第13話

 青葉はタオルで、がさがさと乱暴に髪の毛を拭いている。

「大きい風呂、久しぶりだなあ」

「そうなの」

 なんだかにわかには信じがたくて、青葉のそばに、座っている。ふ、と、石鹸とまじった体臭が鼻を撫でた。青葉の匂い。懐かしすぎて、胸が苦しくなる。

 聞きたいことが、たくさんありすぎた。どこにいたの。どんなふうに過ごしてたの。元気にしてたの。どうして急に帰ってきたの。

 どうして、出て行ったの。

 でもどれも、口にすることができない。何もなかったようなふりをしないと、この現実を繋ぎとめていられない気がする。

 青葉は台所に向かう。私もその後ろをついていく。

「何作ってるんですか……あ、餃子か」

「はい。鍋にしようと思って」

 答えながら、木崎は器用に具を皮で包んでいく。

「手伝いますよ」

 木崎は笑って首を振った。

「大丈夫です。ゆすらさんの相手をしてあげてください」

「ははは。すみません」

 青葉は私を振り返り、

「だってさ」

 と笑った。私も、どうにか笑みに似たものを返す。青葉は出してある食器を眺めている。

「コップどれ使えばいいかな」

 聞かれて、慌てて食器棚から青葉のコップを取り出して、軽く洗った。

「何飲むの」

「麦茶ある?」

「ありますよ」

 と答えたのは木崎だ。私は冷蔵庫から麦茶のケースを出して、コップに注いでやる。

「はい」

「ありがとう」

 青葉は立ったまま飲み干すと、もう一杯、と言った。注いでやる。二人で、食卓につく。青葉は普段、木崎が座っている席に座った。そういえばもともとは、青葉の席だった。

「木崎さん、料理上手なんだね、すごいね」

「お菓子も上手だよ」

「すごいね。いい人と結婚したね」

 本当にそう思ってる? そう思って青葉の笑顔を探っても、何の含みもそこにはなかった。ずっと一緒にいたのに、ほんのわずかに離れていただけで、距離の測り方がわからなくなる。

「びっくりした?」

「え? うん。びっくりは、したね。知らない人が出てきたからね」

「そっか」

「でも、よかったよ」

 私は青葉の顔を、じっと見る。その視線は、いくらか恨みがましかったかもしれない。強いてそれを隠そうともせず、じっと見る。青葉は、少し居心地悪そうに、身じろぎした。

「……元気そうで、よかったよ。本当に」

 答える言葉が見つからない。どうして置いていったの。そう聞いてしまいそうだった。心配していたのなら、どうして置いていったりしたの。この家に。私ひとりで。どうして。どうして。私が苦しむことぐらい、わかっていたはずなのに。

 でも、言えなかった。一つでも言葉を漏らせば、そこから際限なく責める言葉が噴きあがってくるのが、わかっていた。私は苦しかった。苦しくて、誰かを責めたかった。でも、生きている人を責めることはできなかった。その人たちは私の苦しみを救ってはくれなかったけれど、私とは別の苦しみを持っていて、自分の苦しみで手がいっぱいなのだ。私の苦しみは、青葉のせいではなかった。わかっている。私だって、青葉を助けてはやれなかった。だから出て行ったのだ。わかっている。

 わかっていた。わかっていても、責める気持ちは、消えなかった。青葉をどこまでも責めて、追い詰めて、それでも許してほしい、という、身勝手な、青葉を私の中に取り込みたい、という、気持ちが。

「青ちゃんの話をして」

 胸の中の凶暴なものを押さえつけて、言う。

「僕の?」

「どこに行って、何をしてたのかとか、そういう話を」

「いいよ」

 と青葉は笑う。私は一度考えるのを止めて、弟の話に耳を傾ける。最初に行ったのはオーストラリア。ずっと南半球に行きたいと思ってたんだ……。


 こんなに作ってどうするんだ、と思ったほどたくさんの餃子は、三人のお腹にみるみるうちに消えていく。青葉は相変わらずよく食べ、競うように私も、ポン酢で表面をひやした熱い餃子を口に放り込む。手作りの分厚くてなめらかな皮を破ると、豚肉と野菜の汁が流れ出てくる。豚の餃子と、海老の餃子、二種類を、木崎は作ってくれた。豚はこってりとしていて、海老は粗く刻んだ分歯ごたえがある。どちらもとてもおいしい。

