第9話
溶けたバターの上で、卵液がちいさく跳ねて固まっていく。バターと砂糖と卵と牛乳。交じり合って、ほんのりと焦げている。じっと嗅ぎ続けていたいような、たまらないいい香りだ。
ころあいを見て、ひっくり返す。パンの表面に、レースのような焦げ目ができている。ひとりでに、頬が緩んだ。
「おはようございます」
まだ輪郭の定まらないような声。振り向くと、木崎が立っている。髪には寝癖、顔は昨日のお酒のせいか少しむくんでいる。
「おはよう」
「すみません。遅くなりまして」
私は首を振り、顔洗ってきて、と言う。木崎はいつもよりもやや頼りない足取りで、洗面所へと向かった。私は木崎のカップに、水を注いでおく。
パンを少し持ち上げて、焼き目を見る。大丈夫そうだ。側面も軽く焼いておく。全体がこんがりといい色を纏ったら、火を止める。
「フレンチトーストですか」
木崎が水を飲みながら尋ねた。少しすっきりとした顔になって、前髪に滴がついている。私は微笑んで、頷いた。
「早起きしたから、作ってみた」
出しておいた白いお皿に盛りつける。四枚切りの食パンを四等分にしたフレンチトーストは自分が作ったということを差し置いても綺麗に焼けている、と思うが、盛り付けるとなんだか野暮ったい。
でも
「おいしそうですね」
と木崎が嬉しそうに笑うので、別にいいか、と思う。メープルシロップの壜を出して、お皿と一緒に食卓に並べる。そこで、
「あ」
気づいた。紅茶を淹れるのを、忘れていた。飲み物がない。頭の中で描いていた朝食のイメージが壊れてしまったことが悲しくて、下唇を吸い込む。
「ゆすらさん?」
木崎が私の気分の下降を感じ取って、尋ねてくる。
「紅茶わすれた」
言葉にすると、そこが裂け目になって悪い気持ちが一度にあふれそうになる。だが、木崎は軽く笑ってみせた。
「オレンジジュース飲みますよ。紅茶はあとでゆっくり飲みましょう」
それで、紅茶のことなどたいしたことではないのだ、と感じることができた。もともとそんなことはわかっているのだけれど、わかることと、感じることは、違っていて、私は小さな物事を、そのまま小さく感じる、ということが、不得手なのだ。
大きなコップにオレンジジュースをなみなみと注いで木崎に渡す。なかなかいい朝食だ、と、香りと満足感を味わう。
「ゆすらさんの分は?」
「まだ焼いてない。あとで」
「ではお先に」
木崎が手を合わせて、いただきます、と言い、メープルシロップをかける。どういうわけか、木崎がシロップをかけると、とたんにお皿がとても洗練して見える。多分、これも才能なのだろう。私にはない才能。
フォークがフレンチトーストをとらえ、お皿の上にシロップがしたたる。木崎の口元に、フォークが運ばれる。それを、じっと見ている。そんなあからさまな注視を受けていても、木崎の動作は鷹揚で滑らかだ。いっそ図々しいぐらい、と思って、ちょっと面白くなる。そうだ。多分、木崎は少しばかり、図々しいのだ。健やかで無頓着な、図々しさ。私にはそれが、好ましかった。木崎と出会ったころの私には、そういうものが必要だった。本当に、必要だったのだ。
木崎の健康な歯がフレンチトーストを咀嚼するのが、頬の筋肉の動きに表れ、嚥下が、喉仏の上下でわかる。ただの、人間という動物に当たり前に備わっているはずのその機能なのに、木崎のその動作が、私には特別に映る。他の誰とも似ていない、木崎だけの動作に見える。
「美味しいです」
木崎は笑う。私も笑う。木崎の言葉は単純で、私の中のほしい場所に、ほしい重さで、すとんと嵌る。
明るい気持ちで、自分の分を焼く。油断していたので火の調節を怠って、きつね色というには随分黒い焼き色になってしまったが、気にしない。メープルシロップを、たっぷりと、たっぷりとかける。好きなのだ。深くて優しい、なんていい香りの液体だろう。びしょびしょになったフレンチトーストで唇が汚れる。おいしい。
「おいしそうに食べますね」
