは素晴らしい。お義兄さんとお呼びしても?」

 木崎は瞬き二回の間だけ戸惑いをあらわにして、それからいつもと同じ笑い方をした。

「お好きなように」

「お義兄さん。お義兄さん! 素晴らしいな」

 青葉は興奮している。その張った声の調子に、あ、と、気づき、私の気分が落ちる。青葉は多分、楽しくなってしまっている。一見いいことのようだけれど、これも、あんまりいいことではない。私もほんの時々なるけれど、必要以上に、楽しくなってしまうのだ。必要以上に、落ち込んでしてしまうのと、そう変わらない。

 父は同じ程度の頻度で、楽しくなり、落ち込んだ。急に何もかも放り出し、私たちに学校を休ませて家族みんなで旅行に出たり、そうして行った先の旅館で沈み込んで、部屋から出てこなくなったり。母は困惑する私たちに微笑みかけ、父を宥め、世話をした。私たちは二人で言葉少なに、知らない旅館の廊下で遊んだ。どうしてそうなるのかわからず、ただ自分たちにそれをどうしようもないことだけを感じ取りながら。

 父の、楽しくなるのは青葉に、落ち込むのは、私に。そういうふうに二つにわけて、私たちは父の理不尽を、受け継いだ。

「お義兄さん、ビール飲みましょう」

「ありがとうございます」

 青葉が木崎のコップにビールをなみなみと注ぐ。少し零れてしまったのを、木崎は縁に口をつけて吸い込む。平和な光景なのに、不穏なものが眠っている気配に、私の肩が強張る。ふと助けを求めるように崇を見ると、崇も何かを警戒するように、目を細めていた。私の視線に気づいたのか、目を伏せる。

「青葉」

「なに、崇」

「おかわり」

 いつの間にか空になっていたお皿を、青葉に突き出す。崇は好きなものだとあっという間に食べてしまう。

「しょうがないな崇は」

 嬉しそうにお皿を受け取って、青葉は立ち上り、台所に行く。崇に視線をやると、皮肉げに眉を上げた。青葉の手の届くところから、ビールを退ける。

「気をつけろよ」

 授業中のおしゃべりみたいに、こっそりと私に言う。青葉がまだ背を向けているのを横目で見て、私もこっそりと頷いた。

「はい、崇」

「ありがとう……って、ひどいな」

 皿にこんもりと盛られたカレーに、崇が苦笑する。

「食べられるでしょ? このぐらい」

「どうかな。もう三十近いんだぞ」

 と言いながらも、崇は大きな肉を口に入れた。青葉はそれを、楽しそうに見つめている。

「仲いいねえ本当に」

 志賀さんが言い、青葉は嬉しそうに、にっ、と笑った。

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