第11話
打ち合わせの後、デパートの書店を覗いてから、古本街に来た。周囲のすごく本を買う人たちに比べれば私はかなり控えめだけれど、それでも本を買うのは好きだ。本屋に行くのは、もっと好きだ。学生の頃は、毎日通っていた。毎回買うわけではないけれど、とにかく本屋に行くこと自体が重要だったのだ。手に入れることのできる、大量の本と触れ合うことが。
人目を盗むようにして、硝子戸を開けてお店に入る。薄暗い店内は、ひんやりとして、本の匂いに満ちている。お客は私以外には、全集の棚の前にいるおじいさんだけだ。とても静か。古本屋特有の空気を肌と鼻腔で味わいながら、文庫本の棚の前で、めぼしいものを物色する。並んだ背表紙が、こちらを誘っているように見えて、嬉しい。ほんの少し前までは、本はどれも重々しく自分の世界を抱きしめていて、私に背を向けているように見えていた。それでもその一つ一つの世界を吸収しなくてはいけない気がして、より重たそうなものを選んで家に持ち帰った。あの時期、読書は楽しみではなく義務だった。読んで、書かなくては生きていけないと思っていた。たいしたものが、書けるわけでもないというのに。ちっぽけなものにしがみついて、ちっぽけなものを守ろうとして、そのちっぽけさから目を逸らしていた。もしまともに自分がしていることのささやかさを見てしまったから、全て投げ捨てたくなってしまいそうで。
でももう、それは終わった話だ。私は今、本を選ぶのも、本を読むのも、楽しい。
古本屋は久しぶりなので、目についたもの全部手に取っていく。不思議なもので、一冊手に取ると、目に留まっていなかったものもほしくなってくる。あれも、これも、としているうちに、八冊になった。奥に行って、お互い顔は知っているけれどちゃんと話をしたことはない店主らしき中年男性に、お会計をしてもらう。
文庫本でも八冊もあると、なかなかの重さだ。一軒目で随分買ってしまったので、もうお昼ご飯にしよう。そこで少し本を読んで、帰る前に写真集が充実している店に行って、何かよさそうなものがあったら一冊ぐらい買って帰ろう。
いい案だ、とうきうきする。ご飯は何にしよう。駅前の喫茶店で、久しぶりにカレーでも食べようか。
楽しい計画に頭をいっぱいにしてふらふらと歩いていると、
「おい」
と、不意に聞き覚えのある声とともに腕を掴まれて、ぎょっ、とした。ひとつ息を吐いて、振り向くと、崇がいた。この頃いつもそうだけれど、やっぱり今日も不機嫌な顔をしている。
「何してる」
「買い物。打ち合わせがあったから」
ふん、と相槌とも悪態ともつかないものと一緒に、崇は私の腕を離した。離れた場所が、少し痛かった。乱暴だ。
「崇は買い物?」
頷く。細身の黒いジーンズに、白い薄手のセーター。手にはお気に入りの大きくてごつい鞄。本がたくさん入るのだ。こんな格好だと、まだ学生みたいに見える。崇は中学生ぐらいから、あんまり顔も雰囲気も変わらない。
「親父が注文してる本があったから、取りに来た」
「ふうん」
と言って、これでは愛想がなさすぎるかな、と付け加える。
「おじさま、お元気?」
「それなりには」
と言ってから、小さく付け加える。
「まあ、でも、老けたな」
「そう」
二人の間に、不器用な沈黙が落ちる。じゃあ、と言おうとしたところで、崇が言った。
「腹が減った」
「え」
「腹が減った」
怒ったような顔で繰り返す。目尻が赤い。私は呆れて、でも少し、少しだけ面白くなって、溜息まじりに小さく笑う。
「何か食べる?」
崇は頷くと、そのままくるりと後ろを向くと、大股で歩き出す。私がついていくのを確信している様子で。
私は今度ははっきりとした溜息をつくと、早足に後を追う。学生の頃と、全然変わらない。崇の後ろ姿も、くすんだような街の色も、道行く人たちも。何も。
