第2話
出版社でパーティーがあるので、久しぶりに化粧をして、ドレスを着た。私は主役ではないし適当な格好でも構われはしないのだが、パーティーにはある程度着飾っていく癖がある。母が生きていた頃は、よく着物も着ていた。装わせるのが好きな人だったのだ。父も普段は着るものにまるで構わない人だったけれど、パーティーのときだけはいっぱしの紳士みたいな恰好をしていた。といっても父はどんな服装だろうと、ある種の高貴さ、というか、これでよいのだという説得力みたいなものを備えた人ではあった。もっとも、娘である私はだらしない格好をすれば、だらしなく見え、ドレスを着れば、そのように見える、ただの若い女だ。
まだ寒いけれど春が近づいているので、明るいみどりのドレスに、パールのアクセサリーにした。髪はアップにして、これもパールの髪留めをつける。
「器用ですね」
と、木崎が言ってくれるので、少し得意になる。私は生来不器用なのだけれど、ヘアセットに関しては随分練習したので、お手の物だ。
「帰り、迎えに行かなくていいですか?」
「いい。何時になるかわからないし」
「了解です」
私は立ち上り、姿見で自分の格好を確認する。そんなに悪くはないと思う。
「綺麗?」
「綺麗ですよ」
「どのぐらい」
「うーん。とても?」
私は顔をくしゃくしゃにして、木崎の語彙の貧弱さを非難する。木崎は笑い、綺麗ですよ、と言ってくれる。
「でも珍しいですね。パーティーなんて」
うん、と私は曖昧に頷く。パーティーには、父が死んでからはあまり出ない。付き合いが億劫なのだ。だが今日のは、出ないわけにもいかない義理がある。それを考えると少し気が重くて、木崎にもう一度綺麗? と尋ねる。
「綺麗ですよ」
という答えに気をよくして、胸の中の重たいわだかまりを溶かす。
今日のパーティーは、文学賞の授賞式だ。同じ出版社が純文学と大衆文学の賞を、同じ日に発表する。授賞式もパーティーも、一緒に行う。間違いなく日本で一番有名な文学賞で、小説など読まない人だって名前ぐらいは知っている。
父はごく若いころに純文学の雑誌でデビューして、その頃に二回か三回候補になったけれど、結局その賞は取らなかった。でもそれは父が賞を逃したというよりも、賞が父を逃した、というふうに語られている。父はそのぐらいの作家だった。もう何年か生きていれば、世界で一番有名な文学賞にも手が届いたかもしれない、とも言われている。そういう事実は、娘の私としては、多少誇らしくはあるが、むしろなんだか悪い冗談のようにも聞こえる。偉大な、日本の国民作家の島田仁。その娘である、女流作家の島田ゆすら。事実なのに、その字面はなんだかまったく別のことを語っているかのようで、ひどく空々しい。
車に乗って、会場に向かう。都心に行くのは久しぶりで、車の中から高い建物や人ごみを見るだけで、軽い眩暈を覚えた。時間があれば会場の近くの店で大好きな金つばを買おうかと思っていたけれど、やめることにする。私は年々、にぎやかなことが苦手になる。自分の生命力がどんどん小さくなって、周辺の人が発する音や存在感にかき乱されて、押しつぶされそうになる。昔は都会も、好きだったのだけれど。父と二人で行った本屋。母と行ったデパート。家族で行くお気に入りのレストラン。あれだけ心を浮き立ったものたち全てを、煩わしくさえ感じる。パーティーも、憂鬱になってきた。顔だけ出して、さっさと帰ってしまいたい。そういうわけにはいかないだろうけど。
会場に入り、やがて授賞式が始まる。隅のほうでひっそりとしていたかったけれど、付き合いのある編集者や、父と親しかった大御所の作家の大迫先生に見つかってしまい、大きな輪の中に納まってしまう。みんなに口々に
「いやあ、大きくなったねえ」
などと言われて、曖昧に笑ってごまかす。保護者とはぐれてしまった子供のような気持ちになって、ひどく心細い。やっぱり、来なければよかった。
