第3話


 朝ごはんは菜飯のおむすびと卵焼きととろろこぶのお味噌汁だった。おむすびが、好きだ。普通のごはんも好きだけれど、固まっているものが口の中でほぐれる感覚が、好きだ。

「金つば、食べますか」

 食べ終わってぬるくなったほうじ茶を飲んでいると、木崎が聞いた。私は黙ってうなずく。

「はい」

 と木崎が応えて、お皿に乗せた金つばを運んでくれた。デザート用のフォークが添えられていたけれど、私は手で紙をむいて、そのまま噛みつく、というか、唇で挟んで折るようにして食べる。断面の粒あんのつやつやと丸い感触を、目と、舌で味わう。そのあと、歯で噛みしめて、あんこの甘味を楽しむ。美味しい。ここの金つばは、本当に美味しい。美味、というよりも、この食べ方から得られるすべての感触が、小さいころから、大好きだ。

 金つばは、パーティーの二日後に、家に届いた。送り主の名前もなく、のしもなかったけれど、伝票の筆跡は、崇のものだった。木崎には、「知り合いから」と言っておいた。木崎は「変わった方ですね」と笑って、ほうじ茶を淹れてくれた。そして二人で一つずつ、食べた。木崎はさほど、このお菓子が気に入らなかったようだ。木崎は甘いものは割合好きなのだけれど、洋菓子のほうが気に入るらしい。独り占めできるので、私には都合がいい。

「餡子、好きですか」

 ほうじ茶を飲む木崎に尋ねられて、うなずく。

「粒あんのほうが、好き」

「覚えておきましょう」

「羊羹も好き」

「ほほお」

「ケーキも好き」

「好きなものが多くて、いいことです」

 うん、と、私はうなずいた。うなずいた拍子に、涙が出そうになった。この頃気持ちの調子が悪くて、ちょっとしたことで涙が出そうになる。私は心の方面があまり丈夫ではない。医者にかかるほどではないのだが、気持ちを立て直すのに、いつも時間がかかる。おそらく、父からの遺伝だろう、と、父が言っていた。父が時折かかっていた不調と、私のものはずいぶん違うように思うのだけれど、心と体が、うまく調和しないという点では同じかもしれない。

「今日は、どうしますか」

 木崎は私のめそめそした気持ちに気づいているのだろう。いつもよりも多少、声の感じが柔らかい。いつも柔らかい声をしているのだけれど、そうっと触れてくるような気づかいを持って、声をかけてくる。木崎は優しい。木崎には文句のつけようもない。そう思うと、なんだかそのこと自体が悲しくなってきて、また涙が出そうになる。めそめそと木崎に縋りついて、延々と涙に暮れて、泣き疲れて眠り、起きたらまた涙に暮れるような生活を送りたく、なってしまう。木崎はおそらく、そこまでの依存心を、許してはくれまい、と思う。そう思って、また悲しくなる。馬鹿げている。馬鹿げている私が、悲しい。

「いい天気ですから、散歩でもしますか」

 外を見る。確かに、いい天気だった。気持ちが塞ぐときは、日に当たるといいと、父の先生が言っていたことを思い出して、うなずいた。


 顔に当たる空気はまだ冷たいけれど風は湿り気を帯びていて、日差しはあたたかく、緑がその中でちらちらと輝いている。春の気配が、寒さの中にも漂っている。

「そろそろ春ですね」

 木崎は言う。私はうなずく。木崎の歩みは遅い。私に合わせてくれているのかもしれない。繋がれた手はあたたかく乾いている。

 商店街はまだほとんどの店が開いていない。シャッターを半分だけ開けて、準備にあわただしい。猫が子供を連れて、狭い路地から別の路地へと渡っていく。

「朝に外出るの、久しぶり」

「僕もですよ」

「働いてたときは?」

 木崎は少し前まで、大きな銀行で働いていた。仕事について詳しく聞いたことはないし、勤め人の生活というものを私はよく知らないけれど、それなりに忙しかったはずだ。

「朝早くに家を出ますけど、外を歩くというよりは、ただの移動ですからね。休みの日は、昼まで寝ていたし」

 そんな話を聞いただけで、未知の、非人間的世界に、惰弱な私は恐れおののいてしまう。勤めるということは、大変だ。私はとても、そんな世界には適応できない、と思う。と言っても、崇のように、筆で身を立てるというほどのことも、できていない。私の書くものは、そのものでは何の価値もない。私は、島田仁、という偉大な作家の物語の材料に過ぎないのだ。みな、父の人生を読み解くために、私の書くものを読む。私という女には、何の価値もありはしない。何一つ、生み出せない。

