第25話

 かたく絞った雑巾を床に押し当てて、腰を上げて、ぱたぱたと間の抜けた音を立てて廊下を渡る。人を頼んで一度掃除に入ってもらったけれど、それでも随分汚れている。

 僕がやるので、ゆすらさんは寝ていてください。

 木崎はそう言ったけれど、夕食の買い出しと準備もあるのに、掃除まで全部させるわけにもいかない。といって私に木崎の基準で掃除ができるわけでもないので、言いつけられたことをこなしている。雑巾がけなんて久しぶりだ。

 子供の頃は、青葉と一緒によくやらされた。最初は乗り気ではなくとも、青葉と競争をしているうちに夢中になってしまって、母によく呆れられた。お駄賃をやろう、と、時折父は私たちに小さなお菓子をくれた。母には内緒で、飴とか、金平糖とか、チョコレートとか。

 お前たちは本当にいい子だなあ。あるとき膨らんだ私たちの頬を一つずつつついて、父は言った。

 いい子すぎるな。我が子とは思えない。

 笑みを含んだ言葉だったが、まるきり冗談とも響かなかった。私と青葉は顔を見合わせた。青葉はぱちくりと目を見開いていた。父とそっくりな形の目。

 私は父にそっと引っ付いた。おうおう、と笑って父は私の肩を抱き、青葉も強引に引き寄せた。それでもう三人で団子のようになって、きゃあきゃあ騒いだ。母は私たちを見て、手を洗っていらっしゃい、と笑った。

 雑巾やいつもよりも鼻に近い廊下の匂いにそんなことを思い出す。いつの間にやら、汗だくになってしまった。これで終わりか、と体を起こすと、腰が痛んだ。年を取ったものだ。大人になったつもりはなくとも、子供のままではいられない。時間はいつでも容赦がない。

 雑巾を片付けて、部屋に掃除機をかけて回る。掃除機をかけると空気が埃っぽくなるので、ハンカチを巻いてマスクの代わりにする。掃除って大変だ、と確認する。当たり前のことだけれど、人にしてもらっていると大変であることは、忘れる。他人の苦労とか痛みは、人間は簡単に忘れるのだ。私は忘れられたくない。同時に、忘れたくない。私は忘れっぽい人間だと、自分のことを警戒しておく必要があるだろう。思うに、そういう警戒が、いつだって大切なのだ。些細なことに見えて、些細なことに見えるのに煩わしいことで、だからなにかしらの理由をつけてすぐに手放してしまうけれど、こういう煩わしさを省くのは、恐ろしいことだ。物事を安易にする、ということは、自分が手放した煩わしさを、なかったこととしながら、誰かに押し付けることになりがちだから。

 ぐるぐると色々なことを考えているうちに、掃除機をかけ終わる。いつもと違うことをする、というのは、いつもと違う自分自身の使い方をする、ということで、いつもと違う使い方をしていると、いつもと違うことが見えてきたり、いつもと違うことを考えたりする。面白いことだ。

 木崎のことを考える。掃除を日々している木崎。家事をして、ゲームをして、テレビを見て、暮らしている木崎。同じ家で、私とはまったく違う過ごし方をしている木崎は、やはり私とは全然違うことを考えているのだろうか。

 掃除機をしまい、ハンカチを外す。身体の埃を払って水で顔を洗う。すっきりする。木崎の顔が観たくなって台所に行くと、作業台にものがたくさん並んでいた。調味料やスパイスや乾物や缶詰。その中の木崎は帰る前に髭を沿ったので、すっきりと清潔な面差しそのままだ。

「ぞうきんと、掃除機終わりました」

「お疲れ様です。何か飲みますか?」

 尋ねられて、喉が渇いていたことに気づいた。頷いて、自分で冷蔵庫を開けた。中はほとんど空っぽだった。麦茶もない。帰ってきたばかりだから、考えてみれば当たり前だった。ビールの缶があったので、取り出した。

「飲んでもいい?」

「お手伝いする偉い子ですからね。いいですよ」

「わあい」

 缶を開けると、ぷしっ、といい音がして、ビールの匂いが涼しく鼻をくすぐった。一口飲むと、しゅるしゅるとアルコールが隅々にまで届いて、ふわりと身体が軽くなる。半分ほど一度に飲むと、はあ、と溜息。木崎は笑っている。

「おいしそうに飲みますねえ」

「労働のあとのビールは美味しい」

「真理です」

「木崎さんは飲まないの?」

「内緒ですけど、さっき飲みました」

 笑ってしまう。

「内緒にしといてあげるね。今は掃除中?」

「そうですね。古くなってるものとか、旅行の前にもちょっと見たんですけど、そこからまた時間も経ってますし」

「大変だ」

「大変は大変ですけど、なかなか面白いですよ」

 私は木崎の顔を見上げた。そこには穏やかに楽し気な微笑みがあった。

「面白いの?」

「僕は掃除が結構好きなんです。それに、ビールも見つかりました。前に届いてたのをそこ」

 木崎は床下の収納を差した。

「に入れてたのを忘れてたんですよね」

 私は半分になったビールを持ったまま、微笑んだ。他にすることが思いつかなかった。木崎は木崎なのだ、と思った。やっぱりこの人は、私とは全然違うのだ。

「木崎さん」

「はい」

「私、木崎さんのこと大好きです」

 木崎はほんの少しだけ驚いたように目を見開いて、すぐにいつも通りの笑みを浮かべた。

「何度聞いてもいいですね、それ」

 私はゆっくりゆっくり苦味とそれが通り過ぎた後の甘味を確かめるようにビールを飲んだ。その間に木崎は作業台のものをどんどん整理していく。ビールを飲み終わって缶を捨てると、

「さて、僕が呼ぶまでしばらく台所に立ち入り禁止です」

 と言われてしまった。はーい、とよいお返事をして、退散した。


 ふ、と気がつくと、随分とノートのページを使っていた。宿でも仕事をしていたが、自分の部屋だと没頭しやすい気がする。帰ってきたな、と実感し、ノートの文字を眺める。だいぶん煮詰まってきた。私はあまり準備をしない性質の書き手だが、長編を書く前にはさすがにだいたいの見通しはつけておく。もう少し詰めたら書きだすことができるかもしれない。

 私は書いてみたい文章を、頭の中の空白に思い描く。どれだけはっきりと、一文字一文字言えるほど思い浮かべたところで、実際に原稿用紙に書くと違うふうになってしまう文章。以前は記憶力の問題だと思っていたが、それだけではない。おそらく、空想の中の文章は、空想の文章の文字で書かれているのだ。それは実際のものとは違う。空想の中では余白さえ私の思うままの色に染まるので、うっとりとそこに浸ることができる。このうっとりと濃やかな感情を、実際の文字に宿すためには、どうしたらよいのだろう。そのまま、とは言わないまでも、少しでも私の感じたことを、読んだ人にも感じてほしいのだ。

 父のことを思い出す。私が物語を書くようになったのは、やはり父がいたからなのだろう。幼い頃、私が語る空想を、つたない言葉から伝えたいことを拾い上げて、父は物語にして語りなおしてくれた。父は空想の言葉を現実の言葉に完璧に翻訳する術を持っていた。ほとんどの作家は、これを持たないから苦しむのだ。私も持たない。持たないけれど、父がいたから、私の感じたことは、人に伝わるのだと思い込んだ。思い込んで、書きはじめて、そうではないと知って、でも伝わるのではないかと、信じることをやめることができない。文字を必死でかき集めていくうちに、ときたま、はっきりと捕まえた、と感じることがある。それは錯覚に過ぎないのかもしれない。でも尊い錯覚だ。私はその瞬間の魅力にとりつかれている。そして錯覚だとしても、父のような魔法を持たない書き手はそうするほかないのだ。私はそのある種絶望的な営為を、しかし価値あることだと信じる。信じて進みながら、時折絶望的な試みだと思う。その繰り返しだ。私はいつも、同じことを繰り返す。でも私に限ったことではないのかもしれない。人はみな同じことを繰り返す。新しいことをしているつもりで。

 色々と考えたり読んだり書いたりで、少し頭の後ろの方と目が疲れた。目を閉じて、そのままごろりと横になる。自分の家はいいな、と思う。私の肉体は、この家に属している。この家は私の肉体を上手に甘やかしてくれる。

 全身の小さな疲労が手を取り合って、休息が必要だと訴えるので、眠たくなってくる。空調は効いていても、肌が触れ合っている場所には熱がこもっていて、汗をかいている。内腿をつうっと汗が滑っていく。不快ではあるのだけれど、不快ごと眠気に包み込まれて身を委ねたくなる。身体を丸めて、そのままとろりと眠気に意識を浸す。

「ゆすらさん」

 木崎の声だ。目を開ける。眠っていたのか眠ろうとしていたのか、感覚があやふやだ。

「ごはんできましたよ」

 嬉しくなる。ん、と曖昧に返事をし、目を閉じたまま声の方へと手を伸ばす。木崎が笑う声というか音というか気配があって、手が触れる。

「起きてください」

「はい」

 手を軽く引かれて起き上がり、目を開く。外はうっすらと暗くなっていた。

「顔を洗っていらっしゃい」

「うん」

 子供みたいに頷いて、立ち上がる。なんだかこういう一連の流れが、とてもとても、私たち、という気がした。私と木崎には、もうそういうものがちゃんとあるのだ。気づかされる。私の家には、木崎がいる。私たちの家だ。

