第24話

 目を覚ますと、私は一人だった。あたりは薄暗く、思ったよりも長く寝ていたのだと思う。悲しかった。長く寝てしまったことが。寝る時間さえ思い通りにならないことが、眠ってばかりいることが。一人だったことが。私のやったことすべてが。私が私でいることが。これは、多分間違っている。間違った世界の受け止め方だ。間違っていて、極端な。でもそこから動けない。間違った場所は、苦しいのに、居心地がいい。正しさは、遠い。一人では辿りつけない。

 もしも木崎に出会わなかったら、私は今どんなふうだっただろう。その想像は、どんな女の姿も私に示しはしなかった。ただどろりとした重たい闇があるばかりだ。もしも木崎に出会わなかったら。私は生きていただろうか? 生きていくことの意味を、どこかに見つけることができただろうか? 一人ぼっちで。残された島田仁の娘として、どんなふうに。

 あの頃、私は疲れ果てていた。それでも頭の中を文字でいっぱいにして、ひたすらにそれを紙の上に吐きだして。そんな生活にぽつんと空白が織り込まれて、一度その営みを止めてしまったら、私はどうなっていただろう。いずれそのときは訪れたろう。もしも木崎が、私の前に現れなかったら。その問いは、別の問いを連れてくる。

 もしも木崎が、今、私の前から消えてしまったら。

 その答えを、私は見つけることができない。そんな答えは知りたくない。父もそうだったのだろうか。何の答えも準備もなく母を失って、父は。

 父は。

 そこから先を、何も考えられない。心がぬかるみに足を取られて、もう進むことができない。私は父に似ている。よく言われる。私もそう思う。私は父の似姿だと、どこかで感じてきた。不完全な似姿。私は父の跡をたどる。父よりおぼつかない足取りで。他の道を私は知らない。これ以外の生き方はできないのだ。それが生まれ持ったものなのか、周りの期待によって作られたものなのかは、もう区別ができない。どちらにせよ、私はもうこういう人間として出来上がってしまったのだ。

 このままずっと、私は父と同じ道を行くことになるのだろうか。父の不完全な似姿として、父を愛した人たちに見つめられ、父の物語の不完全な似姿を、彼等に提供することに、なるのだろうか。そうではない、と思いながら、その思いを信じ切れない。私は繰り返すだけなのかもしれないと、自分自身で思っている。同じ道を歩いて、同じところで、おしまい。そうしたいわけではない。でも私の足はそちらに向いてしまう。私には止めることができない。止めてくれる人もいない。みんな、私がそうなるのを見つめている。ひっそりと、けれど隠しきれない期待を込めて。それは悪意ではない。むしろ、愛情に似ている。愛情に。祈りに。だから身を委ねてしまいたくなる。自分のすべきことを見失ったとき、彼等の眼差しが私を導く。それはおぞましく、だが安らかな想像だ。そうすれば、私は一つの物語になる。父と私の物語を、みんなが愛するだろう。愛し、悲しみ、語り続けるだろう。私が生み出したどんな物語よりも。

「ゆすらさん」

 木崎の声。すっと、私の暗い空想に満ちていた部屋の空気が涼やかになる。私は寝返りを打ち、木崎の顔を見る。私が何を考えているのか、まるで知らない安らかで平静な顔だ。髭がずいぶん伸びて、面差しと無軌道な生え方が似合わなくて、確かにちょっとみっともない。これが現実なのだ、と思うことができる。木崎が現実だ。ここにはちゃんと木崎がいる。この世はそんなに不安な場所じゃない。この世は、木崎がいる場所だ。

 木崎は私の横に胡坐をかいた。髪が湿っているので、お風呂に入っていたのだろう。

「寝ていたんですか」

 私は薄く微笑んで頷く。かけてある毛布から腕を伸ばした。木崎は私の手を握った。何のこだわりもなく、そうあるものとして。

「起こして」

 木崎は微笑んで、私の背中に手をやって、抱き起こしてくれた。何の理由も、条件もなく、ただ要求にこたえてくれる。私は座ったまま、隣の木崎の肩に凭れ掛かった。木崎は私の肩を抱いてくれる。

「木崎さん」

「はい」

 名前を呼んだとき、言いたいことがあったと思ったのに、その「はい」を聞いた途端、思い出せなくなる。あるいは、もう全部伝わっている、という気持ちになる。何を言ってもいい。何も言わなくていい。木崎といると、そういう気持ちになる。他の誰といても、こんな気持ちにはならない。

 木崎なのだ。とん、と今まで不安定だったものが収まるところに収まる。木崎なのだ。他に誰もいない。木崎しかいない。木崎が、私のたった一人なのだ。

 私はずっと言いたくて、言いたいと考えることさえ控えていたことを、言ってもいいのかもしれない、と思った。木崎になら、何を言ってもいいのかもしれない。

「ずっとそばにいてくれる?」

 それでも声は、震えてしまった。感情よりも肉体が先に恐怖している。胸の真ん中が空っぽで、空気が吹き込んでつめたくて痛い。

 木崎の掌が私の肩を滑り、指の先で輪郭をなぞる。

「そのつもりで結婚したんですが」

 木崎の声は笑みを含んでいる。それを聞くと、空っぽだったところなんかなかったみたいで、自然と私は笑っている。

「簡単なことみたいに言うね」

「でも、そうですから」

 木崎はやっぱり簡単なことみたいに言う。木崎にとっては、簡単なことなのかもしれない。木崎は私と、まったく違う世界の見方をしている。そして木崎の世界に、島田仁は、いない。いたとしても、ただの人間以上の大きさではなかった。木崎に出会うまで、私の世界にそんな人はいなかった。誰にとっても島田仁は大きな人で、どんな態度を取るにせよ、無視することは許されない存在だった。でも、木崎にはそうではなかった。そういう人もいるのだと、木崎は私に教えてくれた。私は、大丈夫かもしれない。そう思った。苦しいことばかりだけれど、それでも、苦しみを忘れられることもあって、楽しく生きていこうという気になることもあって、そうやって繰り返しながら、なんとか大丈夫なのかもしれない。

「そろそろ帰ろうか」

 それで、そう言うことができた。

「帰りますか」

 木崎はすんなりそれを受け止める。すると急に、帰りたくなった。私たちの、私と木崎の家で、二人だけでいたくなった。

「まだやりたいこととかある?」

「やりたいこと」

 繰り返し、木崎は首をかしげる。

「ごはんが作りたいですね」

「なあに、それ」

 笑ってしまった。木崎は私のお腹をやわらかく撫でた。

「ごはんを作って、ゆすらさんに食べてほしい」

 ぐう、と、つられるようにお腹が鳴った。木崎も私も笑った。

「帰ろう」

 笑いが収まると、私は言った。木崎のごはんが食べたかった。木崎が、私のために、作ってくれる、おいしいごはん。

「はい」

 と木崎は頷き、私のお腹を宥めるように、くるくる撫でた。

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