 心細くなって、木崎の手を、強く握った。応えるように、木崎も軽く、私の手を握りこむ。

「木崎さん」

 呼んでみる。

「はい」

 木崎は応える。私の言葉に、木崎はちゃんと応えてくれる。木崎には、しっかりとした実体がある。実体と、価値が。私はそれにぶら下がって、食いつくそうとしている。何の価値もない、空っぽの、肩書と金だけを持った私が。気持ちが塞ぐと、思考はどんどん低い場所へと流れていってしまう。

「木崎さん」

 もう一度、呼んでみる。

「なんでしょう」

 木崎は応える。当たり前のように、応える。呼ばれているから、応えているのだ。木崎はとても、なんというのか、きちんとしている。私のように、いろんなことを整頓できずに、いたずらに生きることを複雑にしたり、しない。それを、とてもいいな、と思う。思うけれど、自分では、そのようにはできない。私は、私以外の何者にも、なれない。無為で、空っぽで、複雑な、私。違うものになることも、違う生き方をすることも、できない。

「どうして私と結婚したの」

 出し抜けな問いに、木崎は慌てることもなく、そうですね、と言う。

「ゆすらさんと、結婚したかったからですね」

「どうして」

「一言では説明できないです」

 そして、笑う。ゆったりと歩くうちに、私たちは近所の公園に辿りついていた。大きな池や花壇や広場などがある、なかなかに広い公園だ。朝なので、犬を連れた老人や主婦が多い。小さな子供を連れたお母さんも見かける。

「二人で来たのは初めてですね」

「一人ではよく来るの?」

「買い物の前に、ときどき」

 いつも一緒にいるようで、案外知らないこともあるのだな、と思った。それは微かな不安を含んだ発見だった。全部知りたい、と思ってしまう。木崎のことを、全部知りたい。この男の、全てを所有したい。すみずみまで全部私のものだと思って、安心したい。安心。他人にそんなものを期待するべきではないと、本当はわかっているのに。

「説明して」

 歩きながら、言う。

「何をですか?」

「私と結婚したくなったわけを」

 木崎は首を傾げた。

「これは僕の勘違いかもしれませんけど」

「うん」

「ゆすらさんは、僕と結婚した方がいいんだと、思ったんです」

「あなたは?」

「僕ですか?」

 頷く。

「あなたは別に、結婚しなくてもよかったんじゃない」

 望む答えが得られなくて、声が尖った。望む答えが何なのか、は、自分でもわからないのだが。だめだな、と悟る。これはだめだ。こういう気持ちで人と話すと、どんどん自分で自分を傷つけて苛立たせて相手も一緒に傷つけ苛立たせることだけに躍起になってしまう。でも、そちらに気持ちが流れるのを、止められない。

 木崎は繋いだ私の手の甲に、もう片方の手を乗せて、包み込むようにした。安心してしまいたくなるような、大きなあたたかい手のひら。

「ゆすらさんは、可愛いですね」

 驚いて、私は立ち止まる。何に驚いているのだろう、と考えて、自分が照れているのだと、わかった。可愛い、なんて、言われるのが初めてのわけでもないのに、恥ずかしい。

「可愛いから、結婚したくなりました」

 もういい、と思い、そう、と下を向いて言った。

「いい天気ですね。ほら、花が咲いてますよ」

 木崎が指を差すところを見ると、確かに花が咲いていた。硬そうな樹皮に冬の気配を残した黒い枝の先で、黄色い花が、愛らしく開いている。満開にはまだ遠いけれど、その様が余計に可憐だった。

「何の花?」

 尋ねると、

「わかりません」

 と言われる。木崎も私と同じで、植物には詳しくないようだ。二人で木の近くに寄る。冷たい空気の中が、ほんのりとあまやかな香りに染まっていた。その香りを嗅いでいると、めそめそとした気持ちは、随分と小さくなった。それが嬉しくて、木崎がいてよかった、と思ったので、頭のあたりにある肩に、頭を寄せてみた。私の頭の丸みを確かめるように、木崎の手が、そっと私の頭を撫でた。

「散歩」

「はい」

「楽しいね」

「はい」

「また来ようね」

「はい」

 それぞれの「はい」が、それぞれ違う温度を持っていて、面白くて、私は笑った。笑うのは、久しぶりのような気がした。

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