それでも檀上には、私をここに召喚した元凶が、すました様子で、立っている。成瀬崇。父の友人だった大学教授の成瀬豊、フランス文学の研究と翻訳の権威の息子。一つ年上の私の幼馴染。気鋭の純文学作家であり、今回の受賞者だ。眼鏡の向こうから私の方を見て、馬鹿にしたようにちらりと笑った。気のせいかもしれないが、腹が立つ。崇は幼馴染でほとんど身内のようなものだが、だからと言って別に好きな相手でもなければ仲がいいわけでもないのだ。
「あの成瀬のところのやんちゃ息子がねえ。立派になったもんだ」
隣の先生が、声を潜めて言う。確かに立派にはなったものだ、と思う。細身ではあるけれどしなやかな身体に上等のスーツをぴしりと纏い、檀上の振る舞いも堂々としている。受賞のスピーチも、審査員の先生方に引けを取らない堂に入った話ぶりだ。ちょっと、腹立たしい。
スピーチを終えると、会場が揺れんばかりの拍手が鳴り響いた。こんなパーティーにいるような人たちは、普段どれだけ気難しく狭量でも、崇に対しては不思議に優しい。崇よりもはるかに実績がなく目立たない私に対しても。おそらく成瀬崇と島田ゆすらは、それぞれの家庭の子供であるのと同時に、「文壇」の子供でもあるのだ。ここで育まれ、ここで生きていく。その考えは、私をなんだかうんざりさせる。他のどんな場所でも、生きてはいけないのに。いや、だからこそ、だろうか。
授賞式から祝賀パーティーになる。これだけ人がいれば崇に話す機会などないかも、と期待したのだけれど、大迫先生があっという間に私を彼のもとへと運んでしまった。
「崇君、おめでとう」
大迫先生の影に隠れるようにして、私も言う。
「おめでとう」
「ありがとうございます」
崇は微笑んで答える。けちのつけようのない態度だけれど、どんな場面でもなんとなく他人を小馬鹿にしているように見える、のは、私の偏見のせいだろうか。小さいころから本当に、本当に、崇にはよくいじめられた。そのくせ妙に口が立って大人受けがいい子供だったので、めったなことでは叱られない。思い出すと、腹が立ってきた。
「いや、二人とも本当に大きくなって、僕も年を取ったもんだと思うよ。あの小さな坊やとお嬢ちゃんがねえ」
大迫先生の目には、うっすらと涙さえ浮かんでいた。父のことを思い出しているのかもしれない。
「崇君もずいぶん早く賞を取って。二人とも本当に立派になって」
「大迫先生のおかげですよ」
崇は如才なくいい、がっしりとした先生の肩を抱く。そして私の方に視線を投げる。ちりっと静電気が散るような、奇妙にとげとげしい視線。私は剥き出しの二の腕を抱く。
「元気かゆすら」
片頬だけ歪めた笑みを浮かべて、崇は私に尋ねる。この笑顔は、子供のころから全然変わっていない。外向きじゃない崇の笑顔。そしてそれを怖がる私の気持ちも、子供のころから全然進歩がない。
「元気だよ」
「ああ、ゆすらちゃんは結婚したんだったね」
大迫先生に言われて、私は頷いた。結婚式もしてないし結婚の知らせを誰かに送ったわけでもないけれど、誰からともなく話が広がっている。
「まだお祝いを言ってなかったね。おめでとう」
「ありがとうございます」
「正直僕なんかは、崇君とゆすらちゃんが一緒になるんだと思っていたけどねえ。いや、なかなかそうはいかないか」
私は笑って、肩をすくめた。
「そんなこと考えたこともなかったです」
嘘だった。
おそらく、うちと崇の両親はそのつもりだったのではないか、と思うし、崇もまんざらではなかった、という気がする。といっても崇がほしかったのは私という妻ではなく、島田仁という義父だったのだと思うけれど。崇は父の弟子なのだ。父は小説の弟子など煩わしがって取らなかったけれど、崇は父に息子のように可愛がられて、気が付くとするりと弟子の位置におさまっていた。崇は父を敬愛し、父も崇には目をかけていた。二人はある意味相思相愛で、あとは私がいれば、二人を家族として結びつけることもできたわけだ。
