第15話

「青葉」

 部屋の外から呼ぶと、「どうぞ」と声が返ってきた。戸を開ける。崇は床に座り込んで、漫画を読みながら洋酒を飲んでいる。青葉はベッドにうつ伏せに寝そべって、やっぱり漫画を読んでいる。男の子たち。そんな言葉が浮かぶ。二人でいると、青葉も崇もいつまでも男の子たちだ。

「お風呂空いたよ」

「ありがとう。もうちょっとしたら入る」

「うん」

 崇は片膝を抱えて、手のひらで口元を隠して、私を見上げている。お風呂を先に使った崇の髪はまだ湿って、肌はつやつやと白い。着ているのは青葉の寝間着だ。サイズが違うので、細い鎖骨が見えている。なんだか無防備で、あけすけすぎる気がして、目を逸らした。

「ゆすらちゃんも漫画読む?」

 青葉に聞かれて、首を振った。青葉はだいぶ落ち着きを取り戻しているようで、ほっとする。

「もうちょっと志賀さんたちと飲んだら寝る」

「そっか。僕と崇は仲良く夜更かしするよ」

「はいはい。おやすみなさい」

「おやすみ」

 手を振って、青葉の部屋を後にする。居間に行くと、木崎はおらず、志賀さんだけが飲んでいた。こちらに背を向けて、何かを飲んでいる。酔いのせいで、首筋までが赤い。

「木崎さんは?」

 声をかけると、志賀さんが振り返る。ほのかに笑みに崩れていた目元が、私を見た途端、驚きに見開かれた。私は志賀さんに微笑みかける。志賀さんは目を伏せると小さく頭を振り、お酒をもう一口飲んだ。

「旦那さんはトイレだよ」

「そう」

 私は台所から切子の猪口を出して、志賀さんの横に座る。食卓には、チーズと生ハム、ナッツが並んでいる。酒瓶を取ると、まだ半ばまでお酒が入っていた。自分でついで、一口飲む。甘味の強いお酒が舌先に触れて、ふわりと酔いが回る。

「そんなに似てる?」

 尋ねると、志賀さんは顔を上げ、私を確かめるように眺めて、諦めたように笑った。

「うん。似てる。驚いた」

 私はまだ少し湿った髪を、耳にかけた。普段は結んでいる髪を下ろすと、自分でもはっとするほど私は、母に似ている。顔立ちよりも、佇まいが似ているのだ。

「ゆすらちゃんは本当に、先生にも、奥さんにも、よく似てる」

「それって、つらい?」

 志賀さんは私の顔を射るように見つめた。私もその顔を見つめた。実際の時間よりもずっと、長く感じるような、眼差しだ。先に目を逸らしたのは志賀さんのほうだった。

「少しね」

 と、お酒を飲みながら言う。志賀さんのつらさには、いつもお酒が付き纏う。それが志賀さんの苦しみ方だった。人には、それぞれの苦しみ方がある。

「ゆすらちゃんは、こわいな」

 私を見ずに、志賀さんが呟いた。私は微笑む。

「私、なんでも知ってるの」

「知ってるのは、ゆすらちゃんだけかな」

「多分ね。みんな、鈍いから」

「それをゆすらちゃんが言うのか」

 私はお酒をもう一口飲んで、生ハムを指でつまんで食べる。つめたい肉が唇に貼りつくのが気持ちいい。

「私は鈍くないよ。全然」

「本当に?」

 力強く頷くと、志賀さんは笑った。

「みんなが鈍いんだよ。私は鈍くないです」

「なるほど」

 なるほど、と繰り返し、志賀さんはお酒を口に運ぶ。手の甲まで痩せている。志賀さんはあの日から、一体どれだけお酒を飲んだのだろう。

「志賀さん」

「なんだい」

「お酒、いつまで飲むの」

 私はさっきから少し、意地悪な気持ちになっていた自分に気づいた。私の目には志賀さんの傷口は剥き出しだ。どんなふうにでもいたぶれる。

「いつまででも」

 志賀さんはそう言って、器を空にした。もしかしたら、志賀さんはもう、傷口をかばっていく必要さえ、なくしてしまったのかもしれないと思い至って、胸の内が寒くなった。

「お酒、やめなよ」

 志賀さんは私を見て、ひどくゆっくりと瞬きをした。私は不意に、泣きたいぐらい悲しくなった。母がいないことも、父がいないことも、そのことによって、みんなが傷ついて、その傷が完全に癒えることはないということも、そもそも私がこの家に生まれたことも、青葉のことも、志賀さんのことも、全部全部、悲しかった。傷や悲しみは一時的な間違いなどではなく、世界にあらかじめ織り込まれたものだということが。世界が私の手に負えないということが。

 私はひどい顔をしていたのだと思う。志賀さんが、大人の顔をして、笑った。削げた頬が凹む。

「ごめん」

 そして、空の器をとん、と置いた。

「控えるよ」

 そう言われても、やっぱり悲しかった。どうすれば悲しくなくなるのか、私にはわからなかった。いつになったら、私は悲しまずに生きていくことができるのだろう。そんな日は来ないのだ、と、心の襞の奥深くに潜んだ、つめたいものがすかさず囁く。

 悲しみが潰える日など、来ない。決して。

 父も、この声を聞いたのだろうか。潰えることのない悲しみと、大きすぎる荷物を背負い続けるほどの価値を、見いだせなかったのだろうか。そして、私たちを、置き去りにした。悲しみと荷物を押し付けて。指先が、震える。暗くつめたいものが、臓腑に満ちる。部屋の空気も、ひんやりと沈んで、志賀さんも何も言わず、俯いている。悲しい。苦しい。それから。

 それから。

 背後で、戸が開く音がする。振り向くと、木崎が立っていた。微笑んでいる。

「遅かったですね」

 志賀さんが言う。沈んだ空気が、外気と混ざって軽くなる。

「途中で青葉さんにつかまって」

 木崎は気軽に答え、私の隣に座った。木崎の肌は滑らかで、とてもあたたかな色をしている、と思った。私は木崎にそっと寄り添う。木崎の気配は、どこまでも健やかだ。まだお風呂に入っていないので、カレーの匂いが微かにする。

「仲がいいなあ」

 志賀さんが笑う。木崎は微笑み、カシューナッツを摘まんで齧った。私もつられてつまみ、前歯で齧る。栗鼠みたいに。こういう食べ方をすると、母はいつも嫌な顔をしたものだった。母は、普通の人だった。優しくて、料理が上手で、どれだけ父の気まぐれに振り回されても、生活を見失わない人だった。特別な美人ではなかったけれど、とても素敵な笑い方をした。母は普通の人だった。普通の人だったけれど、他の誰にも似ていなくて、他のどこにもいない人だった。父は、そのことをよくわかっていた。彼は彼なりのやり方で、母をいつも大切にしていた。私も青葉も、母が大好きだった。みんなが母を好きだった。

 悲しみをごまかすように、カシューナッツを齧る。さくさくと砕けて、塩っ気と脂の甘さが口に広がる。悲しみを紛らわすのにぴったりの、手軽な美味しさだった。

 志賀さんの細くてごつごつとした指が、カシューナッツを摘み上げる。そうして三人で、言葉もなく、しばらくナッツを齧っていた。

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