本当に何も変わっていないような気がして、動悸が早くなる。心臓の上を押さえて、二十六歳の私は、二十七歳の、崇の後を追いかける。
どうだった、と、壁のメニューを眺めていると、崇が言った。
「どうって、何が」
ラーメンと唐揚げにしようか、チャーシューメンにしようか、迷っている。多分、ラーメンと唐揚げは少し厳しい。ここの唐揚げは多いのだ。でも好きだから、できれば食べたい。でも今よりはるかに食欲旺盛だった学生時代でも苦しかった。無理そうだ。
「新しいやつ」
「ああ」
一旦考えるのを止めて、崇を見る。目が合うと、崇はふ、と片頬をほんの少しだけ上げて、微笑みの気配だけを漂わせた。なんだかとても自然な、つい出てしまったという表情で、本当に学生時代に戻ったようだった。中学生ぐらいから、私たちはしょっちゅう一緒にこの街に来て、または別々に来てもこの街で会って、二人で本を見て、そのあと喫茶店か、この中華料理屋に行った。本のこと。父の小説のこと。周りの人たちの噂話。勉強のこと。それから、創作について。この種のことなら二人でいくらでも話せた。それ以外のことは、でもほとんど話さなかった。だから私は、崇がどういう本を読んでいたのかはよく知っているけれど、どういう学生生活を送っていたのかは、あまり知らない。私たちは、そういうふうだった。
「よかったよ」
私は崇の、受賞後第一作として雑誌に載った短編を思い出す。崇らしい、本当に崇らしい話だった。よく練られていて、繊細で、緻密で、皮肉げで、さらりとして、文句がつけにくい小説。
「どんどんうまくなるね、崇は」
「それだけか」
崇はつまらなさそうな顔をしている。もっと褒めてほしいのだろうか。言葉に詰まると、崇は笑った。
「あんまり俺のが好きじゃないんだよな、お前は」
その通りなので、また言葉に詰まった。崇の小説は、綺麗すぎるのだ。こちらが勝手に思い入れられる過剰さや隙が、とても少ない。私はもっと、本当なら人には触れられたくない部分が、思いがけず露出してしまったような、過ぎた情熱をどうしようもできずに打ち明けるような、そういうものが好きだった。
「でも、よかったよ」
崇は小ばかにしたようにふん、と笑う。頬杖をつき、視線を逸らす。逸らした先に、店員さんがいた。初めて見る、若い店員さんだった。
「お決まりですか」
どうしよう。まだだ。あたふたとメニューをもう一度見上げる。崇が言う。
「ラーメン二つと唐揚げと餃子と瓶ビール。コップ二つで」
あれ、と思っていると、店員さんは崇の注文を繰り返して、行ってしまった。
「いいだろ、それで」
訊かれて、頷く。崇はプラスチックのコップの水を、一口飲んだ。
「お前は進歩しないな」
私は黙って眉を寄せた。その通りだった。でもその通りであることを、自分では悪いこととは思っていなかった。
「小さくまとまって。もっと真面目にやれ」
「いやだ」
「いやだじゃねーよ」
崇の手が私の顔を掴んで、ほっぺたを押し潰した。あきれ顔の崇を睨んで顔を振ると、崇は笑って手を放した。
「お前がちゃんとやらないと、この世代俺の一人勝ちだろ」
「心配しなくてもそのうち誰か出てくるよ」
私は去年新人賞を取った人の名前を一人、挙げた。
「あの人私たちより年下でしょ」
崇は鼻の頭に皺を寄せた。
「つまんないとは言わないけどあれ面白いか? 文章雑だしあれ読むならガルシア=マルケス読んでおけばいいだろ」
ひどい言いぐさだ。笑ってしまう。
「ああいうのを日本でやるっていうこと自体に一つの意味があると思うけど。文章は雑だけど、これからうまくなるタイプの雑さだと思う」
「へー」
崇は水を飲み、コップの水面を見ながら言う。
