第23話


 一年前のことは、やっぱりうまく思い出すことができない。例えば父の葬儀がどんなふうに行われたのかとか、家のこまごまとした掃除や炊事をどのようにやりすごしていたのかとか、後から考えてもわからない。誰かが私に知られぬようこっそりと済ませておいてくれたのだと思えばそうだな、と納得するし、私がどうにかやっていたのだ、と思えばそれも正しかったような気がする。事実はさっぱり掴めないのに、どうしよう、という心細さだけは、はっきり覚えている。これからどうしよう。お葬式は。お金のことは。家のことは。冷蔵庫の中の大分前に買った野菜。廊下の隅にたまった埃。どうしよう。どうしよう。どうしよう。いつもそんなことで頭がいっぱいで、押しつぶされそうだった。不安で不安で不安で、でも手を動かした記憶はない。ただただ不安で不安で不安で、身動きが取れなかった。そんな中で、本ばかりたくさん読んで、ひたすら書いていた。こんなものが何の役に立つのかと思いながら。

 みんなが私に何を期待しているのか、私はよくわかっていた。父の話だ。みんなそれを聞きたがり、懇願し、脅した。それが私の義務であり、多くの人が求めているものを与えることができるのは私だけなのだと。私は口を閉ざしていた。それが私にはできなかったのか、それともできるのにやりたくなかったのか。わからない。ただどうしても、そうしたくはなかった。私は自分の物語を書いた。私の中から出てきたものを。けれど自分とはなんなのだろう。父の血を受けて産まれ、父とともに暮らし、父の家で育まれ、父の力で世に出た私の、一体どこに父から自由な部分があるというのか。

 それは人々にとっても同じだった。彼等は私が書いたものから、執拗に父の匂いを嗅ぎだした。仕方のないことだった。私が突き放されたように、彼等もまた突き放されたと感じていたのだろう。父の書いたものはあまりにも多くの人に読まれ、父はあまりにも多くの人にとって重要な人間になっていた。父を必要とする彼等によって、私の書く物語は引き裂かれ、分解され、父の物語のための材料になった。

 すべては仕方のなかったことなのかもしれない。でも私は苦しくて。苦しくて。苦しくて。自分一人ではこの苦しみをどうすることもできなかった。私の前にある壁はあまりにも多くの「仕方のなさ」でできていて、私にはそのどれ一つとして自分の手で動かすことができず、黙って押し潰されていた。誰かを待っていた。私を助けてくれる誰か。誰か? 違う。私は待っている人がいた。その人を、待っていた。その人を待っている間に、私は木崎に出会ったのだ。そして私は、待つのはやめた。

 そんなことを考えながら、アイスコーヒーを飲む。水で淹れるというアイスコーヒーは、すっきりとしていて、飲み終わったあとにも香りが口の中に残る。それが楽しいので、少しずつ飲む。今日のケーキはロールケーキだ。黄色いしっかりとしたスポンジが、真っ白いクリームを巻いている。

「お待たせしました」

 声がしたので、顔をあげる。赤い顔をハンカチで押さえながら、設楽さんが私の前に腰掛ける。開襟のシャツと紺色のスラックス。働いている人の格好だ。新鮮。

「暑いですねえ」

 それほど暑くはないと思っていたので、その言葉も新鮮だった。設楽さんはまだ顔を押さえている。メニューを見て、アイスコーヒーを注文し終わった頃に、ようやくハンカチを鞄にしまった。分厚い硝子のコップを持ち上げて、お冷を一口で飲み干す。

「今日は何って言うわけでもないんですけど、ご挨拶に。あ、「○○」の短編読ませていただきましたよ。ああいうものを書かせると、本当に先生はうまいですねえ」

 編集さんにもいろんな人がいるけれど、設楽さんはその中でも、あまり親しみの持てない種類の人だった。嫌いというわけではないけれど、言葉やふるまいから、思い入れを見つけることができない。こういう人でも私の書くものを読み、面白いとかつまらないとか思ったりするのだ、というのは、しかしなかなか面白くて不思議なことでもあった。柔らかく不安定な、面白さと不思議さ。

 書き下ろしの長編を、という、締め切りはあってないような依頼を受けているので、いくつか考えていることを話す。アイスコーヒーが届くと、設楽さんは半分ほどを一息に飲んだ。

