日当たりのいい家
古池ねじ
第1話
父の夢を見た。
文机に腕を乗せて、それを枕にして眠っていた。障子の向こうが薄暗い。二、三時間は眠っていたらしい。原稿は進んでいない。急ぎの仕事でもないので、それはいい。
頭を上げて、痺れた腕を曲げ伸ばしする。台所からは、甘辛い匂いがやさしく漂っている。豚かな、と鼻を蠢かす。父は肉が好きだった。
だが、父はもういない。
現実と過去を夢が奇妙なふうに繋いでしまったせいか、そのことが奇妙に思えた。父はいない。母もいない。弟も、どこかへ行ってしまった。私だけが、この家に取り残された。
原稿用紙を脇にのけ、痺れのまだ残った腕に頭を乗せて、目を瞑る。もう少しだけ、この奇妙さの中にいたかった。父や、母や、弟がいないことに、慣れない気持ちの中に。立ち上がったら、それだけで掻き消えてしまうような、曖昧な雰囲気の中に。
そのままただぼんやりとしていると、ひどく寂しくなった。さっきまでの曖昧な気配はもう消えていて、私はただの二十六歳の、孤独な、取り残された女になってしまう。それでも、完全に孤独なわけではない。そう自分に言い聞かせる。失ったもの。手に入れたもの。どちらが大きいのだろう。
足音が、近づいてくる。私に向かって、歩いてくる音。鼓膜というより胸を震わされて、でも私はそのままの姿勢で、待っている。私に向かってくる人。
「ごはんですよ」
戸の向こうで、低い声が、優しく私を呼ぶ。まだ出会って半年にもならないのに、この声は不思議にこの家に、そして私の耳になじむ。
私は答えない。眠ったふりを続ける。
「失礼」
と、木崎が部屋へと入ってくる。木崎修吾。私の夫だ。
「ごはんですよ、ゆすらさん。起きてください」
木崎の手が、静かに私の肩に置かれる。
「寝てる」
木崎が笑う音がした。
「どうしたら起きてもらえますかね」
「寝たまま運べばいい」
なるほど、と木崎は言い、私の脇に両手を差し込んで、よいしょ、と言って立ち上がらせた。私は目を瞑ったまま、その力に従う。大きくあたたかな身体を背に感じながら、私はゆっくりと、歩き出す。
夕食は豚の角煮だった。脂肪がつやつやとあめ色に輝いている。わあい、と口に出すと、起きましたか、と木崎は言った。
「何か飲みますか?」
「お茶でいい」
「はい」
と木崎は食卓を調えてくれる。木崎は私と結婚して、仕事をやめた。そして、家事を全部やってくれている。色々いう人間もいたようだけれど、私はとてもありがたい、と思っている。
木崎も席についたので、手を合わせて、二人でいただきますをした。
ものを食べている間、私はあまり話さない。木崎もそうだ。テレビもつけないので、二人で黙々と、食べている。木崎のごはんはとてもおいしいので、私は急かされるように、ただただ食べ続ける。真っ白くてつややかなお米の粒を、湯気ごと口に放り込む。噛みしめる。角煮に添えてある、つやつやの大根も口に入れる。
「おいしいですか? 角煮。少し甘いかもしれないと思ったんですけど」
口の中の大根を呑みこんで、頷く。木崎の角煮は母のものに比べるとあまり煮込んでいなくて、肉の歯ごたえがしっかりしている。甘味も、そういえば母のものに比べれば強い。
「甘い。おいしい」
「よかった」
うん、と私は頷き、茶色い卵を割って、煮汁に絡めた黄身を、口にはこんだ。おいしい。
角煮と大根と卵とほうれん草のお浸しと白菜の漬物と葱と豆腐の味噌汁とご飯。それだけたっぷりお腹におさめて、ごちそうさま、と手を合わせた。食器を流しにはこぶ。ガス台の鍋を確認すると、まだ角煮はたくさんあった。
「明日のお昼にも食べていい?」
「そのつもりで作りましたよ」
木崎は、ゆったりと膝を崩して、瓶のビールを手酌で飲んでいる。毎日一本、そうやってビールをゆっくりと飲むのが木崎の習慣だ。結婚してまだ三月ほどだけれど、木崎はもうこの家での木崎の習慣を作っている。そういうところが、私には好ましかった。この男は、この男で勝手にやるだろう、と思えるところが。
そこだけではなく木崎のいたるところが、私には好ましかった。料理をはじめとする家事を、億劫がらないところ。それでいて完璧主義でもないところ。親切なところ。想像力が豊かではないところ。本を読まないところ。島田ゆすらという女に、さらにはこの家に、もっといえばそもそも他人に、あまり関心がないところ。人に頭を下げたり、何かよからぬことを言われたりするのが、平気なところ。つまり私とは全然似ていない人間で、それが好ましい。私は私という女が嫌いではないが、それは私が私の人生の主体であるからであって、私に似ている人間は、嫌いである。
