第36話

 改札の向こうに、木崎が立っていた。手が冷たいのか胸の前で両手を組みあわせている。サラリーマンに紛れて、部屋着にもこもこのダウンジャケット。私たちを見つけると、微笑んで一歩こちらに近づいた。いつもの木崎だ。

 私の木崎だ。私の夫。私の男の人。たった一人、途方に暮れていた私を助けてくれた人。

「おめでとうございます」

 改札越しに声をかけてくれる。私はうん、とうなずいた。

「おい」

 崇の声に振り返る。紙袋を差し出しているので、受け取る。崇は小さく笑った。それは皮肉っぽくて、繊細そうなのは見てわかるのにその部分に誰にも近づけないことに長けた、いつもの崇の笑い方だった。私の幼馴染。

「またお邪魔します」

 余所行きの様子で木崎に言うと、じゃあな、と私に微笑んだ。微笑んでいるのに、どこか心細いような、怯えたような表情。それはほんの一瞬だけ崇の顔に立ち現れて、すぐに掻き消えた。背を向けて、歩み去る。私はその最初の一歩だけを見つめると、改札に切符を通した。

「お腹すいたでしょう」

 うん、とうなずいてから、お腹がすいていることに気づいた。すごくすごく、お腹がすいていた。

「ごめんね」

「何がですか」

 木崎が全然気にしていないように見えるので、たいしたことではなかったように錯覚してしまう。私にとっては、たいしたことなのだけど。

「連絡せずに遅くなって」

 何もごまかしていないのに、何かをごまかしたような言い方になった。

「一大事ですからね」

「一大事なの?」

「違ったんですか?」

 笑ってしまう。笑ってから、一大事だったのかな、と思った。私は私で、死んだ人のことを、これまで考えていた以上に重く見ていたのかもしれない。別の賞とは言え、父がほしがって得られなかったほどの権威があれば、少しは楽になれると、思っていたのかもしれない。

「何はともあれおめでとうございます。ごちそう作りました」

 うん、とうなずいた。色んな気持ちで、それ以外に言葉が出なかった。

「それ、持ちましょうか」

 紙袋を見て言う。私は軽くそれを持ち上げた。結構重たい。

「崇のお母さんにもらったの。お菓子と、あと蟹缶」

「蟹缶」

 木崎は紙袋を受け取って、中身を見た。

「いい蟹缶ですねこれ」

「そうなの?」

「いい蟹缶ですよ。何を作ろうかな」

「何か作るの?」

 うちでもらった蟹缶はだいたい、そのまま父のおつまみになっていた。それを、私と青葉も分けてもらう。料理に使うという発想が、これまでなかった。

「いいやつだからそのままでも食べられますけど、飽きるでしょう。たくさんありますよ」

 一、二、と紙袋の中を数える。

「八個。いろいろ作れますね。グラタンとか、蟹チャーハンとか」

「おいしそう」

 相槌のように言って、それから実感として本当においしそう、と思った。グラタンも、蟹チャーハンも。すごくおいしそう。食べたい。私はおなかが空いていた。

「帰ろう」

「はい」

 歩き出す。なんとなく、手をつないでみた。木崎の手は外気と同じようにつめたくて乾いていた。つないだままダウンのポケットに入れる。窮屈であたたかい。木崎の肩に私の頭がある。とん、と頭を軽くぶつけてみる。

「ごちそうって何」

「ついてからのお楽しみですね」

「お楽しみ」

「はい」

「楽しみ」

「はい」

 つないだ手をポケットに突っ込んでいるせいで、いつもと二人の間の距離が変わって、少し歩きにくい。でも木崎と一緒だと、おかしなふうに歩いても、安心だ。

「あのね」

「はい」

「この間、嫌なこと聞いたでしょう」

「いやなこと」

 案の定、というか、木崎はなんのことかわからない、という顔をした。

「可哀想だから私と結婚したのって」

 その私の言葉が、私のどこかを突き刺した。でも、木崎は微笑んでいる。

「それ、僕にとってのいやなことじゃなくて、ゆすらさんにとってのいやなことでしょう」

 足が止まった。木崎も立ち止まって、私の様子をうかがっている。

「そうだね」

 その通りだった。木崎のそれだけの言葉で、今までごちゃごちゃしていたところが、途端にわかりやすくなる。もちろん、それはまた、すぐにごちゃごちゃするのだろうけれど。私はそういう人間だから。

「あのね」

「はい」

「可哀想だからでも、なんでもいいから、そばにいてね」

 その言葉はやっぱり、私のどこかを突き刺す。

「いますよ」

 でも、木崎は微笑んでいる。なんでもない様子で。もしかすると私の言葉は、そもそもどんなものだろうと木崎には突き刺さらないのかもしれない。それは少し寂しく、ときどきは、耐え難いほど寂しいことだった。でも、それが木崎だった。それが、私を助けてくれて、私が選んだ、木崎だった。この先もずっと、そばにいる人。私の好きな人。この人と、生きていくのだ。

 私は微笑んだ。

「早く帰ろう」

「はい」

 歩きにくい姿勢のまま、また歩き出す。そうやって、私と木崎は、ごちそうの待つ、私たちの家に帰る。

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日当たりのいい家 古池ねじ @satouneji

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