第30話
生きることが難しい。
最近本当に、そう感じる。生きることが、いちいち難しい。起き上がったり、ご飯を食べたり、本を読んだり、仕事をしたり、排泄したり、お風呂に入ったり。何もかも難しく、私にはどうすることもできないてごわいパズルのように感じる。解くことをどうにか後回しにしながら、なんとか時間が経つのを、待っている。
世界が私をはじき飛ばしている、と感じる。どこにも居場所がなく、私を気に留める人は誰もいない。でも、それが間違っていることもわかっている。私の小説は売られ、読まれ、そこにはお金や、その他の何かが生まれている。特別な何かでなくとも、ごく普通の人間として、私の居場所はこの世界にある。誰の居場所もあるように。そう理解できるのに、しかし私に見えるのは、私に向けられた世界の背中だ。私の精神、私の肉体は、私が排斥されていると訴える。
これは、雨が降ると頭が重たくなるような、ただの物理的な反応に過ぎない。それを、私は理解できる。できるけれど、思考は私の精神に書かれたただの文字に過ぎなくて、私を動かしてはくれない。息がうまくできない。自分が呼吸をしている、と意識してしまうと、もうそれがうまくできない。私はどうやって今まで生きてきたのだろう。
「ゆすらさん」
木崎の声だ。木崎の呼び声は綱のようだ。私はそれを手繰り寄せ、握る。そうすると、少しうまくいく。いろんなことが、少しだけ簡単になる。
「ごはんできましたよ」
うん。
声を出すのも顔を動かすのも難しくて、でも気持ちのうえで返事をする。木崎はそれをちゃんと聞きとってくれたように、私の手を握り、布団から起こしてくれる。私の体は冷え切っていて、木崎の手をとてもあたたかく感じる。抱き起されたついでに、胸に顔を埋める。なんて温かくて安心なんだろう。
「立てますか?」
背中をゆっくり撫でながら尋ねてくれる。
うん。
また気持ちのうえで返事をすると、手を添えて立たせてくれた。肩を抱いて、ゆっくり歩く。
木崎さん。
気持ちのうえで呼んでみる。でもこれは通じなくて、二人で黙って歩く。
あまりたくさんのものが食卓に乗っていると圧迫感があるという私のために、この頃はうどんや丼が多い。今日は豚汁うどんだった。くたくたの柔らかく煮たうどんを、もぐもぐと食べる。大きなさつま芋が角が丸くなるぐらいに煮込んであって、汁自体がとろりと甘くなっている。
「おいしい」
調整がうまくいかなくて、ひどく小さい声になった。でも木崎はちゃんと聞きとって、微笑んでくれた。
「秋はなんでもおいしいですね」
そんなことはない。木崎が作るからおいしいのだ。そう思うけれど、うまく言葉にすることができず、黄色いさつま芋をかじる。とても熱くてとても甘い。熱いので口の中の置き所が難しく、転がすようにして食べる。
食べはじめると、食べることだけに集中できる。おいしいものが、私のおなかを満たしていく。いいにおいであたたかくておいしい。大根を食べ人参を食べごぼうを食べこんにゃくをたべ油揚げを食べ葱を食べ里芋を食べ蓮根を食べ豚肉を食べ、それからうどんをもぐもぐ食べる。
半分ほど食べて、ため息をつく。私の体の中によいものが入っている、と感じる。つまらない私の中に、とてもよいものが。でもつまらない私は、もともとこういう良い食べ物によって、思いやりに満ちたおいしい食べ物によってできているのだ、と思い至る。それでも私のつまらなさは変わらなくて、私にとって一旦ないものとして証明されてしまった私の価値はこの方法ではうまく挽回ができないのだ。どうすればいいのかわからない。でも考え続けることはそのまま深い穴に潜っていくことだというのは知っているので、ただまたうどんを口に入れる。おいしい。
おいしさに没頭したくて、汁まで全部飲んだ。おなかがぽっこり膨らんでいる。これ以上は食べられない。ずっと食べ続けられたらいいのに。
「ごちそうさま」
手を合わせると、木崎が微笑んでうなずいた。
「お茶飲みますか」
首を振った。もうお腹に何も入らない。黙って座っていると木崎は食器を片づけに運ぶ。そういえばこの頃はそんなことまで全部やらせてしまっている。役立たずだ。私は。
木崎は自分の分のうどんを持ってくる。そうだ。この頃は一緒にご飯を食べない。一緒に食べると私が何かあったときにゆっくりできないからだろう。気を使わせている。
「いただきます」
でも木崎はそんなこと全然なんでもないみたいに平然としている。どうしてこんな人が、私のそばにいてくれるのだろう。本当は、私は一人ぼっちでいればよかったのかもしれない。一人ぼっちで、この家に、誰からも見捨てられて。それでよかったのかもしれない。私にはそれで十分だったのかもしれない。どうして私は、誰かに救われたいと願ったのだろう。助けてくれる誰かに、うまく救われることさえできないのに。
「うどん、おいしい?」
何か言いたくて、でも言いたいことを言うのが怖くて、どうでもいいことを尋ねた。木崎はうどんをちゅるりとすすって飲み込むと、微笑んだ。
「おいしいですよ。もう少し食べますか」
「お腹いっぱい」
「そうですか」
そしてまたうどんをすする。この人は、いつも全く平静に見える。平静で、誰にも心を揺らされないように。いつもぴったりと同じ輪郭の中に、いつもぴったり同じものが入っている。
「木崎さんは」
尋ねてみる。木崎はうどんを飲み込み、ビールを一口飲んだ。
「はい」
「落ち込んだりしないの」
ううん、と木崎はかすかにうなった。
「そういうことも、ありますよ」
知らなかったな、と思った。当たり前のことなのに。
「そういうとき、どうするの」
ううん、と木崎はもう一度うなった。
「どうしてるんでしょう」
私の中のリズムがとん、と乱れて、ふふ、と笑いがこぼれた。
「勤めているときは、しょっちゅう落ち込んでましたね」
「そうなの?」
驚いた。勤め人の木崎を想像するが、うまくいかない。出会った頃は勤め人だったはずだけれど、勤め人だ、という目で見たことはなかったから。木崎は木崎だった。他の誰とも違う人だった。初めから。今も。
「なかなかきつかったですからね。いつもゆっくりしたいと思っていました」
「今、ゆっくりできてる?」
不安になって尋ねた。いろんなことをしてもらいすぎているから。
「できてますよ。こんなにゆっくりでいいのかなと思うぐらいです」
「そう」
それならよかった。本当によかった。本当に。その気持ちのどこにも嘘はない、はずなのに、ひどく白々しい。木崎の快適さを喜ぶ気持ちと、私が、隔てられている。隔てられて、自分の気持ちさえ、私に届かない。独りぼっちだ。ずっと独りぼっちだった。独りぼっちじゃないと感じていたときも、本当はずっと独りぼっちだったのだ。それに気づいただけ。この確信を、今の精神状態のせいだと思おうにも、否定する事実がない。
だって、みんな行ってしまったんだから。
木崎を見つめる。おいしいうどんを食べている、優しい男の人。私の夫。私のところにやってきた人。みんな行ってしまった家に、やってきてくれた人。どうしてなのかはわからない。この人のことはわからない。そういう人。
木崎はうどんを静かにすする。こういうふうに麺をすする人は、うちの家族にはいなかった。私の夫。
いつか、行ってしまうかもしれない人。
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