「いくらでも食べられるね」

 餃子と一緒に茹でたもやしとニラを齧りながら、私は青葉の言葉に頷く。青葉の顔は熱とビールのせいでつやつやと赤い。

「料理、本当に上手なんですね。ゆすらちゃん、よかったね」

「ゆすらさんは食べるのが好きだから、作っていても楽しいですよ」

 答える木崎の顔も赤い。勢いよく食べ続ける姉弟と違い、木崎はもうだいぶ満腹のようだ。のんびりとビールを飲んでいる。

「なんかすみません。急に帰って来たのにごはんまで」

「いえ、こちらこそ」

 私はビールを一口飲んで、青葉に尋ねる。青葉の顔を見てから、ずっと聞きたかったことのうちのひとつだ。

「青ちゃん、しばらくいるの?」

 どうかな、と、青葉は曖昧に答えた。

「長いこといても、迷惑でしょう」

 新婚だし、と、茶化して笑う。

「迷惑なんかじゃありませんよ。というよりも、ここは青葉さんの家でしょう」

 木崎の平静な言葉に、青葉は苦いものを含んだような笑みを浮かべる。

「そう言っていただけると、ありがたいです」

 結局青葉はいつまでいるとも明言せずに、ビールを飲んだ。

 そして私も、長くいてほしいのか、それとも、早く出て行ってほしいのか、わからない。多分どちらでも、苦しかった。青葉のせいではない。苦しみはいつでもここにある。ただ、木崎と二人でいると、忘れることができるだけだ。青葉がいることで、苦しみが形を変える。私はその形に、まだ慣れない。


 久しぶりに入った青葉の部屋は、木崎がちゃんと掃除してくれているので綺麗だ。壁の歌手のポスターも、CDや漫画がたくさん詰まった棚に飾ってある小物も、私の記憶そのままだ。青葉がいなかった時間が、そっくりどこかへ行ってしまったような気持ちになって、混乱する。

「ゆすらちゃんは、もう苗字は木崎なの?」

 ベッドに腰掛けた青葉が尋ねる。カーペットにぺたんと座った私は、見上げて頷いた。

「うん。仕事は島田でやってるけど」

「変な感じだなあ。木崎ゆすら」

 青葉の口から出ると、確かに奇妙な響きだった。木崎ゆすら。でも、それが私の名前だ。私はもう、島田ゆすらではない。島田の人間では、ないのだ。戸籍のうえでは。

「でも、うん、よかったよ」

 笑う青葉に、私も笑ってみせる。部屋はそのままなのに、私たちは全然そのままではない。距離も、笑い方も、前のやり方は会わないうちに埃をかぶってしまっているから、二人とも慎重に、埃をはたく。埃なんかないふりをしながら。

