第28話

 原稿用紙の束を、指先でぱらぱらとめくる。この一枚一枚に私の書いた文字が走っている、というのは、素敵なことだった。文字を読むというよりも、文字を見ながらそこに込めたものを思い出し、少しゆっくりとめくる。わくわくしてしまう気分のせいで、文字を文字として認識するのが難しい。でもわくわくが止まらない。もうすぐこれは完成する。完成して、この世界に物語が一つ増える。そして本になったそれを誰かが読む。そして、そのうちの誰かの中に、私の物語がその人の物語として残ってくれるかもしれない。父の物語が、いまだに誰かにとって自分自身の物語であるように。

 そこまで考えて、微笑む。私はずいぶんたいそうなことを望むものだ。でも私が小説家になったとき、本当に望んだのはそういう、たいそうなことだったのではないか? 私の物語が誰かの人生の一部を占めること。私が死んだ後でさえ。

 やめよう。

 原稿を机の上に丁寧に置く。難しいことを考えすぎた。

 時計を見る。夕飯にはまだ早い。あまりおなかはすいていない。今日の昼は冷やし中華だった。ハムではなく焼き豚の細切りが乗っていて、確かに私はこちらのほうが好きだったので、うれしかった。

 居間に行く。そこで、木崎が眠っていた。座布団を折って枕にして、畳の上にだらりと伸びている。口がゆるく開いていて、耳を澄ますとかすかで健康ないびきが聞こえる。冷蔵庫から麦茶を出してコップに注いでも、木崎は健やかに眠っている。私はそのそばに立ち、麦茶を飲みながら寝顔を眺めた。仰向けなので骨組みがいつもより目立つ。薄くてさらりとした肌。ところどころ剃り残したひげ。大人の男の人の寝顔。一人の成熟した人間の男がそこにいる。呼吸するたびに、いびきという形でこの男の命が音を立てる。これが、私の夫なのだ。夫。

 見慣れた顔を、見慣れないふうに見つめる。麦茶のコップが空になっても、木崎は起きなかった。私はコップを片付ける。低くて静かな木崎のいびき。改めて聞くと奇妙な響きだけれど、私の耳はもうこれを覚えている。さっきまで書いていた文字といびきが頭の中で変なふうに混じって、なんだか足元がおぼつかない。目をつむってため息をついて、濡れた手を拭く。私はたぶん、少し疲れている。脳みその同じところを使いすぎた。こういうときはただ休むよりも、違うことをしたほうがいいのだと、経験で知っていた。違うことをするほど元気がないことも多いのだけれど、今日に限ってはそんなこともなかった。

「行ってきます」

 夢の中の木崎には聞こえていないだろうが、ちいさく声に出す。低いいびきに背を向ける。


 半袖の腕に当たる風が涼しい。日に当たる髪は熱くなっているが、空気が乾いているので頭皮に汗はもうかかない。木々の緑も少し色調が落ち着いている。いつの間にか、夏は去りつつあるようだった。私が部屋で文字を書き続けている間、世界も少しずつ足を進めていたのだ。進んでしまった世界を追いかけるように、私は歩く。髪やスカートがさらさらと揺れて、ポケットに入れた小銭ががちゃがちゃ鳴った。

 ちょうど半端な時間に当たったのか、外を歩く人はほとんどいない。猫も、子供もみあたらない。外れている、と感じる。私は普通の人の、普通の日常から、外れている。スカートの下の太ももが歩くたびにひやりと涼しい。

 なんとなく道の端を、あまり足音を立てないように進む。家にいたときに比べて、急に自分が小さくなってしまったように感じる。こそこそと、歩き続ける。目的地は決めていない。足が向く方にただ進む。ただ元来保守的な人間なので、本当に見たことのない道を通ることができない。慣れてはいないけれど見知っている場所から、同じぐらい普段通らないだけの見知っている道に入る。そんなふうに、ほんの些細な逸脱をしている。

 日光の当たり方。風の中に混じるどこかの食事の匂い、アスファルトの感触、剪定されたばかりの植木の緑。どうってことのない、でもこの頃すっかり遠ざかっていたものたちが、私の中に滑り込んでくる。具体的に何を思い出せるわけでもないのに、なんだか懐かしいような気持ちになる。どこかに置き忘れていたものに近づいていくような感覚。

