第10話
原稿ができたので、木崎にファックスで送ってもらう。機械が紙を飲みこむいささか不穏な音を聴きながら、木崎が淹れてくれた紅茶を飲んでいる。今日はミルクティーだ。牛乳が自然に甘くて、とても美味しい。
「できましたよ」
原稿をとんとん、と揃えて、木崎が言う。
「ありがとう」
「いいえ」
木崎は首を傾げ、原稿の端を指でぱらぱらと捲る。
「読む?」
木崎は本を、特に小説を、めったに読まない。それでも、私が書いたものは、気が向いたときに読んでいるようだ。感想はいつもきまっていて、「面白かったです」だ。小説として面白かったのか、妻が書いたものを読む、ということが面白いのか、私にはわからない。もしかしたら、木崎にとってその二つの区別はないのかもしれないけれど。
「どんな話なんですか」
その質問は、私という書き手がもっとも苦手とするものの一つだった。どんな話。どんな話なのかは、読めばわかる、というか、読まなくてはわからない、と思うのだ。勿論、私がわからせたいものを、それを尋ねた人が知りたいわけではないのは、わかってはいる。だから普段は、適当に答える。女の子の口から宝石が出てくる話です、とか、犬が飼い主の友人の中年男性に恋する話です、とか。
でも相手は木崎なので、こう言う。
「知りたいのなら、読めば」
木崎は笑う。
「なるほど」
そして、最初のページに目を落とす。面白そうですね、と口の中で呟いてから、私に目を合わせて笑った。
「読んでみます」
私も笑った。書くものを、木崎に読んでもらえなくても構わないけれど、読んでもらえたほうが、嬉しいことは嬉しかった。
私がミルクティーを飲み終えると、木崎はもう一度紅茶を淹れるためにお湯を沸かす。私はマグを洗うと台所のお菓子入れを漁る。輸入品のジンジャークッキーを見つけると、お皿に出した。そして、自分の部屋に戻って、まだ読んでいない本を物色して、結局「皇帝のかぎ煙草入れ」を選んだ。高校生のときに一度読んで、もう一度読もうと思っていた本だ。私は推理小説が、結構好きだ。カーとかクリスティとか、古めかしくて、お屋敷とかが出てくるような、あんまり壮大じゃない話が好きだ。分量をきっちり計って作ったお菓子みたいで、よくできていて、とても楽しい。父も推理小説がなかなか好きで、若い頃に、密室ものの長編を別のペンネームで一つ、書いている。島田仁が書いた推理小説、ということで意外性を面白がられてはいるけれど、推理小説としての出来は、評価されていない。私も父は優れた推理作家ではない、と思う。でも子供じみた悪ふざけと屈託のなさに溢れていて、なかなか楽しい本ではある。
居間に戻ると、木崎が私を見て微笑み、紅茶を注いでくれた。とぽとぽ、とまるい水音が立つ。ポットを軽々と、でも丁寧に扱う様を見て、木崎はやっぱり紅茶を淹れるのがうまいな、と思う。
「どうぞ」
「はい」
あたたかいマグを受け取って、一口飲み、本を開いて登場人物表を眺める。なんとなく見覚えがあるけれど、きちんとは思い出せない。それでもこれを読んだときの面白かった感覚が戻ってきて、わくわくした。木崎は自分の分の紅茶を注いでいる。紅茶の匂い。手を伸ばせばお菓子がある。話しかければ応えてくれる木崎がいる。手には本。締め切りは終わった。完璧だな、とうっとりする。
薄いジンジャークッキーを唇で挟んでぱさりと折る。シナモンと生姜の、少し複雑な味が大人っぽい気がして、子供のころからなんだか好きだった。ページをめくり、文章を読む。一度読んだ本なので、すんなりと物語に入っていける。見覚えのある文章に当たるたびに、前に読んだときの、高校生の私がちらちらと顔を出して、胸がざわりとする。なんだか少し不安になって、木崎を見る。時折首を傾げたり、微かに眉を寄せ、ゆっくりと、本当にゆっくりと、木崎は私の書いたものを読んでいる。安心な光景だ。
私が本を半分ほど読んだころ、八十枚ほどの原稿用紙を、ようやく木崎が読み終わる。
「ふむ」
と言い、首を回す。ぱきりと関節が鳴った。
すぐさま行きたいところを一つ、二つ、深く息をして、
「どうだった?」
と尋ねる。答えはわかっているのに。
面白かったですよ。
「面白かったですよ」
私が思い描いた声を、木崎の現実の声がなぞる。嬉しいけれど、少し、物足りない。いつも同じお土産みたいなものだ。最初の嬉しさは、繰り返すうちに色褪せる。人は、特に私は、贅沢なものだ。
「どんなところが?」
だから訊いてみる。あんまりいい答えは返ってこないだろう、と思いつつ。楽しむために技術は必要ないけれど、楽しさを語るには技術がいる。木崎には多分、ない技術。
木崎は首を傾げる。うん、と口の中で曖昧な声を出す。
「正直、よくわからないところのほうが多いんですけどね。ゆすらさんの小説は、いつも」
「うん」
「楽しそうなところが、好きです。よくわからないところもあるけど、全体に楽しそうだ」
私は木崎の目をじっと見た。木崎も私を見返す。そのまま二人で、無言で見つめ合う。沈黙の中、耳の奥で、木崎の言葉の波紋が、まだ残っていた。
「木崎さん」
「はい」
「ありがとう」
木崎はどうも、と言葉を返す。何故私が礼を言ったのか、多分わかってはいないのだろう。それでよかった。それが、よかった。
「今日、何が食べたいですか」
木崎は原稿用紙を揃えて私の前に置き、食卓の上を片付け始める。思いついて、私は言う。
「お寿司」
「握り寿司ですか?」
私は頷いて、栞紐を挟んで立ちあがる。
「外食しよう。着替えてくる」
木崎は笑う。
「デートですね」
うん、と頷く。頷いてから、木崎の言葉をかみしめる。デートですね。デート。デート。そういうのは、久しぶりだ。着飾って、美味しいものを二人で食べて、同じ家に帰る。こんな素敵なことを、どうしてあんまりしなかったのだろう。
「デートだ」
なんだかとても嬉しくなって、着るものを選ぶために、早足で部屋へ向かう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます