第29話

 自分で自分の書いたものを読むのは、たいてい変な感じだ。好ましい言葉で、好ましい物語だけれど、自分と近すぎて、少し恥ずかしい。書き終わって、その物語の作者から読者になるために、私は時間を必要とする。一年とか二年とか、少なくともそのぐらい。

 原稿用紙をクリップで留めて、でもまだ名残惜しくてぱらぱらと捲る。それなのに、今回は別だった。私はこの物語を、素直に、面白いと思う。とても面白い。独特で、奇妙で、それでいて普遍的な、一つの物語がここにある。私はこの物語を愛している。この物語がこの世界にあることが、嬉しい。私が書いたものなのに。

 浮かれて、客観的な判断ができていないことはわかっている。それでも私はこの仕事が誇らしい。私は作家だ。ほとんど初めて、それを誇ることができる。欠片の後ろめたさもなく、私は作家だと思える。これが一時の高揚感が見せる錯覚だとしても、そこまで自分の物語で自分をだませたのであれば、それはそれで一つの成果だと、妙な理屈を組み立てる。

「できた」

 口にして、なんだかおかしくなって笑う。できた。私がこれを書いたのだ。この愛しい物語と私の間には分かちがたい関わりがある。物語を書くということはいつでも自分で管理しきれない部分があって、だからいつでも奇妙で神秘的な感覚を私にもたらす。それは私自身を神秘的に、大きくし、同時に神秘のもとで、私を小さくする。物語を産むという神秘を自分のものにできると感じもするし、物語が私を動かし書かせている、と感じもする。でもどちらも本当のことだ。私と言う現象の上で真実がざわめく。ざわめきが私と言う現象を揺らす。私が物語を作り、物語が私を作る。

 書かれた文字と心がまじりあって、ふわりと体が浮くような感覚があった。私は目を閉じ、後ろ向きに倒れこむ。物語と向き合い続けていたせいか、芯からの休息をしばらくとっていない。疲れたな、と感じるけれど、まだ高揚感が残っていて、眠気はやってこない。ぷかぷかといろんなことが瞼の裏の暗闇に浮かぶ。物語に出てきた女の子。その子の着ている紺色のワンピース。飲んでいたメロンソーダ。灰色の猫。浮かんでははじけてぐちゃぐちゃになる。

「おなかすいた」

 つぶやいてみる。つぶやいて、お腹がすいていることに気づいた。お昼にはおむすびを食べた。ここに運んでもらったのだ。書いたり直したりしながら食べた。具が思い出せない。そういうことは最近増えた。忙しかったせいだけれど、忙しいのだから、とそのあたりの機能のスイッチを、自分で切っていたような気もする。不誠実だ。

「よいしょ」

 起き上がる。木崎に会おう。お礼を言おう。そう考える。そう考えている部分の外では、まだ物語のあぶくがぷかぷかと、浮かんでははじけている。うまく体の芯を見つけられないまま、木崎に向かって歩き出す。


 木崎はゲームをしていた。振り向かないかとしばらく背中を見ていたけれど、振り向かない。

「おなかすいた」

 ちいさな声で言うと、振り向いた。

「おやつにしますか」

 嬉しくて、うなずいた。

「何があるの」

「朝ケーキを焼きました」

「なんのケーキ?」

「それはまだ内緒」

 ゲームはそのままにして、木崎は台所に立つ。私はゲームの画面を眺める。明るい色。音はおおきくないのに、耳に刺さるような音楽。結婚したばかりのころ、こういうものをする人がいる、ということ自体が新鮮だった。でも今は、すっかり見慣れた。好きにはならなかったが、慣れてしまった。

 気は昂ぶっているけれど疲れは感じる。私は首をぐるぐる回したり、腕を伸ばしたりして体をいい加減にほぐした。木崎は紅茶の準備をしているようだった。目をつむって首を後ろに倒す。

「どうぞ」

 最後に首をぐるっと回してから目を開ける。きれいな焼き色のタルトがあった。無花果だ。茶色いケーキ。そういうものが、自然になじむ気温と湿度。

「秋だね」

 しみじみつぶやく。私は自分の世界で遊んでいる間に、本当に、まったくの秋になっていたのだった。

「たくさんケーキを焼きますよ」

 と木崎は言う。たくさんのケーキ。秋は素敵な季節だ。

 木崎のタルトは固めなので、まずフォークを突き刺して穴をあけて、そこを横に倒したフォークで切り取る。最初から切ろうとすると、力を入れ過ぎて切った欠片が飛んで行ってしまうのだ。

 口に入れる。口の中でさくさくぽろぽろ崩れていく生地と、焼いた果物の深い甘み。無花果は噛むとぷちぷちと気持ちのいい感触。

「おいしい」

 甘みに、ふっと、こわばっていたところで緩んで、眠たくなってくる。瞼と頭が重たい。でもお茶を楽しみたいし、木崎と話もしたい。紅茶を飲む。口に残っていた甘みと油と合わさって、ふわりと香りが膨らんで、喉を通るとかすかな余韻を残して消えた。うっとりするような美味しさだった。そういえば、熱い紅茶を飲んだのは、ずいぶん久しぶりだ。なんておいしい飲み物なんだろう。すっかり忘れていた。

 帰ってきたのだ。そう思った。私は自分の世界から、ここに帰ってきた。木崎はずっと、私を待っていてくれたのだ。いい匂いの紅茶とおいしいケーキのある場所で、私にはわからないゲームをしながら。

「ケーキ、おいしい」

 言いたい言葉があふれてきて、それだけしか口にできなかった。

「よかった」

 指先で柔らかく耳を撫でるような木崎の声。この声が好きだった。

「あのね」

「はい」

「書き終わったよ」

「小説ですか?」

 うなずく。木崎は微笑んでいる。

「よかったですね」

 ほとんど想像した通りのことを、木崎はこたえた。私はうなずき、ああ、と思う。ああ、そうか。

 木崎は私がどういう世界に生きているのかを、知らない。私の一番大切なものを、この人は知らない。

 紅茶を飲む。温かくておいしい、現実の味。

「できたの、読む?」

 とりあえず、尋ねてみる。読みますよ、と木崎は言う。

「時間がかかるかもしれませんけど」

「うん」

 どっちでもいい。自分で聞いたのに、そう思った。読んでくれても、読んでくれなくても、どっちでもいい。たぶん木崎が、読んでも、読まなくても、どっちでも、と思ってるのと同じように。

「今日はごちそうにしますね」

 木崎は微笑んでいる。善良で、穏やかで、近くて、わからない人。ごちそう。私も微笑んでうなずく。

「楽しみ」

 本当にそれを楽しみにしているのか、私にもよくわからなかった。

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