 路地から少し広い道に出る。目の前を青い乗用車が走り去っていく。私は立ち止まる。遠ざかる車。遠ざかる音。額に垂れる髪を耳にかける。

 昔、ここを歩いた。思い出す。記憶をたどるように、道を歩く。何度かこの道は歩いたことがある。最寄りの駅ではなく、隣の駅から歩いて帰るときに通る道だ。暑いな、と乾いたアスファルトの匂いを嗅いで思う。思ったあとで、でも実際には暑くはないので不思議になる。むしろ涼しいぐらいだ。でも、暑い。どうして、と考えたところで、赤い自販機が目についた。それで、理解する。今自分が何を感じていたのかを。

 自販機の前で立ち止まる。温かいミルクティーを探して、見つからない。ポケットから小銭を出して、つめたいミルクティーを買う。缶の表面がしずくで濡れている。缶を開けて一口飲む。あまくて、当然つめたい。

 前来たときは、ここで温かいミルクティーを買ってもらった。

 頭の中で言葉にした途端、全身がぞわりと違和感に波打つ。その違和感が、過去に対するものなのか、今ここにいる私に対するものなのかは、わからない。ただあまりにも遠くに来た、と思う。

 あのとき、私は十六歳だった。高校生。映画を観て、本を買った。一緒にいたのは崇だった。あの頃、私たちはよく一緒にいた。会いたいと思って会うのではなく、ただ気がつくと崇がそこにいたり、崇と一緒でいるのが都合がよかったりしたのだ。映画もしょっちゅう見に行った。私も崇も部活なんかしていなくて時間があったし、同年代の友達も少なかった。私にはほとんどいなかったと言ってもいいぐらいかもしれない。私は学校というものが好きではなかった。集団行動というものが苦手だし、教師の一部は、島田仁の娘という属性に嫌な関心を向けるので、不用意に人に気を許さないよう気をつけていた。いつも本を読んで、ほかの誰かを寄せ付けないようにして過ごしていた。

 崇は受験生で、試験ももうすぐだったのだけれど、ちっとも勉強をしていなかった。そのくせ成績はものすごくよく、第一志望にも結果危なげなく通った。あの頃はなんだか少し納得いかないような気がしたものだが、今にして思うに、少しおおげさにそう見せかけていたのかもしれない。努力などしなくても勉強ぐらいはできるのだと。もちろん、実際崇は勉強が得意なのだが。

 夕飯をうちで食べて泊まっていくことになっていたので、本の詰まった鞄を抱えて、私たちは同じ電車に乗った。混んだ電車の中で、二人で立って、その日見た映画の話をずっとしていた。古いフランス小説が原作のものだ。私も崇も原作が好きで、映画はかなり忠実な映像化だった。役者も画面も美しく、脚本もきちんとしていた。それなのに、二人とも気に入らなかった。要するに、作っている側と、私たちの小説の読み方が全然違っていたのだろう。私たちが重要だと思っていた台詞は簡単に流され、そうでない台詞が大切なもののように口に出された。ずっとそんなふうだった。その結果、ありきたりな出来事をありきたりではない見方で私たちに示してくれた原作は、美しいがありきたりな映画になった。そういう批判と、どういうふうに撮ってほしかったのか、誰に撮ってもらえばいいのか、を、ずっと話していた。そういう話なら、私たちはいつまでだってできた。知っていることと、見方が少しだけ違う自分自身と話しているようなひっかかりのなさ。

 電車の外では雪が降り始めていた。その年は暖かかったので、雪を見たのはその日が初めてだった。雪だ、とどちらかが口にして人の隙間から窓を見ていると、みるみるうちに白い粒は大きさと勢いを増していった。電車内が雪への衝撃と不安にざわめいていると、ついに電車が止まってしまった。事故があったのだと言う。そのあと、電車は止まったりゆっくり動いたりを繰り返して、普段の五倍以上の時間をかけて、最寄り駅の隣の駅についた。駅のホームには人があふれていた。

 降りるぞ。

 崇が私の手首をつかんで、ホームに降りた。私は人込みに気圧されて、おとなしく従った。崇は人の流れにうまく乗ってホームの階段を下りて改札を出た。私一人ではとてもできなかったに違いない。やろうとさえ思わなかっただろうが。