「みんなは元気?」

「みんなって?」

「崇とか、志賀さんとか、大迫先生とか、編集の人たちとか、まあ、みんなだよ」

「みんな元気だと思う。崇は賞取ったし」

「崇が? いつ?」

 青葉は目を丸く見開いた。

「この間だよ。一月の。知らなかったの」

「知らなかったよ。うわあ」

 青葉は後ろ向きにベッドに倒れる。トレーナーの裾がずり上がって、日に焼けたお腹が見える。

「一月か。そうかあ。ゆすらちゃんは、そのときもう結婚してたんだっけ」

 青葉はくすくす笑い出した。笑いながら、ひょいっと起き上がる。

「可哀想な崇」

 私はなんとも答えようがなくて、顔をちょっと顰めた。

「帰ってきて、家にゆすらちゃんがいなかったら、崇の家に行かなくちゃいけないかなって考えてたんだよ。ここに来る前」

「予想外だったね」

「うん。知らない人と結婚してるとは思わなかった。崇、可哀想に」

「可哀想なんかじゃないよ」

 声が鋭くなる。青葉は驚いたように目を瞬いて、それから静かに言った。

「そうだね。可哀想なんかじゃないね。ごめん」

 ほんの少しだけ、安心する。青葉にまで崇の肩を持たれたら、たまらない。

 あれはまだ私と崇が大学生の頃だった。家で、みんなでお酒を飲んでいるとき、賞の話になった。父は昔、その賞がほしくてほしくて、傾向と対策を練って書いたのだけれど、結局取れなかったのだと言った。お酒のせいで少し大げさになってはいたと思うけれど、賞がほしかったのは本当のことだったのだろう。父は赤い顔で、隅で飲んでいた崇を呼んだ。崇はそのときにはもう純文学の新人賞を最年少で取って、単行本も出ていた。

 崇君、あれが取れたら、ゆすらをあげるよ。

 その言葉に、みんなが笑った。崇と私だけが笑わずに、お互いの顔を見つめていた。

 それだけのことだ。あれ以来、私の前で父も崇もその話をしたことはなかった。父は、酒の上で言ったそのことを、忘れてさえいたかもしれない。父の真意など、もうわかるはずもない。もういない人の、真意など。

「木崎さん、いい人だよ」

 部屋の中に満ちてしまった、父と崇の気配を薄めるために、そんなことを言ってみる。

「うん。それは、すごくよくわかるよ」

「優しいの」

「うん」

「困ってたら、助けてくれたの」

 私は木崎との出会いを話す。電車の中で紙袋が破れて本をばらまいてしまって、拾うのを手伝ってくれたこと。一緒に次の駅で降りてくれて、新しい紙袋を手に入れてくれたこと。家まで送ってくれたこと。荒れ果てた家に驚いて、掃除をしようかと言ってくれたこと。掃除をしてくれて、次の週末に、また来てくれたこと。そのときに、ご飯を作ってくれたこと。青葉は口を挟まずに、ずっと聞いていた。木崎が私にしてくれた、たくさんのこと。話していると、涙が出そうになって、口を閉じた。

「ゆすらちゃんがいい人と会えて、本当によかった」

 青葉が言う。私は顔を背けて、こぼれてしまった涙を拭った。立ち上る。

「そろそろ寝るね」

「うん。おやすみ」

「おやすみ」

 部屋を出て、灯りのない廊下を歩く。雨はまだ降り続いている。裸足のつま先に、つめたく湿った暗闇が纏いつく。青葉が、家にいる。暗闇が、足元から心臓まで、つめたく這い登ってくる。父の寝室の戸が見える。もうずっと、開けていないその部屋。目を背けて、通り過ぎる。青葉が、家にいる。でも、また、出て行く。みんな同じだ。みんな、出て行ってしまう。みんな、私を、捨てていく。私だけ、どこにも行けない。

 暗くつめたいものが、身体中を満たしている。木崎に会いたい。木崎にしがみついて、あたたかさを確かめて、どこにも行かないと言ってほしい。でも。

 木崎だってずっとここにいると、一体誰が保証してくれるのだろう。そう考えて、そう考える自分を嘲る。

 誰も、いないのだ。誰も、永遠を保証してはくれない。木崎にくっついて、安心していられるのは、ただその瞬間、そのことを忘れていられるだけに過ぎない。どんな幸福も、どんな安心も、どんなにしっかりしているように見えたって儚く脆く、その瞬間にしか存在しない。すべて、いつ消えてしまうのかもわからない。

 でもその瞬間の幸福だか安心だかに縋って、のめりこんで、一瞬一瞬を繋いでいくほかに、方法はないのだ。喪失に見つめ続けていたら、そちらに引っ張られてしまう。生きて、いけなくなる。

 父がそうだったように。

 足元は暗い。背にも暗闇がのしかかる。私は冷えた手を上げて、寝室の戸を開いた。

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