「どれもいいですね。先生はとにかくアイディアがいい。みずみずしいというか女性らしいというかね」

 こういうことを、大真面目に言えてしまう、というのも、私には不思議なことに思えるのだった。多くの人たちが切実な心持ちを吐露しているようなものを、この人はたくさん読んでいるはずなのだ。これまでの長い時間に洗われてきたものも、今まさに生まれてこようとしているものも、たくさんの物語を。そういうものたちの声は、この人のどこに届くのだろう。どこにも届かないのだろうか。そんなわけはないと思う。そんなわけはないと思いながら、でも本当に、この人からはたくさんの声の積み重ねがまるで感じ取れないので、驚くのだ。それとも私が、この人の声をうまく聞き取る耳を持たないのだろうか。そうなのかもしれない。大丈夫なのか、とはじめ不審に思っていたが、それでも仕事はちゃんとできて、なかなかよい本が出た。世の中には私の理解のできないことがたくさんあるのだ。

 はあ、はあ、なるほど。いいですね。うんうん。とてもいい。

 何故だか前のめりになって、またハンカチを取り出して額を押さえる設楽さんの相槌に応えるように、私は構想を話す。妙なリズムに乗せられて、ほんの気配に過ぎなかったようなアイディアが声になって唇から出て行く。それを私が聞き取って、もやもやと漂っていたものが、ちゃんと手に取れる形になっていく。気が付くと、かなりしっかりとした、長編小説のプロットが私の中に出来ていた。

「いいですね。じゃあそっちの方向でお願いしますよ」

 設楽さんは真っ赤な顔をしている。私は氷の溶けたアイスコーヒーを飲む。随分ぬるい。私たちのテーブルに、生まれようとしている物語の熱が蟠っている。私は手をあげた。口にする前に「おかわりですね」と言われ、すぐに運ばれてくる。一口飲むと、つめたさと新鮮さに喉元からすっきりした。

 どうしてこういうことが起こるのだろう。私は今このテーブルの上で起こったことを検討しようとするけれど、うまくいかない。私の知っていること、使っている言葉ではとらえきれない何事か起きたからだ。魔法のような何事か。でも設楽さんからすれば、これが普通の仕事で、特段難しいことなど何もないのかもしれない。不可解だ。

「しかしまあ、このあたりはたまに来るにはいいところですねえ。執筆にはぴったりだ」

 硬めのスポンジにゆるめの生クリームを口に運び、頷く。少し温くなった生クリームが、舌をもったりと撫でて喉に消えていく。つめたいままよりも甘さが立って、疲れた脳みそと喉にじゅうっと沁み込む。

「涼しいし、静かだし、温泉もあるでしょう。今はあそこにいるんですよね」

 宿の名前を言われて、頷く。

「いいところですよ」

「贅沢ですねえ。あんなところに長逗留なんて」

 驚いた。贅沢ではない、と思っていたわけではない。実際、贅沢だと私も思う。しかし、本当に贅沢だったとして、それを口に出して人に言う、という行為は、私の中では不躾だった。そういうことを、人に言ったり、人から言われたりすることを、想定していなかった。自分が勝手に決めた人との接し方のルールが目の前の人に破られてしまうと、どう対処していいのかわからなくなる。私は今の逸脱がただのちょっとした間違いなのだと信じたくて、設楽さんの次の言葉を待つ。

「でも島田先生もあそこがお好きだったんですよね。思い出の宿ということですか」

「ええ、まあ」

 さっきまでここにあった魔法の気配は消え失せて、空気も冷え切っている。指がつめたくて、両手をこすり合わせた。

「島田先生のお話がもらえたら、うちとしても万々歳なんですけどねえ」

「すみません」

 曖昧に笑う。どうして笑ってしまうのだろう。どうして、と思いながらも、私の顔は笑顔以外のどんな表情も作らない。指がつめたい。

「ああいうかたちでのお別れでしたからね、つらいお気持ちはわかるんですけども、それはね、でも、みんな同じですからね。我々も、読者の方も」

 同じ? 私は驚く。今はただ、驚くことしかできない。そういう言葉を投げかけられた、ということに、ただ驚く。それ以外のことが、できない。

 同じ。胸の内で繰り返してみる。同じ。みんなと、同じ。

「ゆっくり休んでしっかり立ち直って、先生の仕事をしてくださいね」

 先生の仕事。私の仕事。私が自分なりに大事にして、少しずつ築いていったもの。私の物語。私の言葉。でも設楽さんが言っているのはそういうことではないとわかった。

 島田ゆすらの仕事。島田仁の娘の仕事。人々が私に期待している仕事。

 私は曖昧に笑う。他にできることは何もない。曖昧に笑い、曖昧にうなずく。そうしながら、頭の芯で、さっき生まれたばかりのプロットの輪郭をなぞり、自分の中に定着させる。そうしないと、溶けてなくなってしまいそうだった。私の作ったもの。私がその価値を信じ切ることができないもの。魔法なんかもうどこにもない。すべてが無意味だ。

 テーブルの上に、手を半端につけられたロールケーキが横たわっている。ぬるくなったクリームが、だれてお皿を汚している。

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