 一駅だし、歩いて帰るか。

 提案の形をとっていたけれど、すでに決定したことのようだった。私も別に異論はなかった。

 予報で一応雪が降るかもしれない、とは言われていたそうなので、崇は折り畳みの傘を持っていた。私の手首を離すと鞄の底から紺色のちっちゃな傘を取り出した。そして私の肩を抱くと、行くぞ、と言った。私はやっぱりおとなしく従った。崇のふれあいからは強引さ以上におびえのようなものがにじんでいた。自分の思った通りに物事を進めたい、そうじゃなかったらどうしたらいいのかわからない、という臆病な傲慢さ。私はいつもそれに小さく腹を立てながら、でも従っていた。面倒だからというよりも、なんだろう。少し、可哀想だったからかもしれない。そんなことを口に出したことはないが。どちらにせよ、私は甘ったれな子供だったのだ。崇がそうであるように。私たちはお互いに違うかたちで甘えあっていて、それでなんとかなっていた。あの頃は。

 雪は勢いよく厚みを増していったけれど、風はほとんどなかった。私の頬に崇のコートの肩が当たった。崇の手は私の肩に回ったままだった。何かから私を守るように。ほんの子供のころから、崇はそんなふうにふるまっていた。私を軽んじたり粗末に扱うふうにするくせに、結局のところ、私をひどいこわれものみたいに思っているのだ。

 駅の外はタクシーを待つ人や歩いてどこかに向かうことにした人で混んでいたけれど、雪が音とざわめきを吸い込んでしまうので、静かだった。頬を凍った手のひらで挟まれるような寒さが、言葉を奪う。私たちは並んで、くっつきあって、黙って歩いた。頭ひとつ大きい崇の顔を見上げると、崇が目線でなんだよ、とこちらを見た。私は微笑んだ。崇の目元も優しく緩んだ。

 傘を差していても雪は私たちの肩に降りかかる。崇が私の肩を払い、私も背伸びをして崇の肩を払った。雪道は普通の靴では歩きにくく、私たちはゆっくり進む。

 私と崇の顔には雪は降らず、青い薄闇が落ちている。この傘の下にいるのは私と崇の二人だけだ、と奇妙なことを私は考える。雪の中の青い闇の下で、私たちは二人きり。私と崇はとても近い。本当に、とても近い。この世界で、家族じゃない人の中で一番近いのが崇なのだ。それを思い出すたびに、肋骨の奥がむずがゆくなった。もどかしいけれど、それを取り去ってしまうのは惜しいような感覚。

 寒いね。

 と私が言う。

 寒いな。

 と崇が言う。それで会話は終わり、私たちは歩き続ける。同じ家を目指して。それが当たり前のように感じることが、考えてみれば奇妙だった。

 いつかは、と私はひんやりとした脳みそで考えていた。いつかは、私と崇は。

 寒いな。

 崇が言って、立ち止まった。どうしたのだろう、と視線の先を見ると赤い自販機があった。シャッターの下りた何かの事務所の軒先に入り込んで雪を避ける。

 ミルクティーな。

 と言うと、崇は小銭を入れてボタンを押した。がちゃん、と沈黙を揺らすように缶が落ちる。それを拾い上げて、ほら、と崇は私に渡した。

 熱い。

 冷えた指先に缶の熱は過剰で、熱いのか冷たいのか痛いのかもよくわからない痺れに襲われる。

 文句言うなよ。

 崇は笑い、自分はブラックの缶コーヒーを買った。そのとき売っているドリンクを確認すると、ミルクティーのほかに飲みたいものはなくて、崇の判断に安心した。崇はコーヒーを拾い上げて、熱いな、と言い、私と目を合わせて、笑った。視線が合うと、目元がほのかに熱を持つようだった。私も笑った。しばらく手のひらを温めてから、缶を開けて、一口飲んだ。

 おいしい。

 だろ。

 崇は自分も缶コーヒーを飲み、

 まずい。

 と言った。崇だな、と私は思う。こういうのが崇なのだ。私の幼馴染。家族じゃないけど家族みたいな、一番近い男の子。

 なんだよ。

 怒ったふうな言い方の癖に、声は笑っている。安心して私も笑う。崇は私に、本当に怒ったりはしない。崇は私を助けてくれる。崇はそばにいてくれる。知っている。知っていた。