ビールを飲む木崎の背中に、くっついてみる。木崎は痩せているけれど、それでもその背中は広い。柔らかいトレーナーを通して、木崎の匂いがする。まだ嗅ぎ慣れない、でも意識の奥にすでにしみこんでいるような、安心な匂いだ。遠くて近い、私の夫の匂い。
「なんですか」
木崎はくつろいだまま、尋ねる。
「なんでもない」
「はい」
「ビール美味しい?」
「美味しいです。飲みますか?」
「いい」
「はい」
会話は途切れる。私は木崎のお腹に腕を回し、嚥下に合わせて内臓が動くのを感じている。木崎は生きている。木崎は健やかだ。いつかいなくなってしまうかもしれないけれど、とりあえず今はこの家で、この男は生きている。父のことも母のことも弟のことも知らない、この男が。それは考えてみれば不思議なことで、でもよいことのように私には思える。私は木崎に、ここにいてほしかった。
やがて木崎はビールを飲み終わり、食器を洗いに台所に立つ。私は父の部屋に行く。壁の二面が作り付けの本棚になっていて、書きもの用の立派な机が置いてある。その上には、仕事用具がそのまま残されている。万年筆や、インクや、原稿用紙、様々な字引き。私は父の大きな回転式の椅子に、膝を抱えて座り、本棚から適当に引き出した「バルザック全集」の一冊を捲る。文字を読むともなく読んでいるうちに、ある短編、たしか「アデュー」とかいうのがとても面白かったことを思い出したので、椅子を回して、文集を引き出して中身を確かめて、その途中で他の面白いものを見つけてしまったりして、なかなかその全集から離れられない。
「ゆすらさん」
戸の向こうから、声がした。
「はい」
「お風呂入りましたよ」
早いな、と時計を見ると、二時間も経っていた。手元の本をもとの場所に戻す。探していた短編は結局、見つからなかった。
お風呂から上がると、木崎の敷いてくれた布団にもぐり、あたたかな身体のまま、のんびり空想をする。読んだばかりの小説の続きを考えたり、今書こうとしている小説の構想を、積み上げては崩したりして、遊ぶ。空想は私の一番の遊び道具だ。場所も時間も選ばないし、飽きるということがない。いくらでもかたちを変えて、いくらでも遊んでいられる。
「失礼します」
と声がして、木崎がスタンドだけ点けた部屋に入ってくる。木崎も布団に入るので、私は黙って木崎の布団に潜り込む。
「なんですか」
木崎は私の髪を指先でもてあそびながら尋ねる。
「セックスでもしようかと」
「本当に?」
木崎の声が笑っている。
「嘘」
と私は言い、木崎のお腹に抱き付く。
「もしかして嫌いですか。セックス」
「嫌いというか、飽きた」
「三回しかしてませんよ」
「なんか、煩わしい」
「なるほど」
「木崎さんは好き?」
「好きか嫌いかで言うと、大好きですね」
へえ、と私は思う。意外だ。男というのは、そんなものなのかもしれないけれど。
「風俗とかは?」
「嫌ですよ。知らない人とするの、怖いじゃないですか」
「意気地なし」
「そうなんですよ」
なんだかおかしくなって、二人でくすくすと笑う。木崎と話すのは楽しい。互いに相手のことを理解しきっていないのかもしれないけれど、心地のよいリズムがあって、すらすらと楽しく流れていく。
木崎の手が、背中を下り、腰をなぞり、尻に触れる。性的な愛撫というよりも感触と形を確かめるように、柔らかく揉んでくる。こういうふうに触られるのは、嫌いではない。別にセックスも、嫌いというわけでもない。セックスの最中でも木崎は優しく、強烈なものではないにしろ肉体的な快楽は得られたし、不愉快なことは何もなかった。
「お尻好き?」
「はっきり言って大好きですよ」
「気安く触りよって」
「つけておいてください」
「いつ返してくれるの?」
「代わりに僕のお尻触ってもいいですよ」
そういうので、触ってみた。硬く引き締まった、木崎の臀部。あんまり楽しくはないのですぐにやめた。あくびをする。
話すのをやめて目を閉じて、空想に立ち返る。今書いている小説の構想を、また組み上げていく。でも木崎が来る前に考えていたものをそのままなぞっているので、まったく建設的な作業ではない。人に何が楽しいのかと聞かれたらおそらく答えに詰まるところだけれど、しかし、これはこれで安らかで楽しい遊びなのだ。
木崎はまだ私の尻を触っている。互いに何が楽しいのかいまいちわからないことをしながら、私たちは眠りにつく。
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