第20話

 窓の向こうの庭には燦々と日が降り注いでいる。喫茶店の中は対照的に薄暗く、空気もしんと穏やかだ。

「いいお店ですね」

 頷く。

「小さい頃はめったにお店に入れなかったの。いつもは父と編集さんがここで打ち合わせしてて、母と私と青葉で迎えに行って、四人で帰るんだけど、たまに父と私と青葉の三人で来て、甘いもの食べさせてもらう。母はその間お買い物」

「何を頼んだんですか」

 私はちょっと笑った。

「クリームソーダ」

 木崎もちょっと笑った。

「ソーダとか、そんなに好きじゃないでしょう」

 頷く。炭酸は、今でもあんまり得意じゃない。ビールは好きだけれど、甘い炭酸は、お酒の炭酸よりも激しい気がする。でもここに来ると、どうしてもそれが飲みたくなった。やや薄暗いお店の中で、メロンソーダの緑色、アイスクリームの白、サクランボの赤は鮮やかで、どうしても自分のものにしたくなった。

「いつも飲み切れないから、頼もうとすると本当にいいのかって言われた。青葉が飲んでくれたけど」

「青葉さんは何を?」

「チョコパフェ。父はコーヒー」

「可愛らしい」

「ほんと」

 笑ってしまった。思い返してみれば、本当に可愛らしい。

 注文していたゼリーとアイスコーヒーとケーキが運ばれてくる。ゼリーは木崎、アイスコーヒーとケーキは私のものだ。黒い制服を綺麗に着た初老の男性が、ごゆっくり、と言い、私を見て、ちらりと笑った。私も微笑み返す。おそらく、私が誰だか気づいたのだろう。店主である彼と、父が親しげに話しているのは何度か見かけた。

 いただきます、と木崎はスプーンを手に取る。ぷりん、と音がしそうな大きなゼリーは、グレープフルーツの切り身がたっぷり入っている。私もフォークを手に取った。レモンタルトだ。焼き色のついたふわふわのメレンゲに、レモンのクリーム、タルト生地。タルト生地が硬くて、油断するとフォークで切ったら勢いで飛んでいきそうになる。真剣に一口分切り取り、口に入れる。レモンがとても酸っぱくて、メレンゲが甘くて、タルト生地が香ばしくて、とても美味しい。

「酸っぱい顔しますね」

 木崎が笑う。

「酸っぱいもん。一口食べる?」

「はい」

 全部の層が食べられるように慎重にフォークを動かして、こちらに乗り出した木崎の口にそっと差し出す。木崎の口が無防備に開かれて、微笑ましくなる。きゅ、と木崎の顔が縮む。

「酸っぱい顔してる」

「確かに酸っぱい。でも美味しいですね」

 頷いて、もう一口食べる。美味しい。

「ここのお菓子は全部手作りなの。ゼリーも」

「なるほど」

 木崎は水を飲み、大きくゼリーを掬い取って口に運ぶ。スプーンの上で、ゼリーの断面に光の粒が揺れる。酸っぱい顔は、今度はしなかった。

「これも美味しい」

「一口ちょうだい」

「どうぞ」

 さっきよりもさらに大きく掬って、私に差し出してくれる。私は口を大きく開けてスプーンを迎え入れた。つるりと口の中をゼリーが滑って行き、果肉が残る。しっかりと瑞々しい果肉を齧る。つめたくて、甘くて、酸っぱくて、美味しいゼリーだ。

「美味しい」

「手作りのゼリーもいいですね。家ではもっと大きい器で食べたいです。丼とか」

 想像して笑い、それから小さく不安になって尋ねた。

「家が恋しい?」

「まだそこまでは」

「恋しくなったら言ってね」

 目を見て言った。木崎は誠実に頷いた。

「もちろん」

 そこに我慢の匂いがしなかったので、ほっとした。

「よかった」

 ふと、責任、という言葉が、頭をよぎった。私には、木崎を我慢させない責任がある。木崎の穏やかさの上に安住しないで、彼の言葉の奥に含まれた意味をきちんと確認する責任。

 重たい、と、正直に思う。でも私がこれを持つのをやめれば、その重たさは木崎に行くことになる。ただでさえ、私のような女に従ってくれているのに、それは荷物を持たせすぎている。大人と大人が暮らすのは、難しい。荷物を持たせたら、違う荷物を持たなくてはいけない。でもそういう難しさを忘れてしまうのも、恐ろしい。忘れてしまえば、私はどこまでも悪くなって、どこまでも木崎を踏みにじることになるだろう。

「この後どこに行きますか」

「近くに美術館があるよ。建物が綺麗。中はあんまり覚えてないけど」

「行ってみましょうか」

 木崎はさほど興味はなさそうに、でも楽しそうにうなずいた。

 ケーキとゼリーを、静かに、ゆっくり食べた。硝子の向こうで夏の緑が燃えるように鮮やかだ。木崎に目をやると、いつもと違う場所にいるせいか、いつもとは違って見える。輪郭の一つ一つを視線でなぞり、好きな顔だな、と思う。木崎という人間が好きだからではなく、木崎のかたち自体を好きなことを思い知る。でも、それは私の目が木崎のかたちになじんだからかもしれない。初めて会ったときは、ただの男の人に見えたのだから。私の目は、もう木崎を知らなかったときの目とは違う。

「ご主人ですか?」

 水を注ぎに来てくれた店主に、そう声をかけられた。ふっくらとしたなめらかな顔に深く笑いじわが刻まれていて、父は時折「あのマスターは、あれだ、練り切りに似てるなあ」と言っていた。母は小さく笑い、青葉と私はぽかんとしていた。

「はい」

 そう答えるのが、ちょっと嬉しかった。ご主人。木崎とその言葉の取り合わせは、面白い。

「お父さんのことは、お気の毒様です」

 私は目を伏せて軽く微笑み、ありがとうございます、と小さく答えた。たいがいこれでなんとかなるものだ。お母様には? とか、そういうことは、よほどのことでない限り、言わない。

「でもお父さんも安心ですね。素敵なご主人で。甘いもの、お好きですか?」

「ええ。手作りなんですね。ゼリーもケーキもとても美味しい」

「時間がありますんでね、色々と工夫をして」

 店主はそこで、私に向かって言った。

「レシピ、よかったら差し上げましょうか?」

 どうして私に言うのかわからず、怪訝な顔をしそうになった。

「奥さんの手作りのお菓子なんて、いいじゃないですか」

 ああ。

 納得はしたけれど、うまく顔を作ることができなかった。ご主人。面白く感じた、その言葉。木崎は変わらず微笑んで、言った。

「レシピは結構です。僕が色々と工夫してみます。時間がありますので」

 僕が、を少しばかり強調していた。店主は怪訝な顔をした。それはほんの一瞬のことで、それからいつものように微笑んだ。練り切りみたいな滑らかな肌に、くっきりとした深い皺。

「いいご主人ですね」

 私も微笑んで、はい、と言った。テーブルの下で手を伸ばして、木崎の膝に指先で触れた。木崎の指が、私の指をそっと撫でてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る