 ゆすら。

 白い息とともに吐き出された言葉が、なぜだか自分の名前のような気がしなかった。そんなふうに、誰かに名前を呼ばれるのは、まだ先のことだと思っていた。

 ゆすら。

 私は崇を見上げる。皮肉な男の子から、皮肉な男の人になろうとしている崇。小さいころからずっとそばにいた崇。家族みたいな男の子。

 崇の瞳は黒く、子供みたいにきれいな白目をしている。私たちは見つめあって、言葉ではなく視線で、何事かの約束をする。その約束は叶えられると、私も崇も信じている。当たり前のことみたいに、この道の先に家があるように、私たちの未来にあるもののことを、知っている。

 私は冷たいミルクティーを飲み終えて、缶を捨てた。

 温かいミルクティーを飲んだあの日、私と崇は同じ傘に入って同じ家にたどり着き、母が用意していてくれた二人分の鍋を食べた。小さな兄妹のような幼い親密さと、そこからはみ出した何かを抱えて。いつか誰の目にもはっきりした形になると信じ、結局何にもならず、悪意と居心地の悪さの破片だけを残したものを。

 今、私は一人で道を歩く。私の家、私たちの家、私と木崎の二人の家へ。同じ場所に。でも意味が書き換わってしまった場所に。あの頃考えていた道の先と、どうしてこんなにも異なる現在にたどり着いたのだろう。あの頃手に入ると思っていたものの、どれだけ掴み損ねた。

 顎から汗が滴る。暑い。ここはどこだろう。頭でわからなくなっても脚は知っている道を進む。私の家が見えてくる。日当たりのいい、私と木崎の家。

 戸を開ける。

「ただいま」

 小さな声で言ってみる。途端に、動くことができなくなる。歩き回ったおかげで疲れていて、でも、たぶんそれだけではなく。

 三和土に突っ立ったまま、首をかしげて、耳を澄ます。足音が近づいてくる。胸の中に凝り固まっていた不安がほどける。

「おかえりなさい」

 心が揺れていて、うまく言葉をつむぐことができない。黙ってうなずいて、靴を脱いだ。

「お散歩ですか?」

「うん」

「ご飯もうすぐですよ。手を洗ってきてください」

 お母さんみたい。

 そう言おうとして、なんだかうまく声にならなかった。うん、とうなずいて、洗面所に行く。手を洗いながら鏡を見る。大人の女が映っている。十六歳のときとどこがどんなふうに違うのか、正確に指摘することはできないが、確かに時間は流れているのははっきりとしている。それでも変わらない部分もある。心細そうな眼差しや、口角の下がった唇。乱暴につめたい水で顔を洗う。水がこんなにはっきりと冷たいのも、もう夏ではない証拠だった。

 夕食は鰻のちらし寿司だった。ガラスの大皿に盛りつけられている。

「きれい」

 うれしい。私は鰻が好きなのだ。きゅうりの緑、錦糸卵の黄色、鰻のつやつやした茶色。たれの甘い匂いと酢飯の匂いが混ざって、胃を刺激した。

「おなかすいた」

 口にすると、唾液がでてきて、わくわくしてきた。私にはご飯を作ってくれる人がいる。

「はい、どうぞ」

 小皿に取り分けてくれる。いただきますをして、口に入れる。鰻はほんのりと温かくて香ばしい。酢がきつくないのは、私の好みだった。私のためのちらし寿司。私のために、私たちの家で、ご飯を作って待ってくれる人。十六歳の私が、その存在さえ知らなかった人。

「どうしました?」

 木崎の声は私の耳になじんでいるのに、それを頭のどこかがうまく受け入れられない。私はぼんやりと顔を上げる。男の人が、私を見つめている。よく知っているようで、何も知らないような、でも私の、男の人。私の夫。これが現実なのだ。父も母も青葉も崇もいない家に、鰻のちらし寿司を作ってくれる男の人と、二人で暮らしている。どれだけ突拍子もなくても、これが現実で、でも当たり前に過ごしている現実を、改めて見つめてみると、やっぱり突拍子もなかった。

「もうすぐ」

 私が口にしたのは、そういう感慨とは全然関係のないことだった。

「はい」

「小説が書きあがるよ」

「はい」

 うまく伝わった気がしなくて、付け足した。

「長いやつ」

「はい」

 やっぱり、うまくは伝わらなかった。でも木崎にもわかるような言葉にすると、私がもともと伝えたかったものからは離れてしまう気もした。

「楽しみですね」

 木崎が微笑む。それを見ると、もともと伝えたかったことがなんだったのか、私にもわからなくなって、うん、と言った。

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