食べ終わった木崎が、オレンジジュースを飲みながら笑う。私は甘く弾力のある生地を噛みしめながら頷く。唇を舐める。フォークで、トーストを突き刺す。無言で、ただ食べ続ける。
「お茶淹れてきますよ」
オレンジジュースを飲み終わった木崎が言う。口の中のものを飲みこんで、立ち上がった木崎に言う。
「私が」
木崎は小さく首を傾げ、それから笑った。
「じゃあ、お願いしましょう」
木崎は新聞を読み始める。木崎は新聞が好きだ。本は読まないのに。本を読む私は新聞を、あんまり読まない。載っているコラムや小説なら、読むけれど。新聞記事は、重たくなるからだ。起こったばかりの現実は、私には重たい。
木崎は新聞記事に書かれている現実を、水でも飲むようにすいすいと読み進めて、消化していく。その間に私はフレンチトーストを噛みしめ飲みこみ、手を合わせてごちそうさまを言う。食器を流しに持って行って、お湯を薬缶で沸かす。そして、母の紺のポットと、木崎が洗っておいてくれたマグカップを用意する。マグカップは、昨日、志賀さんがくれたお祝いの品だ。デンマークのメーカーの、地の厚い大ぶりのものだ。素朴な白で、ぽってりと丸みを帯びた形が可愛らしくて、でも可愛らしすぎなくて、一目で気に入った。志賀さんは、贈り物が上手で、昔からよくものをくれた。だいたいがお菓子や文房具などのちょっとしたものだったけれど、その分気楽に受け取れて、嬉しかった。私も弟も、それから多分母も、志賀さんの贈り物を、いつも楽しみにしていた。
自分でも拙いとわかる手つきで、母に教えてもらったことをたどりながら、用意をする。食卓にポットとカップを運ぶ。木崎は新聞を畳み、私の手元を見ている。ポットの重さで手首がぐらぐらとするけれど、どうにかカップに紅茶を注ぐ。夕日色の熱い液体が、カップの中をなみなみと満たしていく。金色の飛沫が小さく跳ねて、小さな円と、愛らしい音とともにカップへと戻っていく。
「いい匂いだ」
木崎が薄い小鼻をひくりと動かして言う。私は軽くなったポットを置き、どうぞ、と手で示す。木崎はふうっと湯気を散らすと、一口静かに口に含んだ。
「結構なお点前で」
しゃあしゃあとそんなことを言うので、笑ってしまう。私も一口飲んでみる。私にしては、悪くない。これなら、母からも及第点をもらえるだろう。私はいつもとは違う充実感に包まれて、木崎はいつもの平静さで、でも二人とも穏やかな心地よさの中で、紅茶を楽しむ。
「このカップ、気に入った?」
木崎に尋ねると、木崎ははい、と応えてからマグを目の高さまで持ち上げた。
「大きいのがいいですね。普段使いにするなら」
なんだか木崎らしい物言いで、笑う。でも、大きいのは、確かにいいな、と思った。たっぷり入っているのは、いい。このマグは持ち手もしっかりとしていて、握った感じも安心だ。私たちのマグカップだ。
そういえば。
「もうちょっと、食器買う?」
木崎が来てから、買い足したものはほとんどない。食器も、前と同じものを使っている。何も考えていなかったけれど、もしかしたら、あまりいい気分のしないことなのかもしれない。
木崎は首を振る。
「いいですよ。ここにはいいものがたくさんあるし。必要になったら、買いましょう」
志賀さんに買ってもらったマグと、母が買ったティーセットのポットが、食卓の上で、自然に並んでいる。マグはまだ新品のよそよそしさを残しているけれど、使っていくうちに、馴染んでいくだろう。以前からあるものと、新しいものが、少しずつ馴染んで、じきに区別もできなくなる。
いいな、と思った。もしそうなれば、きっと、とてもいい。
木崎はゆっくりと、紅茶を飲んでいる。私は胡坐を組んだその脚に、そっと触れる。木崎が私を見て、面白そうに笑う。私は木崎の脚を撫でる。私の手のひらにゆっくりと、馴染みはじめた男の輪郭を、ゆっくりと、撫でる。
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