 顔を洗い、うきうきと居間に行く。

「……何料理?」

「スペイン料理、のつもりです」

 へえ、と食卓の上を見る。ガラスの鉢に盛られた赤いスープ、タコと野菜のマリネ、具材がいっぱい入ったオムレツ。旅館では和食ばかりだったので、とても明るくて新鮮に見えた。

「おいしそう」

 思うよりも先に言葉が出てきて、言葉に従うように心がおいしそうと騒いだ。そのまま顔に出ていたのだろう、木崎が笑っている。食卓の真ん中には鍋敷きが置いてあった。

「さて、座ってください」

 まだ何か隠していることがあるのだろう。私はわくわくと席について、大人しく待った。出ているビールはいつもと違って、外国のものだ。文字から見ると、スペイン語らしいので、スペインのビールだ。おそらく。

「はい、今日の主役です」

 木崎がそう言って食卓の中央に据えたのは土鍋だった。なんだろう、と思っていると、蓋が開いた。海鮮の出汁とスパイスと香ばしい匂いがぶわりと部屋中に広がった。

「パエリアです」

「おいしそう!」

 子供じみた単純さで声を上げた。オレンジに色づけられたご飯の上に、海鮮がごろごろと乗っている。縁はまだぱちぱちと熱が跳ねている。

「おいしそう、おいしそう」

 気持ちのまま繰り返す。木崎はにこにこ笑ってビールを注いでくれた。

「乾杯しましょうか」

「何に?」

「何がいいですか?」

 私はちょっとだけ考えて、

「私たちの家に」

 と言った。私たちの家。私と木崎の家。妻は書き、夫はスペイン料理を作る、私たちの家だ。

「僕たちの家に」

 私たちはグラスを合わせた。スペインのビールは日本のものよりもかわいらしい味がした。大人っぽくない、お酒という気構えなく飲める味だ。

「おいしい」

「はい」

 木崎は白地に青と黄で花の描かれたお皿にパエリアを盛ってくれた。一口食べると香ばしくて、強いうまみが広がる。和食に慣れ切った口にはお米のちょっとぽそぽそとした、固い歯ごたえが面白い。お米は、スペインでは「ごはん」ではないんだな、と当たり前のことを感じて、楽しい。

「おいしい」

 言って、笑う。おいしそうか、おいしい、ばっかりだ。笑いながらまた食べる。こういうものが食べたかったなのだな、と知る。こういうなじみがなくて、でもわかりやすいうまみがあって、明るい気持ちになるものが。木崎は私の食べたいものを、私よりもよく知っている。

 赤いスープはガスパチョといい、すっぱくて、体の中が新しくなるような鮮やかな味がした。

「どうしてスペイン料理なの?」

「学生のころ、一人旅でスペインに行ったのを、ちょっと思い出して」

「スペイン、どうだった?」

「言葉が全然通じなくて、途方に暮れました」

 そう言いながら木崎は楽し気だった。

「行く前にわからなかったの?」

「わかっていたつもりだったんですけどね。英語が多少話せるからなんとかなるかと思っていたら、思っていた以上になんともならなかった。まあ、楽しかったです。ご飯が美味しくて」

 私は学生時代の木崎を想像する。今よりもさらに痩せていて、今よりも少し固い雰囲気の男の子。

「木崎さんと、もっと早くに会いたかったな」

「もっと早く?」

 頷く。もっと早くに会っていれば、と言いかけ、その続きを考えて口をつぐむ。もっと早くに会っていれば、なんだというのだろう。なんというのか、この望みは傲慢だと思った。私は木崎に望みすぎる。オムレツをかじった。ジャガイモが入っていて、安心な味だ。

「でも一番いいときに、僕たちは会いましたね」

 木崎の言葉に顔を上げる。お箸でタコのマリネを口に運んでいた。目が合うと、ごくごくかすかに笑ってくれる。一番いいとき。木崎の微笑みとその言葉とビールの酔いとご飯のおいしさがぐるぐる回って、その答えとして私は微笑んだ。涙の代わりのような微笑みだった。

「なんにせよ、会えてよかったです」

 頷く。本当に、その通りだった。木崎の言うことは正しい。私と木崎は、これしかない、というときに、これしかない、という組み合わせで、出会ったのだった。他はない。これだけしか、ない。

 私はビールを飲み、ふんわりとした意識で、食卓を眺めた。色鮮やかな、見慣れない、スペインの料理。私たちの家。私たちの食卓。

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