父が生きていた頃なら、私もその暗黙の了解に、乗らないでもなかった。崇のことは好きではないが、なんとかなるだろうとも思えた。意地の悪い男ではあるが、心根が汚い人間ではないし。ただもう、そういう空気は全部壊れてしまった。父はいない。崇は、他人である。この先もずっと。
「俺はそのつもりだったんですけどね。振られてしまいました」
崇の言葉に、ぎょっとした。目を見張る私を、崇は嘲笑う。ちりっ、と、また静電気のような悪意が走る。いつもの崇、に見えるのだけれど、何かが違う。晴れの舞台のはずなのに。崇は、どちらかというと自己顕示欲の強い人間なので、こういう場所では大概満足そうにしているものなのに。
冗談だと思ったのだろう。大迫先生は笑う。
「そりゃ残念だったなあ」
「本当ですよ。ゆすらの顔見ると悔しくて、今日もいまいち喜びきれない」
崇の言葉を冗談にするために、私はおおげさに困った顔をしてみる。会場の空気が希薄に感じられる。眩しい。食べ物とお酒と香水と煙草の匂いが混じって漂う。
「ゆすらちゃん? 大丈夫かい?」
「え?」
「顔色がよくないよ」
手の甲で顔を押さえてみるけれど、よくわからなかった。
「人が多いところ、久しぶりですから……ちょっと、隅のほうで休んでいます」
「うん。座っていなさい。僕はちょっと他の連中ともしゃべってくるから」
「ありがとうございます」
大迫先生にちいさく頭を下げて、崇に目をやる。崇も白い顔で、私を眺めていた。黒い目の上の光は鋭くて、目を逸らす。
「崇、おめでとう。じゃあね」
「ああ」
低い声。息が詰まって、圧迫感から逃げるように背を向けた。それでも崇の刃物に似た視線が裸の肩のあたりに留まっているのを、感じていた。
手洗いに行って、手を洗った。手だけでもすっきりとした。手洗いから出てもホールには戻らずに、そのあたりに立っていた。匂いが薄くて、息がしやすい。もうしばらくここで休んでいよう。
「ゆすら」
声とともに、二の腕を掴まれた。他人の肌の感触に、ぞっと背中が反り返る。振り返ると、崇がいた。
「……崇」
崇はひどく機嫌が悪そうだった。少年みたいななめらかな皮膚は妙に白っぽく、目の下が青黒く沈んでいて、不穏だ。薄い唇だけが、新鮮に赤い。つけられて間もない傷口みたいに。
向き直っても、崇の手はまだぺったりと私の二の腕に貼りついていた。崇の手はすんなりと華奢で、少年の手のようだ。どんな労働とも無縁の、お坊ちゃまの手。
「……結婚おめでとう」
明らかに言葉にそれ以外の意味を込めて、崇は言った。いつもの笑みを浮かべようとして失敗したかのように、ぴくりと片頬が歪んだ。
「……ありがとう」
その態度の裏にある真意をはかりかねて、もう一度礼を言う。二の腕が冷えているのに、崇の手に接している部分だけ、湿りけを帯びていく。
「本当に、いつの間にやら結婚してたな」
私は答えずに、首を傾げた。成瀬のおばさま、つまり崇の母は、私や弟のことを気にして、ときどき電話をかけてくれる。二、三か月に一回ほど。その電話と電話の合間で私は木崎と出会い、結婚したのだった。だから、成瀬家が私の結婚を知ったのは、ことがすべて終わった後だった。
「働いてないんだって? 亭主」
尋ねられて、一瞬の躊躇の後、頷いた。崇は唇を開く。真っ白い糸切り歯が、ちかりと光った。
「先生が亡くなった途端に、やりたい放題だな」
それまで漂っていた悪意の気配が、はっきりとした形を取って私を刺した。私は全身に鳥肌を立てて、崇のことを見知らぬ人でも眺めるように見つめた。
「先生の金で男を囲って、楽しいか?」
私が傷ついていることを確かめるためか、崇の言葉は露骨さを増す。感情が、突然のことにうまく動かない。
「……楽しいよ」
口をついたのは、そんな馬鹿げた言葉だった。崇の顔から微笑みが失せる。
