第33話
電話を待つのが、耐えられなかった。
台所にいる木崎に、散歩、と言い置いて、財布をポケットに突っ込んで、外に出た。うつむいて、足早に、歩き続ける。脚が進む方に行くと、駅に着く。電車に乗りたくなって、でも遠くに行くのは怖くて、一番安い切符を買った。改札に入る。夕飯までには戻らなくちゃ。
「どこに行くんだ」
崇だった。ぽかんとして、口が開く。私の顔を見て崇は笑いそうになって、でも笑うのが癪だったのか呆れた顔を作る。私にはなんだかそういうのが、わかってしまうのだな、と思った。わからないことばかりでも、そういうことだけ、わかってしまう。わかる必要がないのに。
「散歩」
小さい声で答えた。へえ、と崇は言うと、私の手をつかんだ。
「行くぞ」
それだけ言って、崇はホームに続く階段に向かう。私はおとなしくついていく。手袋をしていない私たち二人の手は冷たくて、感覚がわからない。
「来てくれたの?」
ホームで尋ねる。崇は答えない。答えないことで、そうだ、と言っている。ホームは割合空いている。電車を待つ間も、崇は手を離さない。
「結果が出る前に言っておく」
ふいに私を見ずに言う。
「うん」
「お前だろうな。たぶん単独受賞だ」
私は笑った。
「ありがとう」
「何がだ」
こっちを向く。
「取れなくても、もう十分だなって思ったから」
崇はむっと口を引き結ぶ。
「お前が取る」
そう言われると、信じたくなる。というか、心のどこかが信じてしまう。そんなに取りたいわけでも、ないのに。
「取れなかったら?」
軽薄に尋ねる。
「お前が取る」
崇は頑固にそう言い張る。なんだか、私よりもずっと、拘っている。崇はずっと、こんなふうに、賞や人の評価にこだわって、明白なものがほしいと、思ってきたのかもしれない。作家という仕事を、私とは全然違う風に歩んできたのかもしれない。私と崇は隔たっている。こんなに長く一緒にいるのに、何度だって隔たっていることを確認する。知っていること。知らないこと。どれだけ長く一緒にいたって。いや、いるからこそ、かもしれない。いつでも手を繋いでいたころと、今は、違う。手を繋ぐ意味も。
私はそっと自分の手を引いた。崇はそれでも離さない。崇はどうして、私の手を握るんだろう。小さいころ、言いつけられたことを守るように、まだ繋いでいるのだろうか。離してはいけないと言われたものを自分に繋ぎとめるために。それとも、もう、違うんだろうか。一度も言葉にして、確かめたことがなかった。一度だって。
電車がやってくる。どこに行くのかはわからない。わからないまま、手を引かれて、そこに乗り込む。木崎と、夕飯のことを考えかけて、手に触れる崇の手の温度で、うまく考えられなくなる。
電車の中では並んで座った。座っている間も、手は離れなかった。私も崇も何も言わず、ただお互いの手だけが熱くなっていった。手に汗をかいて居心地が悪かったけれど、振りほどくにも何かそこに意味が生まれそうで、繋いだままでいた。子どものまま二十年経ってしまった、という顔で。勤め人の帰宅時間と被ってはいるが、混んでいる電車とは反対方向なので、車内は人がまばらに立っている程度だ。その人たちから、私たちはどんなふうに見えるのだろう。二十年経った子どもの私たちは。今の私たちには、名前がない。
「降りるぞ」
考え込んでいると、崇が言い、立ち上がった。私もついていく。駅は、崇の家の最寄りだった。ホームの階段を下りる。構内は静かだ。
「なんか食っていくか」
「ううん」
聞かれて、首を振った。振ってから、お腹が空いていることに気づいた。でも、何も食べたくならなかった。そういうことは久しぶりだった。久しぶり、と思ってから、母と父が死んでしまってから、しばらくそんなふうだったことを思い出した。忘れていた、というよりも、そんなふうだったことを意識していなかった。あの頃、私のお腹はずっと空いていた。でもそこに何を詰め込んでいいのかわからなかった。
「もう食ったのか」
「ううん」
木崎がご飯を作っている。そのことを思い出して、重たい気分になる。電車の中で、お腹が空いていた私は、木崎に出会った。それまで知らなかった人なのに、今その人は、家で私を待っている。誰もいなくなった空っぽの家に、木崎がいる。あたたかいご飯を、作っている。
「お腹空いたな」
食べたくないのは相変わらずなのに、そう口をついて出た。崇は呆れたような顔をした。
「食っていくか」
「ううん」
私の返事に崇はあからさまなため息をついた。何かを言いかけてやめて、でもやっぱり口を開いた。
「俺もそうだった」
「うん?」
問い返してから、賞のことを思い出した。一年前の、ことだった。私は気にしていなかった。夕飯を作る木崎にまとわりついていた。結果を知ったのは、翌日の朝刊だ。
「飯が食えなかった」
「そう」
今まで一度も、そんなことを考えたことがなかった。崇があの日、どんな気持ちで賞を取りたいと思っていたのか。どうしてそんなに、賞を取りたかったのか。だって、言われていないから。
「選ばれると自信はあったけど、選ばれなかったら、どうしようかと思って、飯なんか食えなかった。どうしてもほしかった」
構内には私たち二人しかいなかった。がらんとした空間を、寒々しく蛍光灯が照らして、隅に暗い陰を作っている。私たちは手を握ったまま、立ち止まって、お互いの顔を見つめていた。二十年前、私たちは子供だった。そのまま、なんの言葉もなく、二十年が経った。崇の瞳は黒く丸く、その中に私が閉じ込められている。手の力が強くなる。あたたかくて大きくて湿った手。
もう、子供ではない。そんなふうには、錯覚できない。
「賞を取れば、お前と結婚できると思ってた」
言ってしまった。
そう思った。ずっと口に出さずに先延ばしにして、そのうちに全部手遅れになって、でもなくなりはしないまま放っておいたものが、とうとう、表に出る。
それに今の私は、私は答える言葉を持たなかった。ただ黙って崇を見上げていた。子どもみたいに。でも子供ではなく、大人の女、別の男と結婚した女として。
「いくぞ」
崇は背を向けて、手を引く。私よりも頭一つ大きい男。私はそれについていく。手を振りほどくことが、できない。
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