第12話
部屋の中はひんやりとした、雨の気配に満ちている。私は畳に寝っ転がって、本を読んでいる。硬めの本と柔らかめの本を何冊か頭の横に積んで、気分を変えながら読む。あんまりいい読み方ではないような気はするけれど、私は本を何冊か、並行して読むのが好きだ。
どれもそこまで熱中して読むほどは面白くなくて、私はあくびをする。少しお腹が空いたので、立ち上がって居間に行く。廊下を歩いていると、独特の高い音が聞こえてきた。ゲームの音だ。
「木崎さん」
ゲームをしている木崎に、声をかける。
「はい」
と木崎は振り向かずに応えた。
木崎はゲームが好きだ。家事が一段落つくと、よくやっている。少しやらせてもらったことがあるけれど、私には何が楽しいのかよくわからなかった。でも、それはお互い様だろう。
「お腹空いた」
「ちょっと待ってくださいね」
「うん」
いいところなのかもしれない。私は自分で何か用意してもよかったけれど、なんとなく、木崎の背中にぴったりとひっついてみた。木崎は笑う。笑いながら、コントローラーでなにがしかしている。器用だ。
「楽しい?」
「はい」
それはよかった。私は木崎の肩甲骨の間に顔を押し付けて、目を閉じる。大きくてあたたかくて、安心する。肌にじんわりとあたたかさが沁みて、くっついて初めて自分が寂しかったのだと知るような、そういう安心感。いつまででもくっついていたくなる。
しばらくそうしていると、何か派手な音がして、それから音楽が流れ出した。
「もういいですよ」
「うん」
でもまだ離れない。木崎が笑うのが、身体から直接伝わる。
「何を食べるんですか」
「何だろ。何があるっけ」
「そうですね。クッキーがまだ残ってますよ」
一昨日に、私がケーキ屋さんで買ってきたやつだ。
「食べる」
「はい」
と言って、木崎が立ち上がる。テレビは音楽を流したまま、同じ画面のままでいる。私もくっついたまま、立ち上がった。
「気に入ったんですか、それ」
「うん。木崎さんは?」
「気に入りました。もちろん」
と言いながら、紅茶のためにお湯を沸かしてくれる。立っているのに半分眠っているような安らかさで、私はじっと、木崎にしがみついている。マグを出したり、クッキーのお皿を出したりと立ち働いている間も、くっついて回る。用意ができると、お盆に一式を乗せて食卓に運ぶ。危ないので、少し離れた。食卓につくと、またひっつく。茶葉を蒸らす間に、尋ねてみる。
「ゲームって」
「はい」
「何が面白いの」
そうですねえ、と木崎は言う。
「まあ、基本的に面白いように出来てますからね」
「映画とか漫画とか、娯楽はなんでもそうじゃないの」
「そういえば、そうですね」
と、木崎はのんきに言う。これ以上、この話を突き詰めるつもりは、木崎にはなさそうだ。時間を見て、紅茶をカップに注ぐ。熱い液体と磁器が触れ合う、丸くやわらかな水音。雨の日は、音がなんだかやわらかく響く。
「どうぞ」
くっついたままでは、紅茶が飲めない。しぶしぶ離れる。
「今は、何のゲームしてるの」
「RPGです」
横文字のタイトルを教えてもらう。
「ふうん」
聞いてはみたけど、ふうん、以外に何の感慨もなかった。
「多分ね」
「はい」
「楽しみ方を制限されてる感じが、私はあんまり好きじゃないの」
「ゲームのことですか?」
「うん」
紅茶の湯気を、息を吹いて散らし、一口飲む。少し冷えていた身体の中が、ぼうっと熱くなる。クッキーを摘まむ。このクッキーは丸くて、粉砂糖がたっぷりかかっている。アーモンドの粒がたくさん入っていて、歯に当たるのが楽しくて美味しい。
「映画とか漫画とか、娯楽はなんでもそうじゃないですかね」
木崎の言葉は、私の言葉の繰り返しだった。でもまったくその通りだったので、私はにやりと笑う。木崎も笑う。
「好みの問題だね」
「はい」
私たちは全然ちがうな、と、たびたび思うことをまた確認する。それは楽しくて、そして、多分私には必要なことでも、あった。
「このクッキー、美味しいですね」
木崎はそう言って、粉砂糖のついた指を舐めた。私は笑い、もう一つクッキーを摘まんだ。美味しい。
私たちは全然ちがう。でも、同じところもある。それもまた、楽しいことだ。
チャイムが鳴った。二人で顔を見合わせる。
「なんだろ」
「なんでしょうね。行ってきます」
「うん」
立ち上る木崎の後ろ姿を見送りながら、なんだか胸騒ぎがした。理由はわからない。紅茶が湯気を吐き出すのを、じっと眺めている。きっと、なんでもない。そう思いながら、でも、それを信じられない。
木崎はなかなか帰ってこない。ゲームの明るく単純な音楽が、ずっと流れている。
足音が、聞こえた。喜びかけて、でも、おかしいと気づく。足音は、一つじゃない。これは。
「ゆすらさん」
戸の向こうで、木崎の声がした。なに、と答える前に、戸が開いた。
「ただいま」
黒い癖っ気が、湿気を含んで広がっている。顎には似合わない髭。色の褪せた赤いTシャツから伸びた長い腕は、ずいぶん、日に焼けている。困ったような、どこか甘えたような笑顔。何かを考える前に、目が勝手に涙をこぼした。
「……おかえり」
青葉、だった。行ってしまった、私の弟。
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