「でもお前のほうがいいよ。ずっと」
不意打ちだ。反射的に顔がにやつきそうになるのを必死に抑えていると、崇は顔を上げてにやりと笑った。
「冗談だ。お前のはぬるすぎる。このままだと新幹線に乗る前に買って読み捨てにされる作家になるぞ」
笑ってしまう。
「それでいいよ」
「はあ?」
崇は口をぽかんと開けた。
「そういうのでいいよ。たいした作家になんてなりたくない」
「何言ってんだお前」
怒ったような口調だけれど、そこに滲んでいるのは戸惑いだった。崇は、「たいした作家」になろうとすることに、何の疑いも持っていないのだ、と思うと、少し可愛かった。私は崇に笑いかける。無邪気で純粋な、可愛い崇君。
「たいした作家になんかならないほうがいいって」
「は?」
「とうさまが言ってた。ものを書いて偉くなんてなるもんじゃない、って」
私もそう思う。
ちいさく付け加える。崇はなんだか傷ついたような顔をしている。俯いてコップを持ち上げ、唇に縁を押し付けて、そのままの姿勢で少しの間じっとしていた。まだ傷ついたような顔のまま。私もそれを、ただ眺めていた。
二人で黙り込んでいると、ビールが来た。崇は黙って、ピールを注いでくれた。二人でコップを持ち上げる。
「乾杯」
「何に?」
崇は一瞬だけ迷ってから、言った。
「将来の偉大な作家二人に」
私は首を傾げ、でも崇のコップに小さく、自分のコップをぶつけた。
ここの唐揚げはいかにも中華料理屋の唐揚げ、という感じで、衣が分厚くて、大きい。それがこんもりとお皿に盛られている。小皿の山椒の入った塩につけて、齧りつく。肉汁が、唇を濡らす。熱い。美味しい。熱の冷めない唇に、ビールのコップをつけて、つめたい液体を口の中に流し込む。ガラス越しに見えるお店の外は明るくて、買ったばかりの本がたくさんあって、唐揚げもラーメンもあって、ビールまであって、崇の機嫌は悪くなくて、とても楽しい。
崇は無言でむしゃむしゃと食べる私を、呆れたように笑って見ている。私はラーメンの麺を、口に押し込む。ここのラーメンは昔ながらの塩辛くて油気の少ない醤油味で、麺がつるつるしている。ラーメンだな、という味で、たまに食べるととても美味しい。
「よく食うな」
私は麺を噛みながら頷く。崇は唐揚げを一口齧って、初めて食べる奇妙なものでもあるかのように首を傾げた。崇は昔はひどい偏食で、色の濃い野菜や、脂っこい肉や青魚は全然食べられなかった。段々と治ってきて今はほとんど食べられないものはないけれど、それでも、ものを食べるときには警戒しているように見える。
「好き嫌いしてると大きくなれないよ」
「うるさいちび」
崇は私の額を人差し指でつついた。
「横にばっかりでかくなりやがって」
「うるさいなあ」
と言いながら、こっそり自分のお腹を触ってみる。柔らかく、座っているせいで段になっている。太った。木崎と結婚してからだ。別に、それを気にしているわけではないけれど。
ビールを飲み、唐揚げを食べ、ラーメンを食べ。お皿がすっかり空になると、額の汗を、ハンカチでぬぐい、コップに半分ほど残っていたビールを飲みほした。
「ごちそうさま」
脂っこい溜息をつく。崇はなんだかぐったりした様子で、テーブルに凭れている。
「食ったな」
「食べたね」
はあ、と重たい溜息をついて、その反動のような感じで、崇は上体を起こした。
「行くぞ」
「うん」
割り勘だろうな、と思っていたら、崇が全部払った。
「いいの?」
「あんな値段で割り勘するかよ」
「ごちそうさまです」
崇は顔を逸らして、こないだ悪かったな、と言った。そんなことは、顔を見て言えばいいのに。
崇は卑怯だ。いつも、勝手に償う。卑怯だ、と思いながら、怒らせるときの傍若無人さから考えられない謝り方の気の小ささに、怒りがくじかれてしまう。