「好きな人とずっと一緒にいるのは、楽しいよ」
どのみち、と私の唇は言葉を吐き出す。
「私がとうさまのお金をどうするとか、誰とどんなふうに結婚してるとか、全部、崇には関係ないよ」
口に出してから、自分の言っていることの攻撃性を理解した。反射的に切り結ぶように、私も崇を傷つけようとしている。
案の定、崇はひどく傷ついたような、途方に暮れたような顔をしている。そういう顔をするから、あるいはそういう顔をしていると私の目には映ってしまうから、私は崇を、好きにはなれなくとも嫌いになれないのだった。崇とは、大人になってから出会った人たちとは絶対に共有できないもので、結びついてしまっている。今更どうしようもないのだ。私たちは、家族ではない。ほとんど血がつながっているような気がしても、でも家族ではない。家族には、もうなれない。決して、なれないのだ。島田の家と、成瀬の家は、交じり合わない。おそらく崇はそれを私よりもずっと諦めきれなくて、腹立たしいのだ。近いのに、労わりあうことはできず、お互いの脆い部分は熟知しているものだから、こんなふうに傷つけあう。そして相手の傷からは、自分の血もまた、流れてしまう。
「はなして」
崇の手のひらと、私の二の腕。どちらの汗ともつかないもので濡れた皮膚は、粘着質な音と小さな痛みとともに、わかれた。ほんの束の間の会話で、私は倒れそうなほど疲弊していた。もう、家に帰りたい。家に、帰りたい。でも、帰りたい家とはなんだろう。父も、母も、弟も、いない家。私は自分の中身が、砂になって知らぬ間に零れているような空虚に襲われる。私という女はもう、外から見えるものしか残っていない。この年まで親しみ育ててきた自分自身は、気づかぬうちに失ってしまった。
「……じゃあ」
無理に会話を打ち切って、崇に背を向ける。私はもう、ここから出ること、逃げ出すことしか、考えていなかった。家に、帰ろう。父も、母も、弟もいなくとも、少なくとも私の家だ。
「ゆすら」
崇が私を呼ぶ。その声からは、もう先ほどまでの鋭さは失せて、代わりに違うものが滲んでいた。私は振り向かず、その先の言葉を待った。
「……なんでもない」
返ってきたのは、でもそれだけだった。私は振り向かないまま、早足にその場を去った。自分の足音を身体に響かせることで、崇がどんな顔をしているのか、想像しないようにして。
家に帰ると、硝子戸の向こうが明るかった。木崎がいる。タクシーにお金を払って呼び鈴を鳴らすと、鍵を開けてくれた。
「早かったですね」
と、コートを脱がしてくれながら、平静な声で言う。うん、と私は頷く。
「お風呂にしますか」
「うん」
木崎からは、だしの匂いがした。うどんか何かだろう。コートを持って廊下を進む木崎の背中の、肩甲骨の間あたりに顔を埋めてみる。おなかがすいた。
「なんですか」
木崎は驚かない。平静な声で尋ねて、立ち止まる。私は腕を木崎のお腹に回す。だしの匂いと、その奥の木崎自身の匂い。木崎の感触。木崎の質量。木崎の体温。私のものだ、と思う。これは、私のものだ。木崎はここにいて、触ることも匂いをかぐこともできる。私のものだ。私のもの。
「かなしい」
堰き止められていた言葉を吐き出すと、涙も一緒に出てきた。全身で弱弱しい気持ちに浸って、私は繰り返す。
「かなしい」
木崎は私の手に、自分の手を重ねた。木崎の手は大きく、あたたかい。
「嫌なことがあった」
嗚咽しながら、私は訴える。マスカラやファンデーションの混じった涙を思うさま流し、木崎にしがみつく。
「可哀想に」
木崎は落ち着き払って言い、私の手を撫でてくれる。甘えと悲しみと寂しさとその他もろもろで子供っぽく混乱しながら、私はしばらく、めそめそと、木崎にしがみついて、泣いていた。
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