店を出て、どこへということもなく歩き出す。
「どこか見るか」
どうしようか一瞬考えて、首を振った。
「いい。もう八冊買っちゃったし」
「見せろよ」
紙袋を渡す。崇は中身を確認すると、すぐに返してきた。
「あんまり面白くないな」
「それって選び方が? それとも中身が?」
「選び方のほう。中身はそこそこだ」
安心した。崇の趣味は、私とずれることが多いけれど、基本的な部分では信用がおける。私よりもずっと詳しいし。
「崇はどこか行くの?」
「もういい。用は済んだ」
「そっか」
「行くぞ」
行くぞと言われても、私は崇の連れではない。
そう思っても口に出すことも出来ず、崇の後をついていく。駅に向かっているようなので、少し安心する。
「なあ」
後ろ姿で崇が尋ねる。
「なに」
「どうやって知り合ったんだ」
一瞬考えて問い返す。
「木崎さんと?」
「他に誰がいるんだよ」
そうか。
「言ってなかったっけ」
「聞いてない」
そうか。そういえばそうだった。成瀬のおばさまにも、詳しいことは話していない。
「本をたくさん買ったの」
「はあ?」
崇が振り向いて、眉間に寄せた皺を見せてくれる。私は気にせずにつづけた。
「そのときもここに来て、資料も探してたから、本をたくさん買ったの」
確か土曜日だった。家を出るまでそれに気づかなくて、人通りの多さに少し気後れした。
「帰りの電車で、紙袋の持ち手が取れて、どうしようってなってたら、助けてくれたの」
床に散らばってしまった本を集めてくれて、次の駅で降りて、新しい紙袋を手に入れてくれた。
「それだけか?」
それだけ? 私は口をへの字に結んだ崇を見上げた。崇は立ち止まり、私もつられて足を止める。
それだけ? 崇の言っていることの意味が、私にはわかりかねた。崇は弁解を求めるように、私の言葉を待っている。
「私あのとき、助けてほしかったの」
すんなりと、考えるより前に口から言葉が出て行った。
「だから助けてもらえて、うれしかった」
本を床に散らばしてしまって、それを拾いながら、あのときの私は泣きたかった。電車には誰も知っている人がいなくて、誰も私を助けてくれなくて、それは今だけ、ここだけに限ったことじゃなくて、誰にも助けを求めることはできなくて、でも、助けてほしかった。
木崎は、私を助けてくれた。それだけと言えばそれだけで、でも、あのときは、それだけが大切なことだった。
そうか、と崇は言い、私に背を向けて、歩き始めた。お腹がいっぱいで、崇の後をついていくのは、少し辛い。ラーメンに唐揚げは、やっぱり少し食べ過ぎだったかもしれない。美味しかったけど。
でも崇は唐揚げって、あんまり好きじゃない。
どうしてだか不意に、それがわかった。根拠はないけど、でも間違っていないという妙な確信がある。でもそれがわかったからといってどうということもなく、お互いに無言で歩く。崇の腰は細く、少年めいている。何かを振り払うような、忙しない歩き方。いつまでも、崇は全然変わらないように見える。
電車に乗る前に、駅前のケーキ屋さんで、ケーキを買おう、と、思いつく。お腹がいっぱいであんまり食べる気はしないけど、木崎はきっと喜ぶだろう。ショートケーキ、チョコ、タルト。何がいいだろう。
変わらない景色。変わらない崇。でも、そう見えるだけだ。時間は確かに過ぎている。時間はいつも、取り返しがつかない。時間の流れの中に失われてしまったものには、手が届かない。絶対に。
なんだか無性に、木崎が恋しかった。私が新しく手に入れたものを確かめて、しがみついていたかった。
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